2025年1月19日日曜日

人生の残り時間をどう生きるか

 舌の口内炎がこれまでになく痛いので、なんだろうと思って鏡でよく見たら、大きな口内炎の真ん中にぽつんと小さい穴があいていた。どうやらこれができてから鋭い痛みがあるようだ。

熱いものも冷たいものもしみるので、ぬるま湯をどう常備するか考えたところ、携帯用の500mlのマグボトルに熱湯を入れておいて、水で薄めればいいのだと気づいた。このマグボトルは真夏に谷中の猫に会いに行くときや上野動物園へ行くときの水分補給として買ったのだけど、サーモスみたいな立派なものじゃない安物なので、すぐにぬるくなってしまう。そんなわけであまり使ってなかったのだが、ぬるま湯用ならぬるくなっても無問題。捨てないでよかった。

さてさて、私くらいの年齢になると、人生の残り時間をどう生きるか、が非常に問題になってくる。

80歳とか90歳とか100歳とかまで生きても大丈夫なくらいの資産があれば別だが、私の場合、今年から収入激減、3年後には無職になる。高齢者の仕事というと清掃や交通整理、工場のような肉体的にきびしい仕事しかないので、そういう仕事をして体をすり減らして長生きできないよりは、貯金が尽きるまでやりたいことをやってすごす方がいいという気がする。

今のように物価がどんどん上がっていくと、いったいいつまで貯金が持つかはわからないが、とりあえずあと5年か6年と考えてその残り時間に何をするかを考えている。

10年近く前から、古典文学の翻訳を出す、ということを考えていた。報酬は安いだろうが、少しでも収入になればいいし、訳したい古典もいくつかある。企画を持ち込むことをずっと考えていた。

でも、なんというか、これまでの苦い経験で、文芸翻訳の世界に対する不信感があって、どうも行動に移せないまま来てしまった。

翻訳が売れないせいか、古典の新訳は次々と出ている。前に出たのが絶版になり、それで別の出版社が新訳を出して、という繰り返しで、何種類も翻訳が出ているものもある。ミステリーや新作小説を訳していたような翻訳者がそっちで仕事していたりする。そうかと思えば、ほとんど実績がない大学教授がいきなり有名な古典の翻訳を出版。

10数年前だったらまだ出版界に知り合いがいたので、状況を聞くこともできたが、年をとると知り合いの業界人がみんな引退してしまって、情報を得ることもできない。翻訳の世界は有名な翻訳家の弟子であるとか、そういう縁故の強い世界で、売り込みに行っても企画だけ取られて別の翻訳家にやられてしまうこともあるので、どういう世界かわからないところへ売り込みに行くのはためらわれる。

まあ、結局、翻訳というのは誰がやってもあまり変わらないというか、ある程度の実力のある人だったら誰でもいいわけで、古典の新訳なら旧訳があるので誤訳等も少ないだろうし、縁故のある人や肩書のある人に依頼されるだろうな、ていうのは想像にかたくない。

バブルの頃は無名の人が翻訳の企画を持って出版社をまわり、採用されるということも珍しくなかったが、20世紀末あたりからそれはもう不可能になっている。

というわけで、人生の残り時間を古典の翻訳に、というのはあまり有意義ではないな、と思い始めている。かわりに別のことをした方がいいのだが、さて、何をすべきだろうか。

というところで、先週の日曜日、谷中に出向いた帰りに寄った不忍池辯天堂。桜のような花が咲いていた。




アマゾンのキンドルアンリミテッドで古典新訳が無料で読めるようになっているのも衝撃的だった。出てから1年もたってないものまである。