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2026年7月27日月曜日

読み始めたばかりの本

 リドリー・スコット監督で映画化された小説です。


映画と同じタイトルで文庫版が今月発売されてますが、こっちは上下に分かれていて、まだ出たばかりだから入っている図書館は少ない上、入っていても上下いっぺんに借りれればいいけど、実際は予約することになり、そうなると、上巻からまわしてもらう順番予約は可能だけど、時間がかかって大変だと思う。

しかし、最初に出たこの単行本はあちこちの図書館でまだ十分貸出可能(邦題が違うので気づかれていないのだろう)。貸出中でも予約はゼロのところが多い感じだった。上下に分かれてないので、借りるならこっちが絶対便利。

ということで、読みたい人へのおすすめ、みたいな文章だけど、中身はまだ読み始めたばかりで、評価は保留。この小説、アマゾンを見ると、単行本の星の評価は高いがレビューはゼロ。一方、出たばかりの文庫は評価が低く、レビューがあり、そのレビューを読むと、まだ読み始めたばかりだけどけっこう納得しちゃうところがある。まだ出たばかりだから読んでいる人が少なく、これから絶賛評とか出てくるのだろうけどね。

このほか、岩波新書で「レ・ミゼラブル」についての本とアルベール・カミュについての本を読んだ。前者は「レ・ミゼラブル」の翻訳者で仏文学者による解説、後者は「ペスト」の翻訳者で仏文学者による作家の解説。で、「レ・ミゼラブル」の方がすごく面白かったが、カミュの方が退屈だった。もともと中学時代に家にあったカミュの本(「異邦人」「ペスト」「転落」「誤解」を収録した本)を読んで大ファンになったので、カミュのことはわりとよく知ってたから、知ってることばかりでおもろくなかった、てのもあるが、「レ・ミゼラブル」のような突っ込んだ論になってない、表面だけさわったような、そしてカミュの文学の魅力がまったく感じられない本で、とても残念だった。

また、同じ岩波新書で「ダルタニャンの生涯」というのがあると知り、市立図書館に予約したら、なぜか本が見つからないらしく(紛失?)、準備中でずっとそのままにされている。市内の県立図書館は貸出中で予約も入ってるので無理。が、都内の図書カード持ってる複数の区の図書館は在庫ありなので(しかも1つの区に2冊以上ある)、近く都内に行くからそのどこかで借りようと思う。

県立図書館で「重力ピエロ」を予約したら1か月以上「回送中」にされてまったく進展がなかったので予約取り消ししてしまったけど、うちの近隣の図書館大丈夫か?と思ったのでした。

2026年7月25日土曜日

「新凱旋門物語」@映画館&原作との比較(ネタバレあり)

 「新凱旋門物語」についてはすでに書いていますが、

さーべる倶楽部: 「新凱旋門物語」これは好きな映画(ネタバレ大有り)

オンライン試写で2回見たのだけれど、画面がものすごく小さくて細かいところがかなりわかりづらかった。その後、原作も読んだことだし、映画館できちんと見ようということで、出かけた。


しかし、映画が始まった直後にドタバタと入ってきた客がいて、その客が上映中もがさごそと音を立て続けていたので、なんだか落ち着いて見られなかった。この映画館でこういう客は珍しい。


映画はやはり原作を読んでいた方が細かいところがわかりやすい。また、クライマックスが実際とは違うということがわかった。

というわけで、またまたネタバレありです。

2023年4月14日金曜日

「幻滅」(ネタバレ大有り)

 先週、「ザ・ホエール」と「AIR/エア」を見に行ったら、どちらの映画でもバルザック原作の映画「幻滅」の予告編を2種類やっていて、このシネコンのイチオシなのかな、と思った。もともとコスチューム文芸ものは大好きなので、早速、初日に鑑賞。


その前に図書館から原作を借りてきた。が、かなり長いので、これは読めるかな、もともとバルザックは大学時代に中編をフランス語で読んだだけで、それ以外何も読んでいない。


写真のうち、文庫は「ゴリオ爺さん」と、この小説に登場する人物が出てくる「幻滅」と「浮かれ女盛衰記」の抄訳。抄訳といってもほんとにさわりの部分だけみたいで、これでは読んだことになりそうにない。で、映画を見たら、原作すごく読みたくなったので、がんばって読みます。

そして、珍しくもパンフレットを買ってしまった。入場料無料の回だったので、よいでしょう。800円もして、公式サイトとだぶる文章もあるけど、読みごたえはありそう。


予告編2種類もやってイチオシ、なのかどうかは知らないけれど、この手の映画はお客さん呼べない、ましてやそのシネコンは人気作でもあまり混まないので、まあ、お客さん5人くらいかな、と思ったら、まさに5人であった。

映画は原作のストーリーや人物をかなり変えているようで、特にグザヴィエ・ドランの演じるナタンという小説家が映画独自の人物で、原作の3人の人物をもとにしているらしい。

物語はナポレオン時代のあとの王政復古期のフランス。田舎の詩人リュシアンがパリに出て、詩人として成功しようとするが、現実はきびしく、当時のイエロー・ジャーナリズムの記者となって、金のためなら嘘でも何でも書く人間へと堕落していく。

当時のこの手のジャーナリズムは、書評も劇評もまっとうな批評ではなく、金をくれればほめる、くれなければけなす、みたいなものだったようだ。

リュシアンはここで2人の男と出会う。1人は彼をイエロー・ジャーナリズムの記者にするエチエンヌ。もう1人はそうした現実に流されない優れた小説家ナタン。この2人はリュシアンにとって、悪魔と天使のようなもの。

一方、リュシアンは2人の女性と恋に落ちるが、普通、このパターンだと2人は善女と悪女になるところ、映画ではどちらも善人。

のっけからナレーションが多く、映像よりも言葉が先立っている印象で、映画としてはどうかと思ったが、最後になってこの手法の謎が解けた。

ナレーターは作家のナタンだったのだ。(声でわかった人もいるだろうけど。私はわからなかった。)

つまり、ナタンが原作者バルザックの分身だったのだ。

ナタンを映画監督として有名なグザヴィエ・ドランが演じたわけもこれでわかった。作家の役を本物の作家が演じたわけである。

前半はナレーションに頼りすぎなのではないかと思ったが、後半、ナタンの小説を読んだリュシアンがそのすばらしさに、いつものやり方でけなすことはできないと思うあたりからは純粋に映画として面白くなる。

そのリュシアンに対し、エチエンヌが、長所をけなすさまざまなやり方を言うシーンは、実際にそういうやり方で作品をけなすのが今でもよくあることを思って、苦笑してしまう。

リュシアンはナタンの小説を出版する出版社から詩集の出版を断られた恨みもあり、ナタンの小説をくそみそにけなす文章を書くが、それをまえもって出版社の社長に見せる。すると社長は、金を出すとか、詩集を出すとか言い出し、してやったりと思ったリュシアンは、最初に書こうと思っていた絶賛評を書く。リュシアンが文学魂を取り戻した瞬間であり、前からリュシアンにそれを望んでいたナタンも彼の文章に感動するが、しかし、リュシアンはその後も堕落の一途をたどる。

シューベルトをはじめとするクラシックの音楽が全編を流れ、リュシアンが爵位を求めて借金まみれになるあたりは「バリー・リンドン」に似てくるのだが、やはりここはバルザックの世界なので、登場人物も社会も単純ではない。王党派と自由派といった社会背景はよく知らないのだけど、その辺もからんでいて、また、ジャーナリズムの世界の変化も起こってくる。

いろいろと盛りだくさんな文芸娯楽映画であり、役者もみな、いいので、楽しめる。

2023年1月8日日曜日

借りている本、借りようとしている本

 「ケイコ 目を澄ませて」の三宅唱監督特集の「ユリイカ」2022年12月号を借りて読んでいる。


去年、映画を見た直後に書いた記事で、女性観が古い!と書いたけれど、木下千花氏がこの監督の世界はホモソだと書いていて、過去作を見ていない私には参考になった。が、木下氏は「ケイコ」についてはあたりさわりのないことしか書いていない。

この木下氏の論考の中で紹介されていたこの本、「男同士の絆」に興味を持ち、市内の図書館にはないので県立図書館で予約。出版されてからかなりたっているのに予約2番目なのに驚き、カードを持っている文京区立図書館で検索したら、こっちは予約が17人。


なんで?と思って検索したら、今月初めにテレビの「100分で名著」で紹介されたらしい。

とりあえず県立図書館の順番待ち(前にも書いたけど、県立図書館だと予約1位でも本が来るのは1か月後、気長に待とう)なのだけど、1985年の出版ということで、今の目で見ると古いのでは、という気がしないでもない。内容紹介を見ると、ホモソについてのフェミニズム的考え方を決定づけた本のようだが、女性たちがあこがれたBL的ホモソの魅力はここからは完全にはずれるわけで、そういうあたりはどうなんだろうと思う。

1980年代といえば、去年、スタンリー・カヴェルの「幸福の追求」を読んだけど、これも80年代なんで、女性観や結婚観の古さを感じた。

県立図書館ではとある映画論の本も予約しているのだけど、こちらの本は11月頃からずっと貸出中。どうなってんの?と思っていたら、他の図書館から借り出ししようとしているらしい。借りた人と連絡がつかないのだろうか。

そして、今、県立図書館から借りている本。アニー・エルノーの「凍りついた女」。エルノーが高く評価された「場所」、「ある女」、「シンプルな情熱」より前の作品で、文体がかなり違う。内容は自分のことを赤裸々に書いているのは同じだけど。エルノーは下層の両親のもとに生まれたが、その方が中流の家に生まれた女性よりも男女平等の考えで育っている、というのが興味深い。その彼女が中流の家の男と結婚して、1人で家事と育児をしなければならなくなる。彼女にとっては中流の方が男女差別があって、女性が生きづらいみたいだ。


エルノーの本は4冊とも県立図書館で借りたのだが、「シンプルな情熱」以外はあまり借りられた感じがなく、本がきれいだ。90年代に出た初版なのだけど、古い本とは思えないくらいきれい。

そして、文京区立図書館では1か月前に予約した「モドリッチ自伝」がやっと借りられるようだ。1か月前に予約したときは貸出中で予約はなく、私が予約1位になったのだけど、そのあとすぐに6人くらい予約が入った。なのに本はいっこうに来ない、という具合で、ここも予約してから借りられるのにけっこう時間がかかる図書館なのだろう。

注 画像はすべてアマゾンからお借りしました。

2022年12月2日金曜日

「ピノッキオ」「あのこと」「ルイス・ウェイン」

 今週見た3本。

「ギレルモ・デル・トロのピノッキオ」は近場で見られたが、「あのこと」は近場でやっていないので丸の内TOEIで。せっかく都心へ行くのだからと、日比谷シャンテシネの「ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ」も見た。


「ピノッキオ」は何度も映画化された原作をかなり大胆にアレンジしていて、第一次世界大戦の空爆で死んだ息子のかわりにピノッキオを作る。第一次世界大戦の頃はまだ爆撃機はなかったのでは?とか、死んだ息子のかわりにとか「鉄腕アトム」か、などと思うが(ピノキオをモチーフにしたスピルバーグの「A.I.」と「鉄腕アトム」の類似があった)、物語はやがてムッソリーニの時代になり、ファシズムの時代への主人公たちの抵抗みたいなのが中心になる。

ストップモーション・アニメで、キャラデザがかなり暗くてグロっぽいところもある。何度も死んでは生き返る、みたいな人形の設定はどこから来たのだろう。試みは面白いのだが、何か違和感も感じた。


「あのこと」はアニー・エルノーの原作である自伝エッセイ「事件」を大幅にフィクション化していて、原作にないエピソードも多い。エルノーは若い頃に中絶の経験をもとにした小説を書いているようだけど、これは翻訳がないのでわからない。映画には原作としては「事件」しかあげられていないので、この初期の小説の方は無関係なのだろうか。

原作では薬で簡単に中絶できてしまったみたいに書かれているが、映画はもっと痛そうで大変なように描かれている。また、主人公が妊娠したとわかると友人までもが離れていき、どんどん孤立していく感じがよく描かれていた。本当に困っているときに人がどんどん離れていくというのは私も経験がある。

主演のアナマリア・バルトロメイの存在感がすばらしく、その白い肉体、そしてなにより瞳、その目力がすごい。

この映画はスタンダードサイズだったが、次に見た「ルイス・ウェイン」も同じくスタンダードサイズで、このスタンダードサイズの中心にぎゅっとつまった感じもよい。


「ルイス・ウェイン」は、主人公の猫画家ルイス・ウェインの伝記映画で、ルイスは映画ではルーイと発音していた。副題の妻とネコに加えて電気への関心も高かったようで、原題には電気が入っている、というか、原題は「ルイス・ウェインの電気的人生」で、妻とネコは原題にはない。ウェインが晩年、精神を病んでしまうのは知っていたが、その前に妹が同じ病にかかっていたようだ。

「あのこと」では原作にあった、医師のインターンが主人公を大学生だとは思わず、大学生、つまり自分と同じ身分だと知って態度が変わる、みたいなところがあって、映画ではそれはなかったが、そのかわりに、女子大生が妊娠するとキャリアを閉ざされるとか、大学を卒業できないとただの労働者になるとか、消防士の青年を大学生が差別しているとか、そういった階級が描かれていた。

「ルイス・ウェイン」は19世紀末から始まるので、イギリスの階級差別があからさまに描かれていて、ウェインが家庭教師と結婚すると家の格が下がり、さらに妹が統合失調症になると階級から落ちこぼれる、みたいなことも出てくる。そういうイギリスの階級のとげとげしさが前面に出ているので、ほのぼのとした映画とはいいがたい。カンバーバッチの演技はさすが。

絵画のようなシーンが時々出てきて、ウェインの絵をもとにした映像だろうかと思った。

2022年11月12日土曜日

借りている本

 図書館から借りている本。


左上 ジャン・コクトー全集(戯曲)

右上と左下 アニー・エルノーの「シンプルな情熱」と「嫉妬」。

右下 ウォルター・テヴィスの「ハスラー」。

コクトーはアルモドバルの「ヒューマン・ボイス」の原作の戯曲が入っているが、まだ読んでいない。他はすべて読んだ。

エルノーの2冊、「嫉妬」の方には映画化された「事件」(映画邦題「あのこと」、来月公開)も収録。「シンプルな情熱」も映画化されたが、見ていない。

エルノーの2冊は、100ページほどの中編が3作なのだけど、この3作を読んだだけではなぜこの作家がフランスで人気があって、ノーベル賞を受賞するほどなのかはよくわからない。おそらく、初期の両親を描いた小説などが高い評価を受けているのではないかと思うので、そちらを読もうとしたら図書館では予約中。予約数は少ないので、そのうち読めるでしょう。

「ハスラー」は映画の原作で、おおむね原作どおりなのだけど、エディがケンタッキーの金持ちと勝負に行くあたりからが映画とは違っている。ここは映画の方が断然いい。

続編映画の製作にあたり、テヴィスが続編「ハスラー2」を書き、日本ではこちらの方が先に翻訳されているのだけど(読んでない)、映画とはだいぶ違うようだ。原作は完全に前作の続きのようで、それだと映画の続きとしては合わないところが出てくるのではないかという気がする。映画ではサラは自殺してしまうけれど、原作ではサラは死なず、バートもそんなに悪いやつではなく、エディはサラとの結婚まで考えているから、これの続きでは映画の続きにならないだろう。

映画の方がトム・クルーズ人気にあやかって「カクテル」ふうの話にしたのも、メジャー映画じゃそうしないと、というのはわかる。

スコセッシの映画としては、「ハスラー2」や「ディパーテッド」は二番煎じなので、この2本があまり話題にのぼらないのは当然だろう。もっとよい映画があるのに、二番煎じでアカデミー賞取ってしまうのもなんだかなあ。

2018年8月6日月曜日

創元のFGO関連文庫を映画で

前回紹介した、創元推理文庫がスマホのゲームキャラに関連する小説6冊にキャラ帯をつけてフェアにした件、この6冊を映画で、というのを勝手にやってみました。
前記事の写真と同じ順番でご紹介。画像はアマゾンから拝借したDVDまたはBDのジャケット。

「シャーロック・ホームズの冒険」
 原作に忠実なテレビ版、現代版「シャーロック!」、最近の映画の「シャーロック・ホームズ」などが有名ですが、キネ旬の1970年代外国映画ベストテンで私がイチオシしたのがこのビリー・ワイルダー監督のパスティーシュ。小説の「シャーロック・ホームズの冒険」は短編集ですが、映画はオリジナルストーリー。ホームズのゲイ疑惑(ここ、今だとちょっと問題になりそうな描写ですが)、ホームズは本当に女性を愛さないのかという疑問、ホームズより優秀な兄マイクロフトなど、ホームズ好きの間で話題になっていたことを取り入れています。オリジナルはもっと長かったのに短縮させられてしまい、カットされた部分も残っていないのだそうで、ワイルダーにとっては不本意な面もあったようです。当時のキネ旬では巻頭特集となり、表紙はヒロインのジュヌヴィエーヴ・パージュ、シナリオ分析採録も掲載されています。

「オペラ座の怪人」
 古くは「オペラの怪人」、新しくはミュージカルの映画化、それに「エルム街の悪夢」のフレディーが怪人を演じたホラー映画もありましたが、私のお気に入りは映画ではなく、ロンドン25周年公演のDVD(写真はBD)。オリジナルの舞台(劇団四季の最初の公演を見ました)とは違うところもあって、そこはオリジナルの方がよかったのだけれど、やはり舞台はよい。見応えあります。

「フランケンシュタイン」
 いろいろありますけど、やっぱりボリス・カーロフでしょう。原作とはだいぶ違う話になってはいますが、エッセンスは受け継がれています。「フランケンシュタインの花嫁」と合わせて見るのがベスト。

「ジキル博士とハイド氏」
 これもいろいろあるんですが、スペンサー・トレーシー、イングリッド・バーグマン、ラナ・ターナーという豪華な顔ぶれのこの映画がやはりおすすめ。令嬢役をオファーされたバーグマンが汚れ役の女性の方を演じたいと言い、ラナ・ターナーと役を交換したという裏話があり、バーグマンとターナーが従来の役柄とは正反対の役を演じています。上のDVDは1932年のフレドリック・マーチ主演映画(写真左)も収録されていて、こちらの方が傑作らしいですが、私は未見。

「吸血鬼ドラキュラ」
「魔人ドラキュラ」やコッポラの「ドラキュラ」がありますが、 これもやっぱりクリストファー・リーとピーター・カッシングで決まり。

「血とバラ」(「吸血鬼カーミラ」)
アマゾンでは日本版ソフトは出てきませんでした。ソフト化されてない? 出てきたのは英語タイトルのものと、上のイタリア語版。フランス語版は?
「吸血鬼カーミラ」を現代に置き換え、ロジェ・ヴァディムが描く耽美な世界。公開当時「わからない」という意見が多かったようですが、キネ旬に連載されていた石上三登志氏の「ぼくは駅馬車に乗った」での「血とバラ」論が目からうろこです。

というわけで、古い映画ばかりになってしまいましたが、古典には古典で。
ちなみに原作6冊のうち、「オペラ座の怪人」だけがフランス文学で、あとはすべてイギリス文学です。

2015年3月12日木曜日

「屍者の帝国」とりあえずの感想

故・伊藤計劃が残したプロローグをもとに、円城塔が長編小説として完成させた「屍者の帝国」ですが、読み終えたので、とりあえずの感想のようなものを書いておきます。
この小説、大変な人気で、大好きな人も多いようなので、私の感想なんてどうでもいいだろうと思うのですが、一応、気がついたところくらいは書いておこうかな、というくらいの感想です。
まず、私は伊藤計劃の本は1冊も読んでいません。円城塔は芥川賞受賞の「道化師の蝶」ほか1篇が収録された本を読んでいます。
円城塔の小説は、ひとことでいうと、山の頂上に立つまでは何も見えないけれど、頂上に立つととたんにすべてが見えてくる、という感じです。
登山にもいろいろあって、山に登りながらまわりの風景を楽しみ、そして頂上からの景色を堪能する、というタイプと、登るときはまわりが見えない、登るのはある種の苦行みたいなところがあるのですが、ひとたび頂上に上がると、突然まわりが開け、これまでたどってきた道がすべて見えて、ああそうだったのか、と納得、というタイプ。円城塔の小説は明らかに後者で、途中はよくわからないけれど、最後まで読むと突然すべてが見えてくる、というタイプです。
最後に突然視界が開け、すべてが腑に落ちるから、途中は我慢してでも読む価値がある、という感じ。
「屍者の帝国」はしかし、長編であるせいか、最後にすべてが見えて腑に落ちる、とは行きませんでした。純文学の中編のような美しい秩序は感じられませんでした。でも、内容的にはゾンビものだし、「リーグ・オブ・レジェンド」のような19世紀パスティーシュなのだから、美しい秩序は最初からねらっていない、むしろ混沌をねらっていると言えるかもしれません。
それでも、最後の章には、突然視界が開け、心に響く何かがありました。
この最後の章は伊藤計劃の残した文章をもとに作られたのだということが文庫のあとがきを読むとわかります。が、それを知らなくても、円城塔の言いたいことは十分伝わります。
最後の章の語りは、あたかも「ユリシーズ」の最初の3章、若き芸術家スティーヴン・ディーダラスの難解な意識の流れの章から、ごく普通の中年男であるレオポルド・ブルームのわかりやすい意識の流れの章に変わったときのような、突然空が晴れたような雰囲気があります。
山の頂上に着いたら突然空が晴れた、そんな感じです。
いわゆるアウェイクニングとか、覚醒とか、エピファニーとかいったものを感じさせてくれる章です。
最後にカタルシスを味あわせてくれる円城塔の面目躍如というところでしょうか。
基本的にはゾンビもので、19世紀の文学作品のキャラや歴史上の人物が次々と出てくる話なので、「高慢と偏見とゾンビ」なんて小説もあったから(未読)、「カラマーゾフの兄弟とゾンビ」とか、「風と共に去りぬとゾンビ」とか、「シャーロック・ホームズとゾンビ」とかであってもおかしくないわけで、さすがに「吸血鬼ドラキュラとゾンビ」や「フランケンシュタインとゾンビ」は手垢がついてる感はありますが、そういう文学作品とゾンビの路線もあるな、と思います。カラマーゾフはもっと出してくれてもよかったと思うし、レット・バトラーはやはり映画のクラーク・ゲーブルのイメージが強すぎるので浮いてしまう。ほかにいいキャラはなかったのかな。
バトラーが、「結婚生活がうまく行かなかった、子供が死んだので妻と別れ、エジソンの研究所でハダリーと知り合った」というようなことを言うシーンがありますが、バトラーを出せば当然スカーレット・オハラが追いかけてくるであろうと思ってしまうわけです。
「屍者の帝国」はある種、ホモソーシャルな世界で、スカーレットのような生身の女性は主要人物にはいません。ただ1人の女性キャラ、ハダリーは(以下ネタバレ)「未来のイヴ」に登場する女性の人造人間で、生身の女性ではない。彼女は最後にアイリーン・アドラーと名前を変えるのだけど、彼女が「ボヘミアの醜聞」でホームズをやりこめるアドラーだということはすぐにわかってしまうのですね。そして、このアイリーン・アドラーもまた、ホームズとワトソンのホモソーシャルな世界が許容するタイプの女性です。
そんなわけで、若き日のワトソンがカラマーゾフに会ったり、レット・バトラーに会ったり、アフガニスタンや日本やアメリカへ行って、ついにラヴクラフトでおなじみのプロヴィデンスでフランケンシュタインの怪物に会うという、文学歴史てんこもりの小説なのですが、この小説の世界はフランケンシュタインの技術を応用して死者をよみがえらせ、労働力として使っている世界なのだけど、どうもこのゾンビ=屍者が労働力になっているというのがあまりピンと来ない。むしろ、過去の文学や歴史の人物が大勢出てくる、そのこと自体が実は屍者=過去の人物だからすでに死んでいるけれど、この物語のためによみがえらせた人々であると、だからこの小説自体が屍者の帝国であると、そういう見方の方がすっきりします。
また、人間は死ぬと体重が21グラム減る、それが魂ではないか、とか、バベルの塔のせいで言葉が多様化したとか、アダムとイヴに始まる聖書の話が出てきて、それが人間の造ったアダムであるフラケンシュタインの怪物と重なっていくとか、あるいは、人間の意識や魂とはいったい何かといったテーマが出てきます。
「21グラム」と「バベル」は、先だって「バードマン」でアカデミー賞を取ったイリャニトゥ監督の映画のタイトルで、この監督の映画には「ビューティフル」というのもあるのですが、ビューティフルも小説に中に出てきて、あれ、と思ったような気がしたのですが(ちょっと記憶不確か)、イニャリトゥの映画を意識してますかね?
人間の意識とか魂とかは、やはり、聖書にある「はじめに言葉ありき」、まさに言霊としての言葉が意識や魂の根源であると思われますが、言葉だけだと純文学のメタフィクションになってしまうので、この小説ではSFらしく、菌株というのを持ち出してきています。
でも、やっぱり、本当は言葉、言霊なのですね。なぜなら、ワトソンの語りを自動筆記するフライデー(「ロビンソン・クルーソー」か)が、(以下ネタバレ)最後に言葉を獲得することで意識を持つからです。そこが最初に紹介した最後の章。突然、空が晴れる章です。同時に、ワトソン博士はいない、という言葉に伊藤計劃はいないという思いが重なって、うるっと来てしまうのですが、このラスト、私は「アイ、ロボット」のラストシーンを思い出しました。あの映画はアシモフの「アイ、ロボット」と「鋼鉄都市」、そしてロボット三原則を取り入れた映画でした。外へと足を踏み出すフライデーと、映画のラストが重なって、意識を持った人造人間が新しい世界を作り出すというモチーフを感じました。

2015年2月28日土曜日

BookJapanの書評

久しぶりに書評サイト「BookJapan」を訪ねてみたら、書評が読めなくなっていた。
おととしから更新してないのは知っていたが、書評が読めないとは。
人様の書評が読めないのも残念だけど、このブログで書評を書きましたと何度も書いているのに、貼ったリンクが切れていたとは。
というわけで、SabreClub Archivesという別のブログに掲載しました。
映画「シングルマン」原作から「テルマエ・ロマエ」最終巻まで、全8本の書評です。
今なら右サイドに全作品のタイトルが出ています。

http://sabrearchives.blogspot.jp/

2013年2月14日木曜日

レ・ミゼラブル

なんだか久しぶりに有楽町で映画を見てきました。
昔は銀座周辺に試写室が多くて、銀座・日比谷あたりはよく徘徊していたものですが、最近は試写は京橋か六本木という感じになっています。で、映画館もあまり行ってないな。いかん。今年度までは水曜が仕事でレディスデーを利用できなかったけれど、来年度は水曜があいたので、がんばります。
というわけで、日劇で見た「レ・ミゼラブル」。日本でも大ヒットした舞台のミュージカルの映画化、ということで、それだけである程度の集客は見込めると思いましたが、予想を上回る大ヒットとか。
そうでしょう、そうでしょう。だって、ここに描かれている世界が、今の日本にとって、他人事でなくなってきているもの。
1度失敗したらやり直せない、とか。食べるだけで精一杯の生活、とか。歌詞にもあったけど、平等なんて天国に行ってから、とか。それでも、人の恩に報いようとする主人公たち、暗い夜も必ず明けると信じる人々。それが歌になって響いてくるんだからたまりません。
もっとも、全編歌の映画はいや、という人には向いてないかもしれませんが、でも、「オペラ座の怪人」もそうだけど、最近のミュージカルはだいたいこうよ。
本当のところをいうと、あまり期待はしてなかったです。私はどうも、最近の、歌が専門でない役者が歌うミュージカルというのが好きでないのです。「オペラ座の怪人」のファントム役についても文句を書きましたが、「スウィーニー・トッド」のジョニデとヘレナ・ボナム・カーターも、あの歌唱力ではねえ。それで、今度はヒュー・ジャックマンやラッセル・クロウやアン・ハサウェーが歌っていると聞いても、また素人の歌かい、と思ってしまうのでした。
しかし、ジャックマンとハサウェーはわりとうまかったです。クロウは最初の方はよかったけど、だんだん苦しく。アマンダ・セイフライドのコゼットだけはほかの女優にしてほしかった。あとは、エディ・レドメインもわりとよかったし、サッシャ・バロン・コーエンとヘレナ・ボナム・カーターのテナルディ夫妻は演技的によかった。そして、一番すばらしかったのは、舞台でも同じ役を演じた本物の歌手、エポニーヌのサマンサ・バークスです。
このエポニーヌは、出番は少ないけど儲け役で、一番有名な歌をソロで歌うし、役柄も、コゼットを愛するマリウスに片思いしながら、彼のために尽くし、男装して革命に身を投じて死ぬという、まさに貧民街のオスカル、という感じ。両親があくどいテナルディ夫妻なのに、純な心を持って育つというか、この映画ではわからなかったけど、革命に加わる少年もあの夫婦の子供だったのね(原作では)。この少年もすごくよかった。
映像も、映画的なところもあれば舞台的なところもありで、よかったんじゃないでしょうか。
「オペラ座の怪人」だと、3人の主役が歌いっぱなし、みたいな感じなのですが、「レ・ミゼラブル」は主要人物の数が多く、歌いっぱなしではないので、その辺も役者にとってはよかったかもです。
ただ、全編歌のミュージカルは、やはり、舞台で見た方が緊張感が途切れなくていいのかな、映画だと幕間もないし、どうしてものっぺらとした感じになってしまうのかな、という気もします。
あと、ラッセル・クロウのジャベールは、あれはだめだね。ジャベールは自分は正義だと思い込んでいる男で、悪役だけど悪人ではないのだが、クロウだと、そういう複雑さとか、内なる闇とか、そういうのが出ない。また、クライマックスの歌が歌唱的に苦しいので、ジャベールの造型という点ではかなり落ちます(舞台は見てないので、比較しているのではないが)。
なんでも、フランスで作られたテレビドラマの「レ・ミゼラブル」が、ジェラール・ドパルデューのジャン・バルジャン、ジョン・マルコヴィッチのジャベールだそうで、このマルコヴィッチのジャベールがいいらしい。そりゃいいだろうなあ。でも、6時間の完全版はDVDになってないようです。
「レ・ミゼラブル」の映画化としては、リーアム・ニーソン版よりは、このミュージカルの映画化は気に入っています。ニーソン版もけっこう人気高いようですが、私はこれの前にクロード・ルルーシュ監督、ジャン・ポール・ベルモンド主演のフランス映画を見てたので、ニーソン版は劣って見えました。このルルーシュ版は、時代を20世紀に置き換えた異色作で、ゴールデングローブ賞の外国語映画賞をとっているにもかかわらず、日本ではまったく無視されていて、ウィキペディアに項目さえないようです(もちろん、日本公開はされている)。allcinemaのサイトのコメント欄にも、どうしてこの映画が有名でないのか、というコメントがあって、同感です。DVD化もされてないらしい。これを機会にルルーシュ版のDVD化を希望します!
というわけで、とりあえずは満足のレディスデーの「レ・ミゼラブル」でした。午後の回でしたが、けっこうお客さん入ってましたね。前の晩にネットで予約したのですが、夜の回は前の晩には中央の席はかなり予約で埋まっていました。

追記 言うまでもなく、原作はフランス文学のヴィクトル・ユーゴーで、私は子供向けの「ああ無情」しか読んでませんが、このユーゴーの娘を描いたのがトリュフォーの「アデルの恋の物語」。今でいうと女性のストーカーなんだけど、公開当時はロマンチックな物語として受け取られていました(映画もそういうふうに描いていた)。

2013年2月7日木曜日

ベラミ 愛を弄ぶ男

火曜日の気温から見て、水曜は雪にはならないな、と思いましたが、案の定、雪は降ってたけど、地面に落ちるとみな溶けてしまっていました。
JRは大雪予報に応えて間引き運転を決めてしまった上、人身事故もあって、午前中は大混乱の駅もあったようです。
さて、私はどうしても行きたい試写、モーパッサン原作の映画「ベラミ 愛を弄ぶ男」を見てきましたよ。
試写のあとはプールへ行こうと思っていたのですが、今日は朝から胃腸の具合が悪く、映画は見られましたが、体調不良を感じてプールは中止。

「ベラミ」ですが、原作の内容はまったく知らなかったのだけれど、帰って検索で調べてみたら、映画はわりと原作どおりみたいです。
「トワイライト」シリーズで人気のロバート・パティンソン演じるジョルジュ、あだ名はベラミ(美貌の友)は、その美貌で次々と上流の夫人たちを手玉に取り、上流社会でのし上がっていく、という物語。時は19世紀末のパリで、アルジェリア戦争やモロッコ動乱が背景になっています。
貧しい生まれのジョルジュは、アルジェリア戦争の戦友と偶然会い、彼の手引きで上流階級の夫人たちに出会い、新聞社に仕事も見つけ、あとは上流社会の男たちを裏で操れる夫人たちに取り入り、彼女たちを裏切って、出世していくという話。いわゆる伝統的なピカレスクで、おもに18世紀にヨーロッパで流行していたジャンルですが、伝統的なピカレスクでは、美貌と手練手管でのしあがった主人公は最後には没落するということになっていました。が、この「ベラミ」は、ジョルジュはのしあがるだけのしあがって、さらに上を目指すという、全然没落しそうにないのです。原作もそうらしい。モーパッサンといえば、意外な結末の短編で有名ですが、この「ベラミ」は、悪いやつがのしあがったまま、というのが意外といえば意外。でも、後味は悪い。
しかも、昔のピカレスクでは、悪の主人公は美貌だけでなく才覚もあったのですが、このベラミは美貌だけ。新聞社に入って記事を書く仕事を得たのに、文章は下手、ほかに何ができるかっていうと、有力者の妻を誘惑するくらい。妻たちも、彼に何を求めてるかっというと、やっぱりセックス。彼の方は女たちを全然愛してなくて、ただ利用しているだけ。一方、女たちは愛されていると勘違いするけど、でもやっぱり欲しいのはセックスだろう、ていう感じです。なんだかんだいっても、夫はキープだし。
3人の女性を演じるのは、ユマ・サーマン、クリスティン・スコット・トーマス、クリスティーナ・リッチと、豪華メンバーです。サーマンが演じるのはジョルジュの戦友の妻で、途中で夫が死んでジョルジュと結婚しますが、彼女が本当に愛しているのはジョルジュじゃないというのがまた意外。トーマスが演じるのは新聞社社長の妻で、こちらはもう、年をとってから急に若い男に熱中してしまったマダムの哀しさ全開です。3人の中では私はリッチが一番気に入りましたが、彼女は夫が留守がちなのでジョルジュといい仲になるという関係で、2人の女性ほどには権力がない感じなのですが、その分、どこかジョルジュとの関係に対して冷めた部分も持っていそうです。サーマンとトーマスの演じる女性がかなり計算高いところがあるのに対し、リッチの演じる女性はまだモラルがある感じ。ジョルジュは最後は、さらに出世するために、世間知らずの若い令嬢とはじめから愛のない結婚をするのですが、それを批判的に見つめるリッチのまなざしが印象的です。
ジャーナリズムを利用して政界に進出したり、金儲けしたりする上流の男たち、それを陰で操る女たち、その女たちを利用して上流社会に殴り込みをかける貧しい若者、という構図ですが、先に書いたように、伝統的なピカレスクに比べて主人公がうつろなこと、そのうつろな男がのしあがっていく社会がまたうつろであること、そういったうつろさが19世紀末なのかな、と思いました。
原作の翻訳は岩波文庫から出ていたけど、絶版なのね。映画にあわせて、角川文庫から新訳が出るようです。

2012年9月19日水曜日

書評「最初の人間」(A・カミュ著)

1年半ぶりに書評サイトBookJpanに書評を書きました。
アルベール・カミュの遺作「最初の人間」です。
http://bookjapan.jp/search/review/201209/20120918
(リンク切れのため、次のサイトでお読みください。http://sabrearchives.blogspot.jp/2015/02/bookjapan_37.html

また、映画化された「最初の人間」については、ブログに覚書を書いています。
http://sabreclub4.blogspot.jp/2012/08/blog-post_30.html

2012年8月30日木曜日

最初の人間(映画)の覚書

中学時代、一番好きな作家はアルベール・カミュだった。
なんのきっかけで読むことになったのかはさだかではないが、おそらく、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「異邦人」が公開されて、たまたま家に世界文学全集のカミュがあったからだと思う。
私の両親は学歴がなく、また、戦争のせいで(東京大空襲とか)自分の持ち物が焼けてなくなってしまったりして、蔵書をほとんど持っていなかった。そんな中、父が持っていた数少ない蔵書が黄色い箱に入った新潮社の世界文学全集のうちの4冊で、それは「異邦人」「ペスト」「転落」「誤解」の入ったカミュ、「悲しみよこんにちわ」「ある微笑」「一年ののち」「ブラームスはお好き」の入ったフランソワーズ・サガン、そしてロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」上下巻だった。「異邦人」がきっかけでカミュの4作品をすべて読み、テレビでサガンの映画化「悲しみよこんにちわ」「ある微笑」「さよならをもう一度」(「ブラームスはお好き」)を見たのでサガンも読んで、「ジャン・クリストフ」だけは読まなかった。たぶん、それは、私が「狭き門」でアンドレ・ジッドのファンになったからだと思う。いや、ただ単に長いから読まなかったのだと思うが、のちに英文学の先生から、ジッドが好きかロランが好きかに分かれると言われ、それで妙に納得したのだった(ロランは短い作品を読んでいますが、ジッドほど惚れなかった)。
とにかくカミュには夢中になり、自分で文庫本を買ってさらに読んだりしたのだが、私は1人の作家をえんえんと追いかけるということが苦手で、要するに移り気なので、次々と別の作家に惚れていくので、その後はカミュから離れてしまった。
第一、私が中学生の頃にはもうとっくにカミュは死んでいたし、カミュの故郷アルジェリアはとっくに独立していた。アルジェリア戦争が背景にある「シェルブールの雨傘」もすでに古い映画で、テレビ放映やリバイバルで見た。
そんなわけで、過去に惚れた作家の1人になってしまっていたカミュであるが、未完の遺作「最初の人間」が映画化され、試写状が来たときはちょっとばかり震えた。試写状の写真、カミュの分身と思われる主人公を演じるジャック・ガンブランの、いかにもアルジェリアのフランス人という風貌にもそそるものを感じた。
ちなみに、原作の「最初の人間」は1994年にフランスで出版、日本では96年に翻訳が出たが、私は読んでいなかったので、たまたま図書館で見つけて借りてきた。なんだか日本ではとっくに絶版になってたみたいで、映画に合わせて文庫化されるようだが、カミュもなんだか日本じゃ過去の作家になってしまっているのかな?
で、映画の最初の試写が水曜日にあったので、万難を排して駆けつけた。
原作は試写に行く直前に借りたので、試写を見たあと、最初の方だけ読んだところだけれど、小説は主人公ジャックがアルジェリアの村で生まれるシーンから始まり、次に40歳になったジャックがフランスで戦死した父親の墓参りをするシーンとなるのが、映画は父親の墓参りから始まり、ジャックが生まれるシーンは後半になっている。
小説は書きかけの草稿にすぎないようなので、映画は小説をもとにアルジェリア問題でのカミュの立場を加えたストーリーに作り変えているような気がするが、映画の大半は少年時代のジャックの物語になっている。原作と違い、ジャックは両親の最初の子になっているが、この最初、ル・プルミエという言葉が「最初の人間」のル・プルミエ・オムと重なるように映画では描かれている。
ジャックが生まれた翌年、父親は戦死、ジャックと母親は母方の祖母の元に身を寄せる。祖母と母と叔父(母の弟)は貧しい暮らしをしていて、祖母は非常に厳格。ジャックは小学校を出たら働きに出るはずのところを、彼の優秀さに着目した教師が奨学金を得て進学することを提案、ジャックは貧しい環境の中から大学まで進み、やがて作家として成功する。
監督はイタリア人のジャンニ・アメリオだが、この貧しい少年時代の暮らしがいかにもイタリア映画のお家芸といった感じのリアリズムで描かれ、かといってお涙頂戴の感傷はいっさいなく、淡々として、しかもアルジェリアの光に満ちた美しい映像が見入ってしまうほどのすばらしさ。フランス、イタリア、アルジェリアの合作なのだが、これはやはりフランス映画というよりはイタリア映画のよさが出ているなあ、という感じなのだ。
作家として成功したジャックは故郷アルジェリアに帰り、そこでアルジェリア独立問題に直面する。これはカミュ自身の問題でもあったようで、カミュはこの問題についてはあまり積極的にかかわらず、そのために批判も受けたようだ。アルジェリアを植民地にしておきたいフランスの欲望というものが映画からも垣間見えるが、支配者のフランス人やフランス軍に虐げられるアラブ人に同情しつつも、アラブ人側のテロにおびえる主人公の迷いは、21世紀の今だから描けるものかもしれない。
かつて、ジャックの誕生を手伝ってくれた農場の主は今はマルセイユに移住し、その息子はアラブ人との共存を望んでいるといったエピソード。貧しさの中、そこから脱していく甥を見て苛立ちを感じる叔父が、のちに何をしたかがわかるエピソード。そして、アルジェリア問題についてのカミュ自身の言葉をジャックが言うクライマックス。これらのシーンやエピソードが鮮烈に印象に残る。
虐げられたアラブ人を支持し、正義を信じるというジャック(=カミュ)が、しかし、母を傷つけたら自分はアラブ人の敵になる、と言ってしまうのは、正義や民主主義などより家族の女性を守るという、アルジェリアの男の気持ちなのではないかと、ふと思う。もう何年も前になるが、姉を侮辱されたと思ったジダンが相手選手に頭突きを食らわしたことがあったが、実存主義の文学者カミュも本質的なところではアルジェリアの男なんだと、なんとなくそんな感じがしたのだ(映画の中での話だが)。
まだ原作の最初の方しか読んでいないので、とりとめのない感想になってしまっているが、原作を全部読んだら、もう一度、考えてみたい。
ちなみに、「最初の人間」というのは、親が無名であり、貧しく何もないところに生まれた人はゼロからスタートする最初の人間という意味であるらしい。実際、カミュもジャックも何もないところから教師の助力で教育を得て作家になっていったのだが、私自身、親の蔵書がほんのわずかしかなく、6畳一間に家族で住んでいたという貧しい暮らしだったので、自分もまた「最初の人間」だったのだということに気づいたのだった。

2011年2月2日水曜日

続・よい書評の条件

 以前、よい書評の条件でほめた某さんの新しい書評が書評サイトに掲載されたのですが、地雷を踏んだとしかいいようがありません。
 アンドレ・ジッドの「狭き門」はわかる人はわかるが、わからない人には絶対わからない本です。
 私が読んだのは中学生のときで、私はわかる派でしたが、なによあれ、と怒ってる友人もいました。
 私の親の世代に聞いたら、やっぱり同じ、つまり、わかる人はわかる、わからない人はわからない、だったので、昔からそうなのだと思います。
 そして、わからない人の感想が全然面白くない、というのは、アマゾンのこの本の読者評を読めばわかります。ただ、某さんの書評で一番よくないのは、ジッドの意図をまったく理解していない、それどころか、ジッドの意図を曲解して変な結論を出していることです。
 普通だったら、他の人の書いたものについて、こういうマイナスの意見をブログに書いたりはしないのですが、よい書評の条件で取り上げてしまったので、責任を感じて、書いています。書評をする本の選択を間違えない、ということも、よい書評の条件です。自分の感想を客観的に見て判断する能力も重要です
 もっとも、若いうちは、すばらしいものを書いたかと思うと、次は地雷を踏む、ということの繰り返しがあるのはいたしかたないことでしょう。私くらいの年齢になると、ブログのような私的なところならともかく、公のところで発表する文章は絶対にあるレベルより上でなければならない、上でないのに、そのことに気づかずに発表してしまったら、赤っ恥、ですから。

追記
「狭き門」について、検索をしていたら、個人のブログにこんなにも美しく、深い文章を見つけた。
http://d.hatena.ne.jp/kakashishiki/20080422/p1