2017年4月23日日曜日

「美女と野獣」は、見た目はともかく趣味が合えば(追記あり)

下でさんざんけなしてしまった「美女と野獣」ですが、ツイッターで面白いツイが。

「「美女と野獣」、「見た目はともかく心が美しければ」という話ではなく、「見た目はともかく趣味が合えば」という話なので…」

いや、まったくそのとおりです。
ベルはがさつなガストンが嫌い。
野獣も最初はがさつで怖い人だと思ったら、すごい蔵書の持ち主で、シェイクスピアのセリフをそらで言えて、ベルが読んでたような白馬の王子を期待するおとぎ話ではなく、もっとレベルの高い本を読めよとか言ってくるのです。
その上、図書室の蔵書がほしければあげるよ、と。
もともと「美女と野獣」にはファザコンのテーマがあって、父親べったりのベルが野獣と出会って父親を卒業という女性の旅立ちのテーマがあるのですが、ディズニーのはどうもその辺スルーっぽい。
この野獣が読書家で、本という共通の趣味があり、2人は急接近、という設定はよいと思うのですが、これもすばらしい展開にはなってない。いつのまにか立ち消え。
やっぱ脚本悪いんですね。
野獣が地図を広げて、好きなところへ行ってみなさい、と言い、心の目で見てみよう、と言うのは「ルドルフとイッパイアッテナ」に似たシーンがあったのですが、「ルドルフ」より前に前例があったのかな?
本に関しては、「ルドルフとイッパイアッテナ」の方がずっとうまい使い方でしたね(原作のおかげだけど)。
まあ、あのシーンでは一瞬、野獣がイッパイアッテナに見えましたけど(「ルドルフ」去年の映画だからディズニーがまねしたなんてことあるかな?)。

「君の名は。」について、最近新たにわかったことがあったので、近々書くつもりです。
あと1回見ると「ルドルフとイッパイアッテナ」の回数に並びます。


追記
ディズニーの「美女と野獣」は野獣が王子に変わると女性はがっかり、という話を知り、実際、そうツイートしている人を見て、へえほうと思いました。
アニメの方のファンがそうらしいけど、今回の実写でもそういう感想が出てるらしい。
確かにディズニーの野獣はペットのようで、ペットが大人の男性になるといや、という女性心理わかる。わかるけど、これって、女性が子供のままでいるってことでは?
フェミニズム的に言えば、男性はペットのようでいてくれた方が女性は幸せということで、これもわからんでもないけど(でも、フェミニズム的に正しいかは不明)。
つまり、ディズニーの「美女と野獣」は父親べったりのファザコンのベルが、ペットのような男性に目覚める話?
コクトーの「美女と野獣」や最近のフランス映画の「美女と野獣」では、明らかに野獣のときよりジャン・マレーやヴァンサン・カッセルになったときの方が魅力的だった。野獣もペットのようではなかった。
しかし、今回のディズニーの実写「美女と野獣」は最後に出てくる王子は確かに魅力がない。野獣に変わる前の王子は邪悪な表情をしていて、野獣のあとの王子はよい人の顔になっていたが、魅力的な王子ではなかった。
いっそ、王子になった野獣を見てベルは恋が冷め、去ってしまい、という結末の方が本当はあってるのか(それじゃ受けない)。
野獣だけは呪いが解けるのが間に合わず、ベルは野獣と幸せに暮らしましたとさ、というのがいいのか(ファンはそう思ってそう)。
この辺、やっぱりディズニーの限界っていうか、中途半端。

つうか、野獣がペットみたいだからいいっていうんだったら、結局、見た目じゃないか。

2017年4月22日土曜日

「美女と野獣」+1

シネコンで大ヒット中の「美女と野獣」と「君の名は。」をハシゴ。
「君の名は。」は8回目ですが、このハシゴがなければ一番近いシネコンで「美女と野獣」を見たかったです。理由は、そっちの方がスクリーンが大きい。が、そこでは「君の名は。」はすでに終了。
「君の名は。」は14日に大量に終了したこともあって、日曜に同じシネコンに見に行ったときも今回もけっこう入っていました。が、そのかわり、途中でトイレに行く人がいたりして落ち着かない。また、今回は隣の人が途中で何度かスマホを光らせるので集中できなかった。次は別の映画館にしよう(まだ行くのか?)。久々にスバル座行くかな。

「美女と野獣」は1991年のディズニーアニメの実写化ですが、この間に舞台ミュージカルにもなっているので、非常に人気も高く、世界的に大ヒットしているようです。
が、正直言って、アニメの方がずっと良かった気が。
やはり90分弱のアニメを130分に引き伸ばして、その分中だるみというか、全体的にたるんだ演出に見えてしかたなかった。
見たスクリーンが悪かったのか、全体に画面が暗くて見づらく、豪華絢爛な雰囲気をあまり感じなかった(近いシネコンで見た方がよかったか?)。
家具や日用品に姿を変えられた召使がたくさん出てくるのですが、彼らのシーンはもちろんCGなので、実写って言ってもCGアニメの割合が高い。燭台たちが歌い踊る昔のミュージカルへのオマージュのようなシーンも、全部アニメだよね、という感想を持ってしまうのです。
野獣もまあ、俳優をもとにしたアニメみたいなものだし。
登場人物にゲイやトランスジェンダーらしき人がいること、ベルの村がマイノリティを差別するコミュニティであることなど、差別の問題やマイノリティの問題が含まれているのが今日的といえはそうなのですが、それがテーマとしてすばらしい展開を見せるかというとそうでもない。
もともと野獣にされる前の王子が美醜の差別主義者で、美しいものや人しか城にいれないために醜い老婆を追い出そうとし、実は魔女である彼女の怒りに触れて野獣にされたという設定なのが、その後の展開ではうやむやになってしまう感じ。
つまり、野獣にされる前の王子は村の差別主義者ガストンと同じであり、その野獣が心やさしい、差別をしない人物になることでガストンのダブルだった彼が別人へと変わるとか、そういう展開はまったくなし。ガストンと野獣が最初ダブルで、ガストンが死ぬのは野獣の中の差別主義者が死ぬこと、みたいな高級な展開はないのです。
ベルの村はゲイやトランスジェンダーと思われる人たちはそれを隠して生きているようで、あからさまに差別されるのはベルのような本を読む女性と、結婚しない女性(昔の言葉でいうとオールドミス。映画ではそれを意味する英語をガストンが言っている)。
ベルは本を読むのでまわりから変わり者扱いされ、結婚しない女性は物乞いしないといけない(ただ、彼女には秘密があって、それはあとでわかる)。
そんなこんなで村人たちがガストンの先導でヘイトクライムに走ってしまうのも現実社会への批判となってはいるのですが、なんか描写や展開が下手。
あと、エマ・ワトソンのベルがあまりよくない気がする。歌も声の質があまりよくないし、エマ・ストーンと比べたらいかんのかもしれないが、演技も特にうまくないし、華もない感じなのだ。
それと気になったのが、古い時代のフランスが舞台だけれど黒人が数人出てくること。
確かにシェイクスピアの「オセロ」があるようにヨーロッパにはアフリカから来た黒人がいただろうけど、そういう歴史的背景で黒人が出ているようには見えないのです。
だったらいっそアジア人も出しちゃえばいいのに。
つか、アラブ人くらいは出すべきではないですかね。

2017年4月19日水曜日

稼げるナントカ、稼げないナントカ

しばらく読みに行っていなかったあるブログをふと思い出して、主さん、どうしてるのかな、と思い、久々に見に行ってみたら、興味深いサイトを紹介していた。
そのブログで紹介されていた記事はこれです。
https://kase2.jp/13042017/2303.html
「『正確でわかりやすい通訳を心がけています』←どうでもいい」

ブログ主さんはわりとまじめに、通訳者としての技能のさまざまなレベルについて考察されていましたが、私が感じたのはマーケティング。
誰もが言うことを言っていたのではあなたは仕事もらえないよ、というのがこの記事のテーマ。
記事の著者は酒井さんという方のようですが、この方の他の記事を読むと、マーケティングについての話がいっぱい。

https://kase2.jp/15042017/2331.html
「「今日は来るつもりなかったのになあ~」というお客であふれる居酒屋の理由」
お客さんにリピートされている居酒屋に対し、リピートされない店はなぜそうなるのか。
答は、「忘れられている」
うっわー、直球。ど真ん中。
誰に仕事頼もうかなあ、と思ったとき、頼まれるのは思い出される人。
忘れられている人には永遠に仕事は来ません。
だから忘れられないように常にアプローチが大切ということですね。
営業とも言います。

https://kase2.jp/11042017/2297.html
「仲の良い通訳コーディネータが退職したら仕事が来なくなった…」
これは通訳以外でもたくさんあるでしょう。編集者がやめたら、異動したら仕事が来なくなった、とか、私も何度も経験あります。

一番上の記事を最初に見たとき、目に入ったのは、「稼げる通訳者育成」というサイトのサブタイトル。
「稼げる通訳者」ということは、「稼げない通訳者」がいるんだ、と、考えてみれば当然のことを知りました。
「稼げない翻訳者」、「稼げない研究者」もいますね(どちらも私のことだ)。
つまり、通訳者も翻訳者も研究者も供給過剰で、仕事にあぶれている人がいるわけです。
しかも、あぶれている人は能力が劣るわけではない(という前提)。
本当に能力が劣る人はやめた方がいいわけですが、能力があるのに仕事が取れない人のためのマーケティング教室ってことでおk?

昔は通訳者も翻訳者も研究者もなりたい人が少なかったし、それで食えないなら転職してたと思いますが(翻訳は会社員のかたわらやっていて、仕事が増えたら独立というケースもよくあったみたい)、今は大量の通訳者、翻訳者、研究者が学校や大学院から次々と生まれていて、だから稼げない通訳者、翻訳者、研究者が出てくるっつうか、稼げない人の方が多い?
研究者の場合、非常勤で生活したら研究する時間がなくなる、つまり研究者じゃなくなってしまうので、非常勤で食えていてももはや研究者としては終わってる人が少なくないのではと思います。第一、非常勤の人は金がないから研究書を買えない、学会へ行く旅費も自腹なので行けなくなる、それどころか、学会の会費がばかにならないので学会もやめる、という具合に、金がなければ研究できない世界なのです。
通訳、翻訳も、小さいパイを大勢で奪い合っている状態のようで、上のマーケティングやってれば誰でもうまく行くわけではないというか、最初の記事のように、他の人と同じではだめなのでしょう。
たとえば出版翻訳だと、持ち込んだ本がことごとく売れるとか、そういう翻訳家が実際にいるのです。だいぶ前に私が行っていた大学のドイツ語の非常勤講師をしていた人がそうでした。
そのくらい違わないとだめってことで、なかなか大変な世界だと思います。あとはやはり3番目の記事にあるような人脈作りでしょう。

2017年4月18日火曜日

4月の花

谷中・天王寺






黄昏の上野公園。スタバのあたり。奥が宴会でにぎわう桜並木。

出来レース公募のこととか

私はコネがなかったので、博士課程在学中から30代前半まで大学の専任教員の公募によく応募していました。
当時は公募はほとんどすべて出来レースと言われ、実際に表向き公募の人も実は出来レースだったという話をしょっちゅう耳にし、本人が自分は出来レースじゃなかったと言ってる人ほどキャリアがない人だったり。
また公募自体非常に少なく、35歳までという年齢制限があるものが多く、結局、時間切れで応募できなくなりました。
当時は応募書類が必ず返ってきたが、履歴書も論文もまったく手つかずの状態で返ってきたので、出来レースなのは明らかでした。

昔は公募情報は母校の事務室で見るしかなかったが、やがてネットで見られるようになりました。10年ほど前にそのことに気づき、また応募しだした。かつては年齢制限がありましたが、現在は年齢制限はほとんどないです。ないとはいっても実際はあるのですが、昔のように35歳までということはないだろうと思いました。
このときは地方の大学でもいいと思ったので、手当りしだい書類を送ったけれど、公募1つに論文のコピー代やら送料やらで1500円くらいかかります。100回送ったら15万円。さすがに100回は送ってないが、40回くらいは出したと思う。
おかげで出来レースではなかった非常勤講師を2大学でゲット。
ただ、今も公募は出来レースが多いらしい。昔よりは出来レースでないのが増えているとは思うけど、ある大学の専任の先生がブログに、「公募を出来レースでなく、まともにやろうと思うととてつもない時間と手間がかかる。だから公募は出来レースにならざるを得ない」と書いていて、まったくそのとおりだと思った。
だってそうでしょう。1つの公募に何百も応募があって、送られてくる履歴書と論文を全部読んで選んだら、そりゃ大変な手間がかかる。小説の新人賞みたいに下読みを雇うわけにもいかないし。
さすがに修士論文しかない人を出来レースってわけには今はいかないだろうけど、採用されて当然と周囲が思うくらいのキャリアの人がいたら、その人を採用することにして、表向き公募にして出来レース、というのがまあ、普通だろうな、と思う。
理研の小保方晴子が出来レースだったのは有名な話。
今は応募書類が返送されてくることは非常にめずらしく、紙ぺら1枚の落選通知が来るか、それさえ出さない大学が多い。たまに返送されてくる論文を見ると、やっぱり読んだ形跡なし。きれいな状態で返ってくるから使い回しできるので、別に文句はありませんが。
現在は大学教員の定年の年齢に近づいているので公募には応募しませんが、非常勤講師や特任などなら可能性があるかなと思って応募することはありますが、やっぱり出来レースだろうなと思います。
専任の場合、出来レースになるのは、手間がかかるだけではなく、研究が優れていても人間としてどうだかわからない、というのがあるらしい。
確かに、研究は優れていても人間として困る人はいるし、組織の中でうまく調和できない人もいる。
今の私はそういうこと、ほんとによくわかるので、出来レースやむなしと自分でも思います。公募しないで適任者を採用すればいいのだけど、ある時期から原則公募とされるようになったので、今の状況があるのだな、と。出来レースじゃないのもあるから宝くじよりは確率の高いチャンスがあるのかもしれないし、チャンスが全然ないよりはいいのかな、と。