2013年11月13日水曜日

秋の旧古河庭園

秋バラの季節はすぎてしまったけれど、今年も行ってみました、北区の旧古河庭園。
まずは西ヶ原の駅を降りて外に出たら、スカイツリーが。

道路沿いの花壇のバラ。

旧古河庭園。紅葉がお出迎え。

しかし、バラはやはりほとんど終わっていた。

開いているのは悲惨なのが多く、なんとかきれいなのを見つけて撮る。

おかげさまで、人は少なく、定番のアングルもこのとおり無人。

晴れたり曇ったりの空。




日本庭園の方は紅葉がちらほら。奥に滝がある。


洋館の前。手前の花にピントを合わせる。

今度は奥のバラにピントを。

お弁当はファミマのおにぎり。ただ今、一個百円。

せめてつぼみは美しく、と思ったが、終わりが近いのでつぼみも少ない。



このあと、山手線で別の場所に移動するので、駒込駅へ向かう。途中に銭湯があった。
ここは坂道なのだが、道を水平に撮ってしまったので、建物が少し傾いて写っている。

HAGISOの銭湯展へつづく。

利休にたずねよ(映画)

「ゼロ・グラビティ」に続き、試写室大混雑の「利休にたずねよ」。
原作は読んでいませんが、映画はモントリオール世界映画祭で芸術貢献賞を受賞。
このモントリオール世界映画祭は、日本映画が受賞することが多いのですが、あのアカデミー賞外国語映画賞受賞の「おくりびと」もこの映画祭で受賞したのがすべての始まりだったような。
しかし、なんとなく、見る前から、どうせ欧米人は日本的な美が描かれていれば、それで満足してしまうのだろう、という予感があり、あまり期待はしていなかったのですが。
やはり、という感じです。
正直、千利休の奥さんがかわいそう、という印象しか持たなかった。
利休と秀吉の確執はいろいろドラマになっていると思いますが、ここでは、利休の人気が急上昇、それにあせった秀吉がジェラシー丸出しで利休を追い詰める、という感じ。
利休の美学は若い頃に恋した高麗の女に発している、というのが結論なのですが、この高麗の女とはほとんど一目ぼれで、あまり深くつきあう間もなく悲劇を迎えている。確かに若気の至りで、ロミオとジュリエットみたいに一途に恋して悲劇になる、というのはわかるのですが、これが美学の原点というのがどうにもわからない。
心中しようとして女だけ死んでしまい、男が生き残る、というのはよくある話で、いい気なもんだよと思ってしまう。
本物の茶器を使ったり、衣装が豪華だったりというのはあるが、ドラマが並みの出来でしかない。
あと、利休は切腹したとき70歳だったというが、海老蔵は全然老けのメイクしてませんね。
というわけで、やっぱり欧米人の驚く日本は日本人にはたいしたことがない、というのが再確認できた映画でありました。
もちろん、個別にこういうところに魅力を感じるとか、こういうのが好き、という人はたくさんいると思うので、だから試写室も混んでいたのだと思います。だから、人によっては楽しめる映画ではないかと思います。
つか、やっぱりこれ、男性が見る映画なのだろうな。若い頃の恋人を一生忘れず、それが美の原点、という、男のロマンね。その男のロマンに、秀吉が嫉妬し、妻が苦しむという話なのね、と、ああ、またイヤミ書いてしまった。好きな人、許せ。

2013年11月12日火曜日

またまた98%Fresh

またまた”RottenTomatoesで脅威の98パーセントフレッシュ”の映画を見てまいりました。
サンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニー主演、というか、この2人しか出ていない(正確には2人だけではないが)「ゼロ・グラビティ」。ただ今世界中で大ヒット中だそうです。
宇宙空間に放り出された2人の宇宙飛行士、ブロックとクルーニーが、猛スピードで地球のまわりを回り衛星も宇宙ステーションも破壊する宇宙のゴミの脅威にさらされながら、なんとか地球へ生還しようとする物語。3Dが効果的で、エイリアンなんぞいなくても宇宙は怖いという、シンプルでストレートでコンパクトにまとまったスペースサスペンス映画。
とても面白かったのですが、なんだかデジャヴ感が。
これって、「127時間」とか、ああいったサバイバルものと基本的に同じなのだ。
「127時間」は実話の映画化で、特にすごい山に登りに行ったのではないが、そこで腕をはさまれて動けなくなり、必死で生還するという話。こちらはほとんどジェームズ・フランコの一人芝居で、やはりシンプルで力強い映画でありました。
「ゼロ・グラビティ」は宇宙空間というのがユニークで、宇宙から見る地球の美しさ、人間が宇宙に残したゴミの恐ろしさ、よく考えればご都合主義のストーリー、でも手に汗握るサスペンス、そして3Dに特殊効果と、シンプルだけどゴージャスな映画。ただ、作り物である分、ゲーム感覚に見えてしまうのも否めない部分がある。次から次へと襲ってくるトラップをかいくぐり、みたいな感じ。
アカデミー賞有力とも言われ、サンドラ・ブロックがまたオスカー取るかもしれないな、と思いましたが、面白いし、見ごたえもあるし、特に文句を言う筋合いはないのですが、やっぱり98パーセントフレッシュだと、文句のつけどころはないけれど、そんなにすごくもないという感じが、またしてもしてしまうのです。
ただ、ここまでシンプルに、宇宙空間と人間だけで手に汗握る映画を作り出したのはすばらしい。3Dもよく生かされていました。

先週は「メイジーの瞳」と「さよなら、アドルフ」の試写に行きました。
「メイジーの瞳」はヘンリー・ジェイムズの小説「メイジーの知ったこと」の現代化で、原作は読んでないけど、かなり有名。
離婚した両親がそれぞれ幼い娘を独占したがり、でも、忙しいので、娘の世話は新しいパートナーにやらせるというか、娘の世話をさせるために新しいパートナーを選んだみたいなところのある、困った両親(けっこういい年なんだが)。
それに対し、それぞれの若いパートナーは、メイジーのために一生懸命やってくれて、メイジーにとってはだんだんこの2人の方が親みたいになってくる。
生みの父と母も娘を愛しているのだが、派手な仕事であっちこっち飛び回っているので、娘の世話ができないというか、娘を手放したくないくせに娘中心の生活になるのはどこかいやという、自己チューな親たち。対して、若い2人はかたや元ベビーシッター、かたやバーテンダーという庶民。メイジーをめぐるこの4人の大人たちの描写がなかなか面白い。
結局、父と母の新しいパートナーたちは、自分を利用するだけの彼らに嫌気がさし、若い2人とメイジーで擬似家族のようなものができあがっていく。この辺、とてもほのぼのとしていいのだが、同時に、ちょっとご都合主義というか、若い庶民の男女の方がここまで自己犠牲的というのがリアルでない感じがして、少し引っかかった。でも後味のいい作品。

「さよなら、アドルフ」は、日本語のタイトルがやわすぎる気がするくらい重くきびしい映画だった。
(注意 以下、ネタバレありです。)
ナチ高官の父と母が終戦後に戦犯として逮捕され、残された14歳の少女が赤ん坊を含む幼い弟妹4人を連れて遥か遠くの祖母の家をめざす。途中で、ユダヤ人虐殺の写真が貼り出されているのを見ると、そこにはナチ高官の父親が写っている。父がユダヤ人虐殺の当事者で、母もその事実を知っていただろうという衝撃。そして、誰も彼ら子供たちを助けてくれない中で、唯一、助けてくれたのがユダヤ人の青年だった。
なにものも美化しない映像が目をひく。何度も出てくる真っ赤な血。母の太ももについた血は、母が体を売って食料を買う金を手に入れたということだろうか? あるいは、レイプされたのか?
旅をする少女が目にする女性の死体も、下半身の血がレイプを暗示させる。
そして、自殺した男の血塗られた死体から腕時計をはずす少女。食料を手に入れるにも、赤ん坊に乳を飲ませるにも、必ず交換する物が必要だから。
この映画では女性の肉体がまったく美化されない。冒頭、鏡の前でブラジャーだけの裸身をさらす母親は、強制収容所のユダヤ人女性を連想させる。彼女が自分の姿を見て嘆く顔をするのは、そのためだろうか?
そして、長いつらい旅をする少女の肉体も、額や脚が傷だらけになっていく。
ドイツによるユダヤ人虐殺の事実と、父親が加担していたという事実を、どう受け止めていいのかわからない少女の苦悩。助けてくれた青年が実はユダヤ人ではなく、ユダヤ人の身分証を持っていただけだとわかったあと、少女はその身分証にはさまっていた写真を見る。この身分証を持っていたユダヤ人も、その家族も殺されてしまったのだということを、殺したのは父親だということを、少女が悟るシーンだ。
飢えて、傷だらけになり、幼い弟の1人も失って、少女たちはようやく祖母の家にたどり着く。裕福な祖母には少女たちの苦しい経験などわかりはしない。わずかな食料をがつがつと食べ、こぼした水をすくって飲むような生活が、強制収容所に、そして、終戦後の混乱の中にあるということに気づかない祖母。現実を知らない人、知ろうとしない人に対する怒りを少女は感じる。
少女が身分証のユダヤ人の写真を見るシーン。祖母の家の母の部屋に入ったとき、何の価値もない鹿の置物の意味がわかるシーン。そして、現実を知ろうともしない祖母に対して黙って抗議する食卓のシーン。この一連のシークエンスは言葉には言い尽くせないほどすばらしい。

2013年11月4日月曜日

携帯写真・上野公園のイベント

日曜は上野のツタヤにDVDを返しに行った。そしたら、なぜか、上野周辺は大混雑。いったい何が?
そして、日が暮れてから上野公園を通ると、なんと、イベントを開催中。「千の風になって」の歌声が聞こえてきた。コンサートをやっていた。強いライトが歌手(菅原やすのり)に当たっているので、正面から撮ると全身が真っ白になってしまう。しかたなく、斜め後ろに回って撮った。シャンソンも歌っていたけど、とてもいい声。

国立博物館と噴水の池。

博物館方面に近づきながら、ステージがある方を撮る。左の強い光があるあたりがステージ。

公園の博物館前のところのオブジェ。


博物館の壁に絵や美術品の写真が映し出されている。



ほかにも北斎の富士山とか、いろいろな絵があった。
コンサートは土日だけだけど、この光のイベントは月曜までやっているそうだ。

2013年11月3日日曜日

大昔に見た映画

ツタヤで旧作100円で借りた最後のイギリス映画は、「戦場にかける橋」。
これ、大昔にテレビで見たきりだったのです。
テレビなので、当然、吹き替え、カット版で、きちんと見なければ、と思いつつ、歳月が経過。
その間、リバイバルもあったのに、なんとなく避けていた映画でした。
理由は、デイヴィッド・リーン監督作の中では、唯一、好きでない映画だったから。
なんで気に入らなかったかというと、くだらないことで大騒ぎしている話のように感じたからなのですね。
今回しっかり見て、確かにくだらないことで大騒ぎしているけど、やはり名作だと思いました。
「アラビアのロレンス」と共通する部分があり、脚本家に同じ人がいるとわかって納得。
主人公のニコルソン大佐(アレック・ギネス)はロレンスと同じタイプの人間で、しかも、ロレンスほど理想化されていません。ロレンスは若さゆえの情熱がやがて空回りし、むなしい結末を迎えますが、ニコルソンはもういい年で、ロレンスのように若さゆえのもろさとかそういう部分がない。
ロレンスはアラブ人の預言者となって、彼らとともにアラブの国を築こうと思って行動しますが、結局それは彼の思い込みでしかなく、結果的にイギリスに利用されただけに終わります。
ニコルソン大佐は日本軍捕虜収容所で、イギリス軍捕虜の力で立派な橋を作ることでイギリス軍の力を見せつけようとしますが、それは彼の壮大な勘違いにすぎないのです。
映画は最初から、ニコルソンの考え方が壮大な勘違いにすぎないことをはっきりさせています。ウィリアム・ホールデン扮するアメリカ軍人や、イギリスの軍医がそれを指摘しています。
一方、日本軍の側はどうかというと、ニコルソンが壮大な勘違いから立派な橋を作ってくれるわけだから、日本軍はウハウハのはずなのに、リーダーである斉藤大佐(早川雪洲)はウハウハどころか、イギリス軍人に負けた、くーっとかいって泣いているのです。斉藤の方もニコルソンの壮大な勘違いにつきあってしまっているというか、この斉藤大佐はどう見ても普通の日本人ではない。そして、ニコルソンもどう見ても普通のイギリス人ではない。つまり、どっちもフィクションならではの相当に誇張された人物なわけです。
全体に、この映画は人物が何らかの役割を背負っている、誇張された、象徴的な人間で、ホールデンのアメリカ軍人は誇張されたアメリカ人、後半、彼と一緒に橋爆破に行くカナダ人も、イギリス人ともアメリカ人とも違うカナダ人という特性を背負った象徴的な人物です。
こういうシンボリックなタイプの登場人物にリアルな人間の複雑さを求めてはいけません。そこが「アラビアのロレンス」とは違うところです(「アラビアのロレンス」は人間の複雑さを徹底的に描いています)。
昔はこういうことがわからなかったので、ニコルソンの壮大な勘違いについていけなかったのだと気づきました(上に書いたような人物造型の理論は大学に入って英文学をやるようになってわかったのだった)。
そういうことがわかってから見ると、この映画は本当にシンボリズムがよく機能したすばらしい傑作だとわかります。
映画の半ばで、橋建設に行き詰まった斉藤に対し、ニコルソンはイギリス軍将校の持つ技術を利用し、自分たちが指揮を執ると主張、斉藤も受け入れざるを得なくなり、そのあたりからニコルソンが主導権を握り、斉藤はそれを黙認するだけになり、斉藤は沈黙してしまいます(お茶や食事を要求することで指導権を握るシーンが面白い)。ニコルソンが「こうしたらどうか」という提案に、「そうしよう」とは言えないので、「命令は出した」と小さく言うだけになり、その後は沈黙。最後はあっけなく殺されてしまいます。
橋が完成したとき、ニコルソンは斉藤に、「28年間、軍隊にいたが、自分の人生は有意義だったのか疑問に思っていた」と心情を吐露し、この橋を完成させたおかげで自分の人生が有意義になったと語ります。黙って聞いていた斉藤は一言も言わずにその場を去り、筆で文書をしたためて、自分の毛髪を切ってそこに入れるのですが、おそらくこれは遺書で、彼は自殺を考えていたのではないかという気がします。ニコルソンに完全に主導権を握られ、これで自分の人生は有意義になったとまで言われたら、斉藤のようなタイプの人(現実にこういう日本人がいるとは思いませんが)なら死を選ぶだろうと、私は思うのです。
つまり、この映画は壮大な勘違いをしている2人の軍人の戦いであり、斉藤はニコルソンを理解していたが、ニコルソンは斉藤の気持ちなどまったく理解していないと、私には思えました。そういう意味では、ニコルソンは無邪気なのです。
この映画がニコルソンと斉藤の2人の戦いだけだったら、壮大な勘違いの映画になるところですが、そこにこの2人とは違う視点を持つ人物を配して、壮大な勘違いを冷静に見つめる視点を入れ、それによって戦争のむなしさを象徴的に浮き彫りにしたところが名作のゆえんでしょう。
ラスト、ニコルソンの勘違いを冷静に見つめていた軍医が、「マッドネス、マッドネス(狂気の沙汰だ)」と叫ぶのは、コンラッドの小説「闇の奥」で語り手マーロウが最後に「ザ・ホラー、ザ・ホラー」と言うシーンに重なります(「闇の奥」を元にした「地獄の黙示録」ではウィラード(マーティン・シーン)がこのせりふを言う)。ニコルソンと斉藤は、「闇の奥」のクルツ(「地獄の黙示録」ではカーツ大佐)であり、軍医はマーロウであり、ウィラードなのです。