ディズニーの「オズ はじまりの戦い」をDVDで見た。「オズの魔法使い」関係はずっとフォローしてるので(舞台の「ウィキッド」はまだ見てないが)、映画館へ行こうと思っていたのだが、3Dだというのにめげて、結局DVD鑑賞に。
うーん、こりゃ、映画館まで行かなくてよかったかも???
DVDには映像特典として、ウォルト・ディズニーの「オズの魔法使い」への思いを描いたドキュメンタリーがありましたが、1930年代、彼が「オズの魔法使い」をアニメ化したいと思ったときにはすでにMGMが映画化権を取得、そしてあのジュディ・ガーランド主演の永遠の名作「オズの魔法使」が1939年に公開。しかし、ウォルトはその後も「オズ」映画化に執念を燃やし、50年代についに映画化権を取得、実写で映画化しようとしたのだけれど、テレビ版を作ったあと、映画化を断念してしまったそうな。
まあ、あのMGMの「オズの魔法使」を超えるものを作るのは無理と、彼もわかったのでしょうが、当時のディズニーの実写ミュージカルのコンセプトはすでに時代遅れであったこともドキュメンタリーでは指摘されています。そして、新しいコンセプトで生まれたのがあの「メリー・ポピンズ」であると。
一方、MGMの「オズの魔法使」は、こちらのDVDの特典映像でも描かれているように、ディズニーアニメを実写でやろうと、MGM全体が一丸となって取り組んだ映画だったようです。そういうふうにして見ると、確かに、この「オズの魔法使」はディズニーアニメのコンセプトを実写でやったというのがよくわかるのですが、現実をモノクロ、オズの国をカラーで描いたり、現実とオズの国の人物を同じ俳優が演じたり、そしてラストの夢落ち(原作は夢落ちではない)と、現在のファンタジーの元祖的要素が多数見つけられる映画でもあります。また、CGはおろか、ろくな特撮がなかった時代に手作りで作った竜巻、1つ1つていねいに作られたセットや小道具など、今見ても驚くほど手をかけた作品。そして、世界中から集められたという小さい人たちの演じるマンチキンなど、これを見ると、CGでなんでも簡単に作れてしまう今の映画が逆に薄っぺらく感じられてしまうほど(ただ、特殊メイクの幼稚さだけはなんともしがたく、特にライオンのメイクは今見るとかなりキモイ)。
そんなわけで、39年の「オズの魔法使」を超えるのはおそらく永遠に無理と思われます。そこで、このあと生まれたオズ関連はすべて、続編だったり前日譚だったり、あるいは変奏だったりしています。変奏は黒人版「ウィズ」(舞台から映画にもなった)、続編は「オズ」(原題Return to Oz)、前日譚は小説から舞台になった「ウィキッド」。そして、「オズ はじまりの戦い」も前日譚で、奇術師が気球に乗ってオズの国に行き、そこでオズの魔法使いになるまでが描かれています。
この「オズ はじまりの戦い」は最初から最後まで39年版へのオマージュでできていて、モノクロからカラーになるところ、同じ俳優が現実とオズの国の人物を演じているところ、セットや衣装などが39年版をそのまま踏襲していること、映像も39年版を意識して作っているところが多いなど、見ている間ずっと39年版を意識させるつくりになっているのですが、これがどうもいけない。新しい作品として見れないのです。
また、一部、「ウィキッド」も取り入れられている感じですが、原作の「オズの魔法使い」は魔女は東西南北4人いるのに、39年版は北と南の魔女を1人にして、北の魔女グリンダとしているのですが(原作ではグリンダは南の魔女の名前)、今回の映画では39年版の北の魔女グリンダを南の魔女グリンダに変えています。「ウィキッド」はこのグリンダと悪の魔女の若い頃の話で、善と悪についてのシビアなテーマが盛り込まれているようですが、「はじまりの戦い」でも善と悪のテーマを中心に据えているのだけれど、これが全然効いてない。サム・ライミは「スパイダーマン」の出がらしでやってるのか、ていう感じ。
そもそも、3人の魔女の父親を悪の魔女が殺して王座を乗っ取り、という設定が、なんだか「リア王」めいてはいるけど、結局、女があと継ぐとろくなことない、だから男のオズにやらせとけ、みたいな、これちょっと政治的に正しくないんじゃない、という内容なのです。しばらく前からディズニーアニメは王子様がお姫様を助けるのではなく、お姫様が王子様を助けるようになっていて、その後、今度は男女両方が力を合わせて、みたいになってきたのだけど、ここでまた女はだめ、男に任せろ的な展開になるのか?
やっぱりシナリオが悪いと思うのですが、一応、子供も見るファンタジーとして作ってるわりにはなんだか暗くて楽しくない映画です。39年版が楽しすぎるので、比べたら酷ですが、それにしても楽しくない。
思えば、ディズニーが(ウォルトじゃなくて映画会社の方)80年代に作った「オズの魔法使い」の続編「オズ」は、原作の第2作と第3作をもとにしたダーク・ファンタジーで、これはもう子供向けとはいいがたい、一般向けでもない、でも、一部のマニアには大受けな作品なのですが(私も大好きだ)、こちらの暗さは製作のゲーリー・カーツの個性なので、暗くて当然と思えます。カーツは「アメリカン・グラフィティ」や初期の「スター・ウォーズ」でジョージ・ルーカスと組み、この「スター・ウォーズ」もまた「オズの魔法使い」に影響を受けた作品なのですが、その後、カーツは「ダーク・クリスタル」というファンタジーを作り、そして「オズ」を作ったのですが、この「オズ」が興行的に大失敗で、カーツは破産してしまったのだとか。監督は映画編集の名手ウォルター・マーチでしたが、初監督でうまくいかず、ルーカスやコッポラが手伝ったという噂もありました。
この「オズ」はもともと、39年版のラスト、まわりの大人たちはドロシーは夢を見たのだと思っているけれど、ドロシーはオズの国は実在すると信じている、という、大人と子供の見る世界の違いを表した、原作とは違うけれど(原作は夢落ちではなく、ドロシーは新しく建て直された家に帰ってくる)、夢と現実についての大人と子供の見方の差みたいなものを出した、これはこれで優れた結末だと思いますが、カーツの「オズ」はこの結末、夢を信じない大人によって精神病扱いされたドロシーがオズの国に帰る、という、もう暗くなるしかない内容なわけです。(この「オズ」のテーマについては公開当時、キネマ旬報に書き、数年後には「幻想文学」のファンタジー特集号に書きましたが、原稿はワープロ専用機で書いたので、テキストデータに変換しないとブログにアップできないのです。)
というわけで、80年代にディズニー(ウォルトではなく、映画会社)が製作した「オズ」はカーツの個性とその内容で暗いのは当然としても、なんで今回の「はじまりの戦い」まで暗いのか、ディズニーなんだからもう少し明るくできないのか、と思うのですが、この種の戦いとか善と悪とかを描くとどうしても暗くなってしまうのでしょう。39年版はドロシーは魔女を退治するつもりはないのに結果的に退治してしまったり、後半、西の魔女の暗い世界へ行っても、笑ってしまうようなユーモラスな看板が立っていたりとか、基本的にコメディとして作られていたから明るかったのですね。
「オズ」にしろ「はじまりの戦い」にしろ、そして舞台の「ウィキッド」もですが、39年版の「オズの魔法使」が基本にあって、そこから新しい物語を築いている、つまり、原作の「オズ」ではなく、39年版がスタート地点になっている、というのも興味深いところです。39年版と原作は違うところも多いのですが、39年版の映画がスタンダードになっているというのはまぎれもない事実のようです。そして、あの明るい39年版から出発した新しいオズは、どうしても影の部分を身につけてしまうのでしょう。その中で、やはり80年代の「オズ」の意識的な暗さは価値のあるものであったと思います(DVD発売希望)。(「はじまりの戦い」はなんとなくつまらないから暗くどんより、って感じなのですね。そういう暗さは困る。)
なお、MGMの「オズの魔法使」は同じ時期にMGMで製作されていた「風と共に去りぬ」と同じヴィクター・フレミングが監督としてクレジットされていますが、実はどちらも最初はジョージ・キューカーが担当し、途中からフレミングに代わったのだそうです。当時のスタジオシステムでは、映画は監督の創作物ではなく、いろいろな人が協力して作り上げるもので、監督が1人でないのも実はそれほど珍しくないということも、39年版の特典映像で語られていました。