ウディ・アレンの新作「ローマでアモーレ」については、先ほど記事を書いたばかりですが、この映画のプレスのプロダクションノートに、この映画のテーマである名声についての解説があります。
確かに、この映画には、名声について、有名になることについてのエピソードが満載です。
平凡なサラリーマンがある日、突然、テレビに出演し、有名人になる話。
歌のうまい葬儀屋がオペラ演出家と出会ったことで有名になる話。
新婚カップルの妻がローマをさまよううちに大好きな男優に出会い、ホテルに誘われる。やらなくて後悔するよりはやって後悔した方がいい、と、彼女は考える。
エレン・ペイジ演じる無名の女優は、物語の最後に有名監督の映画への出演が決まり、興奮する。
有名になること、そして有名人に夢中になること、そういうテーマがこの映画には一貫してあります。
でも、私は、この映画はそういうテーマで見るより、もっと普通に、コメディとして、あるいはローマの名所やイタリアのの名曲がふんだんに出てくる楽しい映画として見る方がうれしかったので、前の記事ではそういう観点で書きました。
でも、時間がたってみると、この名声のテーマ、有名人のテーマもかなり自分的に考えさせられるテーマです。
私は無名だからこういう扱いを受けるのだ、ということを、私はよく思う人間です。
そういうことを思いがちな人と、あまり思わない人がいると思いますが、思わない人の方がきっと幸せだろう、という気がします。
なんで私は、自分が無名だから、と考えがちなのかなあ、と思うと、やっぱり私は名声とか、有名であるとか、そういうことにコンプレックスを抱いているのでしょう。
ロベルト・ベニーニ演じる平凡な中年男が、ある日突然有名人になり、有名だとストレスがたまって大変だ、平凡な方がよかった、と嘆きますが、やがて彼も忘れられ、また無名に戻ると、今度は有名だったときをなつかしむ、という展開になります。
まあ、それが人間というものなのかなあ、無名だからこんな目にあう、と思う私は別に珍しくないのかなあ、と思います。
無名だからこんな目にあう、と思ったエピソードは数限りなくあるのですが、非常勤講師をしている某大学で、2年前、非常勤講師を集めた懇親会がありました。その懇親会の費用は教科書会社が出しているので、懇親会では会社の社員が講師たちに接近して、個人情報を得ようとします。私は自己紹介で、映画の仕事をしている、と言ってしまったのが運のつき。教科書会社の社員が次々と近寄って、私の個人情報を得ようとしました。私が書いた映画評などに興味を持つふりをして近づき、でも実際は、私の書いたものになど興味はなく、私の個人情報がほしいのです。
そこへ、ある教科書会社の社長だという人物がやってきました。そして、すばらしい映画の授業をする先生のビデオがある、それを送りたいので住所を教えろ、というのです。要するに、これも個人情報がほしいのです。そこで、大学あてに送ってほしい、と何度も言ったのですが、向こうは聞きません。向こうにしてみれば、その先生が有名人で、映画評論家の私は無名なのです。それがあまりにもあからさまなので、私はだんだん頭に来てしまいました。
確かに、教科書会社の人には、その先生の方が有名人だろうけど、私の業界ではその先生より私の方が有名だ、と、そのとき思ったのを覚えています。
今にしても思えば、どっちもどっち、どっちも有名人じゃないわけです。
世の中にプチ有名人というのがいっぱいいて、ある方面では有名人、でも、大半の人は知らない、というプチ有名人。「ローマでアモーレ」に登場する有名人や有名になる人は、そういうプチ有名人ではありません。
まあ、そんなこともちょっと考えさせられた映画でしたが、できれば、そういうことはあまり考えず、楽しく見たい映画です。