「キネマ旬報の100年」で、「1973年秋から定期購読を始め、試写会応募はがきにコメントを書いていたら読者欄に載るようになった」と書いているけれど、商業誌に映画についての文章が載ったのはキネ旬が最初ではない。
1971~72年、スクリーンの姉妹誌「シネ・ストーリー」に、ビリー・ワイルダーの「シャーロック・ホームズの冒険」、「風と共に去りぬ」、「戦争と平和」米ソ映画比較論を載せてもらっている。
「シネ・ストーリー」というのはその前からあったのか、この年にできたのか、よく覚えていないのだが、近代映画社が読者から広く文章を募集し、それで「シャーロック・ホームズの冒険」映画評を送ったら、読者の映画評というページができて、私のその映画評が載ったのである。月に1人しか載らないのだが、71年と72年の2年間で3回掲載された。しかし、72年に休刊になってしまった。
この時期、編集部から「小さな恋のメロディ」について映画評論家と対談してほしいという依頼があったのだけど、私が住んでいる地域ではまだこの映画が上映されておらず、都心での上映はもう終わっていたので、残念ながら辞退せざるを得なかったのが痛恨の思い出。
映画評論家になったあと、たまたま知り合った配給会社の人が「シネ・ストーリー」の元編集者とわかり、「編集長が、この人は将来必ず物書きになると言っていた」と言ってくれたのがうれしかった。
そして73年、キネ旬の定期購読者になり、実は、こちらの読者の映画評にも何度も投稿していたが、一次選考通過から上にはどうしても行けなかった。当時は白井佳夫編集長が自ら選んでいたそうで、白井氏のお眼鏡にはかなわなかったのだろう。74年秋には定期購読もやめてしまい、そのあとは同人誌に書くようになったので、キネ旬からは離れてしまった。
その同人誌も長くは続かず、キューブリックの「バリー・リンドン」でイギリス小説に目覚めた私は大学院に進学し、映画は見続けていたものの、英文学者をめざすことになる。
この間の商業誌への映画に関する投稿は、昨年のキネ旬の「エレファント・マン」コラムに書いた「ぴあ」への投稿で、これは「シネ・ストーリー」の頃よりはずっと論らしくなった映画評だった。1981年のことなので、「シネ・ストーリー」の映画評から約10年の歳月が流れている。
そして1983年、友人が翻訳した「フランケンシュタイン」の解説を執筆、翌年、出版、そしてキネ旬で映画評論家デビューとなったのだった。