という本が出ました。
大昔にキネ旬ロビイに文章が載ったときの話を寄稿しました。
掲載されている記事の大半は昔のキネ旬の誌面をそのまま載せているので、昔は字が細かかったことがよくわかります。昔は特集の映画評は2ページで3200字でした。今は長文の映画評は嫌われるようですが、正直、今のキネ旬に載る長文の映画評とか、昔の長文の映画評ほど面白くないというか、なんでこの人にこんなに長いの書かせるの?と思うものさえ。この長さだったら2人に書かせた方がいろいろな意見が読めて面白いのに、と。
昔のキネ旬のよさは、いろいろな意見が読めたことですが、今はそれはネットに投稿する人たちのいろいろな意見に置き換えられているようです。でも、紙媒体の記事とネットの記事は本質的に違うような気がします。キネ旬ではさまざまな意見を構成する演出みたいなものが、かつてはありました。
と、少し苦言を書いてしまったけれど、過去のキネ旬の表紙のページ、そして、キネ旬の想い出を語る人たちの文章を読んで、自分はキネ旬とはあまり濃い結びつきではなかったのだとわかりました。
確かに継続的に書かせてもらった時期があって、それがあったからこその自分なのですが、他の人のように、育ててもらったとか、そういう感覚がない。他の人たちはキネ旬における自分というものを私よりはるかに重視している、と感じました。
そのあたりの希薄さというのは、私の性格によるところが大きいと思います。
私にとっての大きな転機は1983年の秋で、このとき、創元推理文庫の「フランケンシュタイン」の解説を執筆。同時に、岡山大学就職の話が来たものの、この解説で評論家になろうと思っていた私は辞退。当時は首都圏以外に住んで出版の仕事をするのはほとんど不可能だったのです。
翌1984年2月に「フランケンシュタイン」出版。ちょうどそのころ、東京農工大の公募(その年の秋に就任の公募)に応募し、採用したいとの連絡があったのですが、男女差別が激しい時代で、女性だという理由で教授会で拒否されてしまったのです。それから10年以上たって、この大学で非常勤しましたが、かなりひどい大学でしたね。今まで非常勤で行った中で一番ひどかったです。
農工大で拒否られたあと、「フランケンシュタイン」を送った「キネマ旬報」から連絡があり、ヒッチコック特集で映画評論家としてキネ旬初登場したのでした。
こっちの想い出をなんで書かなかったって? そりゃあ、農工大のクソ教授会のことを思い出さずにはいられないからですよ。農工大は非常勤のときには講師料を全額払ってくれなかったところです。当時、国立大は非常勤講師はボランティアみたいな扱いだったんですね。交通費も全額出るかわからないと言われました。