2018年3月13日火曜日

「ファントム・スレッド」

アカデミー賞の候補にもなっていたポール・トーマス・アンダーソン監督の新作「ファントム・スレッド」。古風な映画、という噂は聞いていましたが、要するに、次の2点で表せる映画。

1 これってモラハラ映画でないの? 主人公の男女2人は気が強いからいいけど、配偶者などからモラハラ受けてトラウマになっている人にはお勧めできない。
2 元ネタは「レベッカ」と「ジェーン・エア」。どちらもジョーン・フォンテーン主演で映画化されていて、監督がフォンテーンについて言及している。

1950年代のロンドン。貴族や王族のドレスをデザインする仕立て屋レイノルズ(ダニエル・デイ・ルイス)は立ち寄ったレストランで働くウェイトレスのアルマ(ヴィッキー・クリープス)に出会う。その場でアルマをナンパし、夕食を共にし、自宅に招いてドレスを着せたり採寸したりする。
レイノルズにとってはアルマは仕立て屋としての霊感に役立つミューズだったわけですが、でもね、普通に考えて、いきなりナンパされて行っちゃって大丈夫なのかな、と思ってしまいます。相手が有名な仕立て屋とわかってるならともかく。現実だったらヤバイよ、ヤバイ。
全体にストーリーは現実とは少々かけ離れた内容なので、まあいいのかもしれませんが。
アルマはしだいにレイノルズを愛するようになるのですが、レイノルズは自分のライフスタイルを神経質なまでに守りたい男で、それが少しでも乱されると耐えられないタイプ。なので、彼を愛するアルマが2人だけのディナーをセッティングしても、それはレイノルズには耐えられない。そんな状況なわけだから、しつように愛を押し付けるアルマはなんだかストーカー女みたいだし、レイノルズも彼女の介入が嫌なら追い出せばいいのにそれはできない。ある種、共依存のような関係で、互いに自分のやり方を押し付けるような、相手を支配しようとするような関係になる。
これは本当に支配の物語で、特にストーカー女のアルマが自分のライフスタイルを守りたいレイノルズをなんとしてでも支配下に置こうとする話、なんですね。
前半、アルマが大きな音をたてて食事をしているのにレイノルズが腹を立てるシーンがありますが、後半、アルマが支配的になると、彼女はわざと大きな音を立てたりする。相手のいやがることをわざとやるという、モラハラです。
自分のライフスタイルを守りたいためにアルマにきつく当たるレイノルズの態度もモラハラかもしれませんが、この映画ではアルマのストーカーぶりやモラハラぶりが際立つ。普通、ストーカーやモラハラは男が加害者で女が被害者の場合が多いのですが、映画ではどうも女にそういう役割を振る傾向があって、個人的にはそこは引っかかるところです。男の都合でものごとが見られている、という感じを強く受けます。
それはともかく、この映画は明らかにダフネ・デュ・モーリアの小説とそれを映画化したヒッチコックの映画「レベッカ」のパロディ(?)です。
レイノルズはマンダレイの主人、アルマはその新妻(小説では語り手「私」で、名前がない)、レイノルズの姉シリル(レスリー・マンヴィル)が怖い家政婦、そして亡き妻レベッカに相当するのはレイノルズの母。
「レベッカ」の新妻は何も知らない善良な女性で、結婚してマンダレイの屋敷に来てから亡き妻レベッカのことを知り、原作では夫がレベッカを殺したことを知って(映画では事故になっていた)、それでも夫と秘密を共有しながら生きていく、という話ですが、アルマはそんな善良な女性ではなく、母の髪の毛を上着の芯に入れて生きているレイノルズを支配することで最終的にレイノルズとの愛を確かなものにする、という話。人物の構成は「レベッカ」と対になるけれど、「レベッカ」のヒロインとは違って、アルマは夫を支配することで人間関係を乗り切っていく。
この、夫を支配することで乗り切っていく、というのがシャーロット・ブロンテの小説で何度も映画化されている「ジェーン・エア」です。この小説は「レベッカ」の元ネタという説もあります。
「ジェーン・エア」は裕福なロチェスターの家に家庭教師として来たジェーンがロチェスターと恋に落ち、結婚しようとしたときに彼に妻がいることが発覚(妻は発狂して屋根裏部屋に閉じ込められている)。結婚はとりやめになり、それでも愛人になってほしいというロチェスターを断って、ジェーンは旅に出る。その後、ロチェスターの屋敷が火事になり、妻は焼死、彼女を救おうとしたロチェスターは身障者になってしまう。それを知ったジェーンはロチェスターのもとに戻り、彼と結婚するのですが、ここでロチェスターとジェーンの立場が逆転するわけです。最初はロチェスターの方がジェーンを支配できる立場だったのが、最後はジェーンがロチェスターを支配する立場になる。もちろん、ジェーンは支配的な女性ではなく、「レベッカ」のヒロイン同様善良な女性ですが、男に支配されない自立した女であり、ロチェスターより強い立場になって初めて彼を受け入れる、というふうになっているのです(これは「ジェーン・エア」論ではよく言われている)。
そう考えると、「ファントム・スレッド」は人物関係は「レベッカ」、結末は「ジェーン・エア」で、この2作はヒロインが善良だけど、「ファントム・スレッド」はヒロインがストーカー的でモラハラで、という意地悪な見方になっているわけです。
「レベッカ:も「ジェーン・エア」も作者は女性。それを男のアンダーソンが男の見方で描いた女の話。だからナンパにアルマが簡単についていくし、男性の方が多いはずのストーカーやモラハラを女のアルマがする、というふうになっているのだな。
女は怖い、と言いたい男にはそれなりにいい映画かもしれないけど、女の立場からするといろいろ突っ込みたいところのある映画。

2018年3月10日土曜日

雨の動物園

木曜は1日中雨で、上野動物園のパンダ母子観覧整理券が最後まで残っていたようで、翌金曜日も朝から雨で昼になってもやみそうにない。これは今日も整理券残ってそう、と思って出かけ、午後1時半に着くと、3時10分の整理券をゲット。この日も最後まで残っていて、たまたま動物園の前を通った人がまだあると知って入ってくる感じ。
傘をさしながらの観覧だが、まずはいつでも見られるお父さんパンダ、リーリー。この日は木に登ったりとよく動いていた。写真に雨が写っている。

母子観覧まで1時間半あるので、前回見なかった場所へ。ここはノクターナル・アニマルズ(夜行性動物)のいる夜の森。コアリクイの子供らしい。寝てる。

コウモリ。

クマの森へ。ヒグマ。ほかにツキノワグマがいた。

前回も見た猿山。猿の体重計。

母子観覧の時間が近づき、この頃には雨もあがる。もう一度リーリーを。食事中。舌を出している。

ドアップ。今回の写真はどれもトリミングしてない。

リーリーはいろいろな動作や表情を見せるので、「役者だなあ」とお客さん。

いよいよシンシンとシャンシャンの母子観覧。これは前回の写真で(トリミングしている)、シンシンとシャンシャンが運動場に出ていたので、運動場の前を4区分にしてそこを少しずつ移動。どこからも見えたし、シャンシャンがこのあといろいろ動くので面白かった。

が、この日はシンシンが運動場の右端にいるだけ。運動場を2区分に分け、そのあとのシャンシャンのいる部屋が3区分目になる。

シャンシャンは寝てる時間が多いらしく、このときは起きて少し動いていたが、すぐ寝る。

運動場の隣の部屋。シャンシャンは寝ている。

が、ズームしてみると、時々目を開けている。白い毛が汚れているのはお母さんがなめるから。
行っても寝てばかり、とがっかりするお客さんも多いようで、前回の私は本当に運がよかったんだなあと思った。でも、寝る子は育つ。

そのあとは西園へ。ハシビロコウという鳥が1羽、3月1日に死んでしまったらしい。残りの3羽のうち2羽がいる。左橋と右端奥。

3羽目は上と反対側の広い庭にいた。

上野は花見の準備。まだ咲いている桜の木はわずか。

3月13日からは西園の池之端門と弁天門から入った人は整理券を受け取れないので注意してください。正門から入ってすぐが整理券配布場所になるようです。後ろから来る人はだめってこと。

2018年3月9日金曜日

いつわりとまやかし:「空海/妖猫傳」のモチーフ(ネタバレ全開)

「空海 美しき王妃の謎」あるいは「妖猫傳」についてネットでいろいろな意見を見てきたが、その中で、チェン・カイコーが東京ドーム8個分の敷地に長安のセットを築いたのは、この映画が現実と幻をテーマにしているからだ、という意見を読んで目からウロコが落ちた。
この映画にはいつわりとかまやかしとかいった言葉が頻繁に出てくる。前の記事でも書いたように、ものごとはすべていつわりというのがこの映画のモチーフだということは私も感じていたが、現実と幻の対比があること、つまり、いつわりとまやかしに対する本物があることにまでは気づかなかった。
この映画は中国側が6年もかけて広大な長安の町を作り、そこで実写の撮影をしたのに対し、日本側はCGやVFXの大部分を担当したらしい。つまり、中国側がリアルで本物、日本側がいつわりとまやかしの幻を担当したわけだ。
CG全盛の今なら、背景も群衆もCGでやれば制作費の節約になるのに、わざわざ広大なセットを作り、そこを大量のエキストラで埋め尽くす。長安のセットを撮影後はテーマパークとして観光客に公開し、他の撮影にも利用する、という目的があるとはいえ、今どきここまでやるかのすごいセットとエキストラの数なのだ。リアルな本物へのこだわりが感じられるが、それは幻や幻術、いつわりとまやかしとの対比のために必要なものだったのだ。
そして、中華圏映画のファンが字幕版が公開されないと知り、日本語吹替え版はいつわりだとして見るのを拒否しているのも興味深い。中国語版がリアルな本物であり、日本語吹替え版はいつわりとまやかし、というわけだ。これ、けっこう合っている、と言わざるを得ない。そして、いつわりとまやかしと、リアルな本物、という点では、両方公開するのがやはり正しいやり方ではないだろうか。実際、吹替え版を見た人は字幕版を見たいと言っているし、字幕版がないことに怒る中華圏映画ファンも字幕があれば吹替えも見てみたいと思うかもしれないのだ。

というわけで、今回はネタバレ全開で、この映画のいつわりとまやかしのモチーフについて語っていこうと思う。
実は木曜日にまた、この前行ったシネコンでこの映画を見てしまったのだけど(週末からこのシネコンも小箱になってしまうので、大きなスクリーンで見られるほとんど最後のチャンスだった)、見れば見るほど内容がよくわかる。もともと楊貴妃とか詳しくないので、最初はわからないこともあったのだけど、その辺がどんどんわかってきて、これは脚本がうまいと思った。
すべてがきちんと仕組まれていて、本当によくできた脚本だ。せりふの1つ1つが決まっている。
前半、人を殺してまわる黒猫の事件を調べる空海は、白楽天(白居易)が玄宗皇帝と楊貴妃についての詩「長恨歌」を書いているのを知る。白楽天は玄宗と楊貴妃は相思相愛だと信じて詩を書いたが、それがいつわりかもしれないという疑問を抱いている。しかし、玄宗が楊貴妃の髪の毛を最も大事にしているとわかり、やはり2人は相思相愛だと思う。
だが、映画が進むにつれ、2人の愛はいつわりではないか、という疑問がわき出てくる。
空海は魔法でスイカを実らせる妖術師と出会うが、そのスイカがまやかしであると見抜く。見抜かれた妖術師は空海に、楊貴妃の謎を解くには黒猫の謎を解くようにというヒントを与える。
一方、黒猫にとりつかれた女性が李白が詠んだ楊貴妃の詩を暗唱するのを見て、空海は、猫は白楽天が楊貴妃の詩を書いていることを知っていて、白楽天に呼びかけたのだ、と言う。
最後まで見るとわかるのだが、実は空海と白楽天は猫と妖術師に導かれて楊貴妃の謎にたどり着くようになっている。
黒猫が殺しているのは楊貴妃の死に関係のある人々だと知った2人は、阿倍仲麻呂の恋人だった女性に会いに行き、そこで仲麻呂の日記を手に入れる。
このあとが、仲麻呂の日記に書いてあった玄宗と楊貴妃の催す極楽の宴の回想シーンになり、とにかくここが豪華絢爛で見入ってしまうのだけど、ここでは妖術師とその弟子の少年たちの行う幻術がこれでもかとばかりに披露される。幻術によるいつわりとまやかしが華麗な美しさで表現され、ここは何度見てもうっとりさせられる。このシーンの人を魅了する美しい幻想を見ていると、いつわりとまやかしという言葉は思い浮かばない。いつわりとまやかしに魅せられ、それを信じてしまう人間の性(さが)が描かれ、これが結末の伏線になる。
阿倍仲麻呂は楊貴妃に思いを伝えに行くが、玄宗に2人の結びつきの強さを思い知らされる。
妖術師の弟子の少年たち、丹龍と白龍は楊貴妃の美しさとやさしさにひたすらあこがれる。
李白は楊貴妃に会わずに詩を詠むが、その後、楊貴妃と会って魅了されてしまう。
そう、観客が極楽の宴の豪華絢爛な幻想に魅せられるように、男たちは楊貴妃に魅せられる。極楽の宴が幻術であるなら、楊貴妃もまた幻であり、だから彼女を愛する男たちの愛はひたすらプラトニックだ。前半の黒猫にとりつかれた女性とその夫の愛がリアルな夫婦の愛であったのとは対照的に(だから夫婦の方にはベッドシーンが必要だったのだろう)。
極楽の宴のあと、玄宗に対する謀反が起こり、その原因が楊貴妃であるとされて、人々の怒りを収めるためには楊貴妃の死が必要になる。阿倍仲麻呂は楊貴妃とともに逃げることを提案するが、実は山口県には仲麻呂と楊貴妃が日本に亡命したという伝説があり、楊貴妃の墓まであるらしい。
結局、妖術師が楊貴妃を仮死状態にすることを提案(「ロミオとジュリエット」のようだ)。楊貴妃はそれを承諾するが、実は仮死状態は長く続かないので、意識を失った楊貴妃を絞殺するのが本当の目的だった。玄宗が一番の策士だった、と仲麻呂は言う。
こうして楊貴妃は棺に入れられ、棺は霊安所に置かれ、玄宗の飼っていた黒猫がそこに閉じ込められる。
ここまでの経緯を知った空海と白楽天は楊貴妃の墓に行くが、棺の中には何もない。そして黒猫が真相を語り始める。
実は楊貴妃は死んでおらず、仮死状態から目覚めたが、棺の重いふたを開けることができずに死んでしまう。そのあと、妖術師の弟子、丹龍と白龍が楊貴妃の死体を発見する。丹龍は絶望して去り、白龍は楊貴妃が必ず生き返ると信じて待つが、楊貴妃の肉体が毒を持つ虫に蝕まれるのを見て自分の体をかわりに犠牲にし、魂を黒猫に移す。猫になった彼は楊貴妃の死に関係した人々を激しく憎み、復讐に走った、というわけだった。
黒猫=白龍は、白楽天が書いている玄宗と楊貴妃の愛の詩はいつわりだから書き直せと言う。
一方、空海はスイカの妖術師が実は丹龍だったことを知る(これも妖術師自身が手掛かりを与えている)。丹龍とともに再び黒猫を訪ねた空海と白楽天。丹龍は極楽の宴の幻を見せる。そして、若く美しい楊貴妃の体の隣に、同じく若く美しい白龍の体を置く。白龍のことをずっと見守ってきたと言う丹龍。しかし、黒猫=白龍は言う、「それ(白龍の体)は抜け殻だ」。空海が、楊貴妃の体も抜け殻であると言うと、黒猫=白龍は答える、「わかっていたよ。あきらめきれなかっただけだ」。(ここで黒猫が大粒の涙を流し、猫好きは涙腺崩壊。)
幻と現実、いつわりやまやかしと真実のモチーフがここで1つに収れんする。
幻だとわかっていても、いつわりとまやかしだとわかっていても、幻を信じ、愛してしまう。
楊貴妃の死という悲劇さえなければ、幻を愛し続けていられただろうか。

白龍は天に召され、白楽天は詩を書きなおさないことにする。そして意味深なことを言う、「あれは白龍が書いた詩だ」。それはつまり、愛という幻を信じた者が書いた詩だということだ。
このあと、空海にはもう1つのエピソードがあり、そこで意外な人物と再会する。そこでの空海のせりふもすばらしい。
ラストは白楽天の部屋。楊貴妃の絵に黒猫が現れ、楊貴妃の腕に抱かれる。大きな目を見開いて、観客をじっと見ている黒猫。

とまあ、後半、かなり詳しくネタバレしてしまったけれど、実はこういうテーマの作品なのですね。
幻と現実、いつわりやまやかしと本物・真実。
フィクションというものは幻やいつわりを美しいものと信じることだ、と言っているような、実際、それを体現したような映画です。その一方で、幻やいつわりであることの悲しみも伝わってくる。そしてなによりも猫=白龍の愛がせつない。
極楽の宴の幻を見せた丹龍が、「白鶴の時を思い出したかった」というようなことを言うのですが、あの輝かしい日々はもう戻ってこない、というせつなさも。
それでも前を向く空海と白楽天は、やがて優れた僧侶と詩人になる。エンドロールの歌「マウンテン・トップ」は彼らのめざす山の頂上を表現していて、内容によく合った歌になっています。

空海と白楽天の別れのシーンで、白楽天が後ろ向きで片手を上げるところ、どこかで見たな、と思ったら、ロバート・レッドフォードの「華麗なるギャツビー」でギャツビーと別れるときにニックがやっていた動作と同じでした。あの別れは永遠の別れになってしまうのだが。
猫の話を聞いた空海が同情して猫をなでようと手を伸ばすと、猫がシャアして空海をひっかくところ、そのあと、空海に背を向けた猫の表情がいい。
猫は出ずっぱりではないけれど、明らかにこれは猫の視点だな、と思うシーンもあり、猫出ずっぱりに感じるのも納得。
というわけで、けっこうはまっているのですが、週末からはもう小さいスクリーンでしか見られないのが残念です。

2018年3月5日月曜日

「妖猫傳」吹替え版リピート

今日の午前中はアカデミー賞の発表でしたが、げ、なんで「シェイプ・オブ・ウォーター」なんかが作品賞なの? 「スリービルボード」はすごい傑作なのにもともとマーティン・マクドナーが監督賞にノミネートされておらず、そのかわり脚本賞かと思ったら「ゲット・アウト」。で、「スリービルボード」は主演女優賞と助演男優賞だけって、要するに、アカデミー会員は「スリービルボード」は演技だけ認める、作品は認めない、マクドナー? 知らん、て感じなんですかね?
「ゲット・アウト」の脚本賞はよかったと思います。
「シド・アンド・ナンシー」からのファンとしてはゲーリー・オールドマンの受賞はうれしい。
ジェームズ・アイヴォリーが脚色賞だけど、オスカー初? それならすごくうれしい。
しかし、「シャイプ・オブ・ウォーター」は前の記事で書いたとおり、猫を殺しておいてそのあとの人物たちの態度が許せない、というだけでもう論外なんですが、「スリービルボード」と「ゲット・アウト」が差別する側をきびしくも奥深い視点で描いているのに対し、「シェイプ・オブ・ウォーター」は差別される側をただ描いているだけなんですよ。しかも、半魚人は最後は神扱いで、結局これはヒロインの自己満足だろうとしか思えない。
でもまあ、アカデミー賞が私が推さない映画を作品賞にするのは平常運転なんで、ただ、最近はわりと私の好きなのが受賞してたんですが、まあ、アカデミー会員の本音がわかったような気がしないでもないわな、今回のは。

というわけで、前記事で、「シェイプ・オブ・ウォーター」の口直しに「空海」こと「妖猫傳」もう一度見たいと書きましたが、オスカー受賞でいよいよ「妖猫傳」での口直しが必要になったので、すぐ見てきました。
前回は松竹系のシネコンでしたが、そこは今はもう小箱になってしまっているので、まだ比較的大きいスクリーンでやっている東宝系へ。さすがトーホーシネマズ、松竹系になかった巾着があったよ。買いましたが、画像はネットから借りてきたもの。

下が表で上が裏かな。入っているポリ袋にメイド・イン・チャイナと書いてありますが、これはもう、メイド・イン・チャイナが正解。つか、中国でも売っているのかな。
「妖猫傳」はネットで中国語版を2回見て、中国語の雰囲気はつかめたので、豪華絢爛の映像を見に映画館へ。中国語版を見たあとに日本語吹替えを見ると、吹替えも悪くないな、と思います。ネットでは吹替えの悪口がけっこうありますが、字幕版を公開していたら吹替えに対して悪口は出なかったのではないかと思う。むしろ両方見たい人がたくさんいそう。
阿倍仲麻呂のナレーションは中国語吹替えもよかったけど、やはり阿部寛の声がよいです。
中国語版にない冒頭の解説も映像がきれいだし、白楽天(白居易)の解説も入れたら完璧だった気がします。別に本編の邪魔にならない。そこに中国語版にないRADWIMPSの歌が流れるのですが、この歌が映画の中でも流れるのはよくない。せりふのあるシーンなのに歌流すのはよくないです。エンドロールの歌は中国語版にもあります。
映像はやはり美しいし、猫かわいいし、トーホーシネマズ、次はタダで見られるからまた行こうかな。吹替えの翻訳がよいような気がする。吹替えでも見たいと思えます(でも、字幕版公開してほしい)。
世間では邦題詐欺とか言われていますが、確かに宣伝のコンセプトがおかしい。キネ旬の特集みると監督は若い人向けをねらっていて、実際若い人向けだと思うし、RADWIMPSの起用も若い人向けと思えばわかるのですが、なぜか日本では中高年向けに宣伝している感じ。大河ドラマのような歴史ものに見せて、しかも中国色を極力隠しているのですが、そんなの映画が始まったら違うのすぐわかるし、始まってすぐ帰る高齢者もいるみたい。実際、中国では大ヒットだったのに日本ではイマイチというニュースがあり、それに対し、「最初から猫推しで字幕も公開してりゃよかったのに」というファンの意見が。嘘でとりあえず初動はヒットしてもその反動が来るに決まってるのだが。
この映画の魅力はいろいろありますが、空海と白楽天のバディムービーでもあり、魔法使いの弟子の美少年2人の物語でもあり、楊貴妃をめぐる男たちの愛の物語でもあり、李白と白居易の詩作についての物語でもあります。楊貴妃への愛は生身の女性への愛ではなく映画スターへの愛に近いですが、それはものごとは偽りであるという映画のテーマに重なる。また、この映画が好きな人たちのツイッターを見ているといちいちうなずく。李白について熱く語る白楽天がオタクそのもので、そのオタク部屋を空海に見られてしまい、みたいなところも面白い。
いや、語りだしたらきりがないんですが、あと何度かこの世界にひたりたいと思っています。
ところで、今回見たのは「スリービルボード」を見たのと同じシネコンの同じスクリーンの同じ席でした。ねらったわけではないですが、これでなんとか「シェイプ・オブ・ウォーター」の口直しができたかな(「シェイプ~」も悪い映画じゃないだけどね)。

2018年3月1日木曜日

「シェイプ・オブ・ウォーター」

みんなが絶賛しているのに自分だけ絶賛できない映画、というのがたまにあって、賞レースで話題の「シェイプ・オブ・ウォーター」は久々そういう映画だった。
確かに映像と音楽は美しいし、古い時代の雰囲気もよく出ているが、一言で言うとこの映画、「大アマゾンの半魚人」をベースに大人の「ET」を作りました、という感じの作品。
声帯を傷つけられたために耳は聞こえるが言葉がしゃべれないヒロイン、イライザと、1960年代初頭にアメリカの宇宙開発研究のために運び込まれたアマゾンの半魚人が、手話を通してコミュニケーションし、2人は恋に落ち、男女の関係にまで発展する。ETと同じく、彼には傷を治す力もある。その間、半魚人を殺そうとする追っ手がいて、2人の別れのシーンで一緒に行こうとか行かないとかの手話の会話。まんま「ET」やんけ。
と書くとネタバレしたみたいですが、このあといろいろあるのでネタバレとまでは行ってません。
で、なんで絶賛できないかというと、理由は2つ。

1 猫が殺されるのだが、そのあとの主人公たちの態度が猫の命などとるに足らないといった感じであること。だいたい、半魚人はそれまでゆで卵を食べるシーンしかなかったけど、食べ物がゆで卵だけってコレステロールが、となるし、じゃあほかにどんなもの食べてたのか全然わからないし、で、半魚人は猫を食べるの? それが本能だからしかたないの?
猫好きとしては納得できない! 半魚人はそのあと反省したみだいだけど、死んだ猫のこと誰も悲しまない。ううう、猫を殺しさえしなければこんなツッコミを入れずにすむのに。
半魚人の命は大事だけど猫の命はとるに足らないということですね、ハイ。
まあ、どこかで命の線引きはしないといけないので、そういう考えがあってもいいですが、半魚人の命を救わなければ私たちは人間じゃない、とイライザに言わせるのだけど、半魚人は知性があって人間と対等かそれ以上の存在だから、なんですね。うーん、うーん、どうも引っかかる。
口直しに「空海」また見たくなったわ。

2 メタファーが浅くて表面的ではないか?

1はもっぱら猫好きの不満ですが、2は作品のテーマに関わる重要なことなので、詳しく書きます。
この映画で半魚人を助けようとする人は孤独なマイノリティという共通点がある。
政府の研究所の清掃員のイライザ(サリー・ホーキンズ)は声が出せず、生まれてすぐに捨てられ、天涯孤独な身。同僚の黒人女性(オクタヴィア・スペンサー)は生まれてすぐに母が死に、きょうだいがいない。夫がいるが、今は冷めた関係。彼女もまた天涯孤独。
イライザと仲のよい隣人の初老の男(リチャード・ジェンキンズ)は売れなくなった画家で、なおかつ隠れゲイである。彼はそれでも画家としてゲイとして社会に受け入れられるという望みを持っていたが、どちらも裏切られ、イライザの半魚人救出に加わる。
そして、研究所の科学者は実はソ連のスパイで、研究所が肺の機能を調べるために半魚人の生体解剖をしようとしていることを知り、ソ連の情報部からは半魚人を殺せという指令を受ける。イライザ同様、半魚人を人間と同じように考えている彼はイライザに協力する。この過程で科学者はソ連の情報部にとって自分はただのコマにすぎないと感じ、彼もまた孤独を自覚する。
これらの孤独なマイノリティ、孤独な孤立者たちが半魚人を助けて逃がそうとするのだが、ここにもう1人、別のタイプの人間がいる。マイケル・シャノン演じる研究所の管理者で、刑務所や収容所の残酷な看守の系列にあたる人物。見るからに悪役で、正直、シャノンとしては「ノクターナル・アニマルズ」の演技に比べると一本調子。彼は白人であり男であり、妻と子供がいるヘテロという点で、マジョリティ中のマジョリティである。彼は明らかに女性や黒人を見下していて、妻がいるのにイライザに手を出そうとする。悪のマジョリティの典型。
で、この人物がまるで深みのないただの悪役なんだが、半魚人が逃げ出したあと、上司の将軍にきびしく責任を追及され、まるでロボットのような殺人マシンのような人物になってしまう。
というか、この人物、半魚人に指を食いちぎられてから狂気に陥っていくみたいにも見えるんだが、最後は将軍の言葉に操られるロボットになってしまっている。
孤独なマイノリティである最初の4人に比べて、この人物は孤独にならない。マジョリティであり、そしてロボットになってしまうから孤独にならないのだが、この辺の対比がどうも深みがなく、それでメタファーが浅くて表面的だと感じるのだ。孤独なマイノリティたちも画一的に見える。
また、1960年代初頭の米ソ冷戦という時代もメタファーとして浅い感じがする。特にこの時代にする必然性が感じられず、描き方も単純で、米ソの軍や情報部を冷酷な悪役にしているが、薄っぺらすぎる。
出演者の中ではサリー・ホーキンズがすばらしいが、他の俳優は彼らの実力から考えれば特にすごくない、普通の演技だと思う。ただ、ホーキンズだけはすばらしく、結局、上に書いたいろいろなメタファーは実はどうでもよくて、中心は抑圧された孤独な男女の恋の物語、上に書いた要素はその恋を彩るための飾りと考えればいいのか、という感じもする。つまり、人間とか社会とか考えると底が浅い映画だけど、孤独なはみ出し者の男女の恋だけ見ていればよい映画なのかもしれない。