1984年製作、日本公開1985年のデイヴィッド・リンチ監督の映画「砂の惑星」の4Kリマスター版が8月2日から公開。川崎チネチッタは1800円均一で高いけど(新宿109よりはかなり安いが)、大スクリーンでライブサウンド、4Kレーザーの上映というので、初日に見に行った。
この映画、UIPの試写室で見て、その後、劇場でも見たあとはまったく見ていなかったが、39年ぶりの映画はかつての記憶どおりの大好きな世界で、しかも映像はまるで新作のようにきれい、音響は昔の映画館よりよいくらいで、大満足。その直後に9年前に出たブルーレイボックスを買って見たのは以前書いたとおり。
ただ、ブルーレイも映像はきれいなんだけど、うちのモニター画面だと暗いところがよく見えない。やっぱり映画館じゃないとだめだな、もう一度行くか、と思って川崎チネチッタの予定を見たところ、9日からは狭いところで2K上映。
こりゃその前に行かなきゃ、ってことで、8日にまた行ってきた。
川崎チネチッタはお盆の週だけ、広いところはヒット映画にあけて、次の週からまたライブサウンドの部屋に戻すのかもしれないけど、お客さんはあまり入ってないのでどうなるかわからない。
というわけで、川崎チネチッタでリマスター版をライブサウンド4Kレーザーで2回見てきました。
この映画についてはいろいろ言いたいことがたくさんあって、特に、この映画を駄作だなんだとバカにしていた連中、そして今も、ほめてるけどどこかそういう否定派に忖度してるみたいな物言いをする映画ライターたちに対する怒りみたいなのもあるんだけど、でも、この映画を本当に愛している人たちがけっこういることがわかって、もうそういう人たちのことはいいや、と思った。
また、映画に関しても、39年前、1985年のキネマ旬報に書いた外国映画批評をヴィルヌーヴ版パート1の時に読み直してみて、あの時書いたことは間違ってなかったと思い、今回リンチ版を再見して、さらに付け加えることもあまりないと感じた。
そんなわけで、ここでは箇条書きで気がついたことを書いていこうと思う。
リンチの「砂の惑星」は基本的に「エレファント・マン」と同じ。
リアリズムではない、シンボリズムの人物、善と悪の対比、映像表現など、共通点が多い。「エレファント・マン」はテーマが立派で、日本では特に泣ける感動作としてヒットしたけれど、その分、「エレファント・マン」を低く評価する人もいて、そのあたりが難解な「砂の惑星」で最初から駄作と決めつけ、バカにする人たちが出たような気がする。リンチ特有の表現法がそもそも一般人向きではないのだ。
リンチ版「砂の惑星」はキャラが立っている。
ヴィルヌーヴ版と比べて、リンチ版がキャラが立っていて、1人1人が印象に残るのは、ヴィルヌーヴ版がリアリズムの描写なのに対し、リンチ版はシンボリズムの描写だからだ。リンチ版の方がキャラがしっかりと立っていて、その分、話がわかりやすいともいえる。ヴィルヌーヴ版が5時間もかけてやっていることをリンチ版は2時間ちょっとでやっていて、しかもリンチ版の方がわかりやすい。メリハリがはっきりしているのである。
カイル・マクラクランのカリスマを今は否定する人はいないだろう。
「ツイン・ピークス」でブレイクしたカイル・マクラクランだが、映画初出演の「砂の惑星のときはカリスマがないだのなんだのとバカにされていた。しかし、私は当時のキネ旬に、彼はカリスマがあると書いている。実際、今回再見して、彼の演じるポールの前半と後半の変化がきちんと演じられているし、やはりカリスマがあると感じた。マクラクランはリンチに風貌が似ているので、分身とも言われたが、「エレファント・マン」で大ベテランのスタッフ・キャストの中で新人だったリンチと、「砂の惑星」でベテランに囲まれた新人のマクラクランが重なる。
ユルゲン・プロホノフの演じるレト公爵。
「エレファント・マン」では悪人は単純、善人は複雑だったが(特にアンソニー・ホプキンス演じる医師)、「砂の惑星」では悪は多種多様なのに対し、善は単純。その中で、ポールの父・レト公爵は純粋な善として輝いている。彼はスパイスより人命を優先し、政略結婚の余地を残すためにジェシカと正式に結婚しなかったことを後悔するような善人だ。こういう善人は下手に描くと薄っぺらになるのだが、脚本と演技で血肉を持った善人になっている。レトとジェシカ、ポールは聖家族のようは善人で、3人とも美形なのだが、ポールが後半、複雑な善にならなかったのは惜しい。
駆け足の後半。
ポールがフレーメンのリーダーになるまではリンチワールド全開の傑作で、ここまでは特に直さなくてもいいと思うが、そのあとはやはり弱い。直すとしたらここだと思うのだが、3時間のテレビ放送版ではこの部分にカットされたエピソードが盛り込まれ、映画のような駆け足で単調なところが緩和されていた。このテレビ放送版は全体としていただけないが、ここだけは改良されていると言える。それでもリンチの考える理想形とはだいぶ違うので、リンチは作り直しをしなかったのだろう。
アラビアのロレンス的コンセプト。
「砂の惑星」原作は「アラビアのロレンス」を思わせる内容で、映画化の際にはデイヴィッド・リーンにも監督依頼が行ったことがあったらしいが(その場合、マックス・フォン・シドーはアレック・ギネスだな)、リーンは60年代から70年代は「ドクトル・ジバゴ」と「ライアンの娘」を作り、そしてリンチ版の「砂の惑星」の頃には念願の「インドへの道」製作に入っていたから、実現は現実的ではなかっただろう。
リンチの「砂の惑星」には「アラビアのロレンス」的なところはあまりないと感じる。室内のシーンが多く、砂漠は夜ばかり。リンチワールドの映像表現からいくとこうなるのはよくわかるし、これはこれでいい。一方、ヴィルヌーヴ版は昼間の砂漠が多く、パート2の最後の部分で救世主になったポールの変化にチャニが疑問を感じるという、「アラビアのロレンス」の後半のロレンスの変化を思わせるところが出てくる。ヴィルヌーヴの方が「アラビアのロレンス」を意識していそうだし、パート3でこのテーマがどう展開されるのかは期待できそう。リンチの方が後半、駆け足なので、ポールについての疑問などはいっさい出てこない。なお、白人のような先進国の人間が他の世界の救世主になるというロレンス的コンセプトは、現在ではポリコレ的に問題がある。
ヴィルヌーヴ版とどちらがよいのか。
リンチ版を最初に見たときから気に入っていた私は、ヴィルヌーヴ版は面白くなかった。パート1はまだしも無難な出来で否定するほどじゃなかったが、パート2は正直、つまらなかった。最初から3部作と言わずに小出しにしてるのも印象が悪い。また、リンチ版の方がいい、面白い、と思う人も少なくないことがわかった。SFファンは初公開時からリンチ版を高く評価していたという意見もあった。ヴィルヌーヴ版が好きな人も少なくないと思うが、日本では一般観客にはどちらもあまり受けてないというのがほんとうのところではないのか。何かをほめて何かをけなす、みたいなのが世の中のデフォルトになっていて、でも実際は違う、ということはよくある。
というわけで、川崎チネチッタで初日に撮った写真。
初日にはポストカードを配っていました。(最後の写真)