ギレルモ・デル・トロがネットフリックスで作った「フランケンシュタイン」が配信前2週間劇場公開。上映館が少ないせいか、この劇場にしてはかなり混んでいた。
公開前の情報だと、ケネス・ブラナー版と同じように始まり、でも、そのあとはだいぶ原作を変えているようだった。トロント映画祭で見た一般観客には評判がいいが、大手メディアの評論家はきびしく、100点満点中60点くらい。一般観客のコメントには、「ブラナー版の劣化ヴァージョン」とか「CGの狼が~」とか批判的な意見もあった。
ブラナー版は、それまで原作を大きく変えていた映画と違い、「メアリ・シェリーのフランケンシュタイン」という原題が示すように、原作に忠実な映画化。細部に変えたところはいくつかあるものの、それまでの映画では登場しなかった北極点をめざすウォルトン船長から始まり、原作のテーマやモチーフを尊重した作品だった。ただし、クライマックスはボリス・カーロフの「フランケンシュタインの花嫁」へのオマージュ。
事前の情報で、フランケンシュタインがスイス人からイギリス人に、ウォルトンに相当する船長がイギリス人からデンマーク人に変えられ、フランケンシュタインの婚約者エリザベスが弟ウィリアムの婚約者になっていて、このウィリアムも原作では幼い少年なのに映画では大人になっている、フランケンシュタインの親友クラーヴァルは登場しない、無実の罪で死刑になるジュスティーヌも登場しない、などはわかっていた。
デル・トロへのインタビューが公開直前にヤフーニュースに出たが、そこで彼は過去の有名な「フランケンシュタイン」の映画化作品の名前を次々とあげているのに、なぜか、ケネス・ブラナー版には言及していなかった。どう見てもブラナー版に近いところから始まる映画なのに、なぜ、と思ったが、映画を見始めてすぐにわかった。
映画は北極点をめざす船長のエピソードで始まり、船長に助けられたフランケンシュタインの回想になるのだが、ブラナー版が原作を変えた部分をそのままいただいているのである。
ブラナー版ではフランケンシュタインの父は医者で、妻はお産で死ぬ。しかし、原作の時代では身分の高い人は医者にはならない。そして、原作では妻は病死で、お産で死ぬのではない。
デル・トロはこの部分をそのまま自作にも使い、父は外科医で、妻はウィリアムを産んで死ぬ。デル・トロ版は時代が1850年代と、原作より半世紀くらいあとになっているが、それでも身分の高い人物が医者というのはまだの時代だろう。ただ、半世紀くらいあとに設定したことで、科学は原作よりも少し進んでいる。
また、ブラナー版では父と母は夫婦円満であり、妻の命を救えなかったことが父親と、そして主人公の心に深い傷を残すが、デル・トロ版では両親は政略結婚で不仲、特に父親は冷酷で名誉欲が強く、主人公は母を慕うが、その一方で、成長すると父親のような人物になってしまう。
というわけで、邪悪な父親に似てしまったフランケンシュタイン、という設定なのだが、この家庭の事情というのが別になくてもいいんじゃね、というような内容。ブラナー版の母の喪失から生命創造を思う方が自然に見える。
原作ではフランケンシュタインもウォルトン船長も若さゆえの野心を抱いていて、ブラナー版もそれを踏襲している。特にウォルトンを演じたエイダン・クインはよかった。
ところがデル・トロ版では船長は初老、フランケンシュタインも怪物を作る頃にはもう中年という感じで、若者の野心というテーマは消えてしまっている。原作では野心で身を滅ぼしたフランケンシュタインが北極点到達の野心にとりつかれるウォルトンをいさめるために自分の話をする。ブラナー版ではここはきっちり描かれているが、デル・トロ版も一応、そういうのは出てくるけれど、デル・トロはそういう原作のテーマみたいなのには興味がないようで、この辺は原作にあるので一応入れておきましたという域を出ない。
怪物を作る過程がデル・トロ版は非常に長く、そこにけっこうグロな描写があり、ブラナー版みたいに裸で右往左往するシーンまであるのだが(ここはブラナーへのオマージュか?)、怪物が誕生したあと、フランケンシュタインは怪物の世話をしている。ここが原作や過去の映画化とは違うところで、主人公が若くないからできたことだろう。
以下、ネタバレ大有りになります。
フランケンシュタインは弟ウィリアムの婚約者エリザベスに片思いしているが、訪れたエリザベスが怪物に惹かれてしまい、それでフランケンシュタインが怪物を虐待、怪物が反撃したので怪物を殺そうとする。が、燃え盛る建物の中から怪物が自分を呼ぶ声を聞いて、いったんは助けに行こうとするが、建物は爆発してしまう。
怪物は不死身で、けがをしてもすぐ治ってしまうので、死なないのだが、ここでフランケンシュタインと怪物はいったん別れる。
原作ではフランケンシュタインが怪物を見捨てたあと、フランケンシュタインの幼い弟が殺され、メイドが無実の罪で死刑になり、そして怪物が現れてフランケンシュタインに身の上話をするのだが、デル・トロ版ではここで船長のシーンに戻り、そこへ怪物がやってきて、船長にその後の自分の話を聞かせる。
そんなわけで、最初が船長の話(序章)、次がフランケンシュタインの話(第1章)、それから船長のシーンに戻って今度は怪物の話(第2章)、となるのだけど、フランケンシュタインと再会するまでの怪物の身の上話が終わったあと、そのままフランケンシュタインと怪物の話になって続いていく。本来なら身の上話が終わったあとに第3章にしないといけないと思うのだが。
原作では怪物がフランケンシュタインへの復讐として次々と彼の親しい人の命を奪っていくのだが、デル・トロ版では怪物は特に復讐をしているわけではなく、殺す相手もたまたま自分を攻撃してきた人に反撃して殺すみたいな感じで、殺される人が主人公とは全然関係ないその他大勢の人ばかりなのだ。また、原作やブラナー版では姿が醜いので人間から迫害され、それで怒りや憎しみを抱くようになるという設定なのに、デル・トロ版ではそういう設定はまったくない。そもそも怪物は醜い姿ではなく、姿のせいでいじめられるとかそういうシーンはいっさいない。だから、原作にあった、自分を受け入れてくれない人間たちを憎む、みたいなモチーフは完全に消え失せている。
そもそもデル・トロ版の怪物は早い段階からエリザベスに好意を寄せられていたので、誰からも嫌われてしまう怪物の孤独とかはどうもデル・トロには興味がないようだ。エリザベスが怪物に惹かれるのはまさに「シェイプ・オブ・ウォーター」で、「フランケンシュタイン」を怪物と女性のラブストーリーにするのかな、と思ったら、そうでもない。
後半、怪物がフランケンシュタインの前に現れ、女の怪物を作ってくれと要求したときに、怪物に好意を寄せるエリザベスのモチーフが再び現れる。しかし、デル・トロは全体を怪物とエリザベスの物語にするつもりはないようで、前半で怪物とエリザベスのモチーフが出たあとはまた原作に近い形になり、そして後半に唐突に怪物とエリザベスのモチーフが再登場する。しかし、再登場したモチーフもその場限りで使い捨てられるのだ。
そのあとは原作やブラナー版と同じく、怪物を追うフランケンシュタインになり、そして船長のシーンに戻るが、正直、デル・トロは何を描きたいのかと思ってしまう。
フランケンシュタインの方こそ怪物だ、というせりふがあるが、フランケンシュタインと怪物が互いの分身、ドッペルゲンガーのようなものなのは原作にも描かれている。が、デル・トロはそれをせりふで言うだけなのだ。
ラスト、フランケンシュタインは怪物に謝罪し、怪物は彼を許し、それを見ていた船長は怪物を無事に船の外に送り出し、怪物はそのお礼に氷に閉ざされた船を怪力で解放してやる。北極点にこだわっていた船長はそれを見て野望を捨て、故郷に帰ることを宣言する。原作やブラナー版の結末に独自のオリジナルを加えたラストなのだが、なんだか小手先の工夫に過ぎない感じ。ただ、ラスト、怪物の顔を下から映したショットが、ボリス・カーロフに見えるのがオマージュなのであろう。
というわけで、これ見たらブラナー版も見てよね、と言いたくなる出来。ブラナー版も傑作とかそういう出来ではないのだが、脚本も演出もブラナー版の方がよくできている。デル・トロ版は脚本が未熟で、何がポイントなのかわからない。原作に沿いながら何かを変えようと思ったけれど、何をどう変えたらいいのかよくわからないままに船をこぎ出したみたいな映画だ。怪物とエリザベスのラブストーリーにしてしまえばよかったのに。
フランケンシュタインの母とエリザベスを同じミア・ゴスが演じていて、フランケンシュタインがエリザベスに横恋慕するのは母の面影を追っているのかもしれないが、そこも映画は全然ダメで、両親の話とエリザベスと出会ってからの話がまったくリンクしてない。両親の話と言い、怪物とエリザベスとフランケンシュタインの三角関係?といい、すべてが中途半端に使い捨てられているのである。
そういえば、ブラナー版では怪物にエリザベスを殺されたフランケンシュタインが彼女を生き返らせるが、彼女は女の怪物のような姿になってしまう。そして、フランケンシュタインと怪物とエリザベスの三角関係みたいな構図になるが、エリザベスはどちらも拒絶する、というのが「フランケンシュタインの花嫁」へのオマージュを含んだクライマックスになっていた。ここを比べただけでも、ブラナー版の方が出来がいいのがわかるだろう。
しかし、ディカプリオの「華麗なるギャツビー」が出たら、それまで凡作と思っていたレッドフォードの「華麗なるギャツビー」がいい映画に思えたように、デル・トロ版のせいでブラナー版が傑作に思えてきてしまったよ。