2013年8月8日木曜日

スローボート・トゥ・チャイナ

久しぶりに名画座に行ってきた。
「リンカーン」と「ザ・マスター」の2本立て。「リンカーン」は気になっていた映画だし、「ザ・マスター」はRottenTomatoesの批評家の評価がやたら高い(一般人はビミョー)。1300円でこの2本立てなら買いだ、と思い、見に行きましたが、近頃の名画座はロードショー館並みの設備ですね。最後に名画座に行ったのはいつでどこだったのだろう。
それはともかく。
「リンカーン」はまあ、つまらないことはないですが、特に言いたいこともないです。世間の評判どおりってところかな。スピルバーグの映画としてはつまらない方に入ると思います。彼のこだわりとか、あまり感じるところなかったし(息子が戦争に行きたがるのを父が止めるのは「宇宙戦争」を思い出したけど)。ダニエル・デイ・ルイスの演技もそうだけど、なんか、ものすごく冷めちゃってるというか、冷静とかそういうのではなく、冷めたピザって感じ。
そこいくと、ロバート・レッドフォードが監督した「声をかくす人」は現代のアメリカの問題にも通じる歴史の暗部を描いていて、こっちの方がよかったですね。レッドフォードは最新の監督・主演作「ランナウェイ逃亡者」の試写を先日見ましたが、こちらはヴェトナム戦争時代の過激派の30年後を描いて、やはりアメリカの歴史の暗部を描くことで現代の問題を突く、みたいな志があります(ただ、「声をかくす人」に比べると娯楽優先になってる気がするが、共演者が豪華ですごい)。

さて、「リンカーン」と同時上映の「ザ・マスター」。「リンカーン」はつまらないことはないと書いたのは、一応、飽きずに面白く見ることはできたからですが、この「ザ・マスター」は、飽きずに面白くは見られませんでした。
もともと、ポール・トーマス・アンダーソンの映画は苦手だったので、自分向きじゃない映画なのかもしれませんが、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の方がずっと見ごたえがあったし、作品としての求心力もあったと思います。
RottenTomatoesでは絶賛が多いのですが、亡くなったロジャー・エバート(イーバート)は否定派でした。私の不満は彼の言っていることにかなり近いので、やはり否定派はこう感じるのだな、と思いました。絶賛派ではピーター・トラヴァースのを読んでみましたが、ピンと来ません。
しかし、一応、飽きずに面白く見られた「リンカーン」に比べ、飽きるし退屈だしどこがいいんだ、この映画と思った「ザ・マスター」の方が、おそらく、あとあとまで心に残る気がします。
それはつまり、否定派の私から見て、この映画は野心的な失敗作だからで、冷めたピザよりは野心的な失敗作の方がいいからです。
たぶん、「リンカーン」は焼きたての熱々の状態に作り上げられていたら、きっとおいしかったでしょう。でも、最初から冷めたピザに作ってしまった、そういう感じの作品。
一方、「ザ・マスター」はレシピが間違っていて、うまく作れなかったが、レシピ自体が斬新で、ほかに類のないもので、しかも材料(役者とか音楽とか)が高級だから、部分的にはおいしいのです。
この映画を見て、私が連想したのは、「ミステリーズ運命のリスボン」です(6月に記事を書いていますので、サイドの6月のところをどうぞ)。あれも退屈といえば退屈で、しかも最後は夢落ち? でも、いろいろ考えると面白いところのある映画、でした。(以下、ネタバレありですが、鑑賞にはあまり影響はないかも。)
「ザ・マスター」は、冒頭に砂浜に砂で作った女性の裸体が出てきますが、ラストも主人公フレディ(ホアキン・フェニックス)が砂で作った女性の裸体に寄り添うシーンです。
もしかして、この映画も夢落ち?
いや、冒頭にはフレディの仲間の米兵が何人も出ているけど、ラストは彼一人だから最初に戻ったわけではないのですが、でも、この話は全部、フレディの夢?という解釈もありだと思うのです。
そうなると、フィリップ・シーモア・ホフマン演じる新興宗教の教祖(マスター)も、彼の周囲の人々もみなフレディの想像上の人物? 私にはその可能性があるように思います。
フレディとマスターは共通点のある人物で、お互いに惹かれあいます。フレディはマスターの思想に異議を唱える人に暴力をふるいますが、マスターにもその傾向があります。
マスターはフレディの分身ではないのか、というのが、私の頭に浮かんだ疑問です。
マスターがどういう人生を送ってきたかは描かれていませんが、フレディについては多少、描かれています。フレディには結婚を約束した恋人がいたが、戦争に行くことになり、終戦のときにロールシャッハテストを受けると性的な連想ばかりします。その後、1950年頃、彼はデパートのようなところで写真業をやっていますが、「妻のために写真を撮ってもらう」と言った中年男性に暴力をふるい、クビに。その後、農場で出会った東洋の移民のような人たちに薬品を調合して作った酒を飲ませ、1人が死にそうになり、毒を盛ったと言われて逃げ出し、そしてマスターの家族や支持者が乗る船に忍び込み、そこでマスターとフレディの奇妙な関係が始まります。
フレディについてわかっていることは、南の島で兵士として終戦を迎えたこと、薬品を調合して酒を造っていること、戦争のために恋人と別れたこと、そして、結末近くで、その恋人はすでに別の男性と結婚して子供もいるということがわかります。
あとはマスターによるフレディの治療と称することがいくつも行なわれ、そこにマスターの輪廻転生の思想が出てきたり、マスターの周囲の人々の描写が出てきます。マスターは必ずしも家族の支持を得ていないこともわかります。マスターのモデルはSF作家でサイエントロジーのロン・ハバードのようですが、ちょっと参考にしたという程度らしいです。実際、このマスターって、ほんとに影響力のある教祖なのかいな、と思うところも多い。
印象に残るのは、フレディの突発的な暴力、そして、マスターによる治療の奇妙なエピソードです。特にクライマックスのオートバイのシーン、フレディがどこまでも走っていってしまい、どこかに消えてしまうシーンが印象的ですが、その後、フレディが恋人を訪ねていくと彼女がすでに結婚していたというシーンがあり(回想なのか、オートバイで消えたあとに訪ねたのかは不明)、そして、イギリスに渡ったマスターをフレディが訪ねるシーン。オートバイからこのシーンまでがなかなか見ごたえがあります。そして、フレディがマスターを訪ねたとき、マスターはフレディに「自分と一緒に行くのなら」と言い、「スローボート・トゥ・チャイナ」を歌うのです(村上春樹の「中国行きのスローボート」はこの歌がもとになっています)。
映画のポスターは真ん中にフレディがいて、そのすぐ両側に小さくマスター、そしてそのさらに両側にさらに小さくマスターの妻の顔があります。妻も重要人物なのでしょうが、私にはそれほど重要でないような、他の人物とあまり変わらない重要度のような気がしました。重要なのはフレディとマスターであり、そして、私の予想通り、これがフレディの見た夢なら、マスターはフレディの中にいて、マスターに関係した人たちもフレディの中に、マスターより重要度の低い人々として存在している、そんな感じがしてなりません。