マイケル・マン監督の久々の新作。
「ラッシュ プライドと友情」や「フォードvsフェラーリ」のようなレースを舞台にした男たちのドラマかと思ったら違った。
1947年、妻のラウラとともにフェラーリ社を設立したフェラーリ。それから10年後の1957年のある時期が舞台。前年の56年にフェラーリとラウラの息子ディーノが難病で他界。フェラーリは第二次世界大戦中に知り合ったリナと愛人関係にあり、リナとの間に息子ピエロがいるが、認知しようとしない。ラウラとの夫婦関係はすでに破綻しているが、ラウラは夫が他の場所で家庭を築いていることを知らない。フェラーリは夜はリナとすごし、朝になるとビジネスパートナーでもあるラウラのところに戻る、という生活。
つまり、これはフェラーリと妻と愛人の物語。だから、レーサーとかレース関係者とかライバルとかは、この2人の女たちよりも扱いが軽くなる。
元レーサーであり、今もレースにのめり込むフェラーリだが、映画はレース映画というよりは、家族の問題がメインになっている。
マイケル・マンといえば、女性描写がだめだめ、というのが定評で、実際、女性は刺身のつまみたいな映画ばかりだったのだが、これはどうしたことか?
特にラウラを演じるペネロペ・クルスはまるでソフィア・ローレンのようなしかめっ面をして、アダム・ドライバーのフェラーリを圧倒する存在感。
これはいったい?
マンといえば、「ヒート」のパチーノとデ・ニーロ、「インサイダー」のパチーノとラッセル・クロウ、という具合に、2人の男の対決や葛藤を描いてきた監督。で、「フェラーリ」は、と思ったら、そうだ、ここではラウラがパチーノなのだ。そして、フェラーリはデ・ニーロやクロウ。
ラウラはぐいぐいと押していく。それに対し、フェラーリは受け身。発砲するラウラは、マンにとっては男性主人公なのではないか?
それに対し、愛人のリナの方は、これまでのマンの映画の女性たちとあまり変わらない。
リナとその息子ピエロの存在を知ったラウラは、息子ディーノが不治の病に苦しんでいたときに愛人のところへ逃げていたことを責める。ラウラにとって、ピエロを認知することは、死んだばかりのディーノの存在を否定することだ。だから彼女は絶対に許さない。フェラーリもディーノのことは片時も忘れたことはなく、毎日墓参りしているくらいだから、ピエロを認知しないのはやはりディーノのことがあるからだろう。
ラウラは強い母、フェラーリは弱い父である。ピエロに関して常に及び腰なフェラーリの態度にそれは表れている。
息子たちをめぐるラウラとフェラーリの対立は、しかし、マンにかかると家族のドラマというよりは、むしろ男と男の争いのようにさえ見える。ラウラは性別を超越した存在にさえ見える。
クライマックスは公道で行われるレースで、ここで観客を巻き込む大惨事が起こる。このレース、始まったときから車が猛スピードで走るすぐそばで人がたくさん見ているので、危ないな、と思っていたら、ああ、こういう結末になるレースだったのか、と納得した。レースの描写が「ラッシュ」や「フォードvsフェラーリ」のようなレース映画とどこか違っていて、違和感を感じていたのだが、そのわけがわかった気がした。死者の中に子どもが何人もいたことが、フェラーリの動揺を深める。子どもの死は彼に深くのしかかる。
窮地に陥ったフェラーリを救うのは、ビジネスパートナーのラウラである。常に決闘しているようだった2人の対立は、ここで1つの決着を見る。勝ったのはラウラだが(そう、あの2本の映画で勝ったのがパチーノだったように)、フェラーリと息子ピエロにも明るい未来があることを暗示して映画は終わる。
近くのシネコンでもやっていたのだけど、時間が合わなくて、久々に南船橋のTOHOシネマズで見た。IKEAにも寄って、レストランでくつろぐ。いろいろ値上がりしていたけれど、からあげがおいしかったし、ドリンクバーもよかった。