2017年5月10日水曜日

「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」(ネタバレあり)

マイケル・キートンがマクドナルドの自称・創業者(ファウンダー)、レイ・クロックを演じる「ファウンダー ハンバーバー帝国のヒミツ」を見た。
キートンといえば、「バードマン」、「スポットライト」と2作連続主演作がアカデミー賞作品賞を受賞。なのでかどうか知らないが、クロックが映画館で見るのは1954年の作品賞受賞作「波止場」。
しがないセールスマン、クロックが、カリフォルニア州のあるハンバーガー店がミルクシェイクを作るマルチミキサーを8台も注文したので、いったいどういう店だろうと思い、はるばる中西部から見に行くと、店には大行列。しかし、注文してすぐにハンバーガーが出てくるので列はどんどんはける。店の前にはベンチが少しあるだけで、そこで座って食べていると、店のオーナーが来て、ミキサーのセールスマンだとわかると店内を見学させてくれる。
店のオーナーはマクドナルド兄弟。店の名前はマクドナルド。徹底した効率のよさで次々と注文をさばく。商品はハンバーガーとポテトとドリンクのみ。ハンバーガーもポテトもうまい。
これは全国的なチェーン展開すべき、と提案するクロック。手を広げるとクオリティが保てない、と反対する兄弟。しかし、クロックに押され、フランチャイズを彼に任せることになる。
という実話の映画化で、前都知事のような顔のキートンが最初は試行錯誤しながら、やがてフランチャイズを成功させ、しかし、初心を貫きたいマクドナルド兄弟と対立し、というドラマが展開する。
この手の「実話にもとづく」という映画は、最後に、「実話にもとづいているが人物やエピソードは創作された部分もあります」という但し書きがついていることが多い。が、この映画、そういう但し書きがなかったのですね。つまり、かなり事実に近い?
ただ、創作はしてないけど削ったところは当然あるので、足し算ではなく引き算の創作という可能性もある。
それはともかく。
マクドナルド兄弟の作っているハンバーガーのおいしそうなこと。
バンズはふっくらとして、肉は分厚い。鉄板で焼いているところかおいしそう。
今のマックの薄っぺらな肉とうまみのないバンズ、あれはなんなのだ。
まあ、100円だから文句は言えないけど、日本にマックが来たときからマックのバーガーはあんな感じだった。日本に最初にマックが来たとき、銀座の三越の一角だったけれど、窓口で買うだけで、あとは立ち食いだった。でも、バーガーはたしか50円で、ドリンクも安くて、よく食べた気がする。
マクドナルドがあれほど大きな世界企業になったのはやはりクロックの力が大きいのだろうというのはよくわかる。いろいろ考えてやっているし、成功のためなら人も蹴落とすみたいなところもある。ただ、映画では抵当に入れた家を銀行にとられそうになるほどの苦境から、間を飛ばしていきなり成功者になっていたりと、ちょっと飛ばしすぎなところもある。離婚と再婚のあたりもそのあたりの事情とか全然描かれない。
一方、マクドナルド兄弟は職人タイプで、事業を大きくすることを望まず、今のままでいたいというか、今のままでないとクオリティが落ちると考えている。だからクロックの提案をことごとく蹴る。その中にはミルクシェイクの素みたいな粉末を水に溶かしてかきまわすとシェイクになる、というのがあって、これだと大幅に経費節減、ということで兄弟に内緒で強引に導入してしまうのだが、マックのシェイクがあんなのでできてるんじゃ、もう飲みたくない、と思ったら、さすがにあれはアイスクリームに戻したと最後に字幕で出ていた。
シェイカーのセールスがきっかけで始めたのに、そのシェイクを否定するようなことをする、というのがなんとも。
結局、マクドナルド兄弟はマクドナルドの商標権をクロックに売らざるを得なくなり、兄弟は自分の名前を店の名前にできなくなり(本名を使えないあの日本の女優のようだ)、その店のそばにマックができて、兄弟は店を閉じることになってしまう。
なにがなんでもマクドナルドの名前は売らない、と主張することもできたと思うのだが、兄弟もクロックとの対立に疲れたのだろう。
商標権を売ったあと、トイレで出会ったクロックに、マクドナルド弟が言う、「最初に店に来たとき、店の中を見せて、ノウハウも教えたのに、なぜ勝手に自分で商売を始めなかったのか」
するとクロックは言う、「マクドナルドという名前が成功の秘訣だと思った。クロックなんて名前の店で食事したいと思うやつはいない」
マクドナルドというのはスコットランド系やアイルランド系の名前で、ロシア東欧が起源らしいクロックよりはるかにアメリカで受ける名前なのは間違いない。うーん、でも、マクドナルドに似た名前ならいくらでもあるので、それを使えばよかったのでは?
マクドナルド兄弟があれほど自分たちのやり方にこだわらず、妥協していたら、もっと違う展開になったのかもしれない。クロックは、最初の段階では、やはり兄弟が必要だったのではないか。
成功者が初期の仲間を切り捨てる、みたいな、よくあるパターンのような感じもする(スティーヴ・ジョブズもそうだったな)。
クロックは特に、兄弟の考えたアーチのある店のデザインが気に入っていた。クロックとマクドナルド兄弟の関係は映画に描かれたよりはもっと複雑なのだろう。
最後にご本人の声や顔が出てくるけれど、どこかドナルド・トランプっぽいな。ああ、トランプもドナルドか。

2017年5月7日日曜日

救出のバトンとモンタージュ:「君の名は。」のクライマックスについて

「君の名は。」のクライマックスについて、私は大きな間違いを2つ犯していた。
1つは前日の記事、「三葉の父親について」で書いた。
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/05/blog-post_6.html
三葉が父親を説得できるはずがない、と思った、というのが最初の大きな間違い。
次の大きな間違いは、上の記事リストの(3)で書いた、父親が説得された背景として亡き母・二葉の存在が大きい、ということ。
こちらは(3)の記事にあるとおり、新海誠ではない別のライターが書いた外伝でも書かれていることなので、おそらく信じている人が多いと思う。私もこの外伝を読む前から、亡き母・二葉が大きな役割を果たしていただろうと思い、それを感じさせるシーンを数秒でいいから入れてくれたら、と思った。
しかし、これも間違いだったのだ。
この外伝は新海誠の意図に従って書かれたものではないらしい。ある程度のヒントはもらっているだろうが、この外伝の父親のエピソードは二葉がすべて仕組んだみたいになっていて、ここまで行くとちょっとやりすぎだなあ、と、読んだときにも思った。
確かに映画では代々、宮水家の女性が若い頃に入れ替わりを経験するとなっていて、それはすべてこの彗星災害を回避するためだったのではないかと、三葉に入った瀧が言う。
しかし、三葉が最終的に父親を説得できたのは、二葉の仕組んだことではないということが、何度も見るうちにわかってきた。
そのきっかけとなったのが、次の3つの文章である。

(1)アメリカの批評家、Rebecca Pahleの映画評(英語)
http://www.pajiba.com/film_reviews/your-name-review-one-of-the-most-beautiful-animated-films-ever-came-out-on-friday.php
4月に「君の名は。」が北米で公開され、あちらの批評家の絶賛を集めているが、中でもこの批評は大絶賛。そして、最後の部分で、この映画には「2001年宇宙の旅」のスターゲイト・シークエンスに相当するシーンがある、と指摘している。

(2)Japan Timesの記事(英語)
http://www.japantimes.co.jp/culture/2017/04/20/films/japan-take-pride-name/#.WQ3usHmJGAI
Japan Timesは「君の名は。」に関する記事を何度も掲載していて、その中には新海誠の興味深いインタビューもあるが、この記事は映画の成功を讃える内容。その中で特に注目したのは、この映画の中心にはa youthful optimism(若者の楽観主義)がある、という指摘。

(3)個人のブログなので、アドレスがわからなくなってしまったのだが、「この世界の片隅に」の原作と映画を比較した記事。映画ではカットされた遊郭の女性のあるエピソードの重要性について語っている。

以下、クライマックスについてネタバレどころか相当に細かく書いていますので、ご注意ください。

まず、(1)のスターゲイト・シークエンスに相当するシーンというのは、「君の名は。」で三葉を探しに飛騨までやってきた瀧が、3年前の彗星災害で三葉が亡くなっていることを知り、もう一度、彼女と入れ替われたらという望みを抱いて神社のご神体に行き、そこで三葉の半分である口噛み酒を飲むシーンだ。
飲んだ瀧は足を滑らせて倒れ、そこから幻想シーンが始まる。このシーンは他のシーンとは別の人(美術家でアニメ作家でもあるらしい)が担当したとのことで、絵柄が他のシーンとは違っている。また、彗星のかけらが日本列島の沈む水の中に落ちていくといった幻想シーンが非常に美しい。
水の中に落ちたかけらはやがて受精卵となり、三葉が生まれる。そこから三葉と家族の過去の物語が始まり、父親の妻と子への深い愛情、妹・四葉の誕生、母の病死、絶望した父が家を出ていくといったシーンが続く。そして、瀧と奥寺先輩のデートの日に東京へ行こうとする三葉。
受精卵や水に沈む日本列島といった幻想的な描写はスターゲイト・シークエンスに似たシーンがある。また、「2001年宇宙の旅」では主人公の目がアップで映され、彼が見ていることが強調されるが、「君の名は。」の幻想シーンでもこの光景を見ている瀧の顔が何度か映し出される。
口噛み酒を飲んだ瀧がスターゲイトを通って3年前の三葉の体に入っていくことを表現したシーンだが、それだけでなく、三葉の過去を見せることで、父親の娘への愛や家族の関係、そして三葉が瀧に会いに行ったことを瀧が知るきっかけとなる。
三葉の中に入った瀧は、テッシーとサヤカに彗星災害の話をし、変電所を爆破して町民を避難させる計画を立てる。そして、娘の三葉なら父である町長を説得できると確信するのだが、それはあの幻想シーンで父親の三葉への愛を知ったからだろう。
しかし、父親のところへ行った三葉(瀧)は説得に失敗しただけでなく、本物の三葉でないことを町長に悟られてしまう。
「本当の三葉じゃないとだめなのか」そう思った瀧は、瀧の体の中にいる三葉を探しにご神体へ行く。
幻想シーンのあと、瀧が三葉になって目覚めたあたりから、三葉と出会う「かたわれどき」までは本当にすばらしい。この間に瀧は3年前、三葉が東京に来て、電車の中で出会ったことを思い出す。
「かたわれどき」が終わり、瀧は現在に取り残され、三葉は3年前の糸守でテッシーとサヤカとともに町民を救うために奮闘するが、うまくいかない。この三葉とテッシーが神社で町民を避難させようとしてうまくいかないあたりがちょっとイマイチな描写なのだが、三葉が「あの人(瀧)の名前が思い出せない」と言い、テッシーが「そんなこと言ってる場合か、町長を説得しに行け」と言うあたりからまたすばらしい展開になっていく。
その中心にあるのは上の(2)のJapan Timesの記事に書かれた「若者の楽観主義」なのだ。

現在に取り残された瀧は言う。
「おまえが世界のどこにいても、必ずもう一度会いに行く」
父親を説得しようと走る三葉は途中で転んでしまう。そのとき、手のひらに名前を書かれたと思って見ると、「すきだ」と書いてある。
一瞬、「名前を書いてくれないなんて」と悲観的になった三葉だが、すぐに思い直して立ち上がる。
「すきだ」は瀧の「おまえが世界のどこにいても、必ずもう一度会いに行く」に呼応する。
そして、瀧の「必ず会える」という楽観は、三葉の「必ず救出できる」という楽観へと変わる。
楽観主義とは、前向きな姿勢、ポジティヴ・シンキングのことなのだ。
父親を説得できるとは思えない、などというネガティヴ・シンキングをしていた自分が恥ずかしい。
この若者のポジティヴな思考が父である町長を説得したのだろう。幻想シーンで妻を失った父親は「救えなかった」と嘆くが、今度は父親が町民を救う番なのだ。救出のバトンは瀧から三葉へ、三葉から町長へとつながったのである。
このシークエンスにはみごとなモンタージュがある。彗星が割れたあと、テッシーが父親を説得しようとする短いカット、サヤカが大人たちを説得しようとする短いカットが挿入され、東京や他の場所で割れた彗星の美しい天体ショーをのんきに見たり報道したりする様子が描かれ、そして父のところに駆けつける三葉のシーンへとつながる。
瀧が入った三葉が彗星が割れて隕石が落ちると言った主要な相手は4人。祖母とテッシーとサヤカと父親で、祖母とテッシーは信じたが、サヤカは半信半疑、父親はまったく信じなかった。祖母が町長の部屋にいたのは説得に来ていたのだろう。テッシーとサヤカは彗星が割れるのを見て、大人たちを必死で説得する。残る町長も、空を見れば三葉の言葉を信じるだろう。
つまり、亡き母の力といったオカルト的なことではなく、現実的な布石がきちんと置かれているのである。

(3)の「この世界の片隅に」のブログ記事にすばらしい指摘があった。
主人公すずが遊郭で出会い、仲よくなる女性リンが、実はすずの夫の恋人だったことがわかるエピソードを、映画はカットしている。この部分は非常に重要なので、片淵監督はもちろん入れたかったのだが、予算や上映時間の関係でやむなく削らざるを得なかったのだという。
ブログでは、すずが終戦の日に日本がアジアの国々で何をしていたのかを知ることと、夫とリンの関係を知ることが対になっていると指摘していた。
すずは戦争中、日本が他国を侵略し、植民地にしていることを知らなかった。そして、夫が結婚前にリンとつきあっていたことも知らなかった。原作では終戦の日にすずが唐突に日本がしてきたことについて語るが(映画でも語るのだけど原作よりわかりづらくなっている)、夫とリンの関係を知ることと対になることでこのシーンが補強されている、とブログ主は書いていた。知らなかったことを知るということが、戦争という大きなレベルと、個人という小さなレベルの両方で表現され、作品を深いものにしている。
これは本当にすばらしい指摘で、映画の方もぜひともこのエピソードを入れた完全版を作ってほしいと思う(現在の映画では、エンドクレジットにこのエピソードのカットが入っていて、原作を読んだ人にはわかるようになっている)。
そして、このブログを読んで気づいたのは、「君の名は。」もまた同じ構造を持っていること。
すでに上に書いたように、「必ず会える」という楽観論が「必ず救える」という楽観論と対になっているが、これもまた、町の人々を救うという壮大なドラマと、瀧と三葉の個人的なドラマを重ねることで作品に深みを与えている。

最後に、三葉と四葉の姉妹は「アナと雪の女王」のエルサとアナの姉妹に似てるな、と思った。
責任ある立場に置かれ、その状況がいやで逃げ出したい姉と、地に足のついた妹。
おそらく姉妹のアーキタイプなのだろう。

2017年5月6日土曜日

「君の名は。」記事リスト&三葉の父親について

このブログの「君の名は。」主要記事リストです。(本人備忘録用)

(1)「アンナとアントワーヌ」&「君の名は。」(2016年9月4日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2016/09/blog-post_4.html
(2)「君の名は。」追記(2016年9月4日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2016/09/blog-post_78.html
(3)みたび「君の名は。」(2016年10月13日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2016/10/blog-post_13.html
(4)「君の名は。」の教訓(&「マンチェスター・バイ・ザ・シー」)(2017年3月12日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/03/blog-post_12.html
(5)ついにリピーターに(「君の名は。)(2017年3月15日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/03/blog-post_75.html
(6)「君の名は。」展(2017年3月17日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/03/blog-post_17.html
(7)「ムーンライト」+1(2017年3月31日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/03/blog-post_70.html
(8)ついに「君の名は。」が終わってしまう。(2017年4月12日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/04/blog-post_12.html
(9)8日で4回「君の名は。」(2017年4月16日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/04/84.html
(10)「君の名は。」某シネコン最終日(2017年4月29日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/04/blog-post_29.html
(11)「君の名は。」@有楽町スバル座(2017年5月3日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/05/blog-post.html
(12)昔やったことを久々にやる(と疲れる)82017年5月5日
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/05/blog-post_5.html

(3)がわりとよく読まれているみたいなのですが、リピーターになったのは(5)から。
(1)は見た直後の感想で、三葉が父親を説得できたとは思えない、という不満を述べていて、今となっては恥ずかしい限りですが、残しているのは、最初の感想にも一抹の真理があったと認識しているからです。ただ、それはもっぱら私の個人的な思い入れだったのですが。

2度目を見たとき、「父親を説得できたとは思えない」という感想は完全に間違っていたとわかりましたが、なぜ私がそう感じたのかというと、単に細かいところを見落としたというだけではないと思ったので、今回はこのことについて書きます。
2度目に見たあと、リピーターになり、今現在13回見ているのですが、2度目以降、ずっとひっかかるシーンがありました。それは、組紐を作るシーンで、祖母の一葉が三葉の父のことを「あのバカ息子」と言うところです。
最初に見たときはひっかかりは感じませんでした。なぜなら、この時点では、父親が婿養子だということは隠されているからです。
しかし、二度目以降では婿養子だということがわかっているので、違和感を感じたのです。
普通、姑が婿養子のことを「あのバカ息子」とは言わないでしょう。本当の息子でないと出てこない言葉だと思います。「あのバカ婿」となら言うかもしれませんが。
また、父親は家を出た後も宮水の姓を名乗っています。だから、この時点では初見では父親が婿養子だとはわからない。
父親は宮水としきという名前だということは選挙演説のシーンでわかります。
彼が婿養子だとわかるのは、神社のご神体で瀧が口噛み酒を飲み、三葉誕生とその後に関する幻想を見るシーンです。ここで母の名前が二葉であること、父親が婿養子であることがわかります。この幻想シーンの父親はとてもやさしく、妻と子に対する愛にあふれ、映画の最初に町長として登場する家父長的なガンコ親父とは別人のようです。
今では後半の部分がわかっているので、家父長的な父親がほんとうは愛情あふれるやさしい男性だったことがわかるのですが、初見のときはこの家父長的なガンコ親父とそれに反発する三葉の対立に目が行ってしまい、私は家父長的父親と娘の対決を期待してしまいました。なぜなら、家父長的な父を乗り越えるのは子供、特に息子の成長に必要なドラマとして、多くの映画や小説に描かれてきたからです。娘にとってもこうした父を乗り越えることは重要なのですが、父と娘のこうした対立はフィクションには少なく、「君の名は。」はそれを描いてくれる映画だと、初見の私は期待しました。そして、三葉が父を乗り越えるのは、父を説得したときだ、と。
おそらく、新海監督の頭にも、娘が父を乗り越えるモチーフはあっただろうと思います。ただ、それはこの映画にとっては重要なモチーフではなかった。むしろ、家父長的な父は宮水としきの本来の姿ではなかった、と、幻想シーンは告げています。
宮水家は女しか生まれない女系家族のようで、おそらく、代々、婿養子をもらっていたのでしょう。そういう家の人を現実に知っているのですが、こうした家では家長は女性、家母長なのです。そして婿養子となった男性は、おとなしく控えめな人が多いようです。
宮水家では一葉が家母長で、としきはその下に控える立場だったでしょう。が、妻が病で亡くなり、「救えなかった」と嘆くとしきは、おとなしい婿養子から家父長的な強い男性になりたいと思い、家を出て、町長になった、と考えられます。

以上が、これまで、書く、書く、と言ってまだ書いてないことの前段。
そろそろ書くかな。

2017年5月5日金曜日

昔やったことを久々にやる(と疲れる)

10代の頃にやったことを今またやることになるとは。
火曜日に続いて、木曜日もスバル座へ「君の名は。」を見に行ったのですが、今度は2回見てこようと思い、パンを持参。
スバル座は今日5日までなのですが、最終日は混むだろうし、スバル座は金曜日は初回は割引料金らしい(大人・大学生1400円)。
1日はファーストデー、3日はレディスデーで、かなり混んだようですが、2日は平日なのであまり混まず。が、4日の木曜はサービスデーではないけれど祝日なので、わりと混んでいました。というか、1日4回あるうちの2回目から行ったのだけど、この2回目が一番混むみたいで、着いたらチケット売り場に列ができてるのでびっくり。子供連れのファミリーも多かったし、前半、笑い声もよく聞こえたので、初めて見た人も多かったのかもしれない。
で、行列に並んでチケットを買い、中に入ったら最前列は人がけっこう座っていたので人が少ない2列目で見ました。最前列だとステレオの音声が左右に分裂していたけれど、2列目はそういうことはなく、画面も最前列よりはかなり見やすい。
で、この2回目の上映と3回目の上映を見る予定で、3回目の上映では3列目に移ったら、さらに見やすかった。そして、このあと帰る予定だったのですが、別に明日休みだし、と思ったら、そのまま座って夜の回も見てしまったのです。
映画館で同じ映画を続けて3回見たなんて、片手の指で数えるくらいしかなく、すべて10代の頃。
おまけにこの映画は細かいところまで凝視してしまう作品なので、3回目はかなり疲れました。
でも、最後の回が終わると案内放送があって(蛍の光が流れる映画館もあったけど、ここは流れなかった)、こういう映画館久しぶりだなあ、となつかしさいっぱい。
そして、そして、久しぶりに映画のパンフレットを買ってしまいました。
うーん、最後にパンフレット買ったのいつだろう。
20代のはじめくらいまではパンフは必ず買っていました。
当時は入場料が学生400円くらいで、パンフは100円から150円。
しかし、その後、入場料もパンフの値段も上がり、また、部屋にパンフがどんどんたまっていくのも困りものだったので、20代前半くらいから本当にほしいと思うものしか買わなくなりました。
30すぎたらめったに買わなくなったと思います。最後に買ったのがいつか思い出せない。
たまったパンフは10年前の引越のときに多くは捨ててしまいました。それでも段ボール箱1個分くらいはまだ押入れにあります。
「君の名は。」のパンフレットは8月の公開時のものと、12月に出た第2弾があって、両方買いました。今はパンフは1冊720円もするのか。見本を見て、けっこう充実していると思ったので買いましたが、若い頃と同じような場所で、同じようなやり方で売られていて、これまたなつかしさがこみあげてきます。
スバル座は昔はチケット売り場が1階だったけれど、今は踊り場みたいなところにあります。
ポスターに、「いよいよ5日まで」という紙が貼ってあるのも昔の映画館。
しかし、昔の映画「君の名は」は舞台が有楽町(数寄屋橋)だったはずで、新しい「君の名は。」を有楽町スバル座で見るのは感無量な感じもありますが、6日からはこの周辺では上映館がなくなってしまうのもなんとかならんのかなあと思います。渋谷、新宿、池袋は続映のようです。あとは、「シン・ゴジラ」の聖地・蒲田が続映。

2017年5月3日水曜日

「君の名は。」@有楽町スバル座

どうもしばらく前から「君の名は。」以外の映画をあまり見ていない状態になっています。
終わる、終わる、というのでどうしてもこればかり見に行ってしまうのですが、実際、上映館はかなり少なくなっています。
で、5日まで上映の有楽町スバル座へ。
1日はファーストデーで混むと思い、3連休前の2日の昼間に。
ここは入れ替え制じゃないので、2回続けて見たかったですが、そのあと仕事で見る試写があったので移動。(この試写で見た映画の方は活字化されたときに紹介します。)
新宿ミラノが閉館してから映画館はシネコンばかりになっていたので、久々の昔ながらの映画館。
わあ、幕が開閉する、とか、上映開始のチャイムが鳴る、とか、案内放送がある、とか、もうこの時点でうきうきします。
まあ、シネコンだと、貝社員とか歌うオバケとかラッコ人とか東宝シンデレラとか毎回見せられて正直うんざり。この前シネコン行ったときはこれらが終わった頃を見計らって入りましたが、それでもポップコーンの歌とか見せられる。
が、スバル座では、休憩時間には「君の名は。」の歌がかかっていて、予告編は渋めの落ち着いた作品ばかり。あの映画泥棒はさすがに見ないわけにはいきませんが、なんかすごく落ち着いた雰囲気でした。CDを流していると思われる「君の名は。」の歌は映画で聴くより音質がいい。
そしていよいよ本編。
前回のシネコンでは前を何度も通られたので、ここでは最前列に座り、かぶりつきで見ました。
シネコンは前の方に出入り口があるので、前を通られなくても人の出入りが目に入って気が散るのですが、昔ながらの映画館は後ろが出入り口なので、最前列だと他の人がまったく気にならない。
帰りも他のお客さんの帰る姿を見ながら通路を後ろまで歩いていくので、余韻が楽しめます。
しかし、ほんとにシニアのお客さんが多い。
というわけで、今回は本当に集中して見ることができました。
また、スクリーンの違いなのか、映像がシネコンのときよりやわらかい感じ。陰影もこちらの方が感じました。かぶりつきで見上げる感じだったせいか、これまでとは違う印象のシーンがあったり、スピーカーが近いせいかこれまで聞こえなかったものが聞こえたり。
ただ、最前列だと無理な姿勢になるので、ちょっと疲れます。最前列で2回続けてはきついかな。
しかし、見れば見るほどまた見たくなるので、今回(10回目)で終了とはならないかもしれない。でも、上映館がだいぶ減るので、遠征が必要になりそうです。

で、書く、書く、と予告していたことはまた今度。