2013年2月6日水曜日

汚れなき祈り(ネタバレあり、追記あり)

今日、水曜日は関東は大雪の予報ですが、ぜひ見たい試写があるのです。行けるかな?
というところで、本日は試写で見た映画2連発。
2本目はルーマニア映画「汚れなき祈り」。カンヌ映画祭で女優賞と脚本賞を受賞。監督は「4ヶ月、3週と2日」がすばらしかったクリスティアン・ムンジウ。
2005年、ルーマニアの修道院で起こった悪魔祓いの儀式で女性が死亡した事件の映画化です。
ルーマニアといえば、ドラキュラ伯爵の故郷トランシルヴァニアが有名ですが、21世紀にもなって悪魔祓いによる死亡事件が起きたということで、ルーマニアは遅れた地域だ、という印象を持たれてしまったらしい。
事件の背景としては、死亡した女性がかつていた孤児院で性的虐待があったとか、精神を病んだ彼女を病院が受け入れてくれなかったとか、舞台となった修道院にだけ責任を負わせるわけにはいかない事情があるようです。
しかし、ムンジウ監督は、孤児院での性的虐待は軽くほのめかす程度、受け入れを拒んだ病院についても、責任を問うような描き方はしていません。映画はもっぱら、古い慣習に従った厳格な修道院で起こった異様な事件として描いています。
映画のチラシに書かれた文章が目をひきます。

「わたしたちを引き裂くのは、神か、悪魔かーー」

実にうまい惹句だと思います。いやほんと、これがこの映画の中心に違いないのです。

以下、ここでは映画のストーリーを追いながら説明していくので、詳しいあらすじを知りたくない人は読まない方がよいと思います。

映画は、ドイツに出稼ぎに行っていたアリーナという女性がルーマニアに帰ってくるところから始まります。駅で出迎えたのは、孤児院時代からの親友ヴォイキツア。ヴォイキツアは修道女になっていますが、アリーナは彼女だけを愛し、彼女と一緒に暮らしたいと、それだけを願っています。
一方、ヴォイキツアは、アリーナを心配してはいるけれど、アリーナと一緒に暮らしたいとは思っていません。アリーナは再びドイツに出稼ぎに行きたいと思っていて、今度はヴォイキツアと一緒に行きたいと願っています。ヴォイキツアは、一時的に修道院を離れ、アリーナとしばらく過ごしたら、また修道院に戻りたいと司祭に願い出ますが、司祭は、一時的でも修道院を離れるのはよくないといって、許してくれません。
行き場のないアリーナは、とりあえず、修道院に泊めてもらいますが、もともと体調が思わしくなく、心を病んでいたらしいアリーナは、突然、暴れだし、修道女たちは彼女を縛って病院に運び、そこで投薬を受けて、アリーナはおとなしくなります。
本来ならそのまま病院で治療を受けるべきなのですが、病院側は、彼女のような患者は個室に入れないといけないが、今は大部屋しかないので、この病院では彼女を治療できないといって、修道院に帰してしまうのです。
普通に考えたら、病院がひどいと思うのですが(あるいは、ほかの病院を探すとかすべきですが)、しかたがないので、修道院はアリーナを置くことにします。しかし、司祭も修道女も、アリーナを置いておくのがいやなのは明らかです。アリーナの存在によって、修道院の秩序が乱されるからです。
案の定、修道女の中には、アリーナが来てから、マキの中に黒い十字架があるとか、変なことを言い出す者がいます。ばかなことをいうな、と言う司祭はまだ冷静さを保っているのですが、修道女たちの恐怖は理解できます。というのも、アリーナは背が高く、力が強く、しかもカラテができるということになっているのです(空手でなくカラテという字幕になっているのは、本当の空手かどうかわからないからでしょう)。アリーナが暴れて大変な思いをした修道女たちにとって、また彼女が暴れたらどうしようと思って恐怖を感じるのは無理もないと思います。
アリーナの親友で、アリーナからは同性愛的な思いを抱かれているヴォイキツアはどうかというと、彼女がまた、なんとも優柔不断なのです。ある程度の期間はアリーナと一緒にいてあげたいけれど、ずっといたいわけではない、というのがヴォイキツアの考えのようです。
修道女になったヴォイキツアは、当然、神を愛しています。彼女には神が一番の愛の対象なので、アリーナを一番愛するというわけにはいかないのです。でも、アリーナのことは心配しています。
アリーナがドイツに行く前に世話になっていた里親のところに泊めてもらう案が出て、里親のところへ行くと、アリーナはヴォイキツアも里親のところに泊まることを期待します。しかし、ヴォイキツアは里親の家に泊まるつもりはありません。それがわかると、アリーナもヴォイキツアと一緒に修道院に帰ってしまいます。
結局、ヴォイキツアと一緒にいたいアリーナは修道女になることにするのですが、修道院のきびしい戒律の前に、ついに精神に異常をきたし、暴れるようになってしまいます。悪魔にとりつかれたと思った修道女たちは悪魔祓いをするよう、司祭に頼みます。ヴォイキツアも、神がアリーナを救ってくれると信じ、悪魔祓いに賛成します。一方、司祭は信者たちにアリーナを見られたくないという世間体のような気持ちから、ついに悪魔祓いをすることにしてしまいます。
修道院の中で、ほとんど唯一の男性である司祭は(ほかに男性のドライバーがいますが)、修道女たちに比べると、なんとか理性を保とうとしているように見えます。しかし、その一方で、厳格な戒律を押し付けたり、信者の前での世間体を気にしたりという面があります。ある意味、社会を支配する男性の典型といえるかもしれません。彼はとにかくアリーナに出ていってほしいと思っていて、やがて、アリーナとヴォイキツアの両方に出ていってくれというようになります。実際、出て行った方がいいと私も思いましたが、ヴォイキツアの神への信仰心が邪魔をしたともいえます。彼女が神よりもアリーナを思えば、2人で出て行く方がいいとわかったでしょう。
「わたしたちを引き裂くのは、神か、悪魔か」という宣伝文句はまさにそのとおりです。
アリーナが修道院の中で神を冒涜するようなふるまいに出るのは、アリーナを神に奪われたからでしょう。その神の代弁者が司祭ということになります。
救急車がかけつけ、救急隊員が衰弱したアリーナに施した処置が誤っていたため、アリーナは死亡してしまいます。警察が修道院に来て、司祭や修道女から話を聞き、司祭と修道女数人と、すでに修道女はやめたらしい私服のヴォイキツアが車に乗せられて警察に向かいます。途中、降り積もった雪のために車が停められ、前進できず、フロントガラスに泥水がかけられる、という、ルーマニアの社会を象徴するのか、と思うようなラストで、映画は終わります。
悪魔祓いの途中で、ヴォイキツアは心に迷いがあるということで、悪魔祓いからはずされますが、この過程で、彼女は神への信仰が揺らいだのでしょう。アリーナを逃がそうとさえします。しかし、悪魔祓いの前までの彼女の言動は、アリーナの悲劇の一番の原因にも思えます。また、修道女の黒い衣装を着たヴォイキツアの表情が、どこか憑かれたような感じ、憑かれたような目つきにも見え、神を信じていた彼女は実は悪魔にとりつかれていたのか、という解釈もできる気がします。
警察の車に乗った司祭は、私たちが悪意でやったのではないことは神が知っている、と修道女たちに言います。一方、警察官たちはまったくリアルで、司祭たちの行動をきびしく批判します。司祭たちの世界の方がおかしかったということを、警察官たちはリアルな言葉で指摘するのです。
そんなわけで、いろいろと考えさせられる面白い映画なのですが、2時間半はちと長いと思いました。また、聖と俗、神と悪魔のようなテーマを描くには、監督の技量に不足しているものがあるとも思います。こういうテーマだったら、たとえばベルイマンとか、すごい監督が何人もいるので。

追記 映画の冒頭、修道院へやってきたアリーナが入口に書かれた「異教徒は入るな」みたいな言葉を見て、ヴォイキツアに「これはあなたが書いたのか」とたずねるシーンがある。ヴォイキツアは「いや、これは司祭が書いた」というが、アリーナはヴォイキツアの字に似ているという。また、ヴォイキツアが司祭を「お父様」と呼ぶのをアリーナがいやがるというシーンもある。この時点で、ヴォイキツアは司祭と同一化している、ということをあらわしているのかもしれない。アリーナから見れば、これはヴォイキツアを司祭とその世界から救いだす戦いなのだろう。