この記事に追記しました。
https://sabreclub4.blogspot.com/2018/09/blog-post_26.html
中卒で自衛隊に入隊した貧しい少年が苦労の末、大検を経て九大進学、という前提が正しいとは限らないとわかったからです。
以下の記事自体は書き直しませんが、追記を参照してください。
生活保護のリアルを追究しているみわよしこ氏が、九州大学元院生による放火自殺事件について、生活保護を受けていれば、と書いています。
https://news.yahoo.co.jp/byline/miwayoshiko/20180917-00097130/
この中に引用されている西日本新聞の記事に、この元院生が陥っていた状況が書かれており、この記事を引用した本田由紀氏が「自分のことのようにどきどきする」と書き、その後、みわよしこ氏の記事を引用して「ほんとうに」と書いていますが、さすが、順調に東大教授に上り詰めるお方は違うというか、わかってないな、と思います。
もちろん、みわよしこ氏もわかってないのですが、みわ氏は研究の世界を知らないからしかたないと言えます。
みわ氏の記事はこの元院生Aさんの生涯を時系列で述べていて、これは私もニュースを知った時点で頭の中で考えたことでした。ただ、それに補足するように書かれている当時の就職状況などは私にはすぐには考えられなかったことで、そこは大変役に立ちます。
しかし、Aさんが生活保護を受ければよかった、と言うのは、研究の世界をあまりに知らない、そこしか生きる場所がない人間の置かれた状況を理解していない、と思います。
もしもAさんが生活保護を受け、生活を立て直して再起するとしたら、それは研究をやめて別の仕事に就くということにしかなりません。
というより、Aさんはもう研究者としては終わっているのですが、それを本人が認めたくない、ここまで来てやめるのはいやだ、と思っていたからああいう状況になったので、生活保護を受けて別の仕事で再起、というのは、彼にとっては生きながら死ぬに等しいのです。
この、生きながら死ぬに等しい死というのが、研究命の人以外には非常にわかりづらい。
私も院生のときは、研究職に就職できなかったら死のうと思っていました。
周囲がどんどん就職して、修士論文しかないのに就職できる人も少なくなく、女性は個人的なコネがないとだめな状況で、30歳になるまで死ぬことばかり考えていました。
30歳で死ぬことを考えるのをやめたのは、「フランケンシュタイン」の解説を書いて、キネマ旬報に映画評論を書けるようになったからです。研究をあきらめることができたのです。
研究をあきらめられない人が研究の場を奪われたら、それは研究者としての死であり、その後は生物として生かされているだけで、死んだも同然の人生です。
かなり前ですが、広島大学で教授殺人事件があり、犯人の助手は自分の研究が続けられない大学への専任の職を与えられたのが原因でした。専任なのになぜ?と思うかもしれませんが、理系では自分の研究を続ける設備のないところへの就職は研究者としての死だからです。当時、それが世間でまったく理解されず、唯一、研究者の死だからだ、と指摘したのは栗本慎一郎氏でした。
今回の事件も、理解できる人は研究の世界にいた人だけだろうと思います。
理系の場合、研究を続ける設備がないとだめなわけですが、文系はどうかというと、高い本をたくさん買わないとだめです。学会にいくつも入り、毎年、高い会費を払わなければいけません。地元以外の学会に高い旅費を使ってでかけ、高い参加費を払って懇親会に出席します。
30歳のとき、私はこれをすべてやめました。おかげでお金に余裕ができました。日本英文学会の会費で1週間以上、まともな食事ができます。
これをすべてやめたということは、研究者として終わったということです。それ以前に、当時は「フランケンシュタイン」の解説のようなものを書いただけで、研究者として終わったとみなされたでしょう。あの解説はSF、ファンタジー、映画関係の人には好意的に受け取られたのに、英文学者からは非常に冷たい反応でした。その後も英文学者に私の解説が引用されることなどありません。
逆に、それが私が英文学の世界に見切りをつける気持ちにさせてくれました。
生活保護を受けると、高い本を買えず、学会をやめなければなりません。その時点で、研究者として終わったとみなされると思います。学会をやめると論文を書く場所もなくなります。
実際、研究職への就職がむずかしいので高校教師になると、その時点で研究者として終わったとみなされる世界です(小中高校の教員から大学教授になった人もいますが、大変な努力と才能と幸運の結果であろうと思います)。
つまり、ちょっとでも脇にそれると終わったとみなされる、それが研究者の世界です。
Aさんは非常勤講師の職も失い、研究者としての唯一のよすがは研究室への出入りであったと思われます。それが失われることは研究者として完全に終わること、すでに終わっていたことは本人も周囲もわかっていたが、唯一のよすがを失うまではなんとか自分をだましてやってこれたというところでしょう。
Aさんは優秀な人だったようですが、なぜ、大学院に12年も在籍していたのかが疑問です。1998年に修士課程に入り、2010年に退学したとのことですが、修士2年、博士3年が最短で、就職が決まるまで留年(よくあるケース)していたとしても10年が限度です。休学があったのか、修士と博士の間に学費を稼ぐためなどの理由のブランクがあったのか、理由はわかりません。
博士論文を提出していない、というのは日本の一流国立大の文系では普通です。博士課程を満期退学してから論文を提出というケースが多く、博士論文を出して博士課程を終えるには文系の場合、英米の大学院へ行く方が簡単です。現在、研究職への就職は留学経験と博士号が求められる場合が多いので、欧米の大学院へ行ってこの2つをゲット、というケースが多数。つまり、留学ができないと研究職への就職はむずかしいのです(実際は、留学して博士号の人がまた多いので、この2点セットがあってもむずかしい。が、この2点の両方がない、または片方しかなくても就職できる人もいて、今でもコネが有利なんだろうと思います)。
みわよしこ氏が指摘している奨学金の返済は就職できない元院生にとっては非常に大きな問題で、Aさんができるだけ院生でいようとしていたのも返済を遅らせるためだろうと思います。
しかし、大学院に12年間もいる間に、たとえば、法律関係の産業翻訳をして稼ぐとか、そういう発想がなかったのだろうか。肉体労働より楽だし、自分の専門を生かせる分野です。非常勤講師だけで生活するには週に最低10コマはやらねばならず、10コマの授業を手に入れることが非常にむずかしい。午前と午後と夜に1コマずつ、全部別の大学で、という人もいる。移動だけで疲れ果てる。福岡では首都圏と違って、大学の数も少ないだろう。大学の多い首都圏だって、非常勤講師職を手に入れるのは至難の技で、しかもいつクビになるかわからない。
ほとんどの子供が高校に進学する時代に中卒で自衛官になったというのは、相当にきびしい環境で育ったと思われますが、そんな中で九州大法学部に合格、その後大学院にも進学し、みわ氏の記事のリンク先の西日本新聞の記事よると、教授からも高く評価されていたといいます。
もしかして、教授に高く評価されていたというのが、Aさんが研究以外の道を柔軟に考えられなかった理由かもしれません。
(以下は個人的な恨み言と、やや過激な発言なので、隠します。)
私は大学院では指導教官に好かれていなかったし、他の先生からもよく思われていませんでした。
自分はこんなに期待されていないのか、という思いが強かった。なのに、論文は他大学の先生からは高く評価。でも、他大学の先生は私の就職の世話をしなくていいから高評価だったわけなんですが。
おまけに大学院とは違う出身大学の先生からも疎まれていました。というのも、出身大学は大学院とは派閥が違うので、派閥が違う院へ進んだ私を採用するわけにはいかなかったからです(でも、派閥が同じ別の大学(その派閥の主流大学)から私と同じ院へ進んだ人は採用、その後、今度は派閥が違う大学から私と同じ院へ進んだ人も採用と、自分のところの出身者はとりたくなかったわけですね。先生たちはみな、その派閥の主流大学出身だったから、私の大学は主流大学の出身者の就職先でしかなかったわけで)。
もしも、自分は大学院で疎まれている、と感じたら、もっと柔軟に、自分の才能を生かす仕事を探すことができたでしょうが、単に研究室で自殺でなく、放火して自殺というところに、Aさんの怒りを感じます。そのくらい怒ってやっちまってもいいんじゃない? 誰もけがしてないし、という気持ちは、正直、私の中にありますね。そういえば、母校の大学(院じゃない方)の屋上から飛び降り自殺というのも考えたことがありましたっけ(忘れてたけど)。