1990年代、北アイルランドのIRAのテロリストの女性を描く映画「シャドー・ダンサー」。原作者トム・ブラッドビーが自ら脚色し、アカデミー賞ドキュメンタリー賞受賞の監督ジェームズ・マーシュに依頼して製作された映画。原作は、かつて、「哀しみの密告者」というタイトルで翻訳が出ていたという…。
え!!!
それはこの本です。
忘れもしない、1999年春、わが愛する翻訳書「テロリストのダンス」が出たのと同じ時期に出版され、平台のすぐそばに積んであったので、よく覚えている本です。
あのときは、あまり興味なく、当然、読んでいません。「テロリストのダンス」も売れずに絶版になってますが、この「哀しみの密告者」も売れなかったようで、すでに絶版。映画化にあわせて再刊、という予定もなさそうです。
さて、映画ですが、私が一番注目したのは、主演のアンドレア・ライズブロー。マドンナ監督の「ウォリスとエドワード」でウォリス・シンプソンを演じた女優。彼女がいなかったら、あの映画、ほんとにつまらなかっただろう、と思うほど、すばらしい演技をしていました。特別すごい美人ではないのですが、存在感と演技がすばらしい。「ウォリスとエドワード」では、実年齢より年上で、あまり美人ではない役でしたが、この「シャドー・ダンサー」では、実年齢に近い、わりと美人の役です。
彼女が演じるのは、IRAテロリストで幼い息子を持つシングルマザーのコレット。ロンドンで爆弾テロ未遂事件を起こし、逮捕された彼女は、イギリスの諜報保安部MI5の男マック(クライヴ・オーウェン)から、刑務所に入って子供に会えなくなるより、密告者になれ、といわれ、心ならずも密告者になります。彼女の家は兄弟もテロリストの仲間で、要するに、当時は北アイルランドにいると、IRAに入るか、プロテスタントの方の過激派に入るかみたいなところがあって、教会までもがこの過激派同士の対立をあおっているようなところがあったのですね。
映画の舞台となった1990年代半ばは、IRAがイギリスと和平協定を結んだ時期で、上の人たちは和平を結んだけれど、下の人たちは納得できないでテロをするという時代だったようです。
密告者だとわかれば、コレットは殺されることになるので、マックは彼女を守ると約束します。一方、マックは、コレットが密告者にされたのは、もう1人の重要な密告者=シャドー・ダンサーを守るためだと気づきます。マックの上司ケイト(ジリアン・アンダーソン)はシャドー・ダンサーが誰だか知っているのですが、マックには教えません。ケイトもまた、コレットと同じく、子供を持つ母親なのに、コレットが死んでもかまわないと、彼女は思っているのです。
なんとしてもコレットを守るためにシャドー・ダンサーの正体をさぐるマック。テロの失敗から、IRAの上司から疑いをかけられるコレットと弟。そしてついに、マックはシャドー・ダンサーの正体を知る、というところで、次はネタバレのため、文字の色を変えます。
この物語は結局、母親の悲劇であったことがわかります。シャドー・ダンサーは実はコレットの母親で、彼女もまた、昔、逮捕されたときに、子供を思うなら密告者になれといわれ、長い間、密告をしていたのでした。
やがて、娘コレットが逮捕され、まったく同じように、子供を思うなら密告者になれといわれ、密告者になります。しかも、それは、シャドー・ダンサーである重要な密告者=母親を守るため、おとりとなり、犠牲になることだったのです。
しかも、それを命じたのは、同じく子供を持つ母親であるMI5の女性ケイトであるということ。
同じ母親でありながら、平気で人の命を左右する冷酷なケイトに、マックは憤りを感じます。そして、コレットの母が密告者であることを知った彼は、彼女にコレットの危機を告げます。子供を思って密告者になった母は、ここで再び、子供を思う決断を迫られます。彼女の行為は、子供を思う、という点で、一貫している、と書けば、結末はわかるでしょう。
このあと、もう1つ、衝撃的な結末があるのですが、それは書かないことにします。この衝撃的な結末が何を意味するかも、いくつか考えられるのですが、それも書かないことにしましょう。
ジェームズ・マーシュの演出は、暴力シーンをほとんど見せません。ひんやりとした肌触りの映像、寒々とした北アイルランドの風景の中に、コレットの着る赤いコートが引き立ちます。密告者にしては目立ちすぎる衣装ですが、映像的には実に効果的。また、クライヴ・オーウェンはじめ、共演者たちもみごとです。(画像はrotten tomatoesから。)