2024年8月9日金曜日

「ボレロ 永遠の旋律」(ネタバレ大有り)

 20世紀前半に活躍したフランスの作曲家モーリス・ラヴェルの伝記映画「ボレロ 永遠の旋律」を見に行った。(最後までネタバレしています。注意。)


お盆前の平日だから、と油断していたら大間違い。9日は「クレヨンしんちゃん」の初日で、夏休みのファミリーでシネコンのロビーは大混雑。発券も入場もスムーズに行かない。

「ボレロ」は狭い部屋での上映のせいか、満席。客は後期高齢者のお一人様男女がほとんどに見えた。この人たちがラヴェルの熱心なファンとはとても思えないのだが、今、高齢者が見る外国映画というと、やはりこういう感じのヨーロッパ作品ということになるのだろう。

映画はかなり期待していたのだが、どうもピンと来ない。すでに初老の域に達していたラヴェルがダンサー、イダ・ルビンシュタインからダンスの曲の依頼を受けるが、なかなか書けない。そうした中で、ラヴェルの現在と過去が交錯する。第一次世界大戦に従軍したこと、ローマ賞に何度も落選した20代のこと、さまざまな女性との交流がある現在のこと。

映画ではラヴェルを取り巻く5人の女性が重要人物として出てくる。母親、彼のミューズである人妻ミシア、ピアニストのマルグリット・ロン、ダンサーのイダ、そしてボレロのヒントを与える家政婦。ラヴェルは売春宿へ行っても肉体関係を持たず、女性との関係はプラトニックなようで、5人の女性たちも母親的な存在に見える。母親の登場場面は少ないのだが、あまり登場しないこの母が非常に重要なことはわかる。

ようやく「ボレロ」を完成させたラヴェルが、繰り返しのリズムを工場の機械音にたとえ、のちのチャップリンの「モダン・タイムス」のような世界観で作曲したのに、イダは官能的な娼館の踊りにしてしまう。しかし、観客は大喝采。ラヴェルもしぶしぶ認めざるを得なくなるのだが、「ボレロ」の人気のために彼の他の曲はかすんでしまい、その不本意な状況に彼は苦悩するようになる。やがて意識障害や言語障害などを発症し、認知症のような状態になり、脳の手術をするが治らず、1937年にこの世を去る。

ラストはオーケストラを指揮するラヴェルと、Tシャツにズボンの労働者ふうのいでたちをした男性ダンサーが「ボレロ」を踊るシーンがダブる。「ボレロ」といえば、クロード・ルルーシュの「愛と哀しみのボレロ」のジョルジュ・ドンのダンスが印象的だが、エネルギッシュな男性のダンスこそがラヴェルの考えた「ボレロ」の踊りだということを伝えるシーンだ。

作曲を依頼したイダはラヴェルから曲の解釈について意見されると、私が依頼したんだから私の好きなように踊る、というようなことを言う。曲が作者の手を離れ、作者の意図とはまったく違う形で世の中に受け入れられてしまうという、芸術家にはありがちな話で、その辺に注目したのはわかるんだが、全体としてみるとどうも散漫な印象。5人の女性との関係を考えると、ラヴェルが女性たちに去勢されていて、それで男性的な「ボレロ」を失ってしまう話なのか? うーん、わからん。ラヴェルの靴を女性が持ってくるシーンが何度かあるのも意味深で、昔の文学などでは足が不自由が性的不能を表したりしたこともあったのだが、その辺と靴の比喩が関係しているようにも思う。また、ラヴェルが脳の病気を患ったとき、女性を混同するシーンも出てくる。

公開されたばかりで、まだ映画評がググってもあまり出てこないのだけど、この辺の女性との関係を論じた面白いブログがあった。ただ、そのブログの主はローマ賞をピアノのコンクールと勘違いしていたり、ラヴェルの「ボレロ」についての気持ちも正しく理解していないので、参考にするにはちょっと問題がある。

ちなみにローマ賞というのは、受賞すると留学させてもらえるというフランスの賞で(今は廃止)、音楽賞はベルリオーズが受賞していることで有名だが、これは作曲の賞である。ラヴェルはすでに作曲家として名をなしていたのに何度も落選し、ついに受賞できないまま年齢制限の30歳をすぎてしまったという。

メインタイトルが凝っていて、「ボレロ」がいろいろな演奏で登場する。ラストでは「ボレロ」は世界中で15分に一度演奏されているというが、この曲は17分だから演奏されていない時間がないことになる。それほど愛されている曲なんだけど、私にとってはラヴェルは「夜のガスパール」とか「クープランの墓」とか、「ボレロ」以外の曲の方がラヴェルだと思えるんだが、この映画だとラヴェルはほんとに「ボレロ」しかないみたいで、「ボレロ」のせいで自分の他の曲がかすんでしまったと嘆くラヴェルそのまんまじゃないか、それでいいのか?みたいな気持ちになる。

ラヴェルを取り巻く5人の女性のうち、ピアニストのマルグリット・ロンはサンソン・フランソワの先生でもあり、また、ロン=ティボー・コンクールのロンは彼女の名前から来ている。流れているピアノ曲にフランソワの演奏みたいなのがあるな、と思ったら、ショパンのノクターンとラヴェルのピアノ協奏曲がフランソワの演奏が使われていた。

というわけで、興味深い内容だけど、どこかかゆいところに手の届かない感じのする映画なのである。