2013年2月8日金曜日

ヴァネクただ今2冠王

ロックアウト終了してようやく開幕したNHLですが、セイバーズは最初の2試合は勝ったものの、その後負けが込んでいます。が、その中で、ただ一人、孤軍奮闘するのはトマス・ヴァネク。開幕からずっと絶好調で、ただ今、ポイントとゴールのトップにいます。
写真を見ると、髪を短くしてひげをのばし、ものすごく精悍な印象になってますが、もともとドラフト全体5位の選手で、ようやく本領発揮か、という感じ。ちなみに母国はオーストリアで、エスニック的にはチェコスロヴァキアです(両親が)。
ヴァネクはかつてデレクがつけていた26番をつけているのですが、これでセイバーズの26は永遠にヴァネクかもね、ていうくらいの活躍。日本時間今朝のハブス戦も、2点ビハインドで2ゴールしてシュートアウトでもゴールを決め、負けが込んでたセイバーズ、やっと勝利の模様。
この試合、先着1万名様にセイバーズのキャップをプレゼント、というメールが来てました。客少ないのか? 収容は18600人くらいだから、半分の人はもらえたのね。
というわけで、セイバーズの結果を見るのもげんなりな日々。
そうそう、26番といえば、昨日見た「君と歩く世界」で、男性主人公の息子が前に26と書いたTシャツを着ていて、その番号の上にPLANと書いてあるのが見えたのですが、まさかPLANTE、デレクじゃないよね? PLANではなく、PLATだったかもしれませんが(そのあとが隠れて全部は見えなかった)。ただ、デレクはヨーロッパでは62番だったはずなので、これはデレクじゃなくて誰か別の人でしょう。サッカーの選手とか? フランスはホッケーはあまり盛んじゃないと思う。
猫の写真も最近は撮ってないのですが、先日、満月の翌日の夜に猫スポットで携帯で撮った写真です。猫と月。

君と歩く世界

シャチのショーでの事故で両脚を失った女性調教師と、貧しい子持ちの男性との恋、という内容と、「君と歩く世界」というタイトルで、よくある感動もののラブストーリーと軽く考えていましたが、これが、なかなか中身の濃い、ただのラブストーリーではない、映画でした。
原作はカナダの作家の短編2編で、これをもとに「真夜中のピアニスト」などのジャック・オディアールが脚色し監督、と聞けば、ああ、あの監督ならただのラブストーリーのわけはないか、とわかりましたが、よい意味で、事前の予想を裏切る傑作でありました。
映画はフランス映画なので、舞台はフランスになっています。
原作は今月下旬に文庫で発売されるそうで、「ベラミ」といい、最近は映画の原作の翻訳がまた出るようになったのでしょうか。

さて、物語は、シャチの調教師の女性ステファニー(マリオン・コティヤール)が事故で両脚を失い、失意の中で暮らす、という話と、別れた妻のところから幼い息子をひきとった貧しい男アリ(マティアス・スーナーツ)が同じく貧しい暮らしをする姉夫婦のところに身を寄せる、という話が並行して描かれます。そして、失意の中にいたステファニーは、以前、ナイトクラブでトラブルに巻き込まれたとき、用心棒のアリに助けられ、親切にされ、電話番号までもらっていたのを思い出し、アリに電話。倉庫の夜警になっていたアリは、部屋に閉じこもるステファニーを外に連れ出し、海で泳がせます。このときのステファニーの解放感が映像から実によく伝わってきて、感動ものでした。地上では足がないのは大変な重荷ですが、泳ぐときにはそれはさほど大変なことではない、というのはわかります。
最初はプラトニックな関係だった2人は、やがて肉体的にも結ばれます。また、アリは、店舗の経営者たちの依頼で店や倉庫に隠しカメラを設置している男と知り合い、彼のすすめでストリートファイトの試合に出て稼ぐようになり、また、この男と一緒に隠しカメラ設置の仕事をすることになります。
日本では社員を解雇するのが非常にむずかしい、といわれますが、それはフランスも同じで、経営者は隠しカメラを設置して従業員の行動を監視し、解雇の理由を見つけようとするわけ。もちろん、違法なので、見つかれば刑務所行き、と、男は言います。
一方、ステファニーは義足をつけ、ステッキだけで歩けるようになります。今は義足もずいぶんと発達して、ハイヒールがはける義足もあるのだとか。
やがてアリのストリートファイトのマネージャーとなったステファニーは、義足をあらわにして荒くれ男たちと交渉するようになるのですが、このあたりのシーンのコティヤールはとてもかっこいい。しかし、クラブで踊る女性たちのすらりとした脚を見ると、やはり悲しい思いにとらわれ、ナンパしてきた男が義足に気づき、「気がつかなくて申し訳ない」というと、怒って酒を浴びせてしまう、というシーンも、ヒロインの複雑な心境をあらわしてみごとです。「申し訳ない」といった男は善人なのですが、身障者だとわかっていたらナンパしないのか!というヒロインの怒りもわかるのです(その前にアリがほかの女と出て行ったのがそもそもの原因なのだが)。
そんなわけで、この映画は予定調和的なラブストーリーとしては進行しません。ステファニーの物語とアリの物語が交錯しながら、そこにさまざまな社会の一面が盛り込まれていく、という構成です。
幼い息子を引き取ったアリは、必ずしもよい父親ではなく、そのことで姉といさかいが起きますが、その上、アリたちが仕掛けた隠しカメラのせいで、アリの姉が消費期限切れの食品を倉庫から持ち帰っていたことがばれてクビになってしまい、アリは姉夫婦と決別、息子を置いて出ていってしまいます。しかし、その後、姉夫婦と和解、預けてあった息子とも再会します。このとき、アリはボクサーをめざしていましたが、久しぶりに息子と過ごした日、大きな事故が起き、アリとステファニーの立場が逆転します。最初の事故と最後の事故は、どちらも水が重要な背景になっていて、この2つの事故のコントラストが際立ちます。
というわけで、一番最後のネタバレはしませんが、欠点だらけの人間たちが、どんな困難にあっても、常に立ち上がり、生きていく物語、それがこの映画なのだと思いました。
コティヤールはハリウッド映画よりフランス映画の方がやはりいい。アリ役のスーナーツの存在感も抜群です。

2013年2月7日木曜日

ベラミ 愛を弄ぶ男

火曜日の気温から見て、水曜は雪にはならないな、と思いましたが、案の定、雪は降ってたけど、地面に落ちるとみな溶けてしまっていました。
JRは大雪予報に応えて間引き運転を決めてしまった上、人身事故もあって、午前中は大混乱の駅もあったようです。
さて、私はどうしても行きたい試写、モーパッサン原作の映画「ベラミ 愛を弄ぶ男」を見てきましたよ。
試写のあとはプールへ行こうと思っていたのですが、今日は朝から胃腸の具合が悪く、映画は見られましたが、体調不良を感じてプールは中止。

「ベラミ」ですが、原作の内容はまったく知らなかったのだけれど、帰って検索で調べてみたら、映画はわりと原作どおりみたいです。
「トワイライト」シリーズで人気のロバート・パティンソン演じるジョルジュ、あだ名はベラミ(美貌の友)は、その美貌で次々と上流の夫人たちを手玉に取り、上流社会でのし上がっていく、という物語。時は19世紀末のパリで、アルジェリア戦争やモロッコ動乱が背景になっています。
貧しい生まれのジョルジュは、アルジェリア戦争の戦友と偶然会い、彼の手引きで上流階級の夫人たちに出会い、新聞社に仕事も見つけ、あとは上流社会の男たちを裏で操れる夫人たちに取り入り、彼女たちを裏切って、出世していくという話。いわゆる伝統的なピカレスクで、おもに18世紀にヨーロッパで流行していたジャンルですが、伝統的なピカレスクでは、美貌と手練手管でのしあがった主人公は最後には没落するということになっていました。が、この「ベラミ」は、ジョルジュはのしあがるだけのしあがって、さらに上を目指すという、全然没落しそうにないのです。原作もそうらしい。モーパッサンといえば、意外な結末の短編で有名ですが、この「ベラミ」は、悪いやつがのしあがったまま、というのが意外といえば意外。でも、後味は悪い。
しかも、昔のピカレスクでは、悪の主人公は美貌だけでなく才覚もあったのですが、このベラミは美貌だけ。新聞社に入って記事を書く仕事を得たのに、文章は下手、ほかに何ができるかっていうと、有力者の妻を誘惑するくらい。妻たちも、彼に何を求めてるかっというと、やっぱりセックス。彼の方は女たちを全然愛してなくて、ただ利用しているだけ。一方、女たちは愛されていると勘違いするけど、でもやっぱり欲しいのはセックスだろう、ていう感じです。なんだかんだいっても、夫はキープだし。
3人の女性を演じるのは、ユマ・サーマン、クリスティン・スコット・トーマス、クリスティーナ・リッチと、豪華メンバーです。サーマンが演じるのはジョルジュの戦友の妻で、途中で夫が死んでジョルジュと結婚しますが、彼女が本当に愛しているのはジョルジュじゃないというのがまた意外。トーマスが演じるのは新聞社社長の妻で、こちらはもう、年をとってから急に若い男に熱中してしまったマダムの哀しさ全開です。3人の中では私はリッチが一番気に入りましたが、彼女は夫が留守がちなのでジョルジュといい仲になるという関係で、2人の女性ほどには権力がない感じなのですが、その分、どこかジョルジュとの関係に対して冷めた部分も持っていそうです。サーマンとトーマスの演じる女性がかなり計算高いところがあるのに対し、リッチの演じる女性はまだモラルがある感じ。ジョルジュは最後は、さらに出世するために、世間知らずの若い令嬢とはじめから愛のない結婚をするのですが、それを批判的に見つめるリッチのまなざしが印象的です。
ジャーナリズムを利用して政界に進出したり、金儲けしたりする上流の男たち、それを陰で操る女たち、その女たちを利用して上流社会に殴り込みをかける貧しい若者、という構図ですが、先に書いたように、伝統的なピカレスクに比べて主人公がうつろなこと、そのうつろな男がのしあがっていく社会がまたうつろであること、そういったうつろさが19世紀末なのかな、と思いました。
原作の翻訳は岩波文庫から出ていたけど、絶版なのね。映画にあわせて、角川文庫から新訳が出るようです。

2013年2月6日水曜日

汚れなき祈り(ネタバレあり、追記あり)

今日、水曜日は関東は大雪の予報ですが、ぜひ見たい試写があるのです。行けるかな?
というところで、本日は試写で見た映画2連発。
2本目はルーマニア映画「汚れなき祈り」。カンヌ映画祭で女優賞と脚本賞を受賞。監督は「4ヶ月、3週と2日」がすばらしかったクリスティアン・ムンジウ。
2005年、ルーマニアの修道院で起こった悪魔祓いの儀式で女性が死亡した事件の映画化です。
ルーマニアといえば、ドラキュラ伯爵の故郷トランシルヴァニアが有名ですが、21世紀にもなって悪魔祓いによる死亡事件が起きたということで、ルーマニアは遅れた地域だ、という印象を持たれてしまったらしい。
事件の背景としては、死亡した女性がかつていた孤児院で性的虐待があったとか、精神を病んだ彼女を病院が受け入れてくれなかったとか、舞台となった修道院にだけ責任を負わせるわけにはいかない事情があるようです。
しかし、ムンジウ監督は、孤児院での性的虐待は軽くほのめかす程度、受け入れを拒んだ病院についても、責任を問うような描き方はしていません。映画はもっぱら、古い慣習に従った厳格な修道院で起こった異様な事件として描いています。
映画のチラシに書かれた文章が目をひきます。

「わたしたちを引き裂くのは、神か、悪魔かーー」

実にうまい惹句だと思います。いやほんと、これがこの映画の中心に違いないのです。

以下、ここでは映画のストーリーを追いながら説明していくので、詳しいあらすじを知りたくない人は読まない方がよいと思います。

映画は、ドイツに出稼ぎに行っていたアリーナという女性がルーマニアに帰ってくるところから始まります。駅で出迎えたのは、孤児院時代からの親友ヴォイキツア。ヴォイキツアは修道女になっていますが、アリーナは彼女だけを愛し、彼女と一緒に暮らしたいと、それだけを願っています。
一方、ヴォイキツアは、アリーナを心配してはいるけれど、アリーナと一緒に暮らしたいとは思っていません。アリーナは再びドイツに出稼ぎに行きたいと思っていて、今度はヴォイキツアと一緒に行きたいと願っています。ヴォイキツアは、一時的に修道院を離れ、アリーナとしばらく過ごしたら、また修道院に戻りたいと司祭に願い出ますが、司祭は、一時的でも修道院を離れるのはよくないといって、許してくれません。
行き場のないアリーナは、とりあえず、修道院に泊めてもらいますが、もともと体調が思わしくなく、心を病んでいたらしいアリーナは、突然、暴れだし、修道女たちは彼女を縛って病院に運び、そこで投薬を受けて、アリーナはおとなしくなります。
本来ならそのまま病院で治療を受けるべきなのですが、病院側は、彼女のような患者は個室に入れないといけないが、今は大部屋しかないので、この病院では彼女を治療できないといって、修道院に帰してしまうのです。
普通に考えたら、病院がひどいと思うのですが(あるいは、ほかの病院を探すとかすべきですが)、しかたがないので、修道院はアリーナを置くことにします。しかし、司祭も修道女も、アリーナを置いておくのがいやなのは明らかです。アリーナの存在によって、修道院の秩序が乱されるからです。
案の定、修道女の中には、アリーナが来てから、マキの中に黒い十字架があるとか、変なことを言い出す者がいます。ばかなことをいうな、と言う司祭はまだ冷静さを保っているのですが、修道女たちの恐怖は理解できます。というのも、アリーナは背が高く、力が強く、しかもカラテができるということになっているのです(空手でなくカラテという字幕になっているのは、本当の空手かどうかわからないからでしょう)。アリーナが暴れて大変な思いをした修道女たちにとって、また彼女が暴れたらどうしようと思って恐怖を感じるのは無理もないと思います。
アリーナの親友で、アリーナからは同性愛的な思いを抱かれているヴォイキツアはどうかというと、彼女がまた、なんとも優柔不断なのです。ある程度の期間はアリーナと一緒にいてあげたいけれど、ずっといたいわけではない、というのがヴォイキツアの考えのようです。
修道女になったヴォイキツアは、当然、神を愛しています。彼女には神が一番の愛の対象なので、アリーナを一番愛するというわけにはいかないのです。でも、アリーナのことは心配しています。
アリーナがドイツに行く前に世話になっていた里親のところに泊めてもらう案が出て、里親のところへ行くと、アリーナはヴォイキツアも里親のところに泊まることを期待します。しかし、ヴォイキツアは里親の家に泊まるつもりはありません。それがわかると、アリーナもヴォイキツアと一緒に修道院に帰ってしまいます。
結局、ヴォイキツアと一緒にいたいアリーナは修道女になることにするのですが、修道院のきびしい戒律の前に、ついに精神に異常をきたし、暴れるようになってしまいます。悪魔にとりつかれたと思った修道女たちは悪魔祓いをするよう、司祭に頼みます。ヴォイキツアも、神がアリーナを救ってくれると信じ、悪魔祓いに賛成します。一方、司祭は信者たちにアリーナを見られたくないという世間体のような気持ちから、ついに悪魔祓いをすることにしてしまいます。
修道院の中で、ほとんど唯一の男性である司祭は(ほかに男性のドライバーがいますが)、修道女たちに比べると、なんとか理性を保とうとしているように見えます。しかし、その一方で、厳格な戒律を押し付けたり、信者の前での世間体を気にしたりという面があります。ある意味、社会を支配する男性の典型といえるかもしれません。彼はとにかくアリーナに出ていってほしいと思っていて、やがて、アリーナとヴォイキツアの両方に出ていってくれというようになります。実際、出て行った方がいいと私も思いましたが、ヴォイキツアの神への信仰心が邪魔をしたともいえます。彼女が神よりもアリーナを思えば、2人で出て行く方がいいとわかったでしょう。
「わたしたちを引き裂くのは、神か、悪魔か」という宣伝文句はまさにそのとおりです。
アリーナが修道院の中で神を冒涜するようなふるまいに出るのは、アリーナを神に奪われたからでしょう。その神の代弁者が司祭ということになります。
救急車がかけつけ、救急隊員が衰弱したアリーナに施した処置が誤っていたため、アリーナは死亡してしまいます。警察が修道院に来て、司祭や修道女から話を聞き、司祭と修道女数人と、すでに修道女はやめたらしい私服のヴォイキツアが車に乗せられて警察に向かいます。途中、降り積もった雪のために車が停められ、前進できず、フロントガラスに泥水がかけられる、という、ルーマニアの社会を象徴するのか、と思うようなラストで、映画は終わります。
悪魔祓いの途中で、ヴォイキツアは心に迷いがあるということで、悪魔祓いからはずされますが、この過程で、彼女は神への信仰が揺らいだのでしょう。アリーナを逃がそうとさえします。しかし、悪魔祓いの前までの彼女の言動は、アリーナの悲劇の一番の原因にも思えます。また、修道女の黒い衣装を着たヴォイキツアの表情が、どこか憑かれたような感じ、憑かれたような目つきにも見え、神を信じていた彼女は実は悪魔にとりつかれていたのか、という解釈もできる気がします。
警察の車に乗った司祭は、私たちが悪意でやったのではないことは神が知っている、と修道女たちに言います。一方、警察官たちはまったくリアルで、司祭たちの行動をきびしく批判します。司祭たちの世界の方がおかしかったということを、警察官たちはリアルな言葉で指摘するのです。
そんなわけで、いろいろと考えさせられる面白い映画なのですが、2時間半はちと長いと思いました。また、聖と俗、神と悪魔のようなテーマを描くには、監督の技量に不足しているものがあるとも思います。こういうテーマだったら、たとえばベルイマンとか、すごい監督が何人もいるので。

追記 映画の冒頭、修道院へやってきたアリーナが入口に書かれた「異教徒は入るな」みたいな言葉を見て、ヴォイキツアに「これはあなたが書いたのか」とたずねるシーンがある。ヴォイキツアは「いや、これは司祭が書いた」というが、アリーナはヴォイキツアの字に似ているという。また、ヴォイキツアが司祭を「お父様」と呼ぶのをアリーナがいやがるというシーンもある。この時点で、ヴォイキツアは司祭と同一化している、ということをあらわしているのかもしれない。アリーナから見れば、これはヴォイキツアを司祭とその世界から救いだす戦いなのだろう。

シャドー・ダンサー(ネタバレあり)

1990年代、北アイルランドのIRAのテロリストの女性を描く映画「シャドー・ダンサー」。原作者トム・ブラッドビーが自ら脚色し、アカデミー賞ドキュメンタリー賞受賞の監督ジェームズ・マーシュに依頼して製作された映画。原作は、かつて、「哀しみの密告者」というタイトルで翻訳が出ていたという…。
え!!!
それはこの本です。

忘れもしない、1999年春、わが愛する翻訳書「テロリストのダンス」が出たのと同じ時期に出版され、平台のすぐそばに積んであったので、よく覚えている本です。
あのときは、あまり興味なく、当然、読んでいません。「テロリストのダンス」も売れずに絶版になってますが、この「哀しみの密告者」も売れなかったようで、すでに絶版。映画化にあわせて再刊、という予定もなさそうです。

さて、映画ですが、私が一番注目したのは、主演のアンドレア・ライズブロー。マドンナ監督の「ウォリスとエドワード」でウォリス・シンプソンを演じた女優。彼女がいなかったら、あの映画、ほんとにつまらなかっただろう、と思うほど、すばらしい演技をしていました。特別すごい美人ではないのですが、存在感と演技がすばらしい。「ウォリスとエドワード」では、実年齢より年上で、あまり美人ではない役でしたが、この「シャドー・ダンサー」では、実年齢に近い、わりと美人の役です。
彼女が演じるのは、IRAテロリストで幼い息子を持つシングルマザーのコレット。ロンドンで爆弾テロ未遂事件を起こし、逮捕された彼女は、イギリスの諜報保安部MI5の男マック(クライヴ・オーウェン)から、刑務所に入って子供に会えなくなるより、密告者になれ、といわれ、心ならずも密告者になります。彼女の家は兄弟もテロリストの仲間で、要するに、当時は北アイルランドにいると、IRAに入るか、プロテスタントの方の過激派に入るかみたいなところがあって、教会までもがこの過激派同士の対立をあおっているようなところがあったのですね。
映画の舞台となった1990年代半ばは、IRAがイギリスと和平協定を結んだ時期で、上の人たちは和平を結んだけれど、下の人たちは納得できないでテロをするという時代だったようです。
密告者だとわかれば、コレットは殺されることになるので、マックは彼女を守ると約束します。一方、マックは、コレットが密告者にされたのは、もう1人の重要な密告者=シャドー・ダンサーを守るためだと気づきます。マックの上司ケイト(ジリアン・アンダーソン)はシャドー・ダンサーが誰だか知っているのですが、マックには教えません。ケイトもまた、コレットと同じく、子供を持つ母親なのに、コレットが死んでもかまわないと、彼女は思っているのです。
なんとしてもコレットを守るためにシャドー・ダンサーの正体をさぐるマック。テロの失敗から、IRAの上司から疑いをかけられるコレットと弟。そしてついに、マックはシャドー・ダンサーの正体を知る、というところで、次はネタバレのため、文字の色を変えます。

この物語は結局、母親の悲劇であったことがわかります。シャドー・ダンサーは実はコレットの母親で、彼女もまた、昔、逮捕されたときに、子供を思うなら密告者になれといわれ、長い間、密告をしていたのでした。
やがて、娘コレットが逮捕され、まったく同じように、子供を思うなら密告者になれといわれ、密告者になります。しかも、それは、シャドー・ダンサーである重要な密告者=母親を守るため、おとりとなり、犠牲になることだったのです。
しかも、それを命じたのは、同じく子供を持つ母親であるMI5の女性ケイトであるということ。
同じ母親でありながら、平気で人の命を左右する冷酷なケイトに、マックは憤りを感じます。そして、コレットの母が密告者であることを知った彼は、彼女にコレットの危機を告げます。子供を思って密告者になった母は、ここで再び、子供を思う決断を迫られます。彼女の行為は、子供を思う、という点で、一貫している、と書けば、結末はわかるでしょう。
このあと、もう1つ、衝撃的な結末があるのですが、それは書かないことにします。この衝撃的な結末が何を意味するかも、いくつか考えられるのですが、それも書かないことにしましょう。
ジェームズ・マーシュの演出は、暴力シーンをほとんど見せません。ひんやりとした肌触りの映像、寒々とした北アイルランドの風景の中に、コレットの着る赤いコートが引き立ちます。密告者にしては目立ちすぎる衣装ですが、映像的には実に効果的。また、クライヴ・オーウェンはじめ、共演者たちもみごとです。(画像はrotten tomatoesから。)