土曜日は映画館をハシゴして「散り椿」と「叫びとささやき」を見る。
「散り椿」終了から「叫びとささやき」開始まで1時間しかなく、電車に20分乗るし、徒歩もあるし、何か食べないとおなかが持たないという綱渡りで、おまけに入ったマックがレジの前が長蛇の列、だったけれど、とにかく間に合った。
「散り椿」は葉室麟原作、木村大作監督、小泉堯史脚本で、モントリオール世界映画祭で審査員グランプリ受賞ということで見に行ったが、外国で賞をとったわりにはお客さん入っていない。シニアが多いのは予想していたが、シニア男性ばかりで、シニア女性がほとんどいない。シネコンに入るときに、前にいた2人のシニア女性が「コーヒーが冷めないうちに」の方に入っていったが、女性はこっちに行ってしまうのだろうか。夫婦で来て、劇場で分かれるとか(そのシネコンではほぼ同じ時刻に両方が始まっていた)。
「散り椿」はやはり映像がすばらしい。最初の東宝のマークからしていつもと違う渋い色調で、その後も渋い映像が続く。特に雨や雪のシーンがすごい。
人物関係が複雑なので、少しわかりにくいところもあるが、同じ女性を思う2人の男の葛藤や、その周辺の人々の人間ドラマが、お家騒動のストーリーの中でしだいに浮き上がってくるところが感動的。同じ原作者の「蜩の記」を映画化した小泉堯史の脚本がうまいのかもしれないが、木村大作の演出は小泉とはかなり違うタイプで、人間ドラマとしての訴求力やドラマの盛り上げ方は小泉の方がオーソドックスで観客の心に訴えかけやすい。また、この映画で監督が何を描きたかったかみたいなのが、小泉の場合だと手にとるようにわかる。それに対し、木村はそういうオーソドックスな手法をとらない。特にシークエンスの切り替え方に独特の切れ味がある。何かぶつっと切ってしまうような感じなのだが、これはこれで魅力的だと思った。人間ドラマとして盛り上げるとか、観客の心を動かす、という点からすると、クールに決めすぎているので不利なのだが、その分、映像の迫力で見せてしまうところがある。モントリオールでも様式美が評価されたと思うが、まさに様式美を感じる。椿やクライマックスの血しぶきは黒澤明の映画を思い出させるが、ここもある種の様式美だ。
出演者では富司純子の演技が印象的。息子の結婚に反対したことを心の重荷に感じている母をみごとに演じている。
土曜日は4週連続ベルイマン特集。その最後を飾る「叫びとささやき」。
実は先週土曜日は「仮面/ペルソナ」を見たのだけれど、公開当時は斬新だったのだろうけれど、今見ると、内容も技法も同種の映画が多数作られているので、さほど衝撃的ではなかったし、特に書きたいこともなかったので書かなかった。
「叫びとささやき」は赤を基調とした映像がすばらしいと聞いていたが、まさにそのとおりで、赤に彩られた邸宅の内部、そして暗転も黒でなく赤。その中で、女性たちが白や黒の衣装を着ている。
19世紀末のスウェーデンの上流階級の3姉妹と侍女の4人が主人公で、姉妹を「野いちご」のイングリッド・チューリン、「鏡の中にある如く」のハリエット・アンデション、「仮面/ペルソナ」のリヴ・ウルマンが演じている。というか、そういうチョイスだったのですね、この特集の4本(ビビ・アンデションは「野いちご」と「仮面/ペルソナ」でやはり2本上映)。
強権的な夫のもとで怒りをためこんでいるような長女(チューリン)、病のために結婚もできず、死を待つだけの次女(アンデション)、人好きのするタイプだが偽善的な三女(ウルマン)の3姉妹と、病に苦しむ次女を献身的に介護する侍女(カリ・シルヴァン)。
侍女は昔、幼い子供を亡くしていて、病気の次女に対してまるで母親のように接している。胸をはだけ、乳を与えるように次女を抱く。次女は子供の頃、母に愛されなかったという思いを抱いているので、侍女が母のように接してくれるのは求めていた母の愛を得られたことになるのだろう。
対照的な長女と三女の対立、亡くなった次女をキリストのように追悼する聖職者、最後に冷酷にすべてを決めてしまう威圧的な長女の夫。献身的に尽くした侍女に何もやらずにすんだと喜んでいるこの鼻持ちならない夫に対し、何もいらないと言った侍女は次女の日記を読む。そこには久しぶりに3人姉妹が再会し、次女の具合もよいことから、姉妹と侍女の4人で外に出かけ、ブランコに乗って楽しんだときのことが書かれていて、次女はそれが幸福だったと語る。
そしてラスト、「かくして叫びとささやきは沈黙に帰す」の文字。
時をあらわす時計の映像と音が、おそらくここにつながる。人は誰でもいつかは死ぬのだから。
「叫びとささやき」の中に、「太陽の帝国」で使われたピアノ曲が出てきたので驚いた。
「太陽の帝国」は中国の租界の裕福なイギリス人社会の没落を描いていたが、「叫びとささやき」も19世紀末の上流階級の世界が20世紀には滅びるということを暗示しているのではないかと思う。
スピルバーグが「太陽の帝国」であの曲を流したのは、「叫びとささやき」へのオマージュかもしれない。
また、映画の中でディケンズの「ピックウィック・ペイパーズ」を朗読するシーンがあるが、映画の中の朗読シーンというとディケンズが多い。「風と共に去りぬ」や「ヒアアフター」を思い出す。
キネマ旬報シアターでのベルイマン特集は4本だけだったが、もう少しやってほしかったな、と思う。
キネ旬シアターには映画書の図書コーナーがあるが、帰りに「叫びとささやき」の初公開時のキネ旬を読んできた。「叫びとささやき」の特集号は昔、私の手元にあったので、いつ頃のキネ旬かはすぐにわかった。長文の評論に加え、シナリオ採録があり、せりふが字幕より詳しいので、内容がわかりやすかった。当時は読者の映画評に投稿していたのだが、その号の読者の映画評に一次選考通過として私の名前が出ていた。
その特集号から45年後に「叫びとささやき」を見て、その場でキネ旬の特集を読み、そしてその号に自分の名前を見つける。こんな幸せがあるだろうかと思った。ブランコに乗った次女のように。