2017年5月29日月曜日

ポピー

しばらく行っていなかった近所の公園へ行くと、ポピーが花盛り。






今月は携帯(ガラケー)とタブレットの2年縛りが終わる月で、両方コース変更すれば月に4千円くらい節約になるかな、と思っていたのだが、調べてみると、安いコースに替えても2千円くらいしか安くならず、その分使いづらくなりそうなので変更しないことにした。
ショップも徒歩圏内にないというか、隣の駅の近くで、自宅から歩くと20分前後かかる場所。
うーん、都心にいたときはショップが至るところにあったのにな。

2017年5月24日水曜日

「メッセージ」(ネタバレあり)

テッド・チャンの原作短編を長編映画にするならきっと大幅な改変や付け足しがあるだろうと思っていたが、意外に原作どおりの感触。
宇宙人を中心とするメインの部分はやはり大幅に変えられていて、原作だとルッキング・グラス(スルー・ザ・ルッキング・グラス=鏡の国のアリスを連想)を通して宇宙人とコミュニケーションをはかるのだけど、結局、意思疎通できないまま宇宙人はいなくなってしまう、というところを、宇宙人と人間がだんだんコミュニケートできるようになるが、ある言葉のせいで世界各国が宇宙人を攻撃しようとする、という内容に変わっている。
意外に原作どおりと思ったのは、主人公の言語学者ルイーズが宇宙人と言葉のやりとりをしているうちに自分の未来を見るようになるところ。
ここが原作の重要なせりふがしっかり入っていて、なかなかに感動的。
大幅に変えた宇宙人のところは既視感があるし、宇宙人に攻撃的になる人間とか国とかの描写がちょっと乱暴というか、描写不足なので唐突な感もある。ただ、そこで未来が見えるルイーズの存在をうまく組み合わせたところはうまい。

ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画は最初に見た「灼熱の魂」が非常によかったのだが、その一方で、話の展開にある種のあざとさを感じ、それが原因で手放しの絶賛はできなかった。
そのあと、「プリズナーズ」を見たら、こちらはあざとさ全開で、やっぱりこの人はあざとさの人なのか、とがっかりしたのが正直なところ。昨年の「ボーダーライン」は「プリズナーズ」よりはだいぶよかったが、それでもこの人のあざとい感じがどうしても気になった。
しかし、今回はそのあざとさをまったく感じなかったのである。
たぶん、脚本のせいなのだろう。
「灼熱の魂」は舞台劇の映画化だから、展開のあざとさは原作のものなのだ。
そして、その後の2作も、あざとさは脚本由来にちがいない。特に「プリズナーズ」はまったくそうだと言える。
これまでに見た3本の映画はどれもストーリー自体にあざとさが入り込んでしまうものだったが、あざとさはヴィルヌーヴ本来のものではなかったのだろう。
そういうところが気にならなかったので(「灼熱の魂」は最後のところがちょっと気になっただけなので、全体としてはあまり気にならなかったが)、今回はヴィルヌーヴの映像感覚や演出を素直に見ることができた。横の線を強調した冒頭とラストの部屋の描写とかすごい。
その冒頭とラストに流れる音楽が「シャッター・アイランド」でも使われた既成曲で、夫と妻と娘にやがて起こる悲劇という共通点があるので、どうしても「シャッター・アイランド」を連想してしまう。

タイムパラドックスと男女のラブストーリーという点では、「君の名は。」を少し連想するところがある。
男女のラブストーリーをもっと前面に出す方法もあっただろうし、その方が受けたかもしれないが、この映画ではラブストーリーはひたすら抑制され、表に出さないようにされていて、最後になってルイーズの未来に向かうラブストーリーであることがわかるようになっている。
未来を見たルイーズは愛も、愛の結晶も永遠にではないことを知っているが、それでもその愛を生きることにする。
一方、宇宙人を攻撃することに決めた中国の将軍をルイーズが説得するシーンはある種のタイムパラドックスで、観客は流れで納得させられてしまうが(この辺もうまい)、この説得シーンも三葉の町長説得をなんとなく連想させるものだ。もちろん、偶然だろうけど。
ヴィルヌーヴの次作「ブレードランナー」続編の予告編をやっていたが、この人は脚本しだいなところがあるかもしれない。「ブレードランナー」はデイヴィッド・ピープルズの脚本が優れていたが、リドリー・スコットは脚本の気に入らないところをディレクターズカットでカットしたりしている。私はやはりピープルズの脚本の方がよいと思っているのだが、今度はどんな脚本で、ヴィルヌーヴはどう料理するのだろうか。

2017年5月19日金曜日

「家族はつらいよ2」映画評

20日発売のキネマ旬報6月上旬号に「家族はつらいよ2」の映画評を書きました。
https://www.amazon.co.jp/dp/B06XSZGZ3D?tag=kinejundb-22&camp=243&creative=1615&linkCode=as1&creativeASIN=B06XSZGZ3D&adid=140M2S1NYTV4JB2ET476
スバル座に「君の名は。」を見に行ったあと、試写に行った、と以前書きましたが、それがこの映画。
久々に楽しんで書けました。
私としては、喜劇の映画評らしい映画評にしたい、というのが第一目標でしたが、とりあえず、それは達成できたかと。
シリアスなテーマを内包しているからといって、シリアスな映画のような評にはしたくなかったのです。
実際、この映画が含んでいるシリアスなテーマは、山田洋次が本気で映画化したらこんなレベルで終わってないはずで、喜劇として楽しむのが一番の目的、そこに少し社会問題の隠し味を、という感じだと思うのです。
もう1つ、今回はあまり言及できなかったことがあって、それは山田洋次のフェミニズム。
前作といい、今作といい、女性から見て感じる男性のいやなところが容赦なく出てるように思うのです。
主人公・周造と笠智衆の対比なんかもそこから来ている。
今回は長男もいやなところ出ちゃいましたね。
ただ、このシリーズが救われるのは、必ずいさめる人がいることです。
試写室でもらうプレスシートを見たとき、主役の8人の家族関係を描いた図に、妻と書くべきなのに嫁と書いているところがいくつかあって、非常に強い違和感を感じたのですが、映画が始まってみると、周造が次男の妻に向かって「嫁は黙っていろ」と言ってしまうシーンで、次男が「嫁とはなんだ」と怒るのですね。
ああ、よかった、やっぱり山田監督はわかってる、プレス作った人がわかってないんだ、と思い、ほっとしました。
ここでも次男が父親をいさめるのですが、そのあと、周造が反省して次男の妻に謝るシーンがあるのもよかったです。

2017年5月18日木曜日

CDとかDVDとか

DVDを買うと、買っただけで安心してしまい、見ない、という癖がある。
もともと買うDVDは映画館や試写で見ている作品が多いので、すぐに見なくても、というのがあるのだけど、見ていないものでもけっこう積んでおく状態のものがある。
昨年買った古いハリウッド映画が10本入っているセット。盤面に傷があるというのでかなり安かったが、傷があっても普通に再生できる。
で、積んでおく状態だったそのセットの中の2本を見た。
「山河遥かなり」と「黒蘭の女」。
どっちもよかった。
「山河遥かなり」は「アーティスト」の監督の「あの日の声を探して」の原作になった作品で、第二次大戦直後のドイツで米軍技師がアウシュヴィッツにいた少年を保護し、一方、その少年の母が息子を探すというドラマ。
終戦直後のドイツでロケされていて、空爆で破壊された街がセットではなく本物として登場する。
戦争が子供たちの心にどんな影響を及ぼしたかが繊細に描かれている。
ラスト、すれ違いになってしまうかと思ったら、という描写は「君の名は。」のラストの数段上を行く絶妙の展開。泣いてしまいました。
「黒蘭の女」はウィリアム・ワイラー監督、ベティ・デイヴィス主演(アカデミー賞主演女優賞受賞)。
「風と共に去りぬ」を思わせる物語だが、1933年の舞台劇の映画化とのこと。
舞台は南部ニューオーリンズ。南北戦争直前。デイヴィス演じる良家の令嬢ジュリーは勝気で自分勝手で婚約者(ヘンリー・フォンダ)に対してもひどい態度をとり、それでも彼は自分を愛していると傲慢に思っていたが、彼は別の女性と結婚してしまう。ジュリーはスカーレット・オハラそっくりで、婚約者はアシュレー、その妻はメラニー。で、ジュリーは元婚約者に復讐するためにレット・バトラーふうの男をたきつけるが失敗、バトラーふうの男は死んでしまう。
そのジュリーが最後に突然改心して、婚約者と妻のために自己犠牲的な行動に出るのが、批評家には不自然と評判が悪いらしい。でも、デイヴィスの演技を見たら、彼女が改心して自己犠牲的な行動に出たのだ、と納得してしまう。
とにかくデイヴィスの演技がすごい。彼女はスカーレット・オハラの候補者の1人だったが、「風と共に去りぬ」のプロデューサー、セルズニックは既存のスターではない新しい女優を求めていたので、デイヴィスを採用する気はなかったらしく、それでかわりにこの映画が作られたようなのだが、これを見ると、ベティ・デイヴィスのスカーレットが見たかったと思ってしまう。
ヴィヴィアン・リーのスカーレットはどこか繊細ではかないというか弱いところがあったが、デイヴィスのスカーレットならはかなさや弱さのない、わがままだが芯の強い女性になったような気がする。
もちろん、ヴィヴィアン・リーで異存はないというか、中学生のときに初めて見てから映画館で何度も見た好きな映画で、配役にはまったく文句はないのだけど、リーのスカーレットはやっぱりどこか男に媚びるところがあって、デイヴィスだとそうではない女性になったと思うので。キャサリン・ヘプバーンも候補にあげられていたけど、キャサリンだと強すぎるけれど、デイヴィスだとそこまで強くなく、悪女の魅力もあり、といった別のスカーレットが誕生した気がする。
ちなみに、ヴィヴィアン・リーがスカーレットになったいきさつは、同じワイラー監督の「嵐が丘」に主演したローレンス・オリヴィエを、当時恋人だったリーが追いかけてハリウッドへ行き、というのは有名な逸話。「嵐が丘」はこのセットにも入っていて、昔映画館で見たとき、あまり面白くないな、と思ったが、今見てもやっぱり面白くない。
ベティ・デイヴィスは中学生の頃から好きな女優で、ワイラーも好きな監督だったが、この2人のコンビ作を実は1つも見ていなかった。今回、やっと「黒蘭の女」を見たので、他もぜひ見たい。
「黒蘭の女」は原題は「ジェゼベル」で、これは旧約聖書に登場する悪女の名前。ジュリーがジェゼベルだというわけ。ジェゼベルはアイザック・アシモフの「鋼鉄都市」で謎解きのヒントとなる名前として使われている(「鋼鉄都市」を読んだのは小学生のときでした。なつかしや)。

で、昨日、久々にブックオクに行ったら、「君の名は。」のサントラがあった。
新品だと定価3000円近いけど、中古で盤面に傷があるので1750円。傷は視聴に影響ないとわかっていたので、買った。
開けてみたら、かなり聴きこんだようで、細かい傷がけっこうあったが、視聴に影響はなし。歌詞のブックレットもしわしわだった。なんで売ったのかな。別のを買ったのだろうか。
サントラは去年「ルドルフとイッパイアッテナ」を買ったけれど、「ルドルフ」がいかにも映画音楽らしい曲が並んでいるのに対し、「君の名は。」は不協和音があったり、不安をかきたてるような音が入っていたり、突然曲がとまったりと、CDとしての聞きやすさよりも劇音楽としての効果を感じさせるものだった。

2017年5月15日月曜日

「作者よりエライ批評家の俺様」という批評

ひどいものを読んでしまった。
「君の名は。」については、公開当初、文化人などがまったくわかっていない批判を書いていて、それに反発したのがそもそも、この映画について考え続けるようになった1つの要因だったのだが、ここに来て、映画を称賛する批評であるにもかかわらず、ひどくトンデモなものを見てしまったのだ。
それはこれである。
http://ecrito.fever.jp/20170123213636
ネット上の記事は簡単に書き直せるので、これから書く指摘が将来、直される可能性があるが、以下に書くことは今現在ネットに上がっている記事に対するものだということをお断りしておく。
著者は伊藤弘了、京都大学の院生で映画学を研究しているらしい。映画評論大賞というものを受賞している。
この批評の困るところは、細部を見るとよいこと、正しいことがたくさん書いてあるにもかかわらず、全体の論旨がデタラメなのだ。
まず、この批評の間違っているところをあげていこう。

「映画「君の名は。」(2016年)が分裂して隕石と化した彗星核の主観ショット(見た目のショット)で幕を開けている点を見逃してはならない。」
映画はまず、空から星が降ってくるシーンから始まり、沈む夕日をバックに隕石と化した彗星の一部が落ちてくるシーンへと続く。このシーンは隕石の主観ショットとは言えない。なぜなら、隕石が描かれている以上、その隕石を見ている目があるはずで、その目は誰の目かというと、小説論でいうところの「全能の語り手」なのだ。
隕石の主観ショットであるなら、隕石から見た風景がなければならないが、それはない。
これを隕石の主観ショットととらえるとしたら、視点に関する理解がないとしか言いようがない。
しかも隕石は終始横から見られているのだ。
横から見ているのは誰だ、といえば、全能の語り手、あるいは神である。

このあと、著者は「恋する彗星」というタイトルにふさわしく、彗星が片割れに恋しているという主張をするのだが、その論拠がきわめて薄弱である。
上にあげた、隕石の主観ショットというとらえかたがそもそもおかしいのだから、そのあともおかしくなるのだが、とにかく彗星がかつて落とした片割れに恋して1200年かけてまた戻ってくる、というのもおかしな話で、というのも、彗星自体は1200年ごとに片割れを同じ場所に落とし続けているのだから、片割れに恋して戻ってくるというのが非常におかしい。論理破綻である。
また、著者はここで、「彗星核の氷の中には「石」ならぬ鉄塊が隠れていた」と書いているが、この鉄塊という言葉は映画ではかなり大きな文字で出てくる。実は私は隕石が実は鉄塊であったということがずっと引っかかっていたが、最近、この彗星は「人工天体」であるということが画面に目立たない形で出ているシーンがあると聞いて、納得がいった。つまり、この彗星は宇宙人が作った人工物で、だから隕石が鉄の塊なのだ。
もうここで「恋する彗星」は完全に論理破綻してしまっていることがわかる。というか、著者がそう思いたいだけなのだ。
著者は、天災は食い止められない、人間は逃げるしかない、というごくごく当たり前のことを書いているが、そこに恋する彗星をこじつけるのだから困る。

このあとの線についての分析などはよいというか、こういうふうにあるモチーフに合致したシーンを次々とあげるというのは、DVDなどのディスクが手元にないと普通できない。映画が文学のように分析されるようになったのは、DVDが本のかわりになり、文学者が本のテキストを分析するように映画の映像を止めたり戻したり進めたりしながら分析できるようになったからだ。映画館では何度見ても、なかなかこういうことはできない。なぜなら、映画館で見る映画は向こうのペースで見せられるので、止めたり戻したりができないからだ。
「君の名は。」は英語字幕のついた映像が全編、ネットで視聴できた。おそらく東宝が配ったサンプルDVDがネットに流されたのだろう(違法映像である)。著者はこの違法画像をDVDのかわりにしたか、どこかからサンプルDVDを手に入れたかのどちらかである可能性がある(映画館で何度も見てメモをとったかもしれないので、断定はできないが)。
実際、この批評のような分析は、DVDなどが発売されれば多数書かれるだろう。今はそれができる環境にいない人が多いのだ。

とりあえず、線についてなどの映像分析自体はよいとして、これが全然恋する彗星のテーマにつながっていない。ただ、線についてなどの映像のモチーフを全部調べました、というレベル。全体的な解釈になるとぐだぐだになってくる。
たとえば、ここであげられているバッタのシーン。三葉が転んだときにバッタが草から飛ぶが、バッタが飛んだのが命拾いの象徴とか、いいかげんすぎる。

また、三葉には入れ替わり能力があり、瀧には画力がある、というのもおかしい。
三葉に入れ替わり能力があるから瀧と入れ替わったのではないだろう。
三葉が画力のある瀧を選んだとか、これまたぐだぐだというか、入れ替わりは人間が意図してやっているのではなく、何か人知を超えたもの(神とか運命とか)が行っていると考える方が正しいのではないか。この著者は彗星が恋するとか、三葉が瀧を選んだとか、人間に寄りすぎというか、ファンタジーやSFへの造詣に欠けているのではないか。

また、瀧が龍にさんずいを足した名前、というところも、龍に三を足したと書いているが、これはすでに多くが指摘しているとおり、龍と水を組み合わせたものである。

そして最後の注の部分で、著者は、
「サビの「君の前前前世から僕は/君を探しはじめたよ」の部分は、最初の「君」と二回目の「君」が別の対象を指していると考えることができる。」
と書いている。つまり、最初の「君」が三葉や瀧を含む人間、次の「君」が彗星の片割れだというのだが、1つの文章の中で出てくる2つの「君」が別ものって、言語の常識としてありえない。これも恋する彗星にしたい著者の願望でしかない。

こんな具合に著者の願望で出来上がっている批評なわけで、線のモチーフをいろいろ見つけたあたりは評価できるが、そこからの解釈におかしなところがあり、そして全体的な論旨が結局、著者の願望でしかないので、結果的にトンデモな論文になってしまっている。
遺跡調査はしっかりしました、が、調査の結果をもとに自分の願望でトンデモな論文になりました、という感じなのだ。

この批評を読むと、著者が「君の名は。」が好きであり、新海誠の過去作も好きだろうことがわかる。しかし、全体として感じるのは、作品に対するリスペクトの欠如だ。
著者が引用している加藤幹郎が若い頃、映画評論で賞を取ったとき、「映画を凌辱したい」と受賞の言葉に書いたが、好きな映画を自分の思い通りにしてしまいたいという欲望がこの批評から感じられる。相手をリスペクトせず、無理やり自分のものにしようとしているのだ。
この批評は最初からイヤな感じのする文章だったが、それは冒頭にあるこの文章に現れている。

「人はなぜ映画を見るのか。そこに映し出されている自分の片割れと出会うためである。」
まあ、これはケチはつけたくない文章である。こういう側面もある。が、この批評全体を読んだあとにこの文を読むと、ああ、やっぱりこの人の欲望全開なんだな、ということがわかるのだ。
「(彼らの思惑などはどうでもよいことだ)。作り手が自らの創作物の解釈を誤ることはそれほど珍しくもないのだし(このことは一般常識として広く共有されるべきだと思う)、そもそも人は作者のつまらない意図を斟酌するために映画を見るのでは断じてない。」
これも特に間違ったことは言っていないが、ここでなぜ、わざわざ「作者のつまらない意図」などと書くのか。なぜ、「作者の意図」ではだめなのか。
この「つまらない」を入れたところに著者の本音がある。
批評家は論理的に作品を見るが、クリエイターは必ずしも論理的に作品を作っているわけではない。むしろ、無意識にあるモチーフを作るといったところにクリエイターの芸術的な才能がある。だから批評家の方が作者より作品をよく知っている、ということはしごく当然に起こり得ることなのだ。
しかし、それは批評家の方が作者よりエライのではない。作者が作品を作ってくれたから批評家は作者より多くのことを発見するのである。
そういう観点に立てば、「作者のつまらない意図」などという言葉は出てこないだろう。上の引用全体に漂う作者軽視はいったい何なのか。作者よりエライ批評家の俺様、なのだろうか。
そもそも映画は多くの人の協力で作られるものだから、文学のように1人の作者に絞ることはできない。「君の名は。」にしても、ここに出てくる様々な要素やモチーフは新海誠1人の発案ではないだろう。最終的に新海の作品として世に出ても、その背後には多くの人の力がある。
「作者のつまらない意図」という言葉には、新海をはじめとする多くのスタッフ、キャストに対する侮蔑さえ感じる。
結局、この文章は、一見まともそうに見えても、恋する彗星にしたいという自分の願望のためのものでしかない。別に作者の意図など持ち出さなくても、恋する彗星という全体の解釈が変だというのはこの文章自体からわかるのだ。いろいろと書いてはいるが、結局、恋する彗星という論を成立させるための論証がきちんとされていないのだから。

新海誠は確かに作品について説明したがる傾向があり、もう少し黙っていた方がいいと私も思うところがある。たとえば、瀧が就職活動をしているシークエンスで司と奥寺先輩の両方が結婚指輪をしているのがわかる場面がある。新海はこれを、2人が結婚したと説明しているが、このシークエンスだけでは2人が結婚したという確たる証拠はない。瀧と3人で糸守へ行き、そこで2人が親密になった可能性はあるが、2人がそれぞれ別の人と結婚したとしてもおかしくない。特に、司と会っているときに奥寺先輩からメールがあり、瀧1人で奥寺に会いに行くのだから、司と奥寺が夫婦であればもう少し何か入れないといけないと思う。一方、テッシーとサヤカが結婚するというのはブライダルフェアとか式のこととか、2人で不動産屋の前にいるシーンとか、いくらでも証拠がある。

上にあげた例のように、論証というのは映像や音声から立証できるものをそろえてするものであって、テッシーとサヤカの結婚は論証できるが、司と奥寺は論証できない。
それと同じで、この著者の批評では、線のモチーフなどを見つけるところまではよいが、恋する彗星の論拠があまりにも薄弱というか、間違ってさえいる。
しかもそれが、好きな映画を無理やり自分のものにしたいという願望から生まれているのだ。