2013年2月27日水曜日

熱気球の事故

エジプトのルクソールで熱気球の事故があり、日本人を含む観光客が20人近く犠牲になったといういたましいニュースがありました。
しかし、熱気球に20人もの観光客が乗るというのには正直、驚きました。せいぜい数人しか乗れないものだと思っていたのです。また、こんなに観光に使われているとも知りませんでした。
熱気球といえば、「80日間世界一周」のような古典もあれば、「オズの魔法使い」のオズがこれに乗って魔法の国に行ったという「オズの魔法使い」の前日譚映画「オズ」もありますが、私は熱気球には乗りたくない、と、前から思っていました。
その理由は、イアン・マキューアンの小説「愛の続き」とその映画化「Jの悲劇」のせいです。
「愛の続き」は、私はマキューアンの最高傑作だと思っていて、その後の「アムステルダム」や「贖罪」(映画化「つぐない」)よりもよいと思っています。
物語は、子供が一人だけ乗った熱気球がロープがほどけて飛び上がっていってしまい、主人公をはじめ、そばにいた大人の男たちがみんなでロープをつかんで引きおろそうとする、というところから始まります。しかし、熱気球はどんどん上昇し、ロープをつかんでいた人々も一人また一人と手を離してしまいます。ついに一人だけがロープをつかんだまま空高く上がってしまい、やがてその男は力尽きて手を離し、墜落死してしまうのです。
その墜落死した男の死体を主人公が発見するところがなんとも不気味で、映画より小説の方が怖かったです。
さて、本題はそのあと。事故のあと、ふだんの生活に戻った主人公のもとに、あのとき、一緒にロープをつかんでいた者だと名乗る男が現れます。彼は主人公に異様な愛を抱いていて、そこからストーカーが始まる、という話。設定はサスペンスものですが、小説はあくまで文学なので、サスペンスよりは人間心理やストーリーのひねりが非常に面白く、読み応えがあります。翻訳は単行本で出たあと、映画に合わせて文庫化されたのですが、もう絶版なんですね(新潮文庫はとにかく絶版が早い)。

で、映画の方は、DVDはレンタル店にあると思いますがセルの方は日本版は品切れで、アマゾンにはイギリス版が出ていました。下はイギリス版DVD。

見てのとおり、どちらも原題はEnduring Love。しつこく続く愛、という感じの意味なのですが、小説は「愛の続き」(意味が違ってるが)、映画は主人公の名前ジョーの頭文字をとって「Jの悲劇」となっています(エラリー・クイーンのミステリーのタイトルにあやかったのか?)。(追記 ストーカーの方もJが頭文字の名前でした。)
で、主演が、主人公がダニエル・クレイグ、ストーカーがリス・エヴァンス。映画を見た当時は、私はクレイグの方がストーカーでも面白かったのに、エヴァンスじゃ、もろストーカーすぎる、と思いましたが、当時のクレイグは悪役や変わった役が多かったので、ヒーローよりもそっちの方がいい、というか、そっちのクレイグが好きだったのです(実は、007になったあとのクレイグはあまり好きではないです)。
映画は原作と違って、「危険な情事」系のストーカー・サスペンスになっていて、原作ファンとしてはがっかりするところもありましたが、娯楽映画としてはそれなりによくできているし、クレイグ、エヴァンス、サマンサ・モートンといった演技陣もいいです。

2013年2月26日火曜日

春はまだ遠い

もうすぐ3月なのに、この冬一番の寒波とかで、日曜も月曜も強い風が吹き、大変な寒さでした。
おまけに月曜夕方には日光の方で震度5強の地震とか。東京も震度2とかですが、私は歩いていたせいか、気がつきませんでした。
で、この寒い中、どこを歩いていたかというと、久々、昼間に某猫スポットで写真撮影。
まずは、近所の小公園に咲いていたバラ。今の時期にバラか。

そして、某所へ。さすがにまだ梅と椿しか咲いていない。


昔なじみの猫と新参者の猫のいる場所。この猫は昔なじみ。

最近現れた猫。飼い猫か?

去年の夏ごろに現れた猫。カメラを構えていると、パフォーマンスをしてくれた。

こちらは別の場所の古株猫。久々だったので、忘れられたようだ。

なんとなく、写真撮ったりエサやったりするのがしづらい雰囲気になって、それで昼間に行かなくなったのですが、今回も、エサをやりながら写真を撮らない、人が来たらカメラとエサを隠す、という2点に気をつけながら写真を撮りました。なので、猫ともあまり触れ合えず。ま、少し距離を置いた方が自然な写真が撮れるのですが。

話変わって。この近くの高層ビルの中に、ハンバーグ屋さんがオープンしました。で、月曜まで、オープン価格、620円のハンバーグ定食が100円、1日限定100食というのをやっていたらしい。
実は私、プレオープン期間に、この620円の定食をワンコイン、500円のお試し料金で食べました。ここのハンバーグは和牛100パーセント、注文すると鉄板の上に載って出てくるのですが、それを割り箸でちぎって、鉄板の上の熱くなった石の上で焼いて食べる、というものです。
確かにお肉はおいしい。塩と胡椒だけで食べましたが、ほんとにおいしいです。焼くのも多少赤みが残るくらいの軽いレアで食べましたが、おいしかったです。
が、おいしいのですが、食べる過程がちょっと、なんですね。
まず、油がものすごくはねる。前に紙のエプロンをつけますが、メガネがぎとぎとになりました。
それと、肉が割り箸では切りにくい。そして、石がすぐに熱くなくなるので、だんだん焼けなくなる。
とにかく、肉はおいしいのですが(何度も言う)、割り箸で切って石で焼いて、というのを繰り返すのに神経を使うので、ゆっくり味わうとか、そういう気分になれないのです。おまけに油がすごくはねる。エプロンあるとはいえ、服の袖とか、相当はねただろうなあ。
そんなわけで、せっかくのおいしい肉なのに、それをゆっくり味わえず、というわけで、もう一度行く気にはならないなあ、と思っていたところ、ネットで、オープン価格100円だった、というのを読んだのですね。
そのオープン価格100円で食べた人によれば、ナイフを貸してくれる、石は冷えたら新しいのをくれる、そうです。月曜までやってる、というので、ふうん、100円か、もう一度食べたい味ではあるが、しかし、油ははねるし、あの食べる過程がちょっといやだなあ、と思いつつ、写真撮ったあと、店の前に行ってみました。
100円だからさぞかし混んでいるかと思いきや、店の中には家族連れと、単独のお客さんの2組だけ。もしかして、もう限定100食終わっちゃったのかもね、と思い、私は隣の松屋でネギ塩豚カルビ丼と豚汁を480円で食べたのでした(豚汁はやはりかつ屋の方がうまい)。
それにしても、620円のを100円て、どうなんでしょう。500円ならお試しでいいと思うけど、100円は…。100円で食べた人が、次に620円払う気になるのかどうか。あるいは、プレオープンの500円ではお客が来なかったので、100円にしてみたのか? 座席数が少ないので、あまり宣伝はしていなかったようですけど。
このハンバーグ屋さんのある場所は、以前はカフェがあったのですが、ここはお客さんが入りづらい場所なんです。このフロアには松屋をはじめ、大衆食堂的な店がいくつか入っているのですが、このハンバーグ屋さんの場所は外から見えにくく、しかも、前の通路が非常に短くて、入ろうかと思うまもなく通り過ぎてしまうのです。そんなわけで、ここに出店はきびしい気がしますけどね。とにかくお肉はおいしいので、あの食べる面倒くささをなんとかしてほしい。値段的にもペッパーランチよりいいと思うのですが。あと、店内の雰囲気が殺風景すぎる。
メニューはハンバーグがグラムにより何種類もあるし、ハンバーグ以外の料理もあります。620円のは小食の女性向きです。

2013年2月25日月曜日

シュガーマン 奇跡に愛された男(ネタバレ大あり)

アカデミー賞の発表がありましたが、わりと大方の予想どおりという感じでしょうか。「ライフ・オブ・パイ」が監督賞はじめ、いくつもとってますが、これも納得。私はアン・リーの映画はあまり好きじゃなかったですが、「ライフ・オブ・パイ」はかなり気に入っています(作品評はサイドの月別記事欄で探してください。2012年12月のところです)。
これから公開で関係者が期待してただろう「リンカーン」は作品賞はだめでしたね。「アルゴ」はまだ見てないや。

さて、長編ドキュメンタリー賞を受賞した「シュガーマン 奇跡に愛された男」。すでに見ているのですが、感想はまだ書いていませんでした。
ひとこと。これ、いいですよ。ぜひ見ましょう! おしまい。

というわけにはいかないので、詳しく書きますが、後半のネタバレは知らない方がよいと思いますが、書きます。

このドキュメンタリーの主人公は、1960年代後半、ミシガン州デトロイトに登場したシンガーソングライター、ロドリゲス。その歌と歌声はすぐに音楽プロデューサーの目にとまり、レコード・デビュー。しかし、まったく売れなかった!
そんなわけで、ロドリゲスはまたもとの貧しい労働者に逆戻り、音楽界からは完全に姿を消した。
ところが、1970年代、アパルトヘイト時代の南アフリカで彼のレコードが大ヒット。というのも、当時、南アフリカは黒人が差別されていただけでなく、白人も、アパルトヘイト政策を批判すると刑務所行きという時代で、言論の自由がなく、白人たちも閉塞状態に置かれていたのだった。そこへ誰かがアメリカからロドリゲスのレコードを持ち込み、そこに歌われている反体制的な内容に南アフリカの人々が熱狂し、レコードも発売されて大ヒットとなったのだった。ただし、当時の南アフリカではロドリゲスの歌は放送禁止だったそうな。
やがて90年代になり、アパルトヘイトもなくなって自由になった南アフリカで、若い頃にロドリゲスに熱狂した2人のファンが、ロドリゲスについて調べ始める。レコードは海賊版だったので、レコード会社をたどってもだめ。ロドリゲスに関する情報はほとんどなく、ステージで自殺したとか、都市伝説が信じられていた。
という具合に、ここまでは、ロドリゲスとはいったい誰なのだろう、その後どうなったのだろう、という謎を追いながら、彼の音楽がなぜアパルトヘイト時代の南アフリカで大ヒットしたのかを考察する、という内容になっている。特に、アパルトヘイト時代の白人たちが自由にものも言えず、抑圧されていた、というのは、これまでの南アフリカものではほとんど描かれなかったものだと思う。ロドリゲスを探すファンの1人は、ボタ政権はナチス政権と同じだったとさえ言う。
2人はロドリゲスの歌の中に出てくるある町の名前がデトロイトの郊外だということを発見する。デトロイトといえばモータウン。ここだ、と思った彼らはデトロイトでロドリゲスのレコードを出したプロデューサーに行き着く。ここでロドリゲスの正体がわかる、ということになったら、この映画、面白さが少し減ると思うが、ここで正体を明かさない。
話は続く。彼らはインターネットにロドリゲスを探すサイトを立ち上げる。そして彼らに連絡したのはなんと(というところで、文字の色を変えます)。

なんと、彼らに連絡してきたのは、ロドリゲスの娘だった。そして彼女を通して、ついに、ロドリゲス本人から電話が来る。ロドリゲスには3人の娘がいた。彼は今でもデトロイトの労働者として働いているが、政治家に立候補したり、貧しい人のために社会活動をしていたことがわかる。
そしてついに、ロドリゲス本人が登場。今でも十分ロックスターで通用する容姿の持ち主だ。2人のファンは南アフリカでのコンサートを実現。どの公演もソールドアウトとなる。客は白人が多数だが、サイン会にはサインを求める黒人も登場。テレビで彼にインタビューするのは黒人の女性キャスター、という具合に、アパルトヘイトが過去になったことを示す。
南アフリカで売れたレコードはすべて海賊版だったので、ロドリゲスはまったく印税をもらえなかった。また、南アフリカでのコンサートの収入も家族や友人にあげてしまい、今も質素な生活をしているのだという。欲のない人なのだと思う。
映画の中に流れるロドリゲスの歌はどれもすばらしく、声も魅力的だ。なぜアメリカでは受けなかったのか。プロデューサーは、名前がヒスパニック系だからだろう、という。当時のロックやフォークにヒスパニックは似合わなかったのだと。でも、もしもロドリゲスに欲があったら、名前を変えるなりして、スターになろうとしたのではないか。そこまでする気はなく、2枚のレコードを出しただけで労働者に戻り、そこで自分の納得のいく生き方をしていた人なのではないかと思う。
南アフリカでは大スターでも、アメリカや他の世界では彼は無名の人だ。無名だからこのドキュメンタリーが成立した。後半の展開を隠して謎を追う、というスタイルにしたのがこの映画の成功だからだ。
ロドリゲスの長女は父の南アフリカ・コンサートに同行したときに知り合ったボディガードと結婚、ロドリゲスは南アフリカ生まれの孫がいるのだそうだ。この最初のコンサートで南アフリカにやってきたロドリゲス一家がまた楽しい。自分たちがVIPだなどと思いもせず、歓迎ぶりに驚き、ホテルのスイートではロドリゲスはキングサイズのベッドに寝ずに(客室係に手間をとらせたくないので)、ソファで寝たとか、どこまでも質素で控えめな姿に好感を覚える。こういう人でも認められることがあるのだという夢を見させてくれる映画だ。

2013年2月23日土曜日

ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮(ネタバレ大あり)

「魔女と呼ばれた少女」と同じく、現在、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされているデンマーク映画「ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮」を見てきました。
18世紀後半、ちょうどフランス革命の直前くらいの時代。当時、ヨーロッパはルソーなどの啓蒙思想の影響で、多くの国が改革をしていたとき、デンマークはまだ遅れていて、検閲、拷問などが行われていたそうな。
そんなデンマークの王室に王妃として嫁いできたイギリス国王の孫カロリーネ。実は彼女のおばもデンマークの前国王の王妃で、現国王の母親。カロリーネも幼い頃からデンマーク王室に嫁ぐことが決まっていた、という、当時としてはよくある政略結婚ですね。
一方、デンマーク王のクリスチャンはすでに両親を亡くし、父王の再婚相手である継母の皇太后とその息子(クリスチャンの腹違いの弟)と暮らしています。まだ若いクリスチャンは、文学や音楽や芸術を愛する青年、ということで、同じく文学や芸術を愛し、読書が好きで本をたくさん持参した(しかし、デンマークの検閲で英国に送り返された本も多かった)カロリーネはクリスチャンとの結婚に期待してやってくるのですが、クリスチャンは実は精神の病にかかっていて、子供のように振舞うかと思えば、突然怒り出してカロリーネを侮辱する。確かに文学や芸術が好きで、時々、頭のよさも見せるのですが、とにかく精神不安定なので、カロリーネはしだいにクリスチャンを憎むようになってしまいます。
当時、カロリーネはまだ15歳。のちにドイツに追放されたあと、子供たちのために過去を語る、という形式になっていますが、大人になったカロリーネは、クリスチャンが病に苦しんでいたことを理解し、クリスチャンに対してある種の情を感じるようになっています。
しかし、結婚したばかりの頃のカロリーネはわがまま放題の夫に憎しみしか感じず、王妃のつとめとして息子を産んだあと、夫とは完全に断絶。クリスチャンも妻を置いてドイツへ外遊、そこで病が悪化したとき、ドイツ人の医者ストルーエンセに救われます。
このストルーエンセがクリスチャンに会うシーンがすばらしいのですが、クリスチャンがシェイクスピアのせりふを言うと、ストルーエンセがそれに答えてせりふを言い、クリスチャンがストルーエンセを気に入ってしまう、というシーンです。クリスチャンもストルーエンセも、シェイクスピアのせりふを暗唱できるほど文学に造詣が深いということを示している場面ですが、「エレファント・マン」でジョン・ハートとアン・バンクロフトが「ロミオとジュリエット」のせりふを言い合うシーンを思い出しました。
クリスチャンに気に入られたストルーエンセは王の侍医としてデンマークにやってきます。ストルーエンセはルソーをはじめとする啓蒙思想家の著書を読み、自身も匿名で啓蒙思想の本を書いているという人物。なぜか検閲をかいくぐって、デンマークでは禁じられているこうした哲学書を持っているストルーエンセに興味を持ったのが、持参した本の一部を検閲でデンマークに持ち込めなかった王妃カロリーネ。クリスチャンとストルーエンセはシェイクスピアで、カロリーネとストルーエンセはルソーで、互いに惹かれあうことになります(このあたりの脚本がいいね)。
そんなわけで、カロリーネもクリスチャンもストルーエンセも、文学や哲学書や演劇が好きな人、という共通点を持っていることになります。この3人は似た者同士なのです。
やがてストルーエンセは王を利用して、デンマークを改革しようとします。検閲や拷問をやめさせ、孤児院を作り、天然痘の予防接種をし、という具合に、デンマークの近代化を性急に進めていきます。また、貴族の権利を制限したりしたため、貴族たちが反発。それに対抗して、王とストルーエンセは貴族院を廃止し、2人だけで社会改革を進めていきます。
一方、ストルーエンセの愛人となったカロリーネも、クリスチャンとストルーエンセの改革に参加。クリスチャンは妻のカロリーネのことを「ママ」と呼び、母親扱いなので、妻と侍医が仲がよくても気にしません。実際、クリスチャンにとって、ストルーエンセは父親、カロリーネは母親なのだろう、と感じさせます。幼い皇太子に天然痘の予防接種をするとき、クリスチャンが外の部屋のソファでカロリーネと手を握り合い、そこへ接種を終えたストルーエンセが現れてクリスチャンの隣に座り、クリスチャンと手を握り合うシーンは、クリスチャンがこの2人の子供であるかのようです。
クリスチャンは2歳のときに母を失い、そして父も失って王位についたわけですが、継母の皇太后は自分の息子を王にしたいと思っていて、クリスチャンとは対立する立場。クリスチャンが妻であるカロリーネに母を求めるのもわからなくもないわけです。
そんな具合に、王と侍医と王妃の3人が独裁的に改革を進めていくのですが、社会改革というものはやはり民主的な手続きを踏まないといけないのか、彼らの改革は庶民の支持を得られません。皇太后や貴族たちの画策で、王妃と侍医の不倫が次々と新聞記事になり、人形劇にまでなって、それを庶民が楽しむ始末。そしてついに、皇太后と貴族たちが巻き返しをはかり、ストルーエンセは処刑され、カロリーネはドイツに追放される、という結末になります。
ストルーエンセは庶民のために改革をしたつもりだったのですが、死刑台に連れていかれるとき、彼を見つめる庶民たちの表情は冷ややかです。「私も民衆の1人だ」と彼は叫びますが、彼の改革は独裁的だったために、民衆の支持を得られなかった、ということがわかります。民主的な手続きを踏むと、時間ばかりかかって、なかなか実現しないのですが、それでも、改革には民主的な手続きが必要だと、映画は示しているようです。また、ストルーエンセの改革は、財源を考えずに行ったため、兵士たちに給料が払えないなどの問題が生じ、それが貴族たちの反乱を助けることになったという描写もあり、彼の改革が財源を考えないばらまき行政だったのか、という思いも。
王のクリスチャンはストルーエンセに対する愛情を失っていないため、彼を助けたいと思っているのですが、クリスチャンは最後まで操り人形で、貴族たちに操られるままになっています。
ラスト、病に倒れ、亡くなったカロリーネの手記がクリスチャンとの間に生まれた息子と、ストルーエンセとの間に生まれた娘に手渡され、それを読んだ兄妹が、皇太后たちに権力を奪われ、暗い部屋で失意の人生を送っている父王クリスチャンを訪れ、カーテンを開け放って光を入れます。カロリーネは、改革を試みた王と侍医の子供たちにデンマークの未来を託すために手記を書いたのですが、最後に、クリスチャンの息子フレデリクが16歳で宮廷クーデターに成功し、王として社会改革を行い、ようやくデンマークに近代化が訪れた、という字幕が出ます。

試写状を受け取ったときは、よくある宮廷不倫もの、と思ったのですが、デンマークの歴史を踏まえた人間ドラマとして、非常に見ごたえがありました。
ストルーエンセを演じるのは、わがごひいきのマッツ・ミケルセン。「偽りなき者」に続き、堅実な演技を見せてくれますが、この映画で注目したいのは、カロリーネとクリスチャンを演じた2人の若い俳優です。カロリーネ役は最新の「アンナ・カレーニナ」で、アンナとは正反対の、ロシアの大地に生きるポジティヴな女性を演じたアリシア・ヴィカンダー。この映画では逆に、アンナと同じ結婚と地位に縛られた女性なのが面白い。「アンナ・カレーニナ」のときの役の方がよかったですが。
そして、ベルリン映画祭で男優賞を受賞した、クリスチャン役のミケル・ボー・フォルスガード。この人の演技がすばらしい。精神の病を持ち、わがままで、子供のように無邪気で、操り人形にされても気がつかず、しかし、王の気品はきちんと備えている。最初はいやなやつだけれど、見ているうちにある種の親しみを感じさせてしまう演技です。
監督はスウェーデン版「ミレニアム」第1部の脚本を書いたニコライ・アーセルという人。奇をてらったところのない手堅い演出ですが、最後のカーテンを開けて光を入れるシーンなどに才覚を感じます。

追記 クリスチャンが好きなシェイクスピアは「ハムレット」と「リチャード三世」のようですが、「ハムレット」は父が死んだあと、母がおじと結婚、おじが王になります。クリスチャンは母が死んだあと、父が再婚、そして、皇太后となった継母が支配、という点が似ています。また、「リチャード三世」は身体障害者の王ですが、クリスチャンは精神の病に苦しむという点が似ています(クリスチャンはリチャード三世のような邪悪な王ではないが)。

2013年2月22日金曜日

リンディ・ラフHC解任

1997年7月から15年以上にわたってバッファロー・セイバーズのHCをつとめたリンディ・ラフが、今季開幕からの不振のために、現地時間、水曜日にHCを解任されました。かわりに二軍のロン・ロルストンが指揮を執るとのこと(ただし、今季限りの可能性もあり)。
リンディ・ラフは元セイバーズのディフェンスで、キャプテンをつとめたこともあり、また、HCとしては1999年にスタンレーカップファイナルに出場、そして、05・06シーズンには最優秀HC賞にあたるジャック・アダムズ・アウォードも受賞。1チームで連続してHCをつとめた期間は、NHLでは最長でした(次がナッシュヴィル・プレデターズの現HCで、ラフのすぐあとに就任したとか)。
しかし、私がセイバーズをフォローし始めたのは2003年からなのですが、掲示板などを見ると、GMやめろ、HCやめろ、のオンパレード。ダーシー・リギアGMとラフHCが支持されていたのは、05年から07年までの2シーズンくらいでした(この2シーズンのセイバーズは最強といわれている)。
それでも、数年前まではラフは支持され、リギアやめろの大合唱だったのが、最近ではラフやめろの声の方が強くなり、特に今季はだめな理由の筆頭にあげられるのがラフだった。
それでも、GMとHC両方替えてほしかった、という声もあるのですが、シーズン途中に両方ってわけにもいかず。来季は総入れ替えもあるかもですが。
さて、水曜の午後にリギアGMが直接ラフの自宅を訪ね、解任を告げたとき、ラフは選手たちにお別れのあいさつをしたいといい、チームが試合のためにトロントへ出発する前に、ラフは選手たちと会い、ハグや握手をしたとか。リギアも苦渋の決断だったようで、涙涙のお別れだったみたいなことがニュースに出てました。つか、どうも、GMのリギアが涙もろい人で、選手をトレードに出すときも涙ぐんだりとか、なんか、日本映画のような人情劇漂うセイバーズなのだよね。
この辺が、ファンには気に食わない、前任者のテッド・ノーランのような男っぽくてカリスマのある強いHCを望む声が大きいのですが、はて。
ラフっていうのは、ファーストネームのリンディがリンダの愛称でもあるので、名前が女っぽくて、でも、そのあとに来るファミリーネームがラフ、と、男っぽいので、その辺の剛と柔のような両面のある人でもあったようですが、試合中、隣のベンチのHCと口論したりとか、いろいろ話題もあった人でもあります。
というわけで、デレクがいた時代からセイバーズのHCだったラフがついに解任。デレクはジョン・マックラーやテッド・ノーランの時代の方が活躍できて、ラフの体制になったら活躍できなくなり、結局、ダラス・スターズにトレードされて棚ぼたカップ獲得となったのですが、デレクはこのニュースをどう聞いたでしょうか。デレクにとっては、ラフの時代にはいい思い出はなかっただろうからなあ。
トロントへ出発したセイバーズは、日本時間今日の午前にリーフスと試合ですが、HC変わっても選手は変わらないのだし、あまり期待もできない気がします。

2013年2月21日木曜日

魔女と呼ばれた少女

このところ、カナダの映画はなぜか、フランス語圏の映画、いわゆるケベック映画がよい。
アカデミー賞外国語映画賞受賞の「みなさん、さようなら。」もそうだし、東京国際映画祭で話題となったホッケー映画「ロケット」、アカデミー賞外国語映画賞ノミネートの「灼熱の魂」。そして、今、その外国語映画賞にノミネートされている「魔女と呼ばれた少女」。
もちろん、英語圏のカナダ映画も、クローネンバーグとか、エゴヤンとか、「テイク・ディス・ワルツ」のサラ・ポーリーといった監督たちの映画があるのだが、勢いを感じるのはなぜかケベック映画。その中でも「灼熱の魂」は始まりはカナダだが、その後のシーンはほとんどが中東、そして、「魔女と呼ばれた少女」は全編アフリカで、カナダは無関係。「灼熱の魂」は中東出身のカナダ人が主人公だが、「魔女と呼ばれた少女」の監督キム・グエンはヴェトナム人の父とカナダ人の母を持つ。カナダもアメリカと同じく移民の国であり、この映画でもアフリカ系のカナダ人の俳優が3人、アフリカ人を演じている。英語を使わないカナダのケベック映画が世界を描き始めているということを、どう見たらいいのだろうか。
「魔女と呼ばれた少女」は、内戦で多数の人が死亡しているアフリカのコンゴを舞台としている。アフリカや中東の戦争では、子供が兵士にさせられているという例は多いが、この映画では、反政府軍に拉致され、無理やり兵士にさせられた少女が主人公だ。
湖のほとりの村に、ある日、突然、反政府軍がやってきて、大人たちを皆殺しにし、子供を拉致して兵士にする。そのために、子供に親を銃で殺させたりする。そうやって、子供を兵士になるしかない状況に追いやるのだという。少女はやがて、両親をはじめとする死んだ人々の亡霊を見るようになり、その亡霊のおかげで、政府軍の存在をいち早く察知できるようになる。彼女は魔女と呼ばれ、部隊の守り神となるが、以前に魔女と呼ばれた少女たちはみな、戦闘に負けると殺されたという。
部隊には少女に思いを寄せる少年がいる。彼はメラニン色素が少なく、肌の色や髪の色が白いアルビノだ。アフリカでは白いものは貴重で特別なものだと思われているらしく、アルビノは特別な存在と思われているようだ。少年は、いずれ少女が殺されることを恐れ、2人で部隊から逃げ出す。
2人はつかのまの逃避行を楽しみ、結婚もする。この地方では、求婚された女性は条件として白い雄鶏を要求することになっているらしい。しかし、ここでは白い雄鶏はめったにいないらしく、たいがいは別のもので求婚を受け入れてもらうのだが、お金のない少年は白い雄鶏を探すしかない。そんなわけで、白い雄鶏を必死に探す少年に、「おまえは結婚したいのか」と大笑いする大人たち。やがてアルビノの人たちの村にたどり着いた少年は、ついに白い雄鶏を手に入れ、少女と結婚する。
しかし、牧歌的な逃避行は長くは続かず、別の反政府軍の部隊に少女は捕らわれ、少年は殺されてしまう。
映画は捕らえられた少女が部隊長の愛人にさせられ、妊娠したあと、生まれてくる子供に自分のことを語る、という形になっている。両親を殺すよう強要され、兵士にさせられ、逃避行をした最愛の少年は殺され、そして部隊長の愛人にさせられて妊娠し、生まれてくる子供を憎む気持ちをなんとか振り払おうとする姿はあまりにも悲惨だが、映画は残酷な場面は直接描かず、亡霊を登場させたりして、アフリカらしい呪術と幻想の世界に仕上げている。
無理やり兵士にさせられた少年少女の人生はあまりに過酷だが、軍隊とは無関係の普通の庶民たちは心優しく、親切だ。逃亡中の少年少女に一時的な家を与える肉屋夫妻、部隊長のもとを逃げ出した少女が心的外傷から頭がおかしくなり、銃を撃ちまくって逮捕されたとき、彼女を逃がしてやる警官、そして、赤ん坊を抱えて旅をする彼女をトラックの荷台に乗せてやる運転手と、彼女に親切にする荷台にいた女性。少年と少女が白い雄鶏を探すときにめぐりあった大人たち。彼らの中には、肉屋の男のように、内戦で過酷な経験をし、深く傷ついた人もいる。他の大人たちも、内戦でなんらかの心の傷を負っているのかもしれないが、彼らは困っている人を見れば手を差し伸べる。残酷で過酷な世界だが、庶民はやさしい心と笑顔を持っている、という描写が救いとなっている。
3人のカナダ人男優以外はすべて、現地の住民から選ばれた人たちが演じているのだそうだが、主役の2人がすばらしい。少女を演じたラシェル・ムワンザはこの演技でヴェネチア映画祭主演女優賞を獲得したが、アルビノの少年を演じたセルジュ・カニンダも、彼女に劣らない存在感で、忘れがたい。
アカデミー賞外国語映画賞はたぶん、ハネケの「愛、アムール」だろうけれど、このカナダのケベック映画(言葉はほとんどアフリカの言語のようだが)も注目してほしいものだ。

2013年2月20日水曜日

ショック2

なんだか最近、役者の顔を見てもすぐにピンと来ない、ということが多くて、え、この人があの映画に出てたの?と驚くことが多くなりました。あー、もー、年はとりたくない(年のせいじゃないかもしれないが)。
先月、ゆえあって、横浜のホテルに泊まった、という話はすでにしましたが、夜、ホテルの部屋の立派なアクオスであちこちのチャンネルを見ていたら、NHKでイギリスのドラマ「シャーロック」の第1回をやっていたのですね。「ピンク色の研究」、つまり、「緋色の研究」の現代版。
このドラマ、有名なシャーロック・ホームズを現代に置き換えたもので、主人公のシャーロックはパソコンやスマホを駆使するオタク。「ソーシャル・ネットワーク」のザッカーバーグみたいなオタクです。対するワトソンは、アルジェリア戦争、じゃなかった、アフガン戦争で負傷した軍医。戦争で心的傷害を受けた彼が、オタクで社会不適応者のシャーロックと同居することになり、こいつ、ゲイじゃないの、と思いつつ、一緒に事件を解決する、というお話。
実はこのドラマ、テレビ放送される前だったか、試写があったんですよ。でも、回数が少なかったのか、見に行かなかったのです。興味はあったんですが。
で、このドラマの肝は、やはり、ワトソンだねえ、と、横浜の深夜のホテルの部屋で、私は思った。
演じるマーティン・フリーマンが、いかにも腐女子好み、と、私には見えたのですが、ブロンドで、背丈は低くて、おとなしめなのだけど、なんともいえない色気を発散させているのです。ひたすらオタクで突っ張っているホームズに対し、静かだけれど、ホームズを超える存在感を発揮しています。
で、このワトソンのマーティン・フリーマンとか、ホームズのベネディクト・カンバーバッチとか、いったい、どういう俳優なの、と思って、調べてみて、びっくり。
まず、マーティン・フリーマンですが、なんと、「ホビット」の主役、ビルボ・バギンスだと。
うーん、「ホビット」は、正直、見る気のまったくない映画でした。あの短い原作を、長大な3部作にするってあたりから、もういいや、勝手にやってなさい、ピーター、の世界。「ホビット」3部作はスルー、と決めていたのだけど、フリーマンが主役か…。
そして、ホームズのベネディクト・カンバーバッチ。なんと、「つぐない」や「裏切りのサーカス」や「戦火の馬」に出てるじゃないの! 役名見れば、確かに記憶にありますが、同じ人だったのか!
そして、きわめつけが、レストレイド警部のルパート・グレイヴス。えええ、ルバート・グレイヴスだったの??? 気がつかなかったよ…。
忘れもしません、彼は、あの腐女子を熱狂させた「モーリス」の主役の1人。3番目の主役ですが。その後も「天使を踏むを恐れるところ」とか、「ダロウェイ夫人」とか、出ていたのだね。すっかり忘れてた。でも、レストレイド警部があの「モーリス」の森番だなんて、全然気がつきませんでした。ああ、「眺めのいい部屋」ではヘレナ・ボナム・カーターの弟役だったんだわ。
というわけで、年はとるもんじゃないっていうか、グレイヴスの場合は、あの若者が、年とりましたね。でも、健在なんだ、よかった。
というわけで、現在に追いついていなし、過去も忘れてるし、と、ショック、ショック、の「シャーロック」でした。「ピンク色の研究」のあとはDVDで見よう。

2013年2月18日月曜日

ショック…

確定申告の税金の計算をしておこうと、エクセルで収入などの計算をしたあと、まだ封を開けていなかった税務署からの書類の封筒を開いてびっくり。
なんと、事業所得の必要経費などの書類が入ってなかった!
なんで? と思って、去年の書類を見たら、その前の年の事業所得、つまり著述業の収入が12万かそこらしかなかったのだった。
つまり、給与以外が20万円以下の場合は申告しないでいい、ということね。
でも、しっかり1割源泉徴収されているので、それは取り戻さねば!
雑所得にしろってことか。
まあ、何がショックだったって、ついに、著述業あるいは文筆業として認めてもらえなくなったのか、ってことです。
その12万かそこらの前の年は翻訳書が出たので、かなりの収入があったはず。が、一転して雑所得に転落か。
わたくしとしては、やはり、著述業、文筆業であり続けたいのです。
そして、本名ではなく、筆名の仕事を続けていきたいのです。
この前は論文書こうとか宣言してましたが(実現の可能性は別)、論文だと本名なんだよね。
しゃあない、BookJapanに書くか、って、そういう言い方はないだろ!(書こう、書こうと思っている書評はあります。)

思えば、私は長い間、非常勤講師と自営業の二足のわらじをはいていました。
そもそも、最初は非常勤講師と予備校の模擬試験の採点料が収入源でした。
そして、29歳のとき、ついに評論家デビュー(というほどのものではないが)。
しかし、評論の原稿料はすずめの涙、映画関係の産業翻訳の仕事を紹介され、そっちの方が収入はよかったという時代が続き、でも、一番多かったのは非常勤講師だったので、評論や翻訳の原稿料は雑所得で申告していました。
それが変わったのが1999年度。つまり、20世紀末。
90年代後半、非常勤講師の仕事が減り、ついに1箇所だけになり、そのかわり、翻訳書を出すようになって、給与所得と事業所得の割合が一変したのです。事業所得の方が多くなり、そうなるともう雑所得では申告できないので、おそるおそる必要経費などを計算し、自営業者となったのでした。
しかし、翻訳出版界は超氷河期。1年1冊本を出すこともむずかしく、おまけに私の性格が災いして、ついに翻訳出版の仕事は皆無に。一時は産業翻訳もやってましたが、こちらも軌道に乗らず、結局、ネットの大学講師の公募に応募して、20回くらい応募して、やっと1つ非常勤ゲット。それから2年後にもう1つ非常勤ゲット。で、大学院在学中から続けている某大学とあわせて3大学で非常勤をするようになり、こうして給与所得中心にまた戻ってしまったのでした。
まあ、大学の非常勤なんて、普通はコネで決まるので、コネなしで2つの大学で採用され、しかもどちらも映画の仕事を評価されての採用なので、本当に感謝しているし、とてもやりがいのある授業をさせてもらっています。だから、この仕事はできる限り続けたい。
でも、やはり、筆名の仕事、著述の仕事、これもここで終わりたくない。翻訳は、もしかしたら私は向いてなくてだめかもしれないけど(あんなにチャンスがありながら、ものにできなかったのは、向いてないのだろう)、著述は続けたいと思っています(ブログに書いてるが、もっと違うものをぜひ)。

2013年2月16日土曜日

年収10万円

お笑いタレントのキンタローが昨年の芸人収入が10万円だったことを明かした、というニュースがありました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130215-00000064-dal-ent

お笑い芸人のことは詳しくないので、この方がどういう芸人なのかわかりませんが、昨年暮れからブレイクとのこと。でも、確かに、売れない芸人や役者など、アルバイトで食べているというのは珍しくないでしょう。

さて、確定申告が始まりましたが、実は、私も著述業の年収は昨年は10万円でした。
翻訳など他の仕事も含めたいわゆる事業所得が年収10万円というのはたぶん初めてだと思う。
翻訳はもう3年くらいやってない気がしますが、その前は翻訳の仕事は名前の出ない地味なのとかでちょこちょこあって、それに映画評などの著述の仕事もあって、年収は数十万はありましたが、昨年は10万、しかも、去年の春以後、原稿料のもらえる仕事がないので、今年はゼロもありえます。
いかん、いいかげん、危機感を持たねば。
実際、無名のライターというのは40代でしだいに仕事がなくなり、50代になるとまったくなくなるとも言われていて、有名にならないときびしい世界です。若いうちは無名でもそこそこ仕事があって、仕事探しも楽だったりしますが、年をとって無名だときびしい。そこで必要なのは企画力、なのですが、どうも、世の中に受ける企画を考えるのが苦手で。
などといっていてはいけません。知り合いの編集者も現場を離れたり、引退している昨今、それでもまだ知り合いが現役でいるうちになんとかしなければ。

昨年の夏休み、前期の非常勤講師の忙しさで映画も見られず、何もできなかったので、長い休みは本当に楽しみだったのに、なぜか、夏休みになったら軽いうつ状態になってしまいました。
そして後期が始まり、また忙しかったので、春休みを楽しみにしていたら、2月に入ったらまたしても軽いうつ状態。
これはいけない、と思い、まず考えたのは、論文を書こう!
長い間研究論文を書いていないのですが、非常勤先の大学の紀要に書くことはできるのです。
論文はだいたい7月が募集締切で、原稿締切は9月。しかし、毎年、論文募集があっても、忙しい前期のさなかには論文テーマを考えられず、結局、書かずに来てしまいました。
しかし、春休みに論文のことを計画的に考えておけば、書けるはず。
かどうかはわかりませんが(雑誌の原稿ばかり書いていると、論文の書き方を忘れます)、とにかく何かやらないとうつ状態、ということがわかったので、趣味でも何でもいいから休みを有効に生かして、できれば、今年も著述業の収入が得られるようにしたいです(研究論文は原稿料は出ませんが)。

2013年2月15日金曜日

憂鬱というには美しすぎる青

注意! この記事はスサンネ・ビア監督の新作「愛さえあれば」についてですが、ネタバレ大ありです。ご注意ください。

「未来を生きる君たちへ」がアカデミー賞外国語映画賞を受賞したデンマークの監督スサンネ・ビアの新作「愛さえあれば」は、イタリアで挙式するカップルとその家族の物語。
イギリス人の父とデンマーク人の母を持つパトリックとデンマーク人の両親を持つアストリッドは、パトリックの父が持つイタリアの別荘で結婚式を挙げることにする。別荘のまわりには父が育てたレモンの果樹園が広がっている。
一方、それぞれの親や家族はデンマークからイタリアへと向かう。パトリックの父フィリップは妻を交通事故で失い、今は仕事のことしか頭にない仕事人間。アストリッドの母イーダはようやく乳癌が治ったものの、髪の毛と乳房を失い、転移の不安もあるときに夫の不倫を知り、離婚を決意。そんなフィリップとイーダが空港の駐車場で鉢合わせ、車をぶつけて最初はけんかになるが、新郎新婦の親とわかって一緒にイタリアへ。現地にはイーダの夫がこともあろうに愛人を連れてやってきていて、同情したフィリップとイーダの間に愛が芽生える、という熟年カップルのラブストーリーだ。
別荘にはこのほか、フィリップの亡き妻の妹で、フィリップと相思相愛だと勝手に思い込んでいるKYな女が来ていたり、料理などの手伝いに来ている地元の青年が実は……と、別荘に集まった人々のさまざまな人間模様が描かれる。そして、結婚するはずの若いカップルの間にも亀裂が、という展開になっていく。
スサンネ・ビアの映画としては、この「愛さえあれば」はこれまでの作品に比べてあまり深刻なところがなく、また、奇抜なところやユニークなところもない。つまり、イタリアを舞台に作られた過去のハリウッド映画やヨーロッパ映画とあまり変わらないのである。ストーリーテリングは相変わらずうまいが、結局は中年女性の願望を描いたラブロマンスという感じが強い。イーダを演じるトリーネ・ディアホルムは魅力的だけれど、平凡な普通の中年女性であることが基本。対するフィリップのピアース・ブロスナンは年はとってもロマンスグレイで、平凡な普通の中年男ではなく、中年女性にとって夢やロマンを感じさせる。イタリアに別荘と果樹園を持つ会社社長というのもロマンスの相手役としては魅力であり、平凡な中年男であるイーダの夫とはあまりにも対照的だ。
そんな具合に、物語だけ見れば、これは中年女性のロマンス映画なのだけれど、スサンネ・ビアは、この映画ではロマンスやストーリー以外のところに力を入れている。それは映画の色彩だ。
水色のビルがレモン色に染まるファーストシーン。そして登場する俳優たち。彼らの青い目が、異様に青いのだ。北欧なので目の色が青い人が多く、また、ブロスナンも青い目である。彼らの青い目が、自然な青さではなく、異様なまでに青い。
映画が進むにつれて、特にイタリアへ行ってからは、この青がやたらと画面から浮かび上がる。俯瞰でとらえたイタリアの町のところどころにある青。家や庭にある青い椅子や家具や壁や飾り。そして、登場人物の着る青い衣装。ブロスナン演じるフィリップは青いシャツを着ている。その息子パトリックも青いシャツを着ている。フィリップに言い寄るKYな女(妻の妹)も青いドレスを着ている。そして、イーダの夫が連れてきた愛人もまた青いドレスだ。彼女はアイシャドウも青い。
そんな青い衣装の中で、イーダはイタリアでは一貫して赤を身にまとっている。最初は赤いカーディガン、次に輝くような赤のドレス。しかし、この映画の映像はあくまで青を引き立てる。オレンジ色や黄色が基調のイタリアの風景の中で、イーダのドレスや夕日の赤よりも、一部の登場人物の着る青い衣装や青い小道具が他の色を押しのけて自己主張している。
若いカップルは結局、結婚式をやめてしまい、人々はデンマークへ帰る。暖色のイタリアから灰色の北欧へ。しかし、その灰色の風景の中には、青い作業服を着た男たちがいる。そして、イーダは、デンマークへ帰ると一転、衣装は青になる。もう彼女は赤を着ない。彼女が勤める美容院も青で統一されている。イーダの夫は愛人と別れ、赤いバラをたくさん用意して復縁を迫る。夫も青い服を着る。そこへイーダを忘れられないフィリップが彼女を訪ねてくる。フィリップのスーツも青だ。イーダはいったんはフィリップの求愛を退けるが、夫と別れてイタリアへ行く。
イタリアでは、イーダはレモン色のドレスを着ている。たぶんそうなると思っていた。フィリップは白いシャツを着ている。しかし、レモンの果樹園では、作業員たちが青い箱にレモンをつめているのだ。その青い箱が、箱の青が、画面の中で異様に輝いている。
正直、私には人間模様よりも色彩の方が面白く、そればかり注意して見ていたのだが、スサンネ・ビアはこの映画の青に何をこめたのだろうか?
異様なまでに青い瞳、フィリップの義理の妹やイーダの夫の愛人のようないやな人物に青い衣装を着せたり、何か問題を抱えているフィリップと息子に青いシャツやスーツを着せたり、そしてなにより、デンマークに戻ると青が増えること。イーダさえも青を着ること。青は現実を表し、イタリアでイーダが着る赤は夢を表すのだろうか。
フィリップやイーダたちがイタリアから帰る直前、イーダが立ち去ると、別荘の庭に赤いベンチがあるのがわかるシーンがある。別荘の庭に青い椅子があるのはそれまでに何度も見えていたのだが、赤いベンチがあるのはこのとき気がついた。赤いベンチを去っていくイーダは夢から現実に変える彼女をあらわしているのか。
あるいは、この映画の色彩には、それほど深い意味はないのかもしれない。それでも、ラストの果樹園でも青が強く自己主張しているように、青は人生の中心にあるもの、生活、という意味なのかもしれない。それにしても、この映画の青は、憂鬱という意味のブルーと同じ言葉にしては、輝くほど美しく、しかも現実離れしている。
日本語のタイトルは「愛さえあれば」。英語のタイトルは「Love is All You Need」(あなたに必要なのは愛だけ)。デンマーク語のタイトルはわからないが、英語タイトルと同じだとしたら、これは「愛さえあれば」という意味にもとれるし、「あなたに欠けているのは愛だけ」という意味にもとれる。この映画では、愛さえあれば何もいらない、という意味ではないだろう。

2013年2月14日木曜日

レ・ミゼラブル

なんだか久しぶりに有楽町で映画を見てきました。
昔は銀座周辺に試写室が多くて、銀座・日比谷あたりはよく徘徊していたものですが、最近は試写は京橋か六本木という感じになっています。で、映画館もあまり行ってないな。いかん。今年度までは水曜が仕事でレディスデーを利用できなかったけれど、来年度は水曜があいたので、がんばります。
というわけで、日劇で見た「レ・ミゼラブル」。日本でも大ヒットした舞台のミュージカルの映画化、ということで、それだけである程度の集客は見込めると思いましたが、予想を上回る大ヒットとか。
そうでしょう、そうでしょう。だって、ここに描かれている世界が、今の日本にとって、他人事でなくなってきているもの。
1度失敗したらやり直せない、とか。食べるだけで精一杯の生活、とか。歌詞にもあったけど、平等なんて天国に行ってから、とか。それでも、人の恩に報いようとする主人公たち、暗い夜も必ず明けると信じる人々。それが歌になって響いてくるんだからたまりません。
もっとも、全編歌の映画はいや、という人には向いてないかもしれませんが、でも、「オペラ座の怪人」もそうだけど、最近のミュージカルはだいたいこうよ。
本当のところをいうと、あまり期待はしてなかったです。私はどうも、最近の、歌が専門でない役者が歌うミュージカルというのが好きでないのです。「オペラ座の怪人」のファントム役についても文句を書きましたが、「スウィーニー・トッド」のジョニデとヘレナ・ボナム・カーターも、あの歌唱力ではねえ。それで、今度はヒュー・ジャックマンやラッセル・クロウやアン・ハサウェーが歌っていると聞いても、また素人の歌かい、と思ってしまうのでした。
しかし、ジャックマンとハサウェーはわりとうまかったです。クロウは最初の方はよかったけど、だんだん苦しく。アマンダ・セイフライドのコゼットだけはほかの女優にしてほしかった。あとは、エディ・レドメインもわりとよかったし、サッシャ・バロン・コーエンとヘレナ・ボナム・カーターのテナルディ夫妻は演技的によかった。そして、一番すばらしかったのは、舞台でも同じ役を演じた本物の歌手、エポニーヌのサマンサ・バークスです。
このエポニーヌは、出番は少ないけど儲け役で、一番有名な歌をソロで歌うし、役柄も、コゼットを愛するマリウスに片思いしながら、彼のために尽くし、男装して革命に身を投じて死ぬという、まさに貧民街のオスカル、という感じ。両親があくどいテナルディ夫妻なのに、純な心を持って育つというか、この映画ではわからなかったけど、革命に加わる少年もあの夫婦の子供だったのね(原作では)。この少年もすごくよかった。
映像も、映画的なところもあれば舞台的なところもありで、よかったんじゃないでしょうか。
「オペラ座の怪人」だと、3人の主役が歌いっぱなし、みたいな感じなのですが、「レ・ミゼラブル」は主要人物の数が多く、歌いっぱなしではないので、その辺も役者にとってはよかったかもです。
ただ、全編歌のミュージカルは、やはり、舞台で見た方が緊張感が途切れなくていいのかな、映画だと幕間もないし、どうしてものっぺらとした感じになってしまうのかな、という気もします。
あと、ラッセル・クロウのジャベールは、あれはだめだね。ジャベールは自分は正義だと思い込んでいる男で、悪役だけど悪人ではないのだが、クロウだと、そういう複雑さとか、内なる闇とか、そういうのが出ない。また、クライマックスの歌が歌唱的に苦しいので、ジャベールの造型という点ではかなり落ちます(舞台は見てないので、比較しているのではないが)。
なんでも、フランスで作られたテレビドラマの「レ・ミゼラブル」が、ジェラール・ドパルデューのジャン・バルジャン、ジョン・マルコヴィッチのジャベールだそうで、このマルコヴィッチのジャベールがいいらしい。そりゃいいだろうなあ。でも、6時間の完全版はDVDになってないようです。
「レ・ミゼラブル」の映画化としては、リーアム・ニーソン版よりは、このミュージカルの映画化は気に入っています。ニーソン版もけっこう人気高いようですが、私はこれの前にクロード・ルルーシュ監督、ジャン・ポール・ベルモンド主演のフランス映画を見てたので、ニーソン版は劣って見えました。このルルーシュ版は、時代を20世紀に置き換えた異色作で、ゴールデングローブ賞の外国語映画賞をとっているにもかかわらず、日本ではまったく無視されていて、ウィキペディアに項目さえないようです(もちろん、日本公開はされている)。allcinemaのサイトのコメント欄にも、どうしてこの映画が有名でないのか、というコメントがあって、同感です。DVD化もされてないらしい。これを機会にルルーシュ版のDVD化を希望します!
というわけで、とりあえずは満足のレディスデーの「レ・ミゼラブル」でした。午後の回でしたが、けっこうお客さん入ってましたね。前の晩にネットで予約したのですが、夜の回は前の晩には中央の席はかなり予約で埋まっていました。

追記 言うまでもなく、原作はフランス文学のヴィクトル・ユーゴーで、私は子供向けの「ああ無情」しか読んでませんが、このユーゴーの娘を描いたのがトリュフォーの「アデルの恋の物語」。今でいうと女性のストーカーなんだけど、公開当時はロマンチックな物語として受け取られていました(映画もそういうふうに描いていた)。

2013年2月11日月曜日

女子アイスホッケー、ソチ五輪へ

2月10日夜は、久々、国際アイスホッケー連盟のライブスコアを見ていました。テレビ中継もあったみたいですが、デジタル化してからテレビはないので。
来年のソチ冬季五輪への出場をかけた女子アイスホッケーの五輪予選がスロヴァキアで行われていましたが、日本女子はノルウェーには3点ビハインドから逆転、続くスロヴァキア戦はシュートアウトで敗れたものの、最終戦、デンマークには5対0と快勝して、ソチ五輪出場を決めました。やったね。
一方、男子は、昨年、日本は日光で予選があったにもかかわらず、最後にイギリスに負けて五輪出場なし。しかも、韓国に抜かれて3位になってしまったという…。
うーん、今季はアジアリーグもまったく見に行ってないし、なんともいえないのですが、男子はきびしい。かわりに女子がなでしこジャパンみたいにがんばってほしいものです。メダルをねらう、とか言ってますが、女子はカナダとアメリカがダントツで、あとはどんぐりの背比べみたいだから、銅メダルならねらえるかも???

NHLのセイバーズは、日本時間10日午前にアイルズと試合。またまたヴァネクの活躍で勝利しました。ヴァネクは1ゴール1アシストでポイントを稼いでいます。

2013年2月8日金曜日

ヴァネクただ今2冠王

ロックアウト終了してようやく開幕したNHLですが、セイバーズは最初の2試合は勝ったものの、その後負けが込んでいます。が、その中で、ただ一人、孤軍奮闘するのはトマス・ヴァネク。開幕からずっと絶好調で、ただ今、ポイントとゴールのトップにいます。
写真を見ると、髪を短くしてひげをのばし、ものすごく精悍な印象になってますが、もともとドラフト全体5位の選手で、ようやく本領発揮か、という感じ。ちなみに母国はオーストリアで、エスニック的にはチェコスロヴァキアです(両親が)。
ヴァネクはかつてデレクがつけていた26番をつけているのですが、これでセイバーズの26は永遠にヴァネクかもね、ていうくらいの活躍。日本時間今朝のハブス戦も、2点ビハインドで2ゴールしてシュートアウトでもゴールを決め、負けが込んでたセイバーズ、やっと勝利の模様。
この試合、先着1万名様にセイバーズのキャップをプレゼント、というメールが来てました。客少ないのか? 収容は18600人くらいだから、半分の人はもらえたのね。
というわけで、セイバーズの結果を見るのもげんなりな日々。
そうそう、26番といえば、昨日見た「君と歩く世界」で、男性主人公の息子が前に26と書いたTシャツを着ていて、その番号の上にPLANと書いてあるのが見えたのですが、まさかPLANTE、デレクじゃないよね? PLANではなく、PLATだったかもしれませんが(そのあとが隠れて全部は見えなかった)。ただ、デレクはヨーロッパでは62番だったはずなので、これはデレクじゃなくて誰か別の人でしょう。サッカーの選手とか? フランスはホッケーはあまり盛んじゃないと思う。
猫の写真も最近は撮ってないのですが、先日、満月の翌日の夜に猫スポットで携帯で撮った写真です。猫と月。

君と歩く世界

シャチのショーでの事故で両脚を失った女性調教師と、貧しい子持ちの男性との恋、という内容と、「君と歩く世界」というタイトルで、よくある感動もののラブストーリーと軽く考えていましたが、これが、なかなか中身の濃い、ただのラブストーリーではない、映画でした。
原作はカナダの作家の短編2編で、これをもとに「真夜中のピアニスト」などのジャック・オディアールが脚色し監督、と聞けば、ああ、あの監督ならただのラブストーリーのわけはないか、とわかりましたが、よい意味で、事前の予想を裏切る傑作でありました。
映画はフランス映画なので、舞台はフランスになっています。
原作は今月下旬に文庫で発売されるそうで、「ベラミ」といい、最近は映画の原作の翻訳がまた出るようになったのでしょうか。

さて、物語は、シャチの調教師の女性ステファニー(マリオン・コティヤール)が事故で両脚を失い、失意の中で暮らす、という話と、別れた妻のところから幼い息子をひきとった貧しい男アリ(マティアス・スーナーツ)が同じく貧しい暮らしをする姉夫婦のところに身を寄せる、という話が並行して描かれます。そして、失意の中にいたステファニーは、以前、ナイトクラブでトラブルに巻き込まれたとき、用心棒のアリに助けられ、親切にされ、電話番号までもらっていたのを思い出し、アリに電話。倉庫の夜警になっていたアリは、部屋に閉じこもるステファニーを外に連れ出し、海で泳がせます。このときのステファニーの解放感が映像から実によく伝わってきて、感動ものでした。地上では足がないのは大変な重荷ですが、泳ぐときにはそれはさほど大変なことではない、というのはわかります。
最初はプラトニックな関係だった2人は、やがて肉体的にも結ばれます。また、アリは、店舗の経営者たちの依頼で店や倉庫に隠しカメラを設置している男と知り合い、彼のすすめでストリートファイトの試合に出て稼ぐようになり、また、この男と一緒に隠しカメラ設置の仕事をすることになります。
日本では社員を解雇するのが非常にむずかしい、といわれますが、それはフランスも同じで、経営者は隠しカメラを設置して従業員の行動を監視し、解雇の理由を見つけようとするわけ。もちろん、違法なので、見つかれば刑務所行き、と、男は言います。
一方、ステファニーは義足をつけ、ステッキだけで歩けるようになります。今は義足もずいぶんと発達して、ハイヒールがはける義足もあるのだとか。
やがてアリのストリートファイトのマネージャーとなったステファニーは、義足をあらわにして荒くれ男たちと交渉するようになるのですが、このあたりのシーンのコティヤールはとてもかっこいい。しかし、クラブで踊る女性たちのすらりとした脚を見ると、やはり悲しい思いにとらわれ、ナンパしてきた男が義足に気づき、「気がつかなくて申し訳ない」というと、怒って酒を浴びせてしまう、というシーンも、ヒロインの複雑な心境をあらわしてみごとです。「申し訳ない」といった男は善人なのですが、身障者だとわかっていたらナンパしないのか!というヒロインの怒りもわかるのです(その前にアリがほかの女と出て行ったのがそもそもの原因なのだが)。
そんなわけで、この映画は予定調和的なラブストーリーとしては進行しません。ステファニーの物語とアリの物語が交錯しながら、そこにさまざまな社会の一面が盛り込まれていく、という構成です。
幼い息子を引き取ったアリは、必ずしもよい父親ではなく、そのことで姉といさかいが起きますが、その上、アリたちが仕掛けた隠しカメラのせいで、アリの姉が消費期限切れの食品を倉庫から持ち帰っていたことがばれてクビになってしまい、アリは姉夫婦と決別、息子を置いて出ていってしまいます。しかし、その後、姉夫婦と和解、預けてあった息子とも再会します。このとき、アリはボクサーをめざしていましたが、久しぶりに息子と過ごした日、大きな事故が起き、アリとステファニーの立場が逆転します。最初の事故と最後の事故は、どちらも水が重要な背景になっていて、この2つの事故のコントラストが際立ちます。
というわけで、一番最後のネタバレはしませんが、欠点だらけの人間たちが、どんな困難にあっても、常に立ち上がり、生きていく物語、それがこの映画なのだと思いました。
コティヤールはハリウッド映画よりフランス映画の方がやはりいい。アリ役のスーナーツの存在感も抜群です。

2013年2月7日木曜日

ベラミ 愛を弄ぶ男

火曜日の気温から見て、水曜は雪にはならないな、と思いましたが、案の定、雪は降ってたけど、地面に落ちるとみな溶けてしまっていました。
JRは大雪予報に応えて間引き運転を決めてしまった上、人身事故もあって、午前中は大混乱の駅もあったようです。
さて、私はどうしても行きたい試写、モーパッサン原作の映画「ベラミ 愛を弄ぶ男」を見てきましたよ。
試写のあとはプールへ行こうと思っていたのですが、今日は朝から胃腸の具合が悪く、映画は見られましたが、体調不良を感じてプールは中止。

「ベラミ」ですが、原作の内容はまったく知らなかったのだけれど、帰って検索で調べてみたら、映画はわりと原作どおりみたいです。
「トワイライト」シリーズで人気のロバート・パティンソン演じるジョルジュ、あだ名はベラミ(美貌の友)は、その美貌で次々と上流の夫人たちを手玉に取り、上流社会でのし上がっていく、という物語。時は19世紀末のパリで、アルジェリア戦争やモロッコ動乱が背景になっています。
貧しい生まれのジョルジュは、アルジェリア戦争の戦友と偶然会い、彼の手引きで上流階級の夫人たちに出会い、新聞社に仕事も見つけ、あとは上流社会の男たちを裏で操れる夫人たちに取り入り、彼女たちを裏切って、出世していくという話。いわゆる伝統的なピカレスクで、おもに18世紀にヨーロッパで流行していたジャンルですが、伝統的なピカレスクでは、美貌と手練手管でのしあがった主人公は最後には没落するということになっていました。が、この「ベラミ」は、ジョルジュはのしあがるだけのしあがって、さらに上を目指すという、全然没落しそうにないのです。原作もそうらしい。モーパッサンといえば、意外な結末の短編で有名ですが、この「ベラミ」は、悪いやつがのしあがったまま、というのが意外といえば意外。でも、後味は悪い。
しかも、昔のピカレスクでは、悪の主人公は美貌だけでなく才覚もあったのですが、このベラミは美貌だけ。新聞社に入って記事を書く仕事を得たのに、文章は下手、ほかに何ができるかっていうと、有力者の妻を誘惑するくらい。妻たちも、彼に何を求めてるかっというと、やっぱりセックス。彼の方は女たちを全然愛してなくて、ただ利用しているだけ。一方、女たちは愛されていると勘違いするけど、でもやっぱり欲しいのはセックスだろう、ていう感じです。なんだかんだいっても、夫はキープだし。
3人の女性を演じるのは、ユマ・サーマン、クリスティン・スコット・トーマス、クリスティーナ・リッチと、豪華メンバーです。サーマンが演じるのはジョルジュの戦友の妻で、途中で夫が死んでジョルジュと結婚しますが、彼女が本当に愛しているのはジョルジュじゃないというのがまた意外。トーマスが演じるのは新聞社社長の妻で、こちらはもう、年をとってから急に若い男に熱中してしまったマダムの哀しさ全開です。3人の中では私はリッチが一番気に入りましたが、彼女は夫が留守がちなのでジョルジュといい仲になるという関係で、2人の女性ほどには権力がない感じなのですが、その分、どこかジョルジュとの関係に対して冷めた部分も持っていそうです。サーマンとトーマスの演じる女性がかなり計算高いところがあるのに対し、リッチの演じる女性はまだモラルがある感じ。ジョルジュは最後は、さらに出世するために、世間知らずの若い令嬢とはじめから愛のない結婚をするのですが、それを批判的に見つめるリッチのまなざしが印象的です。
ジャーナリズムを利用して政界に進出したり、金儲けしたりする上流の男たち、それを陰で操る女たち、その女たちを利用して上流社会に殴り込みをかける貧しい若者、という構図ですが、先に書いたように、伝統的なピカレスクに比べて主人公がうつろなこと、そのうつろな男がのしあがっていく社会がまたうつろであること、そういったうつろさが19世紀末なのかな、と思いました。
原作の翻訳は岩波文庫から出ていたけど、絶版なのね。映画にあわせて、角川文庫から新訳が出るようです。

2013年2月6日水曜日

汚れなき祈り(ネタバレあり、追記あり)

今日、水曜日は関東は大雪の予報ですが、ぜひ見たい試写があるのです。行けるかな?
というところで、本日は試写で見た映画2連発。
2本目はルーマニア映画「汚れなき祈り」。カンヌ映画祭で女優賞と脚本賞を受賞。監督は「4ヶ月、3週と2日」がすばらしかったクリスティアン・ムンジウ。
2005年、ルーマニアの修道院で起こった悪魔祓いの儀式で女性が死亡した事件の映画化です。
ルーマニアといえば、ドラキュラ伯爵の故郷トランシルヴァニアが有名ですが、21世紀にもなって悪魔祓いによる死亡事件が起きたということで、ルーマニアは遅れた地域だ、という印象を持たれてしまったらしい。
事件の背景としては、死亡した女性がかつていた孤児院で性的虐待があったとか、精神を病んだ彼女を病院が受け入れてくれなかったとか、舞台となった修道院にだけ責任を負わせるわけにはいかない事情があるようです。
しかし、ムンジウ監督は、孤児院での性的虐待は軽くほのめかす程度、受け入れを拒んだ病院についても、責任を問うような描き方はしていません。映画はもっぱら、古い慣習に従った厳格な修道院で起こった異様な事件として描いています。
映画のチラシに書かれた文章が目をひきます。

「わたしたちを引き裂くのは、神か、悪魔かーー」

実にうまい惹句だと思います。いやほんと、これがこの映画の中心に違いないのです。

以下、ここでは映画のストーリーを追いながら説明していくので、詳しいあらすじを知りたくない人は読まない方がよいと思います。

映画は、ドイツに出稼ぎに行っていたアリーナという女性がルーマニアに帰ってくるところから始まります。駅で出迎えたのは、孤児院時代からの親友ヴォイキツア。ヴォイキツアは修道女になっていますが、アリーナは彼女だけを愛し、彼女と一緒に暮らしたいと、それだけを願っています。
一方、ヴォイキツアは、アリーナを心配してはいるけれど、アリーナと一緒に暮らしたいとは思っていません。アリーナは再びドイツに出稼ぎに行きたいと思っていて、今度はヴォイキツアと一緒に行きたいと願っています。ヴォイキツアは、一時的に修道院を離れ、アリーナとしばらく過ごしたら、また修道院に戻りたいと司祭に願い出ますが、司祭は、一時的でも修道院を離れるのはよくないといって、許してくれません。
行き場のないアリーナは、とりあえず、修道院に泊めてもらいますが、もともと体調が思わしくなく、心を病んでいたらしいアリーナは、突然、暴れだし、修道女たちは彼女を縛って病院に運び、そこで投薬を受けて、アリーナはおとなしくなります。
本来ならそのまま病院で治療を受けるべきなのですが、病院側は、彼女のような患者は個室に入れないといけないが、今は大部屋しかないので、この病院では彼女を治療できないといって、修道院に帰してしまうのです。
普通に考えたら、病院がひどいと思うのですが(あるいは、ほかの病院を探すとかすべきですが)、しかたがないので、修道院はアリーナを置くことにします。しかし、司祭も修道女も、アリーナを置いておくのがいやなのは明らかです。アリーナの存在によって、修道院の秩序が乱されるからです。
案の定、修道女の中には、アリーナが来てから、マキの中に黒い十字架があるとか、変なことを言い出す者がいます。ばかなことをいうな、と言う司祭はまだ冷静さを保っているのですが、修道女たちの恐怖は理解できます。というのも、アリーナは背が高く、力が強く、しかもカラテができるということになっているのです(空手でなくカラテという字幕になっているのは、本当の空手かどうかわからないからでしょう)。アリーナが暴れて大変な思いをした修道女たちにとって、また彼女が暴れたらどうしようと思って恐怖を感じるのは無理もないと思います。
アリーナの親友で、アリーナからは同性愛的な思いを抱かれているヴォイキツアはどうかというと、彼女がまた、なんとも優柔不断なのです。ある程度の期間はアリーナと一緒にいてあげたいけれど、ずっといたいわけではない、というのがヴォイキツアの考えのようです。
修道女になったヴォイキツアは、当然、神を愛しています。彼女には神が一番の愛の対象なので、アリーナを一番愛するというわけにはいかないのです。でも、アリーナのことは心配しています。
アリーナがドイツに行く前に世話になっていた里親のところに泊めてもらう案が出て、里親のところへ行くと、アリーナはヴォイキツアも里親のところに泊まることを期待します。しかし、ヴォイキツアは里親の家に泊まるつもりはありません。それがわかると、アリーナもヴォイキツアと一緒に修道院に帰ってしまいます。
結局、ヴォイキツアと一緒にいたいアリーナは修道女になることにするのですが、修道院のきびしい戒律の前に、ついに精神に異常をきたし、暴れるようになってしまいます。悪魔にとりつかれたと思った修道女たちは悪魔祓いをするよう、司祭に頼みます。ヴォイキツアも、神がアリーナを救ってくれると信じ、悪魔祓いに賛成します。一方、司祭は信者たちにアリーナを見られたくないという世間体のような気持ちから、ついに悪魔祓いをすることにしてしまいます。
修道院の中で、ほとんど唯一の男性である司祭は(ほかに男性のドライバーがいますが)、修道女たちに比べると、なんとか理性を保とうとしているように見えます。しかし、その一方で、厳格な戒律を押し付けたり、信者の前での世間体を気にしたりという面があります。ある意味、社会を支配する男性の典型といえるかもしれません。彼はとにかくアリーナに出ていってほしいと思っていて、やがて、アリーナとヴォイキツアの両方に出ていってくれというようになります。実際、出て行った方がいいと私も思いましたが、ヴォイキツアの神への信仰心が邪魔をしたともいえます。彼女が神よりもアリーナを思えば、2人で出て行く方がいいとわかったでしょう。
「わたしたちを引き裂くのは、神か、悪魔か」という宣伝文句はまさにそのとおりです。
アリーナが修道院の中で神を冒涜するようなふるまいに出るのは、アリーナを神に奪われたからでしょう。その神の代弁者が司祭ということになります。
救急車がかけつけ、救急隊員が衰弱したアリーナに施した処置が誤っていたため、アリーナは死亡してしまいます。警察が修道院に来て、司祭や修道女から話を聞き、司祭と修道女数人と、すでに修道女はやめたらしい私服のヴォイキツアが車に乗せられて警察に向かいます。途中、降り積もった雪のために車が停められ、前進できず、フロントガラスに泥水がかけられる、という、ルーマニアの社会を象徴するのか、と思うようなラストで、映画は終わります。
悪魔祓いの途中で、ヴォイキツアは心に迷いがあるということで、悪魔祓いからはずされますが、この過程で、彼女は神への信仰が揺らいだのでしょう。アリーナを逃がそうとさえします。しかし、悪魔祓いの前までの彼女の言動は、アリーナの悲劇の一番の原因にも思えます。また、修道女の黒い衣装を着たヴォイキツアの表情が、どこか憑かれたような感じ、憑かれたような目つきにも見え、神を信じていた彼女は実は悪魔にとりつかれていたのか、という解釈もできる気がします。
警察の車に乗った司祭は、私たちが悪意でやったのではないことは神が知っている、と修道女たちに言います。一方、警察官たちはまったくリアルで、司祭たちの行動をきびしく批判します。司祭たちの世界の方がおかしかったということを、警察官たちはリアルな言葉で指摘するのです。
そんなわけで、いろいろと考えさせられる面白い映画なのですが、2時間半はちと長いと思いました。また、聖と俗、神と悪魔のようなテーマを描くには、監督の技量に不足しているものがあるとも思います。こういうテーマだったら、たとえばベルイマンとか、すごい監督が何人もいるので。

追記 映画の冒頭、修道院へやってきたアリーナが入口に書かれた「異教徒は入るな」みたいな言葉を見て、ヴォイキツアに「これはあなたが書いたのか」とたずねるシーンがある。ヴォイキツアは「いや、これは司祭が書いた」というが、アリーナはヴォイキツアの字に似ているという。また、ヴォイキツアが司祭を「お父様」と呼ぶのをアリーナがいやがるというシーンもある。この時点で、ヴォイキツアは司祭と同一化している、ということをあらわしているのかもしれない。アリーナから見れば、これはヴォイキツアを司祭とその世界から救いだす戦いなのだろう。

シャドー・ダンサー(ネタバレあり)

1990年代、北アイルランドのIRAのテロリストの女性を描く映画「シャドー・ダンサー」。原作者トム・ブラッドビーが自ら脚色し、アカデミー賞ドキュメンタリー賞受賞の監督ジェームズ・マーシュに依頼して製作された映画。原作は、かつて、「哀しみの密告者」というタイトルで翻訳が出ていたという…。
え!!!
それはこの本です。

忘れもしない、1999年春、わが愛する翻訳書「テロリストのダンス」が出たのと同じ時期に出版され、平台のすぐそばに積んであったので、よく覚えている本です。
あのときは、あまり興味なく、当然、読んでいません。「テロリストのダンス」も売れずに絶版になってますが、この「哀しみの密告者」も売れなかったようで、すでに絶版。映画化にあわせて再刊、という予定もなさそうです。

さて、映画ですが、私が一番注目したのは、主演のアンドレア・ライズブロー。マドンナ監督の「ウォリスとエドワード」でウォリス・シンプソンを演じた女優。彼女がいなかったら、あの映画、ほんとにつまらなかっただろう、と思うほど、すばらしい演技をしていました。特別すごい美人ではないのですが、存在感と演技がすばらしい。「ウォリスとエドワード」では、実年齢より年上で、あまり美人ではない役でしたが、この「シャドー・ダンサー」では、実年齢に近い、わりと美人の役です。
彼女が演じるのは、IRAテロリストで幼い息子を持つシングルマザーのコレット。ロンドンで爆弾テロ未遂事件を起こし、逮捕された彼女は、イギリスの諜報保安部MI5の男マック(クライヴ・オーウェン)から、刑務所に入って子供に会えなくなるより、密告者になれ、といわれ、心ならずも密告者になります。彼女の家は兄弟もテロリストの仲間で、要するに、当時は北アイルランドにいると、IRAに入るか、プロテスタントの方の過激派に入るかみたいなところがあって、教会までもがこの過激派同士の対立をあおっているようなところがあったのですね。
映画の舞台となった1990年代半ばは、IRAがイギリスと和平協定を結んだ時期で、上の人たちは和平を結んだけれど、下の人たちは納得できないでテロをするという時代だったようです。
密告者だとわかれば、コレットは殺されることになるので、マックは彼女を守ると約束します。一方、マックは、コレットが密告者にされたのは、もう1人の重要な密告者=シャドー・ダンサーを守るためだと気づきます。マックの上司ケイト(ジリアン・アンダーソン)はシャドー・ダンサーが誰だか知っているのですが、マックには教えません。ケイトもまた、コレットと同じく、子供を持つ母親なのに、コレットが死んでもかまわないと、彼女は思っているのです。
なんとしてもコレットを守るためにシャドー・ダンサーの正体をさぐるマック。テロの失敗から、IRAの上司から疑いをかけられるコレットと弟。そしてついに、マックはシャドー・ダンサーの正体を知る、というところで、次はネタバレのため、文字の色を変えます。

この物語は結局、母親の悲劇であったことがわかります。シャドー・ダンサーは実はコレットの母親で、彼女もまた、昔、逮捕されたときに、子供を思うなら密告者になれといわれ、長い間、密告をしていたのでした。
やがて、娘コレットが逮捕され、まったく同じように、子供を思うなら密告者になれといわれ、密告者になります。しかも、それは、シャドー・ダンサーである重要な密告者=母親を守るため、おとりとなり、犠牲になることだったのです。
しかも、それを命じたのは、同じく子供を持つ母親であるMI5の女性ケイトであるということ。
同じ母親でありながら、平気で人の命を左右する冷酷なケイトに、マックは憤りを感じます。そして、コレットの母が密告者であることを知った彼は、彼女にコレットの危機を告げます。子供を思って密告者になった母は、ここで再び、子供を思う決断を迫られます。彼女の行為は、子供を思う、という点で、一貫している、と書けば、結末はわかるでしょう。
このあと、もう1つ、衝撃的な結末があるのですが、それは書かないことにします。この衝撃的な結末が何を意味するかも、いくつか考えられるのですが、それも書かないことにしましょう。
ジェームズ・マーシュの演出は、暴力シーンをほとんど見せません。ひんやりとした肌触りの映像、寒々とした北アイルランドの風景の中に、コレットの着る赤いコートが引き立ちます。密告者にしては目立ちすぎる衣装ですが、映像的には実に効果的。また、クライヴ・オーウェンはじめ、共演者たちもみごとです。(画像はrotten tomatoesから。)