2018年9月25日火曜日

Yonda?のつづき

25日午後、新潮社が「新潮45」の休刊を発表した。
25日夜には新潮社前で抗議集会が計画されていて、周辺が住宅地とのことで、プラカードを掲げてのサイレントなスタンディングになった模様。マスコミの取材がすごかったとか。
一方、「あのヘイト本、Yonda?」と落書きされた看板は、ブルーシートだけでなく、全体が銀色のカバーで覆われていたとか。
「新潮45」の休刊だが、休刊は実質廃刊なのだそうで、雑誌コードを残すために休刊にするのだそうだ。
ただ、その告知の文章が、一言で言うと、「売れなくなったのでこんなふうになってしまった。トラブルになったのはお詫びする」という感じで、このまま検証もせずに逃げるのか、と批判も起こっている。

それはともかく。
安倍首相が抱える2人の鉄砲玉、杉田水脈と小川榮太郎が雑誌を廃刊に追い込んだのは間違いない。
で、小川榮太郎がどういう人なのか、調べてみたら、経歴がよくわからない人だった。
ウィキペディアによると、

1967年5月生まれ。
大坂大学文学部卒業。
埼玉大学大学院修士課程修了。指導教授は極右で有名な長谷川三千子(日本会議)。
1998年下期、文藝春秋の文芸誌「文學界」の新人小説月評を担当(これにより文芸評論家の肩書なのか?)。
2012年、安倍晋三礼賛本「約束の日」(幻冬舎)で書籍デビュー。この本は安倍首相の団体が爆買いしてベストセラーにしたことで有名。
以後、この路線の本や雑誌記事を執筆。

ということくらいしかわからない。

実は私は埼玉大学大学院を受験したことがある。
埼玉大学は1977年、文化科学研究科と政策科学研究科を設置している。文化科学研究科は修士課程のみだったが、政策科学の方も同じだと思われる。
私が文化科学研究科を受験したのは78年度の募集のときだから、設置してまだ1年しかたっていなかった。受ければ合格みたいなところで、受かっても行く気はなかったし、面接のときに「どうせあなたは来ないでしょ」と教授たちに言われてしまったほど。
学部で教員試験に落ちた人がここに入って教員をめざす感じで、博士課程がないから研究者をめざすのは無理だった。
2001年に政策科学研究科を政策研究大学院大学に分離、とウィキペディアにはある。この時点で埼玉大学大学院ではなくなったということだろう。
2003年、文化科学研究科に博士課程(博士後期課程)ができる。

小川榮太郎がいつ埼玉大学大学院に入ったのかはわからない。
というか、大阪大をいつ卒業したのかもわからないのだが、こちらは普通に考えれば、67年生まれだから89年か90年くらいに卒業しているだろう。
その時点で埼玉大学大学院に進学することは常識から言ってありえない。
修士課程しかないから研究者の道は考えられないし、阪大卒ならいくらでも上位の大学院に進める。
だから、大学を卒業してから院に入るまでにブランクがあったと思われる。
師事した長谷川三千子は哲学なので、入ったのは文化科学研究科だろう。
長谷川三千子に師事するために埼玉大学大学院に入った、と考えるのが理にかなっているように思う。

大学院の修士課程では修士論文を書くことに全力を傾けるから、この時代には修士論文以外の学術論文は普通はない。研究者になることが目的でなかったとすれば、「約束の日」の前に論文がなくても不思議ではない。文芸評論家としても98年下半期の「文學界」しかなかったなら、何か書いても発表する場所がなかったことは大いに考えられる。
修士課程から「約束の日」の間に業績が何もない、というのも、研究者でもなければ評論家でもなかったのなら不思議ではない。
突然現れた安倍首相御用達ライターだった、というのが本当のところだろうけれど、これほど経歴も何もかもわからない人もめずらしい。小川榮太郎という人物自体が作られた人物なのかとさえ思ってしまう。

なんにしても、「新潮45」をつぶした男として後世に名を残すでしょう。

(なんか、まじめに書いちゃったけど、実は経歴詐称だったりして? 拙著を拝著と書いている人だからねえ。)