以前試写で見せてもらった映画「寝ても覚めても」(濱口竜介・監督)の原作(柴崎友香・著)を読んだ。
映画は原作とは全然ちがうやん、と思ったので、メモ的に書く。
原作は主人公・朝子の一人称だが、映画は三人称的にしか描けないので、そこで当然、差が出るのだが、それにしても、映画は原作をわかりやすくしすぎてないか?
つか、原作はジコチュー女の一人語りなんだが、映画では彼女の行動がしごく常識的な描写に変えられている。映画は原作を平凡な話に作り変えているのだ。
たとえば、朝子の恋人・麦はパンを買いに行くと言って出かけ、なかなか戻ってこないが、原作だと戻ってくるのは3時間後。映画だと前の晩に出かけて朝になっても戻ってこない(その後、戻ってくる)。
3時間くらいだったら、まあ、あるといえばあるよね。
子供じゃないし、このくらいだったら心配はしない。が、恋人を思う朝子からしたら、というのはある。が、映画だと翌朝になっても帰ってこないのだから、これは普通じゃない。
その後、映画では麦は、靴を買いに行くと言って出かけ、その後まったく帰ってこなくなるのだが、原作では海外へ行くと言って出かけ、その後、音信不通になる。これも原作の方はそんなに変じゃないが、映画だとやはり麦が変ということになる。
つまり、原作では変なのは朝子の方なのだが、映画では麦の方になっている。
その後、東京へ移住した朝子は麦にそっくりな男・亮平に出会い、恋人同士になる。ここは映画も原作も同じ。
しかし、映画では亮平は麦にそっくりであることは周囲も認めているが、原作ではそっくりだと思っているのは朝子だけで、周囲は、同じ系統というか、同じタイプぐらいにしか思っていない。
映画では朝子は亮平と同居し、事実婚状態になり、亮平の大阪転勤を機に婚約、新居も決めるが、そのとき、突然、麦が現れる。駆け落ちしようと迫る麦に、最初は抵抗した朝子だが、ついに麦と駆け落ちしてしまう。
しかし、原作では、朝子は突然、麦が現れた瞬間に駆け落ちしてしまう。
映画では亮平の絶望がリアルに描かれるが、原作では朝子の一人称なのでそういうところはあまり描かれない。
この駆け落ちのあたりの描写も、原作ではおかしいのは朝子、映画ではおかしいのは麦の方で、映画の麦はホラー映画みたいな雰囲気で、朝子は最初はおびえるが、原作ではいきなり麦が現れて即、駆け落ち。おかしいのはどう見たって朝子。ただ、その前から朝子のおかしな感じはあるので、唐突ではまったくない。
もっとも、映画でも、麦は実は存在しない、朝子の妄想では、と感じさせるところもある。
幻想から目覚めた朝子が亮平のもとに戻ろうとする最後のシークエンスも、リアルを生きようとする2人の姿が、泥水の川を亮平は汚いと言い、朝子はきれいだと言うあたりに、夢と現実をともに生きる2人の気持ちを感じさせる。このラストはとても好きだ。
しかし、原作はあくまで朝子の一人称なので、朝子のゆがんだ視点で語られているから、映画のような清々しい結末ではない。
原作では麦と亮平は似ているがそっくりではないという設定で、朝子だけがそっくりだと思っている、2人で1人だと思っている。が、駆け落ちした朝子は友人から携帯に送られた昔の麦の写真を見て、麦が亮平に似ていないことに気づく。2人は別人だ、とわかった朝子は、亮平のもとに戻る決心をする。
原作では麦と駆け落ちしたときに2人の男女が一緒にいるのだが、その2人が最後の部分でなぜ別れているのかもよくわからない。最後まで朝子の妄想なのだろうか?
朝子の一人称は論理的なところはまったくなく、その場その場の感覚で書いているから、わかりにくいところも多い。あとで、もう一度読み直そうと思う。
つまり、原作は文学ならではの、信用できない語り手の語る話なのであり、そこに最大の魅力がある。
だが、映画はそれをわかりやすく、朝子の心理も理解しやすくしてしまっている。
この映画がカンヌ映画祭で「めまい」と比べられたり、トリュフォーの映画と比べられたりしているのもうなずける。わかりやすくするとそうなるのだろう。その分、凡庸になったと私は思うのだが。
映画も原作も私の好みではない手触り感が濃厚で、正直、どちらも好きにはなれないが、客観的に見て、やはり映画は原作を凡庸にしたと感じてしまう。もっともこれはストーリーや人物、テーマの話で、映像表現はまた別ではあるが。