2025年3月21日金曜日

「教皇選挙」(ネタバレ大有り)

 昨日、見に行った「教皇選挙」ですが、とにかく面白かった。


リベラル派の教皇が崩御し、新教皇を選ぶコンクラーベを取り仕切ることになったローレンス枢機卿。有力候補者は4人だが、カナダのトレンブレイ枢機卿は教皇が死の直前に辞任を求めていたことがわかり、教皇にふさわしくないことをやらかしたらしい。イタリアのテデスコ枢機卿はガチガチの保守派で、この人が教皇になるとバチカンは古い時代に逆戻りするので、なんとしても避けたい。ナイジェリアのアデイエミ枢機卿は黒人なのでリベラルのように思われているが、実際は保守派。ローレンスはリベラル派のベリーニ(イタリア)に教皇になってもらいたいと思っている。このほか、教皇が秘かに枢機卿に任命したメキシコ人でアフガニスタンのカブールの司教ベニテスが加わり、コンクラーベが始まると、意外にもローレンスにも票が入る。

という具合に、この6人の枢機卿のうち、誰が教皇にふさわしいか、というミステリーで、ふさわしくない人が1人また1人、候補から消えていき、最後に残るのは、という、ある種の犯人捜しみたいな構造になっている。消えていく人たちの理由はそれぞれ明快で、100人を超える枢機卿たちは非常にまっとうな精神の持ち主なので、最後に一番ふさわしい人が選ばれる。もしもこれ、選ぶ人たちがまっとうじゃなかったら、成立しない話。

物語全体が、カトリックのあるべき姿を追求、みたいになっているので、カトリックの抱える問題を描いてはいるけれど、カトリックを否定するような映画ではない。

アカデミー賞脚色賞をとっただけあって、脚本がみごとで、また、左右対称を意識した映像もすばらしい。俳優もみな、いいのだが、特に主役のレイフ・ファインズはオスカーとってほしかったと思うくらいの名演。でも、こういう抑えた演技は不利なのだよね。

というわけで、あとは見てください、と終わりにしてもいいのだけれど、やはり結末について書いておきたい。

この映画はロバート・ハリスの同名小説(2016年)の映画化。

原作の原書。画像はアマゾンから。


原作とどう違うのか、かなり気になったけれど、読んでいないので、ウィキペディア英語版のConclave(novel)というページのあらすじを読んだ。それによると、大きく違うのは次の2点。

主人公

原作 イタリア人。名前はロメリ。

映画 イギリス人ローレンス。演じるレイフ・ファインズは実家がカトリックで、カトリック教徒として育てられたという。

ベニテス

原作 スペイン系のフィリピン人で、イラクのバグダッドの司教。

映画 メキシコ人で、アフガニスタンのカブールの司教。

以下、ネタバレ大有りになります。


主人公をイギリス人にしたのは、レイフ・ファインズのような英米のスターを起用した方がいいし、せりふも英語にできるので都合がよかったのだろう。

ベニテスについては、イラクにはキリスト教徒が多いそうだが、アフガニスタンはイスラム教徒が多く、キリスト教徒は非常に少ないらしい。なので、バグダッドの司教の方が自然、という意見を見たが、ベニテスがイラクの司教かアフガニスタンの司教かで、彼の立ち位置は大きく違ってくる。

物語のクライマックス、イスラム過激派による大規模なテロが起こり、保守派のテデスコは「もう弱い立場にいるべきではない、戦争だ」と叫ぶ。それに対し、ベニテスが立ち上がり、「あなたたちは戦争というものを知らない」と言い、自分は紛争地域で現実の戦争を見てきた、戦争になればキリスト教徒もイスラム教徒も死ぬ、そして、権力欲で固まった候補者たちのコンクラーベに幻滅した、と語る。

コンクラーベではまず、若い頃に19歳の女性と関係を持ち、子どもまで作った過去が暴かれてアデイエミ枢機卿が候補から落ち、続いて、枢機卿たちに賄賂を配った上、アデイエミを陥れるためにシスターである元恋人を呼び寄せたトレンブレイが落ち、その過程でローレンスが尊敬を集めるようになってベリーニが彼を教皇に望むようになり、そしてこのクライマックスでテデスコとベニテスの対決となる。

もしもベニテスが原作のようにバグダッドの司教だったら、彼はイラク戦争を体験したわけで、彼の言葉はイラク戦争への批判ともなる。一方、映画のようにイスラム教徒が多いアフガニスタンのカブールの司教ならイスラム教徒との交流も多かったわけで、イスラム教徒を敵視するテデスコへの怒りは大きい。もちろん、イラクであってもそれは同じだが。

リベラルな方向に進んでいるバチカンを嫌い、昔に帰るべきと思う保守派のテデスコはトランプ大統領と重なる。ベニテスをメキシコ人にしたのも、そうしたアメリカとの関係を際立たせるためかもしれない。

イラクからアフガニスタンに変えたのにはそれなりの理由があるし、イラク戦争を持ち出すと複雑になりすぎるという考えもあったかもしれないが、この辺は意見が分かれるところかもしれない。

そして、一番意見が分かれそうなのが結末。

テデスコとの対決で暴力の連鎖を批判したベニテスが、新教皇に選ばれる。それを外に発表する前に、ローレンスはあることを知らされる。

ベニテスは性自認は男性だが、実は体内に子宮と卵巣を持っていた。染色体レベルでは女性だと、彼は言う。映画では盲腸の手術をしたときに初めてわかった、となっているが、原作ではイラクで空爆を受けたときに負傷し、そこで初めてわかった、となっているようだ。

おそらくベニテスは外見的には未発達な男性器があるので、男性と思われ続け、本人も自分は男性と思っていたが、男性器と女性器の両方を持っていた。前教皇もそれを知っていたが、子宮と卵巣を除去すればいいと考えていた。しかし、ベニテスは神の与えた体のままでいたいと考え、手術を受けなかった。

教皇にはベニテスがふさわしいと思うローレンスはそれを受け入れ、そして、窓から庭にいるシスターたちを眺めるところで映画は終わる。

映画の冒頭、ローレンスは同性愛、離婚、避妊を認めるだけでなく、バチカンで女性の活躍を、というようなことを言うが、まわりの聖職者たちは、最後の女性のところは絶対にだめだと言う。これが伏線だったのだ。

コンクラーベのとき、シスターも多数集まるが、彼女たちは枢機卿たちの背後で黙って下働きの仕事をするだけ。イザベラ・ロッセリーニのリーダー格のシスターと、アデイエミ枢機卿の恋人だったシスターの2人だけが前面に出てくるが、これもアデイエミの件にかかわるときだけ。枢機卿たちと、その背景で黙って働くだけのシスターの対比が一貫して描かれている。

同じキリスト教でもプロテスタントは女性の牧師もいるし、また、仏教や神道では女性の住職や神主もいるようなのに、カトリックはかたくなに女性を拒否している。聖職者が結婚できないのもカトリックくらいかもしれない。

(かたくなに女性が地位に就くのを拒否している、というのは、明治以後の皇室も同じで、それ以前は女性天皇が何人もいたのに、ごくごく一部の保守派のせいで、世界でもめずらしい女性が王位につけない国になっている、というのが、実はこの映画と日本の類似点だったりするのである。)

ローレンスはカトリックも女性の活躍が必要と感じていたわけで、肉体的には女性でもあるベニテスが教皇になるのは彼の理想にかなうものだったし、それはまた前教皇の意思でもあった。前教皇はベニテスが教皇にふさわしいと思ったので、彼を枢機卿にし、手術を受けなくても彼を退けなかった。そして、前教皇の意思はまた神の意思でもある。このコンクラーベの理路整然とした展開と結果は、神が望んだとおりになったとしか思えない調和のとれたもので、その調和が左右対称を強調する映像にも表れている。

しかし、性自認が男性であるベニテスは、果たして女性と言えるのか。

ローレンスは枢機卿たちを前に、確信はよくない、疑念とともに生きるべき、という演説をする。保守派のテデスコだけでなく、リベラル派のベリーニも自分の信念を確信していて、この疑念とともに生きるという精神を欠いている。ベリーニは保守派のテデスコが教皇にならないためなら何でもする、というところがバレて思い直し、ローレンスに教皇になれと言うようになる。

ローレンスはベニテスが男性性と女性性の両方を持つことが疑念とともに生きることと解釈するが、クライマックスのベニテスの演説を聞くと、彼も確信している人のように見える。ただ、彼の言葉は他の枢機卿の言葉よりもずっと現実の重みを持っていて、それは疑念とともに生きてきた証かもしれない。

原作ではローレンスの心理が細かく描かれているようで、映画化ではそういうところははしょってしまうから、ローレンスの思想などは原作を読まないとわからないのだろう。原作は原書で304ページとのことだから、そんなにひどく長い小説ではなさそうだが。