今週末公開のドイツ映画「ステラ ヒトラーにユダヤ人同胞を売った女」を試写で。
日本の副題はセンセーショナルだが、英語ポスターの副題は「A Life」。これは伝記の副題によく使われる言葉。画像はロッテントマトから。
鏡のようになったガラス窓の前のステラと、そこに映ったステラが中央にあり、片方は笑顔、片方は怖い顔。彼女の2面性を表している。映画の最後に、彼女は被害者であると同時に加害者だった、と出る。
映画は鏡の前で紅を引くステラから始まり、この鏡の前で紅を引くシーンが何度か登場。こういうシーンはだいたい女性の決意を描くもので、アルモドバルの「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」にもティルダ・スウィントンが鏡の前で紅を引くシーンがあるが、この冒頭のステラは鏡の中の自分にキスをする。
1940年、ベルリンに住むユダヤ人女性ステラは楽団の歌手で、アメリカ行きを夢見ている。仲間もユダヤ人で、その1人の親が連れ去られたので嘆いていて、まわりはみな同情しているのに、ステラは冷たい。
もうこの2つのシーンで、ステラは自己愛が強く、他人に無関心な女なんだろうと思わせるが、その後の展開は必ずしもそうではない。
ステラはアメリカ行きに失敗。43年にはユダヤ人は工場で強制労働させられ、強制収容所に送られる者もいる。ステラも送られそうになるが、両親とともに逃げることができる。
その後、ステラは偽の身分証を手に入れ、ユダヤ人ではないドイツ人として暮らすことになるのだが、ベルリンには彼女のようなユダヤ人がたくさんいて、彼女も身分証偽造の手伝いをするようになる。
こんなふうにしてステラはナチス政権化のドイツでかろうじて生きていて、ナチ将校とつきあったりもしているが、基本的にはユダヤ人仲間とともにいる。ユダヤ人なのに同胞を密告していた女、という話なのに、なかなか密告者にならない。なるのは映画が3分の2くらいすぎてから。ゲシュタポに逮捕され、拷問され、アウシュヴィッツ送りをにおわされ、仲間を売るように強要されるのだけれど、彼女は抵抗する。ゲシュタポに協力し、仲間を売っているユダヤ人たちがいることを知ってもすぐには協力せず、アウシュヴィッツ送りを避けるために協力するようになってもかなり苦悩している。
そんなわけで、自分の身を守るために冷酷に仲間を売った女、という描かれ方はしていないのだけれど、それでも知り合いのユダヤ人を次々と密告していく。100人以上の同胞を売ったらしい。逆に言うと、それだけ多くのユダヤ人がナチ政権下のドイツに身を潜めていたということだが。
ステラはユダヤ人だけど金髪碧眼で、生きるために同胞を裏切ることに対する葛藤はある。彼女は善人でも悪人でもなく、自分大好きだけど人に対する気持ちがないわけでもない、時代に対してそれなりに抵抗はするけれど、結局は迎合してしまう。どちらかというといやな女なのだが、そのいやなところが突出していなくて、人間あるあるな感じなのだ。
ステラは強い女で、だからゲシュタポの拷問にも最後まで抵抗するし、密告者になってからも、戦後、裁判になっても、その強さで現状を乗り切っていく。
(以下ネタバレ)
裁判で有罪になったものの、ソ連で有罪になり、刑務所に服役していた期間を考慮してドイツでの服役は免れるが、約30年後に自殺未遂をし、それから約10年後の90年代末に自殺してしまったらしい。ラストは自殺未遂に終わった方の窓から飛び降りるシーンで、これはかつて密告した知り合いの女性が彼女の目の前でやったのと重なるシーン。ステラが罪の意識を抱き続けていたことを示唆するシーンではあるけれど、その前の鏡の前で紅を引くシーンではステラの強い決意が感じられ、苦悩とか罪の意識とかを感じさせるものではない。ここは「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」のティルダ・スウィントンのシーンを思い出させるのだが(「ステラ」の方が先に作られている)、ステラは結局、その心の内を表に出すことはなく一生を終えたように描かれていて、時代に翻弄された悲劇の女性とか、悪に染まった女とかいった、わかりやすい主人公にはなっていない。
パウラ・ベーアの演技は秀逸なのだけど、そのすごさは、ステラの内面がわかるような演技ではなく、むしろ、人間とはわかりにくいもので、それがリアルなのだと思わせるところだろう。