2018年11月26日月曜日

もう一度「ボヘミアン・ラプソディ」について

「ボヘミアン・ラプソディ」ドルビーアトモスの記事にわりとアクセスがあるので、アトモス上映についてググっている人が多いのかもしれないけれど、私が見た日本橋のアトモスは状態が悪かったので、残念ながら参考にはならないと思う。
と思っていたら、いろいろ朗報が。

(朗報 今週末から日本橋TOHOで「ボヘミアン・ラプソディ」がアトモスに復帰するようです。このブログで日本橋アトモスは雑音が、と何度も書いてしまったけれど、よかったと書いている人もいるので、おそらく私の見た回だけと思われます。というか、せっかくアトモス復帰なので、しっかりよい音響にしていただきたいし、映像はTCXなので申し分ありません。日本橋は普通の上映も回数をとっているし、もちろん応援上映もあります。)
(さらに朗報。日本橋は水曜からTCXのスクリーンで上映。そして、亀有MOVIXは金曜から最大スクリーンに復帰、金曜は小さいスクリーンで2回の応援上映もあり。他でも「ボヘミアン」の上映が増えているようです。それにしても日比谷がIMAX復帰、日本橋がTCXとアトモス復帰、亀有が最大スクリーン復帰と、私が行った映画館が軒並み「ボヘミアン」優遇なのはうれしい限りです。また行ってしまいそう。)

というわけで、この映画については見てから数日後に感想を書いているのだが、見た直後にいろいろな雑音が頭に入ってきてしまい、その雑音に抵抗しながら書いたので、肩肘張った文章になってしまった気がする。
公開直後はアメリカでの批評家の評判が悪いということで、大ヒットはしているけれど作品としてはイマイチみたいな言説が跋扈していたが、やはり映画に感動した人々の声が絶大で、その後は評論家も含めて好意的な声が圧倒的になっている。
特に2週目、3週目と、観客が増えていることや応援上映の人気が話題になって、もう、映画としてイマイチとかいう雑音はすっかり消された感がある。
私自身、すでに6回見て、今はもう、最初の雑音にはまったく影響されずに映画を語ることができるようになった。
そこで、もう一度、この映画について書いてみたいと思う。今回は手短に。

この映画は脚本がそれなりにうまくできているし、編集もわりと決まっている。
雨の中でフレディが真実に気づくシーンからラストまではほとんど完璧と言っていい。
それまでの部分は確かにだれるシーンもあるのだが、そのあとバーンと音楽が鳴ると一気に盛り上がる。その繰り返しで、だれるシーンが救われている面がある。やはりクイーンの音楽がすごいのだし、音楽の部分の表現がいいのである。
そして、雨の中でフレディがメアリーの言葉によって覚醒し、ポールとの縁を切るシーンからラストまではみごとな展開だとしか言いようがない。
テレビでフレディの私生活をばらすポールを見るシーン、バンドのメンバーと仲直りするシーン、そして、「誰が永遠に生きたいと思うだろう」という曲が流れ、エイズの治療のために病院を訪れたフレディが、廊下にいた青年から「エーオ」と声をかけられるシーン。このあと、荘厳な音楽が流れるが、ここはまさに文学で言うところのエピファニーである。
雨の中のアウェイクニング(覚醒)と、病院の廊下でのエピファニー。
文学の伝統的な手法がここにある。
さらには、最初のシーンで歌われた「サムバディ・トゥ・ラヴ」が再び歌われ、それがフレディとジムの再会になるという脚本のうまさ。
フレディと家族のシーンは描写としてイマイチ弱い感じはするが、フレディがジムを家族に紹介するシーンは初めの方のメアリーを紹介するシーンと対になっている。
このあたりの対になる表現が、王道として、決まっているのである。
言い換えれば、この映画は古典的な、伝統的な手法でドラマを構成していて、そこが、もっとシリアスで斬新な映画を期待した人からすると、浅はかということになってしまうのだろう。
シリアスで斬新といえば、フレディが記者会見で記者たちから私生活に関する質問攻めにあうシーンがそうしたシリアスさや斬新さを見せていると思うが、このシーンどうも映画全体から浮いているように見える。フレディが精神的に追い込まれていることを示すとか、ゲイへの偏見を示すとか、意味はあるのだろうが、あまり効果的だとは思えない。こういうシーンや演出ばかりで出来上がった「ボヘミアン・ラプソディ」を見たい人がいるのだろうか?
この映画はクライマックスをライヴ・シーンにするという目的で作られた映画であり、あのクライマックスに向かうには古典的伝統的手法がふさわしい。ポールとメアリーが、古典小説ではおなじみの、主人公を悪の道に誘う人物と善の道へと戻す人物になっているのも、古典的伝統的手法の物語の方があのクライマックスに向かうのに適しているからだ。
確かにだれたシーンもある、イマイチの描写もある、だが、そのたびに音楽がバーンと鳴ってシーンを救い、伝統的なアウェイクニングとエピファニーを見せて、そのあと一気にクライマックスのライヴになだれ込む。その頃にはもう、観客は熱狂の渦に包まれている。
「ボヘミアン・ラプソディ」とはそうした映画であり、熱狂の渦に巻き込まれた観客は、もう一度、あの渦に巻き込まれたいと思うのだ。

どうでもいい追記は消しました。
巷にはこの映画についてのよい文章があふれているのに、タイトルでPV稼ぎをねらい、中身は長いだけの駄文、しかも大手サイト、みたいなのにぶつかって、よい気分が吹っ飛んでしまったのだけど、そういうのは華麗にスルーが一番。次から著者名に気をつけよう。

「ボヘミアン・ラプソディ」チネチッタLIVEZOUND応援上映

日曜は本当はラーメンサミットに行こうと思っていたのだけど、金曜の亀有の「ボヘミアン・ラプソディ」がちょっと欲求不満だったので、やっぱり重低音があって応援上映らしい応援上映のところ、と思って探したら、川崎チネチッタのLIVEZOUNDの応援上映があった。
川崎は遠い。が、ラーメンサミットをあきらめて、チネチッタへ。
チネチッタのあるチッタデッラはクリスマス仕様。



チネチッタは昨年の大みそかの「君の名は。」以来。
映画館の下にタワーレコードがあり、去年は「君の名は。」一色だったが、今は「ボヘミアン・ラプソディ」一色。「ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ」を聞きながら2階へ。
チケット発券機がすべて1階に移っていた。

実は川崎に着くまでが大変で、ちょうど出発した頃に浦和赤羽間で異音確認のため、上野東京ライン(宇都宮線、高崎線、東海道線)がストップしてしまった(ついでに湘南新宿ラインもストップ)。上野東京ラインに乗り換える頃には動き出していて、乗った電車がまさにその異音確認で止まった電車。つまり、20分くらい止まっていて、やっと走り出した最初の電車なわけで、おまけに10両編成だから殺人的な混雑だった。幸い、東京駅で座れたので立っている人よりは相当マシだったけれど、京浜東北線に乗ればよかったと思ったほど。

とりあえず、無事にチネチッタに到着。
LIVEZOUNDは「君の名は。」のとき、隕石落下の重低音がすごかったので、期待していたのだけれど、「ボヘミアン・ラプソディ」は重低音はあまり強調されていなかった。やはり日比谷のIMAXが一番重低音が響き、次が日比谷のプレミアムシアターというところ。
逆によかったのは、音が非常にクリアーで、英語の発音が一番よく聞き取れた。エレキギターの音も日比谷IMAXと同じくらいよい。重低音以外は非常に満足できた。
応援上映も、歌のときにライトを振る人がいたり、拍手する人がいたりで、応援上映を目的に来た人が多かったようだ。最初のファンファーレから拍手。そして、「ボヘミアン・ラプソディ」の歌が終わると拍手。最後も拍手。
入口に「応援上映の注意」という立札が立っているのもいい。日比谷ではそういうのはまったくなかった。
というわけで、重低音は物足りなかったけれど、応援上映は楽しめた。

これで6回見たわけだけど、今回はなぜか上映中にトイレに行く客が多かった。これまではそういう人はほとんどいなかったのに。初めてではないお客さんが多く、気がゆるんでいたのか?

というわけで、チネチッタのLIVEZOUNDはかなりよかったと思う。
個人的には日比谷IMAXは映像の輝度と解像度の高さと圧倒的な重低音が魅力。
日比谷プレミアムシアターはきめ細かい音響づくりが非常に魅力的で、画面も大きい。総合的に見ると、今までではここが一番いい。
そしてチネチッタのLIVEZOUNDはクリアーな音響と適度な大音量が魅力。
と、以上3つはよかった。
日比谷は火曜からIMAXでまた上映が始まるけれど、プレミアムシアターではもう見られないのだろうな。残念。
IMAXとLIVEZOUNDはまた見てみたいと思うが、前者は500円増し、後者は川崎が遠いのがネック。

で、あとの3つ。
日本橋アトモスはどうも私の見た回は音響の調節が悪かったのではないかと思うのだが、クライマックスが雑音がひどくてかなりガッカリ。
アトモスでない方は無難な感じ。どちらもTCXで画面は大きい。日本橋のTCXはもともと好きだった。
亀有はたまたま隣の客が悪すぎたけれど、音はそこそこいい。映像がスクリーンより小さく写るのが難点、というところ。映像は1年くらい前にスクリーンを張り替えたはずなので、そこそこきれいだと思う。特別な設備はないけれど、平均以上。

2018年11月23日金曜日

「ボヘミアン・ラプソディ」@亀有

このところ「ボヘミアン・ラプソディ」しか見てないので、この話題しかない。
で、3連休初日の勤労感謝の日は亀有へ。
亀有はわりといつも人でごった返しているのだけれど、この日はなんかすごく人多い。
MOVIXのあるアリオもやたら人が多かった。
恒例の冬のイルミネーション。

「ファンタスティック・ビースト」続編公開の影響で、大ヒットにもかかわらず、座席数激減させられてしまい、そのせいもあって、都心は早々と売り切れ続出、郊外の亀有もほぼ満席ではないかという盛況。
ただ、今回は隣の中高年カップルが映画の間ずっと、大きな物音をたてて飲食していたので、やっぱり郊外はだめだな、日本橋や日比谷の方がよかった、と思った。
観客の反応も日本橋や日比谷の方がノッていた感じがする。
「コーヒーマシンはよせ」というところで誰も笑わないし。
でも、場内が明るくなったとき、反対側の中高年カップルの女性が「もう1回見よう」と言いだしたので、ちょっとうれしくなった。クライマックスでは泣いていたようだ。こちらのカップルはマナーが非常にいい感じだった。

シネコンのあるアリオの2階にはタワーレコードがある。サントラがあるだろうと思って行ってみると、映画のクライマックスになったライヴ・エイドのDVDがあった。もちろん、サントラも。

左がDVD。右が輸入盤のサントラ。下に敷いているのはチラシ。上映中なのにチラシがたくさん積んであった。こういうところが亀有の好きなところで、「君の名は。」の最後の週には大きなスクリーンで上映してくれたりと、観客の心がわかってる感じがするのだ。売店がもっと広ければいいのに。人がいっぱいでパンフレットがあるかどうかも見られなかった(日本橋にはあったので、買えばよかったかな)。
タワーレコードにはブルーレイもあったが、まだブルーレイの機械買ってないし、DVDの方が1000円くらい安いので。サントラはもちろん、国内盤も売っていた。

亀有駅。こち亀。

恒例のイルミネーション。常磐線の車窓からも見えます。

アリオ。右下がアイススケート場になっている。

亀有は音は悪くないが、映像がスクリーンいっぱいに映さないので、上下左右に黒い部分ができているから、スクリーンより小さくなってしまうのが不満。
あと、やっぱり重低音がほしいなあ、と思うので、次は遠出して重低音があるところへ行こうと思う。
なお、明日24日はフレディ・マーキュリーの命日で、MOVIX、イオンなどではポストカードの配布があるようです(TOHOはないようだ)。

2018年11月21日水曜日

「ボヘミアン・ラプソディ」IMAX&応援上映@日比谷

今週金曜から「ファンタスティック・ビースト」の第2作が公開されるので、先週比100%を超える勢いの大ヒットを続ける「ボヘミアン・ラプソディ」が条件のいいスクリーンから追い出され、上映回数もかなり減らされるようだ。
そんなわけで、TOHOシネマズ日比谷のIMAXとプレミアムシアターで見ておこうと、初めて東京ミッドタウン日比谷に向かう。
日比谷は自分の庭のようによく知っているので、ミッドタウン日比谷へ行くのは問題ないのだが、中に入ってからシネコンにたどり着くのが大変らしい。
開館直後は人が多くて、エレベーターは乗れない、エスカレーターに乗るのも大行列とかで、とても行く気になれなかったが、半年たった今はもうすいている。が、ここはエスカレーターで行こうとすると、上のフロアに上がるたびに歩かねばならず、なんかもう、フロアガイドを見ただけで、ここは迷路なのか、と思ってしまう。
そして、ハシゴする場合の問題はメシ!
郊外のシネコンだとショッピングセンターのフードコートで食事すればいいので、ハシゴの間の食事は余裕だったが、日比谷だと安い速いのは有楽町駅の吉野家くらい。が、ミッドタウンを出るのに10分、有楽町駅へ行くのに10分かかったら、往復40分になってしまう。IMAX終了とプレミアムシアター開始の間は1時間しかない。
ミッドタウンのレストランは庶民には縁がないような値段だというし、シャンテの地下はリーズナブルだけど、注文してから料理が来るのに時間がかかるかもしれないところはやはり無理。
ということで、昼間にディナーを食べて、夜はシャンテ近くのファーストフードに決めた。ゴジラ像のそばのウェンディーズで久々にハンバーガーとチリを食べた。ここは前はファーストキッチンだったのかな? シャンテ周辺で映画を見たときにはよく利用していた。

ということで、写真を撮ってきました。携帯なのでボケボケ。
まず、地下鉄の日比谷駅の11番出口から直接ミッドタウンに入り、すぐ左のエスカレーターで1階へ。外を見てみたかったので、この階段を上がって2階へ行くことにする。

階段の上から。真ん中のずっと奥にゴジラ像がある。右奥が日比谷シャンテ。

2階からエスカレーターで4階に到着。日比谷公園が見える。

入口でゴジラがお出迎え。

IMAXを鑑賞して、外へ。イルミネーションがきれい。

ウェンディーズで食事して外へ。シャンテ前のゴジラ像。

もう一度、あの階段を上がる。イルミネーションはここから見てもきれい。この階段、ほとんど人が歩いていないので、絶好の撮影場所です。

プレミアムシアター鑑賞後、6階の屋上庭園へ。ここはかなり遅くまで開いている。

ミッドタウン日比谷はエスカレーターもエレベーターもとても不便というか、何を考えて設計しているんだ、というレベル。同じミッドタウンでも六本木は便利だったし、TOHOシネマズ上野は直通のエレベーターがあるので、待っているとすぐエレベーターが来たが、日比谷はエレベーターが各駅停車なので、時間がかかるしなかなか来ない。かといってエスカレーターだと迷路だし。階段というものはないのか、ここは?

というわけで、ミッドタウン日比谷はあまり行きたくないと思ったのだけれど、IMAXとプレミアムシアターはかなりよかった。
IMAXは初体験だったのだけど、TOHOの新宿と日比谷のIMAXはスクリーンが小さいとか音が小さいとか、評判が悪かったので、どうしたものかと思ったけれど、TOHOが6回見たら1回タダの回で、IMAXが割り増し料金の500円だけで見れるから、とりあえず、日比谷にしてみるか、と思って出かけた。
席は前後左右どこからもちょうど真ん中くらいの席。確かにスクリーンは大きくない。ただ、輝度や解像度みたいなものは日本橋で見たTCXより明らかにいい。スクリーンは大きくないけれど画質はいい、というところ。音は、日本橋アトモスで物足りなかった重低音がガンガン響く。「ロック・ユー」の足踏みとか、本当に足踏みしているみたいに響く。音量は私にはちょうどいいくらいで、特に日本橋のアトモスで気になったクライマックスのライブシーンのひどい雑音が、ここだと、同じ雑音が出てるのはわかるが、ほとんど気にはならない。日本橋アトモスの、私の見た回がひどかっただけなのかもしれないが、あのアトモスは割り増し料金払うレベルじゃなかったと思う。日比谷IMAXの音は爆音ではないが、楽器の音の美しさとか、質的な面がよかった。スクリーンの大きさとか音の大きさにこだわる人には物足りないのだろうが、質を求める人にはいいのでは?と思うけれど、他のIMAXを知らないので、なんとも言えない。
プレミアムシアターはTCXにカスタムメイドの音響。TCXは日本橋と同じなので、スクリーン的には違いはない。が、音響が、これまでにないサラウンド感。音楽でないシーンでのサラウンド感がよく出ている。出だしのファンファーレのところも、これまでで一番いい感じ。重低音はIMAXほどではないが、日本橋アトモスよりは出てる? そして、クライマックスのライブシーン、あの雑音はまったく気にならなかった。
このプレミアムシアターは応援上映の回で、席についたとき、まわりの人を見て、これは応援上映でも足踏みしたり歌ったりはあまりなさそうだな、と思ったが、実際、私の周辺はとても静かだった。後ろの方に人がたくさんいたので、後ろの方では応援していたのかもしれない。IMAXでも最後に拍手があったけれど、こちらは最後にもっと大きな拍手があった。
応援上映では画面の下に歌詞が英語で出るので、意味がよくわかって、より深く映画を理解できた。もっとまわりが騒いでくれたら楽しかったのに、と思う。

というわけで、行ってよかった、IMAXと応援上映のハシゴ。
水曜はレディースデーでかなり混みそうだけれど、火曜も先週火曜の150%以上の客入りだったらしい。IMAXやアトモスが終わってしまうので、駆け込みもあるのだろう。

今回、1日に2回見て考えたのは、フレディを堕落させるポールという男について、
映画のはじめの方では、メアリーがフレディを見つめていると、そのそばでやはりフレディを見つめるポールが描かれたりして、2人がフレディを奪い合っているような描写があるのだけれど、ポールはフレディのだいじな人を次々と追い払うみたいな人物として描かれている。マネージャーを陥れて、フレディが彼を追い払うようにさせたり、フレディがバンドの仲間と離れるようにさせたりする。
ポールを、ファウストを誘惑するメフィストフェレスみたいに描いたら、もっと面白くなったかもしれないな、という考えが頭をよぎったけれど、この映画では、ポールは「ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ」で歌われる敗者とされているのだ。
ポールがフレディに愛を告白したとき、フレディは、「君は自分の思いを投影しているだけだ」というようなことを言って、彼を拒否する。ポールのフレディへの愛は、フレディのためを思う愛ではなく、むしろ自己愛なので、フレディはそれがわかっていたのだ。
だが、メアリーやバンドのメンバーが家庭を持ち、自分だけが人生を共にできるパートナーを持てずにいて、そんな中でフレディの腰巾着みたいなポールを頼るようになる。
雨の中でフレディが真実を悟るシーンはやはり名シーンだ。このシーンから、フレディの顔ががらりと変わり、大人の顔へと変化する。
フレディにクビにされたポールはテレビでフレディのプライバシーを暴露し、フレディのことを「寂しいパキ・ボーイ」だという(フレディはペルシャ系インド人の移民だが、イギリスではパキスタン人と一緒にされていたようだ)。テレビを見るフレディの顔にはもはや怒りの表情もない。彼は冷静に自分を反省し、これからの生き方について考えている。
一方、ポールは北アイルランドのベルファスト出身で、カトリックでゲイなので親にも理解されず苦しんでいた。「寂しいパキ・ボーイ」とは、実は自分のこと、「寂しいアイルランド系」の自分のことだったのだ。テレビを見るフレディはもう「寂しい少年」ではない。
ポールをとことん悪役にしていないのは、そうした寂しい思いをせざるを得ない当時のゲイの人々への思いやりがあるからだろうか。

2018年11月18日日曜日

「ボヘミアン・ラプソディ」ドルビーアトモス

「ボヘミアン・ラプソディ」は公開直後からあちこちのテレビで取り上げられているようで、土曜日のシネコンは大盛況。先週土曜の100%以上の客入りを記録した。
先週土曜日は日本橋のTCXのスクリーンで見たのだけれど、同じ日本橋のドルビーアトモスの方が入りがいいので、ドルビーアトモスでも見てみたい、と思い、またまた土曜日に出かけた。
見た回はチケットはソールドアウト。満員御礼。
前回は両隣シニア夫婦だったが、今回は両隣が若いカップル。どちらも20代からシニアまで年齢が幅広いし、男女両方いるけど、女性の方が多いかな、という感じ。

で、初体験のドルビーアトモス。料金は200円増し。
しょっぱなの20世紀フォックスのファンファーレがエレキギターなのだが、通常版音声だと気の抜けた音だったのに、アトモスだと決まっている。
ただ、全体にサラウンド感がないし、クライマックスのライブシーンで大きい音になるとひどい雑音が聞こえるのががっかりだった。
うーん、これなら通常版でよかったかな。
アイマックスをやっているところもあるが、アイマックスでも音はそれほどよくないという話も聞く。映像はすごいのだろうけど。

で、さすがに2度目は最初ほどは感動しなかった。
リピーターになった「君の名は。」、「空海」、「カメラを止めるな」は二度目以降も感動したし、常に新しい発見があったが、「ボヘミアン・ラプソディ」はそこまでの映画ではなさそうだ。
でも、「きみが本当の自分を見つけたら会おう」(のちにフレディのパートナーとなる男性のせりふ)とか、「俺が何者であるかは俺が決める」(フレディ)といった、刺さるせりふがいくつかある。
フレディの自分探しのようなストーリーになっていて、そこが刺さる人もいれば物足りない人もいるのだろう。
メンバーがけんかして、「コーヒーマシンはやめろ」と叫ぶシーンでは2回とも客席から笑いが。
フレディが猫に向かって「批評家め」というシーンがあるが、猫がかわいいのもこの映画の好きなところ。
ネットには絶賛の文章がいろいろ出てきているようで、やっぱり人の心に刺さるものがある映画なのだと思う。
次はTOHOは6回見たら1回タダの回なのだけど、どうするかなあ。

2018年11月16日金曜日

トースターを衝動買い

2007年にそれまで20年以上住んだアパートから引越、そのときにやはり20年くらい使っていたトースターを捨ててしまい、以後、10年以上、トースターのない生活を送ってきた。
時々、チーズトースト食べたいな、とか、食パンにツナとマヨネーズのっけて焼いたのを食べたいな、とは思ったものの、それだけのためにトースターを買うのももったいない気がして、パンはもっぱらバターロールをそのまま食べていた。そして、しばらく前から自宅ではほとんどパンを食べなくなってしまった(朝は納豆タマゴかけご飯)。
そんなわけで、トースターはもう一生買わないかな、と思っていたところ、スーパーの家電売り場で前からほしかったツインバードのミラートースターがなんと、2400円(税抜)。
これです。
 使用中は庫内が見える。
今の団地に引っ越したとき、スーパーで3500円で売っていたのだけど、トースターなんて2000円以下でもあるのに3000円以上出すなんてばかばかしいと思い、買う気はなかった。
それから3年、どうも在庫一掃のようで、2400円になっていた(店頭には在庫は1個しかなかった)。
製造時期も2016年だから、古い在庫のようです。
で、これって、世間ではいくらくらいで売っているのかな、と思い、アマゾンで調べたら、5000円以上する!
価格コムでも最安値が4300円。
近所のスーパー、3500円でも安かったんだ。
上の写真はアマゾンから借りてきたものです。

実は、ほしかったのは、アイリスオーヤマのミラートースターの縦長のやつだった。
が、このトースターは徒歩15分くらいのところにあるホームセンターで5000円くらいだったので、トースターに5000円なんてありえないと思い、こちらも買う気になれなかった。
同じアイリスオーヤマの横長のやつは近所のスーパーで3780円くらいで売っている。近所には縦長はない。
で、アマゾンでついでにこっちも見たら、お値段は4000円以下と安くなっていたけど、レビューがかなり悪い。
ツインバードのも、すぐ壊れたというレビューがあるが、全体に評価は高い。
この種の家電は当たり外れがあるのだろうけれど、アイリスオーヤマの方が低評価が多い。
しかし、11年前に引っ越した時に捨ててしまったトースターは東芝の縦長のやつで、捨てなければまだ使えたのだ。さすがに20年近いので中がかなり汚れていて、掃除もできないので、捨ててしまったのだけど。
昔の家電はほんとに長持ちしたのだなあ。
ツインバードのトースターを買って持って帰るとき、ものすごく重いのでびっくりしたが、4キロ以上あるらしい。昔のトースターはシンプルで軽かったのだけど、なんで今のは重いのだろう。他のトースターもアマゾンで見ると4キロ以上ある。火力も昔より強くて、ちょっとした料理はできるようだけど。
まあ、2400円(税抜)なら、すぐ壊れてもあきらめがつきます。

2018年11月14日水曜日

平日なのにシャンシャン待ち時間3時間!

そのわけは、11月14日は埼玉県民の日。
しかし、6月上旬の、整理券から並んだ順にかわった週の金曜が千葉県民の日で、平日にしては混んでいたとはいえ、せいぜい90分待ちくらいだったらしいので、いくら埼玉県民の日だからって3時間待ちとは。ふだんは4時締め切りの観覧受付も驚異の2時半締め切りでした。(ネットで確認。もちろん、現地には行っていません。)
今週からシャンシャンの親離れの訓練が始まり、午前中は別居、午後は同居となったので、午後の方が混むようです。シャンシャン、いよいよ子供じゃなくなっちゃうんだね、ってことで、他の日も平日は2時間待ち、土日は3時間待ちもあるようです。
もうシャンシャンには会えないのかなあ。完全別居になったら混まなくなるのだろうか。でも、今度はシャンシャンが中国に行ってしまうというんで混むだろうなあ。

というわけで、埼玉県民の日は埼玉県はもちろん、東京都や千葉県でも埼玉県在住・在学・在勤の証明があれば割引の施設があるようです。
そして、埼玉県民の日は、埼玉県立近代美術館が誰でも入場無料(埼玉県の施設は誰でも無料や割引が多い)。
埼玉県民の日の思い出といえば、かれこれ30年くらい前、アンドリュー・ワイエス展がこの美術館で行われていて、県民の日とは知らずに都心から京浜東北線に乗って北浦和駅そばのこの美術館へ出かけたのです。
行ってみると、県民の日なので誰でも入場無料。入場料けっこう高かったので、得してしまいました。中も無料にしては混んでなかったのでゆっくり見られたし、入場料浮いた分、絵葉書をたくさん買いました。
このときはワイエスの近所に住む主婦ヘルガの絵ばかりを集めた展覧会でしたが、絵葉書、どこにしまったんだろう。
2010年にもこの埼玉県立近代美術館でワイエス展があったようです(知らなかった)。

30年前に見たワイエスの絵の一部、ネットから画像を借りてきました。
有名なのはこれ。


ヌードも描いている。

いやあ、なつかしい。埼玉県立近代美術館に行ったのはこのとき一度きりです。

さて、ハロウィンが終わるとクリスマスツリーを飾るのですが、やっと飾りつけをしました。
カレンダーは新海誠カレンダー(11月12月は「雲の向こう、約束の場所」。
その真下はまるちゃんという猫の卓上カレンダー。ツリーに合わせて12月の面を出しました。
左のCDプレーヤーの上は、まず、日暮里駅のにゃっぽりハンカチ、その上に左が倉本裕基のCD、その右がシャンシャンお誕生日記念カード。

近所の公園へ散歩。花は逆光で撮ると面白い。バックのぼけた白いのはススキ。

ススキも逆光で。ぼけたピンクはコスモス。

狂い咲きの桜はほとんど散っていた。

紅葉はまだまだ。

音楽が生まれ育つさまを描く「ボヘミアン・ラプソディ」

土曜日に日本橋まで「ボヘミアン・ラプソディ」を見に行って、本当に感動し、幸福感に包まれ、その余韻を楽しむためにふだんなら三越前駅から地下鉄に乗るのに、神田駅まであるいたことを前の記事で書いた。
クイーンについては有名な曲を知っているくらいで、フレディ・マーキュリーの名前はさすがに知っていたが、バンド自体についてはまったく知らず、まったくといっていいほど予備知識なしに、まさに真っ白な状態で見に行った。
その真っ白な心に焼きついた感動を胸に帰宅したのだが、やはり背景を知りたいと思い、ネットで調べてしまった。
そこで、ブライアン・シンガーがスタッフ・キャストと衝突して監督降板したことを知り、ロッテントマトで批評家は60%という、かろうじて赤いトマトになる数字だと知る(観客は90%と圧倒的な支持)。
そのあたりから自分の目が曇ってしまい、見えていたものが見えなくなっていた。

見た直後に私が感じていたのは、今世紀に入って20世紀後半のアーティストの伝記映画が次々と作られているけれど、「ボヘミアン・ラプソディ」はその中でも出色の出来だということだった。
もちろん、今世紀に入って次々と作られる音楽映画が、そこそこいい映画ではあるけれど、そんなにすごい、奥深い傑作というわけではなく、その中で出色の出来といっても、別にすごい芸術というわけではないのだが、それでもこの映画は頭ひとつ抜きんでた傑作だという思いは強かった。
そのわけは、この映画が、音楽が生まれることをテーマにしているからだ。
フレディ・マーキュリーの伝記ではあるが、フレディの人生の葛藤や苦悩を前面に出した映画ではない。
さらに言うと、この映画は、音楽家の苦悩や葛藤からすばらしい音楽が生まれる、というテーマを採用していない。
音楽家の苦悩や葛藤からすばらしい音楽が生まれるというのは人気のあるモチーフである。ベートーヴェンはそのモチーフで描かれることが多い。しかし、モーツアルトはしょうもないひどいやつで、ふざけたことばかりしていたけれど、それでも美しい音楽を苦もなく書き上げた。一方、サリエリはどんなに苦悩したってたいした曲は書けなかったのだ。
「ボヘミアン・ラプソディ」の音楽は、天才の苦悩や葛藤から生まれるのではない。それは、仲間との協力によって生まれるのだ。天才と彼をとりまく仲間との間のケミストリーが、すばらしい傑作を生み出すのだ。
そう、この映画は音楽におけるケミストリーをテーマにしているのであり、そのケミストリーは音楽を受容する観客にまでつながるものだ。

私にこの映画に興味を持たせた予告編、中でも猫がピアノの鍵盤の上を歩くシーンは、映画のはじめの方に登場する。まだ無名のフレディがガールフレンドとベッドに寝ていて、彼らの頭の斜め上にピアノの鍵盤があるのだ。そこを猫が歩く。(追記 再見したところ、猫が鍵盤を歩くシーンはこのシーンではなく、そのの少しあとに出てくる。)
弦楽器や管楽器はまともな音を出すまでが大変だが、ピアノは猫が歩いても音が出る、とはよく言われる言葉。しかし、猫が歩いて出る音を音楽とは呼ばない。
音楽はどのようにして生まれるのか。あるいは、クイーンの音楽はどのようにして生まれたのか。
映画はそれを実に巧妙に描いている。
タイトルになった「ボヘミアン・ラプソディ」は、題名からしてクラシックを連想させる。ラプソディはクラシックの曲の1種であるし、ボヘミアンはプッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」を連想させる。ボエームはボヘミアンのことで、芸術家の意味だ。フレディはオペラをよく聞いていて、この曲はロックでオペラをやろうとしたものだが、6分もあるからラジオでかけてもらえないとか、歌詞が意味不明とかさんざん言われる。発売されるが、批評家からは評価されていないことがわかる字幕が画面に次々と浮かぶ。しかし、芸術家の狂詩曲(ボヘミアン・ラプソディ)はフレディの死後に再評価されたことが最後に告げられる。
白眉は「ウィー・ウィル・ロック・ユー」誕生シーン。メンバーが手拍子足拍子でリズムをとっていると、そこへフレディが現れ、「で、歌は?」と言い、それが「ウィー・ウィル・ロック・ユー」となって、観客も巻き込んでの絶唱となる。天才フレディとメンバーの間のケミストリーが名曲を生み、それが観客によって受容されて、音楽として完成するのだ。
だから後半、金がすべての業界人がフレディにソロになることをすすめ、フレディもその気になって、バンド解散の危機になったとき、そのケミストリーの重要性が浮かび上がる。
フレディはバンドのメンバーとの確執に疲れていて、それでバンドを離れてソロになろうとしていたのだが、どうもうまくいかない。精神的にも肉体的にも疲弊したフレディの目を覚まさせたのは元恋人の女性で、雨の中、立ち尽くすフレディは、自分にとってだいじな人は金目当ての人々ではなく中まであることに気づく。この雨の中の覚醒シーンはこれまでもよく映画などで描かれたシーンで、決して新しさはないのだが、それでも手垢のついた感じはなく、すなおに感動できる。
バンドのメンバーと再会したフレディは言う、「新しいバンドのメンバーは自分の言いなりで意見も何も言わない。でも、きみたちは俺に意見を言ったり不満な顔をした。それでいい曲ができたのだ」と。バンド・メンバーとの切磋琢磨がすぐれた音楽を生み出していた、と彼は悟ったのだ。
この映画は、クイーンの音楽が1人の天才だけによって作られたという見方はしていない。フレディは天才であり、レジェンドだが、音楽は神のような天才1人によって作られるのではない、というのがこの映画の見方である。だから、名曲が生まれるときにバンド・メンバーの関与があったとするシーンが、「ウィー・ウィル・ロック・ユー」以外の曲でも描かれる。
このような見方は、フレディ・マーキュリーの才能を過小評価することになるのだろうか? そういう見方もあるだろう。
しかし、音楽や映画のような芸術は1人の人間によって作られるのではない。そして、音楽も映画も、最終的には観客の受容によって完成する。この映画はフレディの才能とバンドのケミストリーによって音楽が誕生し、そして観客に受容されるまでを描いている。そこまで行って初めて音楽は完成するのだということを。クライマックスの大観衆の熱狂はまさにそれを描いている。

この映画は当初、デクスター・フレッチャーが監督する予定だったが、ブライアン・シンガーが監督になり、3分の2ほど撮影したところでシンガーが降板、その後はフレッチャーが監督して映画を仕上げたのだという。シンガーだったらもっとシリアスで奥深い傑作にできたかもしれないが、上に書いたようなバンドのケミストリーによって音楽が生まれ、そこにフレディをめぐる人々の人間模様がかぶさるというモチーフはシンガーには合わなかったのだろう。おそらくこのモチーフは映画の肝であって、あとを継いだフレッチャーはこのモチーフに従って映画をまとめたのではないかと思う。
クレジットはシンガーになっているが、シンガーの映画とは言えないのかもしれない。
でも、と私は思う。
「風と共に去りぬ」には3人の監督がいた。ジョージ・キューカー、ヴィクター・フレミング、サム・ウッド。キューカーがまず監督し、それをフレミングが受け継いで全体をまとめ、最後にウッドが補った、という感じらしいのだが、実は同じ年に同じMGMで作られた「オズの魔法使」もジョージ・キューカーがまず監督し、それからフレミングが受け継いだのだそうだ。どちらもフレミングがクレジットされているが、「オズの魔法使」DVDの特典映像によると、当時のハリウッドでは監督は1本の映画に専念せずに次から次へとプロジェクトを移っていくのは普通だったらしい。「風と共に去りぬ」や「オズの魔法使」のようなビッグバジェットの娯楽映画は、作家性を主張しないフレミングのような監督の方が全体をまとめるには合っていたのだろう。神のような1人の監督が支配する作家の映画ではないからだ。
「ボヘミアン・ラプソディ」も、作家性の強い神のような監督が支配するタイプの映画ではない。しかし、「風と共に去りぬ」や「オズの魔法使」がキューカーのような名匠の手によって土台作りをされたことで格調の高さも手に入れたのだとしたら、「ボヘミアン・ラプソディ」もシンガーの参加で映像的なすばらしさを手に入れているのかもしれない。この映画には間の抜けた映像が見当たらないのだ。
いさかいがあっても、最終的には多くの人のケミストリーで出来上がる傑作というものがあって、「ボヘミアン・ラプソディ」という映画自体もそうした作品かもしれない。そして、それは、クイーンの音楽のケミストリーという映画のテーマにぴったりと合うのだ。

音楽が生まれ育ち、観客に受容されることを描くのが主眼だとしたら、人物描写に奥深さがないのは決して欠点ではない。芸術はケミストリーで生まれるということを描くとき、そこに登場人物たちの友情や絆を重ねるのはうまいやり方だ。前者だけでは知的すぎるが、後者を重ねることで、観客が率直に感動できるドラマが生まれる。
満を持してのクライマックス、大観衆の前で歌われる「ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ」では、金のことしか考えず、フレディを堕落させようとした人々は敗者であり、仲間を大切にする人こそが勝者であるというモチーフが映像で強調される。音楽を生み出す仲間とのケミストリーを、人間ドラマの寓話で表現したシーンだが、この人間ドラマの寓話の部分を安っぽいとか浅はかとか言ってはいけない。これは寓話なんである。音楽を生み出すケミストリーに人間ドラマの寓話を重ね、音楽の高まりとともに観客を感動させる手段なのだ。
もう一度言おう。この映画は、音楽家の苦悩や葛藤が音楽を生み出すという見方をしない。かわりに、天才と仲間たちとのケミストリーが音楽を生み出し、それが観客によって受容されたときに音楽が完成するという見方をとり、それをみごとに表現している。
クイーンの音楽について、その見方は正しいのかどうか、それは私にはわからない。ただ、音楽を描いた映画として出色の出来栄えだということは断言したい。

2018年11月13日火曜日

最近見た映画から:「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」を中心に


この記事は「「ボヘミアン・ラプソディ」&「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」」というタイトルで書いたものですが、どちらの映画についても自分の言いたいことが十分に書かれていないことに気づきました。そこで、「ボヘミアン・ラプソディ」については別の記事に改めて書くこととし、この記事では「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」について後半を大幅に加筆しました。他の部分もリライトしています。

土曜日に日本橋まで「ボヘミアン・ラプソディ」を見に行った。
クイーンは歌は知っているけれど、メンバーのこととか全然知らない。なのに、映画が断然見たくなったのは、猫がピアノの鍵盤の上を歩くあの予告編のためだった。
フレディ・マーキュリーが猫好きだなんて全然知らなかったのだが、あの予告編は猫好きに刺さる。対して、「旅猫リポート」は、もう、まったく猫好きに刺さらない予告編で、まあ、試写状来たので、映画は見ましたが、猫より子役がよかった。
で、「ボヘミアン・ラプソディ」。本来なら、シネコンの新作は金曜日の初日に見るのが常なのだけれど、今回は金曜日にコリン・ファースの新作「喜望峰の風に乗せて」の試写があったので、土曜日にまわしたのだ。「喜望峰~」はなかなかちょっと微妙な感想が浮かぶ映画で、それの前にやはり試写で見た「未来を乗り換えた男」が今、原作を読んでいるところなので、この試写2本はあとでまとめて書くつもり。
「ボヘミアン・ラプソディ」は日本橋のTOHOシネマズだとスクリーンが大きくて映像がクリアーなTCXなので、ここで見ることに決めた。日本橋ではドルビーアトモスでも上映されていて、こちらの方が人気だったが、映画を見てみると音楽がすばらしいので、割増料金でもドルビーアトモスで見たい人が多いのもわかる。
土曜日ということで、予約したときはさすがに座席がかなり埋まっていたが、それでも好みの席がぽつんと1つ空いていて、そこを予約。行ってみると、両隣がシニア夫婦で、ほかにも白髪の人が目立つ。クイーンはシニアの同世代だったのだ。

映画ですが、とても気に入りました。
ふだんはここで見ると、銀座線の三越前駅から地下鉄に乗るのだが、しばらく余韻にひたりたくて、神田駅まで歩いてしまった(たいした距離ではないけど)。こんなことは久しぶり。
もともとクイーンの曲はアイスホッケーのアリーナでよくかかっていたこともあって、わりと好きだったのだが、この映画を見て、ますます好きになった。
監督のブライアン・シンガーがスタッフ、キャストと衝突して途中降板とか、ロッテントマトでの評価が批評家は賛否両論、観客は大絶賛とか、いろいろ微妙な映画ではあるのだけれど、それがどうした、と言いたくなるような作品なのだ。
というわけで、この映画については別の記事で詳しく。

そして、月曜日は、仕事帰りにレイトで「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」を見る。セクシーズとは両性、つまり男と女のことで、1970年代のテニス界の男と女のバトルを描く。
最近もテニス界の男女差別が話題になったが、当時は賞金が男は女の8倍。人気は同じなのに許せない、と、女子チャンピオンのビリー・ジーン・キングが反発。それに対し、元チャンピオンのボビー・リッグスが男女対抗試合を持ちかけた、という実話の映画化。
映画は公然と女性差別をするテニス界の男たちに対し、キングが男女平等を掲げて戦いを挑む姿を中心に描いている。キングが55歳のリッグスをコートで打ち破るクライマックスには、ヒラリー・クリントンの大統領選勝利というかなわなかった夢が託されているようにも感じた。
それと同時に、夫のいるキングが女性にひかれてしまう様子が描かれていて、このあたりが「ボヘミアン・ラプソディ」の女性の恋人がいながら男性にひかれてしまうフレディ・マーキュリーと似ていて、しかも、どちらも異性のパートナーがいい人なのである(実際にそうだったらしい)。
ただ、フレディは女性の元恋人に心の友を求めていたが、キングはテニスがすべてで、夫も女性の恋人もテニスの次、という感じで、2人もそれを理解している。男性は仕事のためにパートナーが必要で、女性は仕事のときはパートナーを忘れる、みたいなのはうーん、やっぱり男女に対する偏見かなあ、という感じも。
リッグスはキングを破ったマーガレット・コートと先に試合をしていて、このときはコートはまるでだめだったのだが、それを見てキングが奮起、リッグスの挑戦を受ける。で、このコートが夫と赤ん坊のいるいかにも女性らしい女性で、それに対し、キングは男っぽい女性として描かれているが、こういう女性観もちょっと問題があるかもしれない。
キングは自分が同性愛者であることを自覚し、その後はLGBTQの権利のための活動をしているが、最近、マーガレット・コートがLGBTQを差別する発言をしているとしてキングが反発したというニュースがあったが、どうも因縁のある2人のようだ。
ただ、上に書いたような、今なら問題あるかも、と思う女性観、男性観は、1970年代当時では普通だったし、そうした女性観、男性観の根底に男女差別があって、その中でキングのような人々が平等を主張してきたことは事実。
たとえば、この映画に描かれる女性差別発言を公の場で平気でする人々。今なら公の場で著名な人や地位のある人がそういう発言をすれば叩かれるが、当時は叩かれなかったという事実(日本ではいまだに叩かれない人もいるが)。キングとリッグスの試合の中継で、女性差別を公然としているテニス界の重鎮を中継からはずせとキングが主張するシーンでは、キングはその男に向かって、「リッグスは女性差別を煽っているが、心底差別主義者というわけではない。でもあなたは、上品にふるまっているけれど、言葉の端々に差別がある根っからの差別主義者だ」と言う。男は結局「自分のせいで負けたとキングに言われたくないから」という理由で中継を降板、かわりに女子テニス選手が解説で登場。だが、そばにいる聞き役の男は終始、彼女の肩に手をかけている。今なら完全にセクハラだし、また、これは男が女より上だということを露骨に示す行為でもある。だが、当時は男はこういうことをしても、それが当然だと思われていたということ。
おかしなことばかりやっているリッグスの煽るのが目的の女性差別と、日常的に行われ、しかも多くの人は差別ともセクハラとも思っていないことの両方が描かれるが、本当に問題なのは後者だということを映画は描いている。
キングが、あなたはフェミニストかと聞かれて、違う、と答えるシーンがある。ここではウーマン・リブ、あるいはリブという言葉が何度も使われている。フェミニズムとかフェミニストとかいう言葉にどこか違和感を感じていた私は非常に納得した。
映画は女性差別との闘いだけでなく、同性愛への差別と偏見も描き(「ボヘミアン・ラプソディ」同様、あまり深くは追究しないが)、女性の地位向上とともにLGBTQが普通に存在できる社会ができることを願う男性デザイナーの言葉で締めくくられる。キングはその後、同性愛者として生き、この2つの実現のために尽力することになる。
全体的にやや冗漫な構成で、「ボルグ/マッケンロー」の方が求心力があってうまい演出だったと思うし、脇役がビル・プルマンなど有名どころが出ているのに、いまひとつキャラが立っていないのが惜しい。ただ、主役のエマ・ストーンとスティーヴ・カレルの名演は光る。

2018年11月12日月曜日

二度と使いたくない西友の(追記あり)

2020年5月さらに追記
「二度と使いたくない西友のセルフレジ」というタイトルだったのですが、最近はもう西友はセルフレジの方がよいという結論に。
コロナのせいで、レジの列は間をあけることになっているわけですが、間をあけて2人の客の後ろに立っていたら、前の人の清算が始まるときに、いきなりレジかごを立てられた。
以前なら並んでいる人がいる場合、その人のあとにレジかごを立てて終わりにするのですが、間をあけていたためか、いきなりかごを立てられたのです。
「ちょっと、並んでいたんですけど」と私。すると、
「電気消えてるでしょ」とレジ係。
つか、私の前に2人いたんだから、いつ電気消えたんだからわからんのに。ていうか、レジの入り口の上の方にある番号の電気とか見ないだろ普通。
さすがに切れました。
今、店員さんはコロナの恐怖の中で仕事してるから大変とはわかっていたのだが。
もう西友はセルフレジのみ利用にし、セルフレジだと店員呼ぶ商品は買わないことにします。
つか、コロナ以来、この西友、ストレスがすごくたまるスーパーになってしまった。他のスーパーだともっとおだやかに買い物できる。
みんなコロナが悪いのよ。

2020年4月追記
この記事から1年半がたち、セルフレジもだいぶ使いやすくなっています。
コロナで逆にセルフレジの方が人との接触が少ないのでよいのですが、何かあって店員が来ると、顔をものすごく近づけて作業するのがお互い大丈夫かな、と。

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今の団地に引っ越した理由の1つは、団地の入口にある西友が非常に便利だったからですが、この夏からの大規模改装で売り場面積が激減し、商品も以前は家具、ベッドまであったのに今は寝具、家電がかろうじて残っている程度で、それも品物の種類や数がだいぶ減ってしまい、しかも狭い売り場にごちゃごちゃに置いてあるのでよくわからない状態。
そもそも、無印良品が撤退したあたりから変化のきざしはあったものの、この改装でかなり魅力のないスーパーになってしまいました(近隣に2軒あるヨーカ堂と比べても売り場が非常に不便で、何を考えてデザインしてるんだ、というレベル)。
まあ、売れてなかったとか、開けたスペースを貸した方がいいとか、事情はあるんでしょうが、最大の難点は食料品売り場にセルフレジを導入したこと。
導入当日に興味本位で使ってみましたが、全然使えない。バーコードをかざすのは問題ないけれど、バーコードのないものは店員を呼ばないといけない。パンや揚げ物は夜遅くなると割引になるけれど、それも店員任せ。で、店員が間違える。それでやり直し。並んだ方が速かった。
そして、一番の問題は、片方の棚にかごを載せ、商品のバーコードをかざしたら、もう片方の棚の上にマイバッグを置いてそこに入れる方式だったのだ。
マイバッグはないが、スーパーのレジ袋を買う必要がない、普通のバッグに入れられる人はどうすればいいのか。今では清算済みのかごに入れて棚の上でバッグの中を整理して商品を入れていたのだ。
しょうがないからもとのかごに商品を入れ直して、いつもの棚へ行く。面倒すぎる。
セルフレジには水っぽいものを入れるポリ袋が置いてない。お弁当の箸もない? 店員がしっかり張り付いているので頼めばくれるのだろうけど。
一方、人のいるレジはいつもその時間は2つ空いていて、それでも大混雑だったのだけど、セルフレジになったら人のレジは1つしか開けず、さらに大混雑の模様。
翌日、今度は人の列に並んだら、数人前の人が何かをくれと言って、それで店員があちこち探しまわり、私の後ろにどんどん人が並び、それでついにもう1つのレジを開けたのだけど、そこまで並んでいてもセルフレジに比べたら全然ストレスがない。もっと並んでいても大丈夫なくらいだった。
もともとこの西友は店員さんがみな感じのいい人、特に女性は明るく元気な人ばかりで、こちらが元気をもらっているくらいだったから、セルフレジに比べたら並んで待っても人のレジの方が全然ストレスがないのです。
前に書いたように、バーコードのないパンやお惣菜はセルフレジでは時間がかかるので、それが安くなる時間はみな、人のレジに並ぶわけです。
調べたら、西友はもう何年も前からセルフレジを導入していたようで、しかし、行ってみると、セルフレジを利用する人はほとんどいなくて、人のレジが大行列なのだそうです。そういう状態にもかかわらず、しつこくセルフレジを導入する西友は客のことを考えてないのか、セルフレジの会社に忖度してるのか、やっぱり客よりセルフレジの会社がだいじなのね、と思ってしまう。
近隣に2軒あるヨーカ堂は読み取りは人、支払いだけ機械のセミセルフレジを導入していて、こちらはスムーズに客がさばけ、支払いも慣れれば簡単で、とても便利。ヨーカ堂はやはり客のことを考えているな、と思わせます。商品の陳列も、今回の西友の改装で、ヨーカ堂の方が上だな、と思ってしまった。
近隣のヨーカ堂は1軒は徒歩15分、もう1軒は徒歩圏外なので、近くに用がないとなかなか利用しませんが、それ以外だと徒歩10分以内にCGCとアコレ、15分以内だとそのヨーカ堂のほかにマルエツ、業務スーパー、ビッグエーがあるので、食料品に関してはお客さんが多少は離れていくのではないかという気がします。

追記 その後、夜、11時過ぎに西友で買い物しようとしたら、11時過ぎはセルフレジしか開いてないことがわかり、ま、いいかと思って利用したが、またしてもすごいストレス。
なんで私はセルフレジだとこんなにストレスなのか、と考えてみたら、私が買うものって、なぜか、店員が対応しないといけない商品なのです。
最初は割引のある天ぷらで、スタッフはすぐに来たが、ミスをするので時間がかかり、イライラ。そして今回はお酒。これもスタッフが対応しないといけないらしい。が、今回はスタッフがなかなか来ない。もう、このまま商品全部ここに置いて帰ろうかと思ったら、来て、対応してくれたが、セルフレジなのにスタッフが来るのを待たなければならないのが最大のストレスだと気づいた。
セルフレジなら、機械とだけやりとりしたいんですよ。機械さえ相手にしていればいいのなら、納得しますよ。なのになぜ、割引の惣菜やお酒だとスタッフが来るのを待たないといけないのか? つか、スタッフが張り付いているけど、対応するケースが多いので、なかなか来てくれないのが実情。セルフレジはスタッフの仕事を減らすため、ではないのは確かだと思う。むしろ、仕事増えてるんじゃないの?
なるべき西友以外を利用します。11時過ぎはセブンイレブンで。これしかない。

2018年11月9日金曜日

パンダ母子写真集

平日でも2時間待ちとなると、もう、パンダ母子ツーショットは見に行けないなあ、と思うので、これまでに見たパンダ母子、シンシン&シャンシャンの写真集。
まずは、初パンダの2月23日。リーリーとシンシンもこのときが初めてだった。

上のツーショットのあと、シャンシャンは動き回り、お客さん大喜び。

3月9日。この頃から雨の日は整理券が最後まで残っていた。シャンシャンは木の上でうつらうつら。時々、目を開ける。

シンシンは運動場で食事中。

3月21日。祝日だが雨のため、すいていた。室内の母子。シンシンは奥で寝ている。

餌を手に持つシャンシャン。

4月18日。雨。シンシンとシャンシャンは寝ていて顔も見れず。リーリーも寝ていた。完全空振りの日。

4月25日。運動場での母子。

外から見えるシャンシャンの方が面白かった。整理券の時期は外からシャンシャンがよく見えた。

5月8日。木の上でたれパンダのシャンシャン。

シンシンは部屋で寝ている。この日もやや空振り。

5月9日。前日が空振りだったので、翌日も出かけたら、父リーリーとシャンシャンのツーショットが。

シンシンは部屋で。

5月30日。運動場の母子。手前がシャンシャン。

舌を出しているシャンシャン。

6月1日。運動場の母子。

でんぐり返りをするシャンシャン。

6月10日。6月初旬に整理券方式が終わり、並んだ順になったあと。雨の中、1時間待って中に入る。立ち止まれないので動画撮影にし、そこから写真にしたもの。やたら急がされ、殺伐とした雰囲気に、以後、足が遠のく。


8月2日。並ぶ順も待ち時間がだいぶ短くなり、久々に行ってみた。シャンシャンは寝ている。

シンシンも寝ている。リーリーも寝ていた。

もう一度、並ぶ。今度はお食事タイムで、シャンシャンが飼育員さんからリンゴをもらっている。

シンシンは別室にいて、シンシンとシャンシャンは隔離されていた。実はこのときからすでに親離れ子離れの訓練が始まっていたのだろうか。

9月6日。1か月ぶりだが、パンダの様子がいつもと違う、と、ブログ記事に書いている。
並ぶ順になってから、外からパンダを見ることが非常にむずかしくなっていたが、このときは外からシンシンとシャンシャンが見えた。シャンシャンがいるところへシンシンが向かっている。

シャンシャンがいるところにシンシンが上がる。


娘をめでるようなシンシン。だが、このあと、シャンシャンは逃げてしまう。

その後、並んで中に入ると、シャンシャンは木の上にいた。シンシンは食事中。シャンシャンの方がもう親離れし始めていたのだろうか。

シンシンとシャンシャンの仲睦まじい様子はわずかな観覧時間ではまったく見ることができなかったし、母子が別の場所にいることも多かったので、母子が仲良くしてなくても気にならなかったのだけれど、この9月6日の母子の様子はやはりちょっと変だったのかな、という気がする。
あれから2か月。10月中旬から待ち時間が長くなっていたので、その後は見ていないのだけれど、どんな感じになっているのか気になる。ネットを見ると、9月からすでに親離れ子離れの対応をしていたようなのだが。