アルベール・カミュの小説じゃない方の「異邦人」といえば、それはもう、久保田早紀・作詞作曲の歌「異邦人」(異論もあるかもしれませんが、わたくし的には)。
この歌は詞も曲もすばらしく、歌もうまいしその上美人、というわけで、一躍有名になった久保田早紀でしたが、結局これの一発屋に終わった感もあり、それから時は流れて30年以上。
久保田早紀って、今、どうしてるの?と思ったら、なんと、結婚後の本名・久米小百合でキリスト教の伝道歌手になっているそうな。しかも、夫はあのハンフリー・ボガートの吹き替えで有名な俳優・久米明の息子だって。
なんで突然、久保田早紀のことを思い出したかというと、月曜に「カイロ・タイム 異邦人」という映画の試写に出かけたのですが、実は試写状をもらったときから、私の頭の中には久保田早紀の「異邦人」がエンドレスで流れ続けていたのです。
「カイロ・タイム」は原題ですが、「異邦人」という邦題をつけたのは、たぶん、久保田早紀の歌をイメージしてのことだと思います。そのくらい、なんか、ぴったりなのですよ。
それはともかく、この「カイロ・タイム」は2009年のカナダ映画なのですが、北米では大変評判がよく、トロント国際映画祭ではカナダ映画賞を受賞、RottenTomatoesでは批評家の評価がものすごく高い。でも、地味な映画なので、日本公開は遅れたのだと思いますが、なかなかよくできた映画でした。
(以下、ネタバレ大ありなので注意。)
物語は、カイロで夫と休日をすごす予定だった50代の女性編集者が、なかなかカイロに来ない夫のかわりに相手をつとめてくれたエジプト人男性と淡い恋をする、という、あの古い名作「旅情」のような作品です。というか、試写状もらったときは、手垢のついた設定のラブストーリーだろうと思い、なかなか見に行こうとしなかったのですが、あちらでの評判のよさに驚いて、急遽、出かけたのです。
見てみると、これは手垢のついたラブストーリーではまったくありませんでした。
パトリシア・クラークソン演じるカナダ人女性ジュリエットは女性誌の編集者、夫マークは紛争地域のガザで活動中の国連職員、エジプト人男性タレクはかつて夫の警護担当だった元国連職員で、現在は父親のコーヒー店を経営中。ジュリエットは夫が国連職員なのだから社会問題に詳しいのだろうと思うと、そうではありません。彼女はタレクに、自分の編集する雑誌は社会問題を扱っている、と嘘を言いますが、タレクが洋書店で雑誌を手に入れてみると、それはごく普通の女性誌。ジュリエットは本当に狭い自分の世界しか知らないようで、なかなかカイロに来ない夫に会いにバスでガザへ行こうとし、途中で、安全を保証できないという理由で引き返させられます。そのバスの中で出会った若い女性から手紙を託され、タレクとともにその手紙を恋人の男性に渡すのですが、ジュリエットはこの問題を抱えたカップルに対して何もできないのです。また、彼女は幼い少女たちが絨毯を作る仕事をしているのを見て抗議しますが、それに対し、タレクは、欧米の価値観で決め付けるなと言います。また、タレクが宗教の違いから結婚できなかった元恋人と再会し、彼女が今もタレクを思っているとわかっても、ジュリエットはやはり何もできません。
いくつもの紛争地帯を抱える中東で、ジュリエットはまさに異邦人であり、それは単に外国人というだけでなく、永遠にその世界のよそ者であるということなのです。
なかなか来ない夫に何か秘密でもあるのだろうかと思いましたが、そういうサスペンスはまったくなく、夫は単に忙しかっただけのようです。
夫と行く約束をしていたので、一度はタレクと行くのを断ったピラミッドへ、ジュリエットは夕暮れにタレクとともに行きます。そして、やっとカイロへ来た夫と、今度は昼間のピラミッドへ。夕暮れの彼女は水色のドレスを着ていましたが、昼間の彼女は黄色のドレス。肌をあらわにしたファッションで、最初から最後まで、エジプトの世界にまじわらない彼女を、中東系カナダ人の女性監督ルバ・ナッダは適度な距離を置いて見つめています。無知な異邦人を通して、彼女の気づかなかった世界を見せるという手法に、ただのラブストーリーで終わらない何かを感じます。