先週からキネマ旬報シアターではイングマル・ベルイマン監督作品を1週ごとに4作品連続上映中。これは東京で開催されたベルイマン生誕100周年記念のイベントで上映された13作品の内の4作品を上映するものだが、たまたまこの4作品は見ていなかったので、通うことに。先週の「野いちご」に続き、今週は「鏡の中にある如く」。
ベルイマンが難解と言われるようになったのは、おそらくこの映画から始まる神の沈黙三部作からなのだろう。正直、「不良少女モニカ」、「第七の封印」、「処女の泉」、「野いちご」あたりは難解とは思えない。
「鏡の中にある如く」は「不良少女モニカ」のハリエット・アンデションの演技が迫力満点。「不良少女モニカ」や「処女の泉」、「第七の封印」を見たのはたぶん40年くらい前の若い頃だったが、アンデションのアップを見て「不良少女モニカ」の彼女の顔が脳裏によみがえった。
物語はある家族が夏をすごす小島の2日間の物語で、作家の父と娘と息子、娘の夫の4人が泳いだり食事をしたり父のために3人が寸劇をしたりと、牧歌的な風景で始まる。が、娘(アンデション)は心を病んでいて、壁の向こうに広い部屋があって、そこでみんなが神を待っているという妄想にとりつかれている。そんな彼女が父の日記を見ると、そこには「娘が病で壊れていくのを観察しよう」という言葉が書かれていて、ショックを受けた娘の精神は崩壊し、十代の弟を巻き込んでいく。
私がベルイマンを知ったのは1970年代で、その頃はベルイマンといえば神の不在、神の沈黙だったので、そのあたりのベルイマンの作品はなんとなく避けてしまっていたが、その後、「魔笛」や「秋のソナタ」や「ファニーとアレクサンデル」を見たら、別に神の不在や沈黙と結びつけなくてもいい作品があるのだ、と思ったのだが、要するに、私のベルイマン鑑賞は、神の沈黙三部作の前と、「魔笛」のあとになっていたのだった。
「鏡の中にある如く」は神についての考察がテーマなので、キリスト教の神がいるのかいないのかということが重要になる。キリスト教徒ではないと、別に神とかいなくても、と思うのだが、そして、キリスト教的神だけが神じゃないし、と思う人なら、キリスト教的神がいなくても八百万の神が自然に宿っているというふうに考えるのだが、ベルイマンの場合は本当に、キリスト教の神がいるかいないかなのだなあと思う。
この映画では最終的に、愛を信じられれば神の存在を感じてそれにすがっていられる、という結論に、父と息子が到達する。姉のように精神が崩壊するのではないかと恐れる息子にとってこれは救いとなるが、同時にまた、対話がなかった父と息子の間に対話が生まれるという、姉にとっては悲劇的な結末だが、他の人々にとっては希望の持てる結末になっている。
映像がとにかくすごいのだが、降りしきる雨の中の廃船の中の姉弟のシーン(天を見上げて「神よ」と言う弟)、姉が恐ろしい姿をした神の訪れを見るシーン(ヘリコプターの騒音と窓から見えるヘリが蜘蛛の姿をした悪魔のような神を表すのが秀逸)など、映像の力が際立つ。スーツケースが閉まらないので夫は靴を取り出すが、最後に弟が姉に靴をはかすところも印象的(それまでは姉の裸足が強調されていた)。サングラスをかけるのは外界から自分を遮断するため、という解説があったが、靴をはいて歩き出すのは自分の足で歩くことでもある(新海誠の「言の葉の庭」)。
神がどうのこうのに興味が持てなくても、何度でも見たくなる映画だ。
さて、キネマ旬報シアターには映画書コーナーがあって、キネ旬のバックナンバーやパンフレット、映画書が置いてある。古い映画について調べたいと思ったときはとても便利。
で、先日、某評論家のブログに、日本ではソフト化がされていない「ラッキー・レディ」のDVDを海外から取り寄せたということを書いているのを読んで、「ラッキー・レディ」なつかしい! と思ったのだが、どういう映画か全然思い出せない。調べると、初公開時に有楽座で見ている。が、ネットで検索してストーリーを読んでもピンと来ない。なんだか「ラムの大通り」のような映画だったような気がするが、何も思い出せないのだ。
そこで、古いキネ旬でこの映画が特集されたのを見れば思い出すかも、と思い、バックナンバーを見てみた。
1976年のキネ旬にグラビアと評論家1名の長い文章とシナリオ採録があったが、そのベテラン評論家も「ラムの大通り」に似ていると書いていた。が、文章を読んでもやっぱり思い出せない。パンフレットはなかった(「ラムの大通り」のパンフはなぜか2冊もあった)。
「ラムの大通り」は先だってのキネ旬の1970年代ベストテンでも投票したくらい好きな映画だが、「ラッキー・レディ」は全然覚えてないのはなぜ?
「ラムの大通り」の劣化版に見えたのだろうか?
主演のジーン・ハックマンとバート・レイノルズよりも「ラムの大通り」のリノ・ヴァンチュラの方が好きだったからか?
好きな監督のスタンリー・ドーネンの映画としては魅力を感じなかったからか?
うーん、わかりません。アメリカでは大ヒットした映画らしいけど。
そのあと、駅の近くにある大きい書店を見ていたら、講談社英語文庫の「ライ麦畑でつかまえて」を見つけ、サリンジャーが出てくる映画を見たこともあって、原書が手元にあるのもいいかも、と思い、買った。
実は「ライ麦畑」の原書は若い頃に持っていたことがある。銀色の紙にタイトルと著者名だけを書いた表紙のペンギンブックスだったけれど、翻訳で読んでいたので通して読むことはなかった。もうとっくの昔に手元からはなくなっている。
で、久々、今度は原書で読んでみたくなったので、神保町あたりなら古本が1冊100円くらいであるかもしれないけど、真新しい紙の講談社英語文庫もいいか、と思った。
何を隠そう、「ライ麦畑」は私がトマス・ハーディを研究するきっかけとなった小説なのだ。
最初の方に、ホールデン・コールフィールドがハーディの「帰郷」が好きだ、ヒロインのユーステイシア・ヴァイが好きだ、と言っているところがある。
ハーディは一応知ってたし、「ダーバヴィル家のテス」は翻訳で読んだけど、いまいち好きな小説ではなかった。「帰郷」は新潮文庫から翻訳が出たことがあったが、その当時、すでに絶版だった。
ホールデン・コールフィールド先生ご推薦ならぜひ読みたい、というわけで、都心の洋書売り場でノートン・クリティカル・エディションの「帰郷」(The Return of the Native)を見つけ、購入。初めて買ったノートン・クリティカル・エディションだったかな。その後、このシリーズを何冊も買うことになるのだけれど。
ハーディの英語はむずかしかったけれど、まず、自然描写の美しさにやられた。そして、ホールデンの言うように、ユーステイシア・ヴァイは最初に登場するシーンから魅力全開。いっぺんでハーディの愛読者になったのです。
当時はまだ学部生で、サッカレーで卒論を書いていたが、同じ頃、フォースターの「モーリス」を読んで、サッカレーの次はフォースターになったのだけど、ほぼ同時進行でハーディも読んでいた。フォースターはサッカレーのリアリズムとハーディのロマン主義の両方を兼ね備えた作家で、この3人の作家を中心に研究みたいなことをしていた20代であったのだった。
ちなみに、ホールデンが読んでみたらすばらしかったと書いているイサク・ディネセンの「アフリカの日々」は、「愛と哀しみの果て」という映画になっていて、キネ旬でこの映画の採録をしたのは私です。
追記
キネマ旬報シアターでは9月23日に「カメラを止めるな!」に出演した竹原芳子のトークショーをするそうです。チケットは16日から発売とか。
竹原芳子はプロデューサー役ですごく印象に残っている役者さん。あの映画に出た役者さんたちはみんな好きになってしまいますが、トークショー、聞きたいけど時間的にちょっとだめかも。