2021年3月31日水曜日

アーサー(ジョーカー)とバーバラ(チーター)に関する追記

 前回書いた「ワンダーウーマン1984」と、その前に書いた、「「ジョーカー」に関する3つの記事」についての追記です。記事は右サイドを参照。

「ワンダー~」はバーバラがチーターになるまでの話、「ジョーカー」はアーサーがジョーカーになるまでの話で、どちらもある種の弱者が力を得て暴力的な悪役になる物語です。

「「ジョーカー」に関する3つの記事」で、槙野さやか氏の「ジョーカー」評を胸糞悪いと書いたのは、この論は相対的貧困の人に対して、もっと貧しい人がいると言って貧困を無化してしまうことと同根だからです。

何年か前、貧困問題のテレビ番組で、お金がないのでイラストの専門学校へ行けないという女子高校生が登場したところ、1万円以上する画材を持っているとか、アニメ映画「ワンピース」を5回も見ているとか(高校生なので5回見ても5千円)言ってバッシングする人が多数現れましたが、槙野氏の「ジョーカー」評も根本的なところはこれと同じです。

アーサーより貧しい人はたくさんいる、アーサーより重い障害を持つ人はいる、アーサーより大変な介護をしている人はたくさんいる、と言って、アーサーの相対的貧困や困難を無化し、アーサーはこじらせ男子だと言って切り捨てています。

バーバラについても、ある学者・批評家が彼女を「オタク女子のこじらせ」と書いていて、何か同じ根っこを感じます。

確かにバーバラはスミソニアン博物館の研究員という、人も羨む仕事をしています。姿もちょっと工夫すればきれいになれる。彼女よりも恵まれない人はたくさんいます。

見方によっては、アーサーもバーバラも同情に値しない、それで悪人になるのはただの「こじらせ」だ、という意見も出るでしょう。槙野氏はアーサーについて、明らかにそう言っています(もう1人はバーバラについてそれ以上書いていないのでわかりません)。

90年代頃から、非モテだというだけで「こじらせ」、女性の方が優遇されていると考えて「こじらせ」る男性が増えてきて、現在ではそういう男性のこじらせたヘイトが問題になっていますが、アーサーとバーバラはそれ以前の時代の人物で、だからどちらも1980年代に設定されているのです。ただ、現代の観客から見ると「こじらせ弱者」に見えてしまう可能性があるという面は無視してはいけないのかもしれません。

また、酔っ払いをぼこぼこにするバーバラの怒りは、70年代から80年代のフェミニズムを肌で感じていないと理解がむずかしいのかもしれない。「リップスティック」という映画でヒロインが最後にレイプ犯を殺して無罪になり、女性たちが拍手をするのを見て、朝日新聞の男性記者が「女は怖い」などと紙面に堂々と書いた時代です。

当時のアメリカのフェミニズムは男性に対して非常に攻撃的だったので、女性からの反発も強く、ヨーロッパ、特にフランスでは男性と協調するフェミニズムが提唱されていました。それから何十年もたって、MeToo運動が起こったとき、フランスの女性たちがそれを非難し、時代遅れな女性観を語って批判されましたが、その中には明らかに右翼的な女性もいたけれど、カトリーヌ・ドヌーヴのように昔はフェミニズム的だったような人もいて、彼女はレイプ被害者たちにその後謝罪しましたが、このフランスの女性たちの反応は男性と協調するヨーロッパのフェミニズムのなれの果てのように感じました。

最近、「日本のポストフェミニズム」(菊地夏野・著)という本を読み、日本特有のネオリベラリズム、ポストフェミニズムのところが興味深かったです。

「ワンダーウーマン1984」

見てから3か月が経過し、見たばかりの頃のような熱はなくなってしまったし、だいぶ忘れてもきたので、書こうか書くまいか迷っていたが、ちょうど3か月たったこともあるし、一応、覚書として書いておこう。

すでに指摘されているように、この映画にはリチャード・ドナー監督の「スーパーマン」へのオマージュがある。特に1984年が舞台の冒頭のシーン、ワンダーウーマンことダイアナが次々と人を助けていくシーンは「スーパーマン」を思い出させる。

それだけでなく、映画全体が1970年代から80年代の映画のような映像になっているのだ。

IMAXで見たのだが、IMAXカメラで撮られたのは本編の冒頭と最後、プロローグとエピローグに相当するシークエンスで、ここはIMAXのスクリーンいっぱいに映像が広がり、今流のくっきりしたデジタルっぽい映像が繰り広げられる。

が、その間のシーンはIMAXカメラでは撮られていない、スコープサイズの映像(IMAXだと上下に黒みが出る)。そして、その映像の質感はアナログ時代のもので、デジタルやCGのくっきり映像を見慣れた人から見ると、どこかくすんだ感じに見えるだろう。(エンドクレジットの間にはさまれるおまけのシーンも通常撮影。)

わあ、リチャード・ドナーの「スーパーマン」だ、70年代から80年代のファッションとか雰囲気がなつかしい! と感動する年齢の私から見ると、このスコープサイズの映像はなんともなつかしいものなのだが、IMAXの割り増し料金を払って、くっきり映像が見たかった観客は損したと思うかもしれない。

思えば「マンク」も1930年代の雰囲気のモノクロ映像で、今のモノクロ映画のすっきりくっきりとは違う。「ROMA」のような今のモノクロ映像に慣れていると、「マンク」のモノクロはぼけた感じに見える。

それは同じDCコミックスとワーナーのコラボ映画「ジョーカー」もそうで、これも70年代から80年代の雰囲気の、しかもざらついた映像になっていたから、ドルビーシネマでくっきり映像を期待した人は裏切られたらしい(私は通常上映で見た)。

「ワンダーウーマン1984」は海外では配信で見た人も多いらしいが、配信ではIMAXと通常の撮影のシーンの違いすらわからないだろう。

そんなわけで、一部をIMAXカメラで撮影しながら、大部分は70年代から80年代の映画のような映像、というのは、マイナスの効果になるリスクがあった。

それもあってか、Internet Movie Data Baseではこの映画に10点満点中1点しかつけない人が多い。配信で見たのでつまらなく感じたのか、あるいはフェミニズム的なところが嫌われたのか、それはわからないが、あまりに1点ばかりなので、逆に「10点中7点くらいの出来だが、ほかの人のつける点がひどいから10点つける」とばかりに10点つけている人もけっこういた。

「ワンダーウーマン1984」はもちろん、前作には及ばない出来だが、見るべきところは多い。脚本がだめだ、という指摘は間違ってはいないが、全体としては筋が通っている。冒頭の、ずるをして勝とうとする少女時代のダイアナが叱られるシーンも、悪役のマックスが息子への愛だけは真実であることがわかるシーンも、クライマックスの伏線となっている。

そして何より、この映画の中心にいるのはもう一人の悪役バーバラであり、彼女の変化が注目に値する。

マックスとバーバラという男女2人の悪役、というと、ティム・バートンの「バットマン・リターンズ」を思い出すが、「ワンダーウーマン1984」は「バットマン・リターンズ」へのオマージュでもある。マックスはペンギン、バーバラはキャットウーマンに相当する。ペンギンもキャットウーマンも悲惨な体験がもとで悪役になってしまうのだが、マックスは貧しい移民の息子で、暴力をふるう父に苦しめられたことが映画の終盤で明らかになる。そして、バーバラの変化はまさにキャットウーマンをなぞっている。

バーバラは最初、眼鏡をかけた冴えない女性として登場する。スミソニアン博物館の同僚となったワンダーウーマンことダイアナとは正反対のタイプだが、ホームレスの男性に温かい食事を差し入れるやさしい女性であり、話をするのが楽しい、明るい性格だ。

そんな彼女とダイアナが博物館にあった石を調べると、そこには、誰でも1つだけ願いが叶う、とある。

バーバラは夜道で酔っ払いにからまれ、性被害を受けそうになったところをダイアナに助けられる。ダイアナのような強く美しい女性になりたい、とバーバラは思い、その願いが叶ってしまう。眼鏡をはずし、おしゃれをするバーバラは、同僚の男性から「きれいになったね」と言われるが、これは現代ならセクハラだろう。が、映画の舞台となった1984年にはセクハラとは思われていなかったことで、バーバラも悪い気はしていないようだが、これはセクハラなんだ、ということは映画は暗に示していると思う。

一方、ダイアナは前作で死んでしまった恋人をずっと思い続けていて、彼がよみがえってくれたら、と願うと、恋人が別の男の肉体で現れる。しかし、ダイアナもバーバラも、願いが叶うことで大事なものを失っている。ダイアナは超能力が衰え、バーバラは性格が変わっていく。

おしゃれになったバーバラは、最初は、昔の映画によく出てきた「おバカな金髪女」そのものである。だが、彼女はダイアナのように強くなりたいと願い、体を鍛え、怪力を手に入れて、再びからんできた酔っ払いをぼこぼこにする。当時のフェミニズムは男性社会を激しく非難し、女性は強くなるべし、と考えていた。バーバラが自分を襲う男に怒りを燃やし、強くなろうとするのは、あの時代のフェミニズムを想起させる。そんな彼女に、ダイアナは、「あなたはやさしい女性だったのに」と苦言を呈すが、バーバラは「やさしく善良な女性」、「おバカな金髪女」、「男をやっつける強い女性」と変化していく。これらはどれも映画などに描かれるステレオタイプの女性だが、この異なる3つのステレオタイプが矛盾なく1人の女性の変化となっているのは、クリステン・ウィグの演技力の賜物だろう。

「やさしい女性」も「おバカな金髪女」も女性のステレオタイプだが、女性は強くなるべし、という考え方も、強くなるにも限界がある、強くなれない人はどうする、といった問題から、今では強くあるべしとはあまり言われないと思う。「きれいになったね」がセクハラだというのと同じく、当時の女性観が批判的に盛り込まれていると言える。

もう一人の悪役マックスが石を手に入れ、それで人々の願いを叶えることで世界征服を企むが、それを阻止するためには叶ったものを手放さなければいけなくなる。ダイアナは前作で死んだ恋人がよみがえるが、彼を再び失わなければならず、苦悩するが、この映画が力を入れているのは恋人を失わなければならないダイアナよりも、強い力を失いたくないバーバラの方だ。力に対する渇望は、男の悪役マックスにもあるが(力を渇望する男が主人公の映画は無数にある)、力を失いたくないバーバラは悪い意味での男性化を果たしている。

1980年代を舞台にしているという点で、この映画は「ジョーカー」と似た面がある。不遇な人が怒りから悪役になる、というパターンで、悪役も同情すべきところがある、という設定だ。1990年代頃からアメリカ映画の悪役は「ダークナイト」のジョーカーのように、最初から悪そのものであるように描かれることが多くなったが、「ジョーカー」と「ワンダーウーマン1984」は「バットマン・リターンズ」のように、悪役にも同情の余地があるという設定を採用している。ただ、どちらの映画も同情の余地がティム・バートンのようには切実な描写になっておらず、このあたりが中途半端な感じになっていることは否めない。「ジョーカー」では貧しい人々は富裕層に怒りを燃やしていたが、現実ではトランプのような金持ちに投票してしまうわけで、世の中がいろいろと複雑になってきていて、映画が追い付けない感じはある。

2021年3月29日月曜日

いろいろ

 ネットをやっていたら、突然、通信が切断。え、なんで、と思い、いろいろやってみたり、トラブルシューティングをしてみたりしたけどどうしていいかわからず。

パソコンが悪いのか通信機器が悪いのか確かめるために古いWindows7をつないでみたら、やはりつながらない。こちらのトラブルシューティングをやったら、「モデムの電源を切って、10秒以上たったら再び電源を入れる」と。

つながりました。

やっぱり頼りになるのは7だな。


さて、3月もあと3日。日曜までやっていたエヴァンゲリオン・スタンプラリーのパネル展示と景品交換も終了した模様です。下は景品交換できる店。500円以上の買い物をしたのだけど、引換券をゲットするのも面倒で、景品はもらいませんでした。

パネルも2か所でしか見なかったし、回っている人あまりいなかったような感じ。

その「シン・エヴァンゲリオン」について、ファンがこれから見る人のためにネタバレ回避をしている、あるいは、ネタバレがあることをはっきりと知らせている、という記事がネットにあり、これはなかなか感じのよい、いい記事だったのですが、その著者がネタバレについて論じている論文があると本人が紹介していたので、それを読んだら、あまりに低レベルの論文というか、これって論文なのか? ただの駄文だろ! と思ってしまい。著者は私大の准教授だったが、いろいろな意味で研究の質が低下しているのか?

私の若い頃はネタバレってあまり気にされてなかったのですが、そういうことを述べているツイッターを発見。

babbyさんはTwitterを使っています 「昔?の映画のポスターの「すでにネタバレが映っている」問題。これは、ポスターに問題があるのではなくて、観客としての現在人が、あまりにも「あらすじとしてのラスト」に肥大に価値を置きすぎている、鑑賞バランスの変容を意味しているのだと、自分は思っている。」 / Twitter

非常に同感ですね。つか今世紀の初めくらいまでは映画の公開前にノベライズが大量に売り出されていて、ストーリーを最後まで知ってから見る人がかなりいたことを示していました。最近はノベライズ、特に外国映画のノベライズが少なくなっているのは、ネタバレを嫌う人が増えたからでしょうか?


さて、いよいよ4月からは新年度が始まるわけですが、コロナ感染拡大中にもかかわらず、聖火リレーは強行され、オリンピックも強行予定、そして大学は対面授業を強行予定です。

イギリスBBCからは「花見を禁止するのに五輪はやるのか」と批判され、五輪放送権を持つアメリカNBCからは聖火リレーへの批判が起こっていますが、もう何が何でもオリンピックはやる、日本が滅びてもかまわん、てくらいな気合ですね。

大学の対面授業も、とにかく文科省の言うように7割くらいはやる、感染対策? 知らんがな、という感じです。

一応、教室の定員の半分の学生が受講するようにする、とか言ってますが、それ以外の感染対策ってあるのかっていうくらい、無策。クラスターが起こった場合の対応とか、感染して死亡したり重い後遺症が残った教員への労災はどうするのか、とか、全然出てきません。

某大学などは、持病を持つ外国人の非常勤講師が診断書をつけてオンライン授業に変更を望んだら、なんと、講師をクビにしたそうです。

原発事故が起きないことになっていたように、クラスターは起きないことになっている、としか思えない。

ある人のツイッターを見たら、大学によっては専任にはオンライン授業を認めるが、非常勤講師には認めない、みたいなところもあるみたいな記述があった。多くの大学が語学をすべて対面にすることで対面の数をかせいでいるが、語学はほとんどが非常勤講師。なので、非常勤講師におもに対面をやらせて危険にさらさせているというのは案外ほんとうかも?

登校する学生の数を半分に減らす工夫をしている大学が2,3あるらしいけれど、大部分の大学はそんなことしていないので、大学に来る学生の数は減らない。しかも、一部オンライン授業なので、1時間目と4時間目が対面で2時間目と3時間目がオンライン、しかも双方向のオンラインを大学内で受講できないのでオンデマンドのみ、自宅に帰ってから受講する、となったら、2時間目と昼休みと3時間目が空くから繁華街で遊ぶだろう。図書館にしろ、教室にしろ、入場制限あって全部の学生は入れないはずだから、喫茶店でオンデマンド見る学生も出るだろうし。そうなると授業の合間に学生が感染するかもしれない。

もちろん、通学の交通機関の問題もある。

そして、前にも書いたように、非常勤講師は午前と午後で違う大学に行ったり、毎日違う大学に行ったりして、通勤時間も長く、非常に多くの学生と接するから感染の危険が高い。

そろそろ第4波も来そうな感じだから、大学でのクラスターがいつ来るか、どこが最初になるか、もう戦々恐々としているのは私だけではあるまい。

でもまあ、みんな、ツイッターやブログで何かつぶやいているだけなので、私も含め、日本が突き進む21世紀のインパール作戦を黙って見ているのは同じなわけで。昔の日本人やドイツ人が戦争について何も言わなかったという状況がなんとなくわかってきた。

2021年3月28日日曜日

あちこちの桜

 先週後半に散歩しながら見た桜。

近くの公園。宴会ができないように桜のある場所は立ち入り禁止に。



都内。



昨日はえんえんと桜並木を通って八柱霊園へ。下は団地の公園。

有名なさくら通り。毎年恒例のさくら祭りは去年も今年も中止。


八柱霊園。お墓参りの人や近隣の散歩者でいつもより人がいた。道路も渋滞。

入口の広場にある大きな桜。

広大な墓地のあちこちに桜の木があって、壮観。


はるか向こうにある桜並木。

墓地の塀の手前だけでなく、向こうの道路が桜並木。3列の桜。


外の桜並木。渋滞してます。

墓地の中は静かだけど、駐車している車がいつもよりかなり多かった。




入口の広場。5時半の閉園時間が迫る。

「ノマドランド」を見に行ったときも途中に桜並木があったので、遠回りしてそこを歩いて行きましたが、桜が多い町です。

2021年3月26日金曜日

「ノマドランド」円環の時間を生きる(ネタバレあり)

ラストシーンのあと、黒いスクリーンに現れる白い文字Nomadlandが、No mad landに見えた。狂える土地はない、というような意味に。

タイトルは映画の最初にも同じように出てくるが、このときはノマドランドとしか読めなかった。

ラスト、夫とすごした家を訪れた主人公が、広々とした荒野を眺めるシーンで、「私の人生はこれでよいのだ、狂える土地はない」と彼女が悟ったように感じたからだろう。

中国で生まれ、10代から欧米で生きることになったクロエ・ジャオ監督の、そのノマドのような人生への肯定感だろうか。あるいは、私が深読みしているだけなのか。

企業が撤退し、町全体がなくなってしまった主人公は、キャンピングカーであちこちをめぐりながら重労働をして生きている。西部には彼女のように旅をして生きている高齢のノマドたちが何人もいて、彼らの指導者のような人物もおり、こうした人々と主人公は交流していく。

雪が地面をおおうネヴァダ州に始まり、サボテンがそびえるアリゾナ州、主人公の姉が住む中西部の典型的な街並み。特に姉の住む住宅街が出てきたときは、それまでの荒野との対照で、ああ、普通の人が住む町が出てきた、と思った。そのくらい、ノマドたちの荒野と普通の人々の住む住宅街は違う世界だった。

自分の家に住むようにと言う姉を断り、ノマド仲間の老いた男性がいる彼の息子の家を訪れ、そこでも、息子と同居することになった男性から、ここに住まないかと言われるが、それも断る。

主人公の夫は町を支える企業で働いていたが、企業が撤退するずっと前に亡くなっている。なのに、主人公はその町にとどまっていた。夫の思い出のためだったのだ、と彼女は述懐する。

主人公は今でも結婚指輪をはめていて、ノマド仲間から、指輪は輪っかだからまた戻ってくる、ということを言われる。主人公が生きている時間は、まさにその円環の時間だ。映画はネヴァダ州から始まり、アマゾンの配送センターで働く主人公を映し出し、そして最後もアマゾンとネヴァダ州で終わる。

定住しないノマドは円環の時間を生きている。だから、「さよなら」を言わず、「また会おう」と言う。ぐるぐる回っていればどこかで会えるから。それに対し、安住の地を見つけるのは直線の時間だ。

主人公の姉は彼女に、ノマドは開拓者みたいだと言うが、開拓者も直線の時間を生きている。

「ノマドランド」はいろいろな意味で「ミナリ」と対照的な映画だ。「ミナリ」の移民たちは直線の時間を生きている。安住の地を見つけるために移動し、親の世代が種をまいて、子の世代が収穫をする。彼らには前進あるのみだ。彼らの方が開拓者的である。

「ノマドランド」の円環の時間は、直線的に進む世界の中で、そこだけ時が止まったような不思議な空間を作り出している。ノマドが高齢者ばかりなのも、高齢の人々はもはや若者や中年のように直線的に前進していく存在ではないからだろう。高齢者だからこその円環の時間だともいえる。

主人公は夫との間に子供が生まれなかったようで、赤ん坊の抱き方もよく知らないようだ。子供がいない、ということもまた、直線の時間からの解放になる。

夫との思い出にこだわり、古い車にこだわる主人公が、自分の人生と自分のアイデンティティを振り返り、これでよいのだ、という肯定感を得る。NomadlandすなわちNo mad land。

2021年3月23日火曜日

「ミナリ」を見て考えたこと(ネタバレ大有り)

韓国系アメリカ人、リー・アイザック・チョン監督が韓国系移民の家族を描く「ミナリ」を見て、さまざまな疑問が浮かび、それについて考えてみた。

カリフォルニア州からアーカンソー州の田舎にやってきた一家はキリスト教徒である。韓国にはキリスト教徒が多いと聞いていたが、彼らの家には羊の群れを導くキリストの絵が飾ってある。農業をするための土地を、父親は「エデンの園」と呼ぶ。

一家はカリフォルニアなどの西部の都会に住んでいたが、何かいやなことがあってアーカンソーの田舎にやってきたようである。そのいやなことが何かははっきりしないが、韓国系が襲われたロス暴動のときのようなことだろうか、と思う。

農業で成功しようと思う父親と、田舎での生活に不安と不満を抱く母親は夫婦げんかが絶えない。幼い子供たち(姉と弟)は「けんかをやめて」と書いた紙飛行機を飛ばす。

やがて、母方の祖母が韓国からやってくる。子供たち、特に弟は祖母を嫌うが、祖母は水辺にセリ(ミナリ)を植えたりして、両親とは違う影響を子供たちに与える。

一方、友達ができないなど、コミュニティーでの社交がないことを不満に思う母親は、職場の同僚である韓国人に「韓国教会を作りたい」と言う。すると、同僚は「ここに住む韓国人は韓国教会がいやだから田舎に来た」と返す。

韓国教会は日本にもあちこちにあって、韓国人がキリスト教徒が多いことを思えば不思議ではないが、母親がコミュニティーを求めて韓国教会を作りたいと言うと、同僚が、ここの韓国人は教会がいやだから田舎に来た、というのが興味深かった。普通なら、田舎にある特定のコミュニティーがいやで都会に行くのに、ここでは都会の韓国系移民のコミュニティーになじめない人たちが田舎に来ているのだ。

結局、一家は白人の教会へ行くことにし、そこでは差別も偏見もなく受け入れられ、子供には友達もできる。

教会に非白人がいないとか、差別や偏見が描かれない、というのも少し疑問に思ったが、子供たちが学校へ行っていないのも気になった。

一家はポールという白人と仲がいい。ポール(キリストの弟子のパウルと同じ名前)は神様の話をよくする熱心なキリスト教徒だが、日曜には教会に行かずに十字架を背負って歩いているという変り者だ。

やがて祖母が脳卒中で倒れ、ここから新たな展開になっていくのだが、アメリカの田舎で農業をしようとする移民の一家の日常を淡々とリアルに描く一方で、英文学的というか、アメリカ文学的というか、キリスト教的というか、そういった英米文学でおなじみのシンボルがあちこちに散りばめられているのが興味深い。

欧米では4大元素という考え方があって、それは風、水、火、土の4つの要素のことなのだけれど、この映画では引っ越してきたばかりの一家を襲う竜巻が風、農業をするための土地が土、そして農業に欠かせない水、さらにはクライマックスの火、と、4大元素がそろっている。

特に水は重要なモチーフで、父親は木の枝で水源を見つけるという人を断り、自分で考えて井戸を掘るが、それは失敗してしまう。水道から水が出ない、水辺から水を汲んでくる、そして、姉弟が飲んでいるおいしい水、といった具合に、映画全体を水のテーマが貫いている。クライマックスで火が大切なものを焼いてしまったあとのラストでは、セリを植えた水辺が一家の救済のシンボルとして描かれる。火の試練と水による救済だ。

父親が自分の土地をエデンの園だと言ったり、十字架をかついで歩く男がいたり、セリを植えた水辺に蛇がいたりと、聖書を連想させるモチーフがある。移民してきた父親と母親はアダムとイヴであり、そこから子孫が繁栄していくという創世記のイメージがある。

その一方で、韓国教会の話や、一家が参加する地元の教会の描写はリアルな日常だ。

一家の幼い弟デイヴィッド(聖書のダヴィデにあたる名前)と同じく、アメリカ生まれのチョン監督にとって、欧米の聖書的なモチーフや英米文学のモチーフはおそらく自身の血肉となっていて、決してとってつけたものではないと思う。ただ、それと韓国系移民のリアルな日常描写との融合がどの程度うまくいっているのか、少し疑問ではある。

両親のけんかとか、祖母とのぎくしゃくした関係といった、日本人にもわりとリアルな家族関係と、欧米的なモチーフがちょっとしっくりこない、と思いつつ、いや、これはアメリカ映画なんだからこれでいいのだ、という気もする。確かに古きよきアメリカの田舎と家族という原風景を、1980年代頃のアメリカによみがえらせたような感じはする。

「木の枝で水源を探すなんてばかげている、知恵を使うべきだ」と主張する父親(名前のジェイコブは聖書のヤコブ)は、結局、最後は木の枝で水源を探してもらう。アメリカ映画では長らく、黒人やアジア人といった非白人が、白人にとっての妖精や魔術師のように描かれてきたが、ここでは白人のポールがアジア人の一家にとっての妖精か魔術師として描かれている。マジカル・ニグロとしてポリコレで批判される非白人の妖精や魔法使いが、ここでは逆に白人を妖精や魔法使いにしている。この逆転を面白いと思うか、これもポリコレでまずいと思うか、その辺もどうなのだろう。

そんなわけで、いろいろ疑問を抱きながら見てしまったのだけれど、こうした疑問について考えるのもまた面白い映画だった。

2021年3月22日月曜日

「ジョーカー」に関する3つの記事

ここ数日、日本中世史学者の呉座勇一のトンデモツイッターが一部で話題騒然になっていて、私はこの呉座勇一という学者をまったく知らなかったのだが、日本史のベストセラーを出していて、来年の大河ドラマの監修もする予定の優秀な学者らしい。

が、この呉座氏、鍵垢ツイッターで人の悪口をさんざん言ったり、ネトウヨのツイートにイイネしたり、あげくは慰安婦に関するトンデモ論文を書いているハーバード大学教授のラムザイヤーを支持するツイートをイイネしていたことが判明。

フェミニズムやリベラルの人々に対する悪口を何年にもわたってツイートしたり、仲間がツイートする悪口にイイネしたり、仲間内でひどい罵詈雑言を言って盛り上がっていただけでなく、近現代の歴史修正主義を支持していた、ということで、衝撃が走ったのだ。

なぜなら、呉座氏は、表舞台では歴史修正主義を批判し、百田尚樹のことも批判していたからだ。

呉座氏はどうも表の顔と裏の顔があり(ジキルとハイドか?)、裏の顔は鍵垢ツイッターでやっていたのだが、鍵垢とはいえフォロワーが何千人もいたのだから、その中にはいつかこいつの悪行を世に出してやろうとスクショしながらその機会を待っていた人が何人もいたに違いない。シェイクスピア学者・北村紗衣に対して何年も陰口を言っていたことが暴露されたのをきっかけに、これでもかというようにヤバイ発言が大量に暴露されたのだ。

呉座氏のツイッターについては、「おぞましい」としか言いようがないので、それを読める複数のサイトは紹介しません。検索すればすぐわかるでしょう。

この「おぞましい」発言の数々を読んで、ほんとに気分悪くなったのだけど、その中に、この発言だけはまともなのでは?と思ったのがあった。

それは、槙野さやかという人物(書評家?)が書いた「ジョーカー」評がひどい、というツイートだった。

その「ジョーカー」評はこれ。

「ほんとうはもっと与えられるべきだった」と無根拠に思いこむ人間の恐ろしさ  映画『ジョーカー』|槙野さやか|note

呉座氏のツイッターが「おぞましい」とすれば、これは「胸糞悪い」という表現がぴったりだ。

大量のおぞましいツイートに続き、今度は胸糞悪い映画評かよ、勘弁してくれ、と思ったが、さすがにこれには反論があった。

「ジョーカー」を見た人なら、こちらの方が正しいとわかるだろう。

■槙野さやかさんの『ジョーカー』評が滅茶苦茶 (hatelabo.jp)

ここにある、「この人は一種のフェミニストで、負け組のくせに身の程知らずの願いを持った男への怒りがある」というのを読んで、フェミニストに粘着する呉座氏がこれを取り上げたのはそのせいかと思ったが、この槙野氏の文章だけでは槙野氏がフェミニストかどうかはわからない。ただ、この無名の論者が言う、槙野氏は頭にあった妄想に映画を当てはめているというのは、実は、映画や文学でフェミニズムをやっている人にありがちなことなのだ。

以前、北村紗衣がキネ旬に書いた「ワンダーウーマン1984」に私がむかついたのも、ネットでたまたま読んだ北村氏の他の映画評がこの種のフェミニズムのひな型に映画を当てはめるタイプだったからで(そうじゃないのもあるのかもしれないけど)、「ワンダーウーマン1984」ではそれができなくてどうしていいかわからないみたいな文章を書いていたからだ。

この種のフェミニズムのひな型を映画や文学に当てはめるというのは1970年代頃から流行っていて、さすがに21世紀だからもうそんなことはないだろうと思っていたら、この手のフェミニズム批評がいまだ健在と知って、驚いたのである。

フェミニズムに関しては、映画や文学以外の分野、社会学などでやっているものには大いに共感するが、映画や文学のフェミニズムには疑問しか感じない。しかも1970年代から全然変わってないとか、学問としてもどうよ。

しかし、北村氏の文章は「むかつく」、槙野氏の文章は「胸糞悪い」、呉座氏のツイッターは「おぞましい」と、レベルの差は相当あるな。

さて、無名氏に映画をちゃんと見ていないと言われた槙野氏の「ジョーカー」評だが、これは「ジョーカー」ではなく別の作品に当てはまると解説した文章がこれ。

「槙野さやか版ジョーカー」が読みたい人は、「DEAD TUBE」12巻を読むといいと思うよ - 頭の上にミカンをのせる (tyoshiki.com)

上の無名氏の反論は正しいのだが、後半、ちょっと悪意を感じる部分もあったので、すっきり読み終えることができなかったが、最後にこの文章に出会えて、とてもすっきりした。

槙野氏の解釈した「ジョーカー」はしょぼすぎる、批判する相手を軽く見てはいけない、と書いてあるが、批判する相手を軽く見てはいけない、というのは座右の銘にしたい。

また、槙野氏の文章の最後、友人についてのところがものすごくイヤミで、これが胸糞悪いを最大級に押し上げたのだが、これについても上のブログ主はよいことを書いている。

「ネタをやるならはっきりそうわかるように、不快感を与えないように」

いやもう、そのとおりです。

世間一般の反応をする友人を馬鹿にする=世間一般の観客を馬鹿にしているわけで、しかも最初に「個人の感想です」とか書いてんだから創作系ですとか言い訳するの無理でしょう。

槙野氏の不快さは呉座氏の不快さにどこか通じるものがあるんだが、ネットって、何かそういう不快さに人を引き付ける魅力があるんですかね?

で、私は「ジョーカー」についてどういう文章を書いたのかな、と思ってブログを見ると、

さーべる倶楽部: 台風前日のMOVIXさいたま (sabreclub4.blogspot.com)

まあ、私も絶賛ではないね。

最近、私の映画評って全然ダメじゃん、と落ち込んでいたのだが、これはちゃんと書けてるのでほっとした。

「ワンダーウーマン1984」は見てからもう3か月近くたってしまったのだが、実は「ジョーカー」とも関連づけて書きたいと思っていたので、やっぱり書こうという気になってきた。

2021年3月20日土曜日

宣言解除後も都立動物園・庭園等は休園

 明日で緊急事態宣言は解除されますが、東京都立の動物園、水族園、庭園等は当分の間、休園とのことです。

桜の季節で混む時期だしね。

今日、3月20日は上野動物園の開園記念日で、通常なら入場無料のはず。去年もコロナで今の時期、休園でしたね。シャンシャンは5月に中国へ行く予定だけど、全然見られない、というか、中国行きがまた延期になるかも? これ以上延ばすとお年頃なのに彼氏を見つけられないとか、シャンシャンのためを思えばこれ以上延ばさない方が、と熱心なファンの方たちも言っていますが。

ワタクシ的には、猿山の3匹の子猿をずっと見続けていたので、3匹のその後を早くみたいです。赤ちゃん象のアルンも気になる。リーリーとシンシンは交尾に成功したようですが、果たして赤ちゃん誕生なるか。

というわけで、2月下旬にたまたま通りかかったときに撮った写真。もう日が暮れています。


来春まで休館中の西洋美術館。天井の補修中とのことだけど、外からではどうなっているのかわからず。庭もル・コルビュジエ設計の状態に戻すとのことですが、まだ変化はなし。
塀の外から見たカレーの市民。

上野駅公園口の前は工事が終わってすっきり。中央左にスカイツリー。

宣言解除を受けて、もう、大学構内への出入りを完全に自由にしたところも出てきたとか。人の動きは止めない、というのは今回の宣言中も明らかで、行くところまで行くんだろうな、としか。花見は禁止、自粛になって、道を通れなくしたり、桜の下に行けないようにしたりしています。近所の公園も、そのせいで、野鳥を観察していた場所に入れなくなってしまった。

2021年3月19日金曜日

日暮里

ちょいと用事があって日暮里へ。パネルめぐりはしていませんよ。


にゃっぽりの異名を持つ猫の駅。

ソメイヨシノはまだちょぼちょぼ。

近くのお寺2か所の枝垂れ桜。

枝垂れ桜は満開のものからまだちょぼちょぼのものまでいろいろでした。

桜咲く

 近所で一番早くソメイヨシノが咲く場所で、一足先にお花見(歩いて写真を撮るだけ)。






白鳥が去った公園。いつもの鳥たち。


感染者増加傾向なのに緊急事態宣言解除か。まあ、飲食店の時短しかやってなかったからね。ついでにショッピングセンターや映画館も時短していたが。

そしていよいよ4月からは大学が対面授業に。大学によって対面かオンラインかの対応が違うのだけれど、私が非常勤講師している2大学はどちらもマーチ未満の中堅私大なので、対面中心でないと生き残れないのだろう。

甲大学(東京都)は50人以下の授業は対面という方針だったのが、対面予定でもオンライン希望出せるようになったのだけれど、語学はすべて対面だそうだ。

乙大学(神奈川県)は40人以下の授業は対面にできます、ということで、40人以下でも希望すればオンラインにできたのだが、この授業はオンラインではだめな授業なので、大部分を対面にし、オンラインでもできそうな回だけオンラインにすることにした。

甲大学は片道1時間40分、乙大学は片道2時間10分なので、通勤が心配。行きは午後からなのですいているが、帰りが帰宅ラッシュ。特に甲大学からの帰宅は満員電車に45分乗るので、これは帰宅経路を変えて、比較的すいている路線で乗り換えを増やして対応するつもり。

乙大学は帰りも途中までは上りなのですいているはずだが、そのあとは下りになる。でも、甲大学からの電車よりはすいている。

もう一つ、問題なのは、甲大学は階段で移動できるが、乙大学はエレベーターに乗らないとだめなこと。そして、換気ができているのかどうか。

昨年、オンライン授業でほとほと疲弊しまくり、非常勤講師やめたいとまで思ったので、新年度はオンラインより対面の方が気が楽だといえばそうなのだが、コロナ感染の危険が非常に高まる。というか、4月以降、必ず大学でクラスターが起きるに決まっているので、途中でオンラインになる可能性も視野に入れている。上の2大学でクラスターが起こるかどうかはわからないが、あまりにあちこちで起こると、起こっていない大学もオンラインになる可能性がある。

正直、対面でも感染の危険考えたら非常勤講師やめた方がいいのかなと思う。

でも、やめたらほかに仕事がないわけだし、スーパーで働くのとどっちが危険かという話。うーん、スーパーの方が感染対策できているような気が。

とりあえず、二重マスクとフェイスシールドと使い捨て手袋を用意した。

大学が危険なのは、教室が密で、なおかつ学生があちこち移動しているから、というのと、非常勤講師が多くて、非常勤講師は週に5大学10コマが普通(私は執筆や翻訳をしていたので、講師の仕事は少なかったのだ)、それ以上やってる先生も多い。彼らは毎日違う大学へ行くし、さらに、午前と午後で違う大学へ行く人もいる。そんなふうに移動して多くの学生と接している非常勤講師がウィルスを運んでしまう可能性があるのだ。

多くの大学が語学を対面にしているけれど、語学は非常勤講師がほとんどなのだ。

しかも語学は学生が発言する授業が多い。

感染するのもさせるのも怖いからオンラインにしてほしい、と思う先生が多いのもうなずける。しかし、世間はこういったところにはまったく無関心だ。

2021年3月17日水曜日

難関は土浦だったのかなエヴァ・スタンプラリー

 エヴァンゲリオン・スタンプラリーについては検索すれば公式サイトが出てくるし、そこにあるツイッターのリンクをクリックすれば詳細がいろいろわかるので、リンクは貼りませんが、そこにあったスタンプのある駅を見ると

コロナを配慮してか、駅の数も少なめ、遠方の駅は土浦のみと、ポケモン、ガンダムに比べ難易度の低いスタンプラリーになっています。

ほとんどが都心を中心とする首都圏の駅で、神奈川県の武蔵小杉と埼玉県の上尾と千葉県の市川も遠くありません。唯一、遠いのは茨城県の土浦。常磐線の取手以降行きの長距離電車に乗らないと行けません(上尾も長距離電車だけど、大宮の少し先なので遠い感じはしない)。

南は千葉、大船、西は八王子、北は上尾、牛久と、移動距離が長かったポケモン、距離は短いけれど山手線を1駅ごとに乗り降りしないといけないなど、駅の数が半端なく多かったガンダムに比べ、楽勝な感じですね。

スタンプラリーは中止になりましたが、キャラクター・パネルの写真を撮るためにまわる人もいるのかな。私も常磐線だけでも制覇してみたい、などと考えてます(本気か?)。土浦って行ったことないので、行ってみたいというのもあるし、ガンダムの取手駅とか柏駅とか展示がすごかったし。ポケモンの上尾駅もゼニガメがいっぱいですごかった。でも、今はやっぱり行かない方がいいね。

アスカのかき揚げそばも食べてみたいのですが、ガンダムのとき、シャアのかき揚げそばを2か所で食べたら、西荻窪はすごくおいしかったのに、北松戸はかき揚げが全然だめでまずかったからなあ。西荻窪は紅ショウガだけのかき揚げで、からっと揚がっていて、ほんとおいしかった。

用意した景品は、公式サイトにある券をダウンロードしてニューデイズに持っていき、500円以上買い物するともらえる、とか、グルメを食べると抽選でもらえる、とかになっています。ニューデイズはダウンロードした券を見せて1000円買い物すると缶バッジが2個とクリアファイルが1枚もらえるみたいです。

2021年3月16日火曜日

「エヴァンゲリオン」スタンプラリー

 1月18日から3月7日まで開催予定だった「エヴァンゲリオン」スタンプラリー。

コロナで中止になっていたのですが、3月15日から28日までキャラクター・パネルの展示がされています。

松戸はアスカだったのか。いいキャラもらえたのに残念だったね。


どの駅にどのキャラがあるかはネットで調べられるようです。

去年の「ドラゴンボール」のスタンプラリーはQRコードでスタンプを集める方式でしたが、「エヴァンゲリオン」もQRコード式の予定だったよう。でも、スタンプ集める人たちで電車も駅も大混雑するから中止になったのでしょう。

思えば、去年の1月から2月にかけて、「ガンダム」スタンプラリー全駅制覇なんかやっちゃって、ガンプラもらいましたが(まだ作ってない)、ちょうどコロナが流行り始めた頃だったのに密集した長い列に並んで多くの人が触ったスタンプを持って押していたのですね。
達成したあとになって、少しガクブルになりました。

RQコードでスタンプ集めるスタンプラリーってどうなんでしょうね。「ドラゴンボール」はやらかなったのですが。

スタンプラリーの楽しみは、各駅の駅員さんたちの作った展示で、「ガンダム」のときは駅員が作ったガンプラとかオブジェとかが見ものでした。その前の「ポケモン」のときもいろいろあって面白かった。

「エヴァンゲリオン」も実施されていればさまざまな展示が見られたはずなのに、とても残念です。

白鳥は去りぬ

 1月末に近くの公園に現れた2羽の白鳥、今月6日に見たあと、9日に行くと姿が見えず。大きなカメラを持った人もいないので、白鳥はいなくなったのかと思ったが、白鳥がよく見える場所には数人の人がいて、出てこないかと待っている様子。しかし、閉園時間まで一度も姿を見せず。

そして14日に行くと、もう白鳥が見えた場所には誰もいなかった。

いつかは去っていくことはわかっていても、やはり寂しい。1か月余りの間、写真を撮りに通っていたので。

最後に見た6日に、最後に撮ったのは動画。その動画の最後に近い部分を画像に。


手前の黒いものは目の前にある木の枝。池のほとりに立って、木々の間から撮影。すぐ左が丘になっていて、池のその先が見えない(コロナでなければ野鳥観察舎の窓から見えるのだが)。白鳥はその見えないところへ泳いでいった。

来冬もまた来てくれるといいな。

2021年3月12日金曜日

宇部市の国民宿舎

「シン・エヴァンゲリオン」のラストに宇部新川駅が出てきて、宇部線に乗ったことがあるのですぐにどこだかわかり、いろいろなつかしくなって思い出したり調べたりしていた。

山口県を旅したのはたぶん、1974年の夏だったと思う。

あこがれの尾道(広島県)に行きたいと思い、まずそこを訪れたあと、翌日は山口線で津和野(島根県)へ行く予定だったので、宇部市(山口県)の国民宿舎に泊まった。国民宿舎は民間のホテルや旅館に比べて非常に安かったのだ。ただし、食事はとても粗食。それでもたいていは夏休みは予約はとれないのだが、この宇部市の国民宿舎はすいていて、予約ができた。

なんという名前か忘れていたのだが、ウィキペディアで国民宿舎を調べたら、常盤荘だとわかる。宇部線の常盤駅から1㎞ほどのところにあったが、その後、取り壊され、現在は駐車場になっているらしい。

山陽本線の小郡駅(現・新山口駅)で宇部線に乗り換えて、常盤駅で降りて、そこから歩いたのを覚えている。わりと近くまで来たところで道がわからなくなり、農家の家と思われる家の門から、広い庭の先の方で散水していたおじさんにたずねると、わざわざ仕事をやめて、門のところまできて、道を教えてくれたのだ。

首都圏で生まれ育った私には、なんだかものすごく親切にしてもらえた感じがして、すごく感激した。

家とかまばらにしか建っていないような場所だったので、教えてもらえてほっとした。

常盤荘もとても親しみやすい感じで、気に入ったのだけど、窓に鍵がないのには驚いた。

常盤荘のすぐそばには湖がある、ということは地図で見て知っていたが、宿舎からは湖は見えなかった。翌朝、宿を出発したとき、木々の間から湖が見えた。今度また来たら、湖を見たい、と思ってから半世紀近くがたってしまったのだなあ。

当時は湖があるだけだったと思うが、今はときわ公園として整備され、遊園地や動物園もあるようだ。

ときわ公園のサイトにあった地図です。

右側の駐車場のあたりに常盤荘があったらしい。

常盤荘について調べても、ほとんど何も出てこない。1960年代にできたことと、その後取り壊されて駐車場になったことくらい。写真も見つからないし、利用した人の話も出てこない。

常盤荘で一泊したあと、再び宇部線で小郡駅に戻り、そこから山口線で津和野へ行った。宇部新川駅は小郡方面とは逆方向なので、通っていない。でも、あのあたりでは一番大きな駅のようなので、地図には大きく出ていたから、名前を憶えていたのだ。

小郡という地名を見たのも本当に久しぶりだったが、すぐに「おごおり」と読めたのは、やはり若い頃に知った名前だからだろう。

20世紀末に小郡駅が新山口駅に改名するという話が持ち上がったとき、駅は小郡町にあるので小郡町が改名に反対、しかし、21世紀になると山口市と合併することになり、駅名も新山口駅になったと、ウィキペディアで読んだ。

山口線で津和野へ行ったあと、山陰本線で再び山口県に入り、萩へ行き、長門市の国民宿舎に泊まった。山口線はSLだったかもしれない。観光用じゃなくてSLが平常運転だったような(記憶あいまい)。

長門市の国民宿舎はウィキペディアで調べると2軒あったようだ(どちらも廃業)。たぶん、長門荘という名前の方だったと思う。ここは萩が近いので観光客が多く、あまり落ち着けず、よい印象がないというか、ほとんど何も覚えていない。ここに比べて宇部市の常盤荘がますます好印象になって記憶に残ったのだろう。

翌日は日本海の島の遊覧船に乗ったりしたあと、山陰本線で下関へ行った。子供の頃からあこがれていた秋吉台と秋芳洞へは、下関からバスで行った。津和野や萩もよかったけれど、ここの鍾乳洞や、石灰岩が墓石のように並ぶ丘の風景はすばらしかった。

下関では奮発してシティホテルに泊まったが、窓から見える関門海峡の夜景がみごとで、ずっと眺めていたのを思い出す。

当時は飛行機や新幹線は高くて、夜行の寝台車をよく利用していた。寝台車の方が安かったのだ。このときも、行きと帰りは夜行列車だったと思う。東京・大阪間を結ぶ銀河という寝台急行がとても安くて、夏休みでもわりと予約がとれたので、よく利用していた。寝台特急のブルートレインは夏休みは予約は無理だったが、それ以外の時期はわりと大丈夫だったので、3月上旬にそれで九州旅行に行ったりしていた。

映画のおかげで思いがけず、なつかしい思い出がよみがえった。

2021年3月11日木曜日

「シン・エヴァンゲリオン」(ネタバレ大有り)

もう少しあとに行こうと思っていたのだけれど、このところがっかりすることが次々と起こり、気が滅入っていたので、気分転換に映画館へ行くことにした。

ちょうどTOHOシネマズが無料回なので、久々、ららぽーと船橋の大きなスクリーンで見ることにした。


実は「エヴァンゲリオン」は少年少女が巨大ロボットに乗って戦うらしい、ということしか知らなかった。でも、「エンド・ゲーム」も「鬼滅の刃」も「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」も予備知識ほとんどなく見に行って楽しめたし感動もしたので、大丈夫だろうと考えていた。

しかし、上の3作は初心者がとりあえず知っていた方がいい最低限の設定や人物を簡単にまとめたサイトがあったので、それでよかったのだが、「エヴァンゲリオン」はそれがない。

初心者が簡単に学べるサイトがない。あるのはネタバレありの詳しい解説ばかり。ちらちらっと読んでみたけどマニアックで、初心者向けではない。

でもまあ、予約しちゃったので、とにかく行きました。

主人公シンジが父親に言われてエヴァンゲリオンに乗ってがんばったけど、彼が原因で災厄が起こり、シンジは周囲の人間も社会もすべて拒否している、ということだけはわかった。

それ以外の細かいことはやっぱり初心者ではわからないのですが、気になったのは、新海誠のアニメとかぶるモチーフがやたら目についたこと。

悪役であるシンジの父親がなぜこういうことをしているのかというと、というところがまんま「星を追う子ども」。この映画と、「雲のむこう、約束の場所」とかぶるモチーフやシーンが気になる。でも、このあたりは、新海誠が庵野秀明をまねた可能性もあるな、と思っていると、まんま「君の名は。」みたいなのが出てくる。

空をつかもうとする手、引き戸を閉めるシーン、そして、クライマックスのシンジと父親の対決シーンに描かれる父の身の上話、さらにはサラリーマンになった瀧みたいに見えるシンジが外の世界へと駆けていくラスト。

瀧の声を演じた神木隆之介が声の出演をしているので、これは意図的なのか。

父の身の上話のところは「君の名は。」の妻の死がきっかけで家を出てしまう三葉の父のエピソードみたいで、ただ、父親の描写は「シン・エヴァ」の方が深い。三葉の父は妻の死で神主を続ける気がなくなり、家を出て政治家になるのだが、この父親の描写はわりと浅い。それに対し、シンジの父は子どもの頃から一人でいるのが好きだったけれど、妻となる女性と知り合って人生が変わるが、妻を失うことで初めて孤独を知り、そこから悪い方へ行ってしまう。知識を与えてくれる本と、思い通りに音が出るピアノを愛した、とか、いろいろ深い人物描写なのだ。

死んでしまった妻=主人公の母がキーポイントなのも「君の名は。」と似ているけれど、この母親に関するシークエンスの描写も「シン・エヴァ」の方が映像的に迫力があり、深いものを感じる。

ラスト、シンジが愛し合っていたアスカではなくマリと一緒になる、ということについて、ネットで賛否両論があったので、これは見る前から知っていた。ネットでは、シンジとマリが結婚すると言われていたが、実際に見てみると、私は少し違う考えを持った。

マリは「イスカリオテのマリア」と呼ばれていて、これは「イスカリオテのユダ」から来ているのだが、これについて調べたところ、マリはシンジの両親の同級生なんだそうだ。そして、マリはシンジの父を裏切ったので、「イスカリオテのマリア」なのだと。

で、シンジの母が聖母マリアで、シンジが神の子=キリストで、マリはマグダラのマリアだから、シンジはマリと結婚する、ということになるらしい。

私はむしろ、マリは聖母マリアのような存在で、シンジを子宮のような世界から外の世界へ出す役割を担っていたのではないかと思った。なので、ネットの記事で、マリがシンジの両親の同級生、つまり、親の世代だとわかって、やはりそうか、と思ったのだ。

あるいは、マリは2人のマリアの両面を持っているのかもしれない。

というわけで、いろいろと興味深い映画で楽しめた。

思えば、庵野秀明の「シン・ゴジラ」と新海誠の「君の名は。」はどちらも東日本大震災がきっかけでできた作品だったが、その10年後の3月11日に「シン・エヴァンゲリオン」を見に行ったのも何かの縁かもしれない。

追記

子宮のような世界=エデンの園から外に出す、ということなら、シンジはアダム、マリは蛇に化けたサタンということになる。あるいは、サタンにだまされて知恵の木の実を食べたイヴ(エヴァ)だろうか。イヴならばアダムの妻だけれど、イヴがアダムを連れ出すわけではない。(エデンの園は安全な理想郷なので、あの世界とは違うけれど、閉じた世界という点で子宮のような場所と感じた。また、マリを「胸の大きな女の子」と言っているのが、マリを母親的な女性と感じた理由でもある。)

ラスト、実写で撮られたのは山口県宇部新川駅付近で、工業地帯と瀬戸内海が広がっている。エデンの東の荒涼とした土地とはまた違うイメージ。なぜここかというと、庵野秀明の故郷だからだそうだ。

宇部市は大昔、学生時代に旅行で行って、一泊しました。地元の人がとても親切で、よい思い出になっています。

2021年3月6日土曜日

「寄り添う」と「媚びる」どっちもうっせえわ

 昨日は気になるトピックが2つあった。

1つは文科省が緊急事態宣言延長に先立って大学に出した通知に、「大学は学生に寄り添え」と書いてあって、大学教員や職員の一部が反発するツイートを書いていたこと。

「大学は学生に寄り添っていないというのか」「文科省こそ大学に寄り添え」とか言われてますが、要するに、コロナでの対策を十分に行う予算も何もない大学に対し、金も出さずに、対面授業して学生に寄り添えと言う文科省への反発。

でもまあ、大学関係者ってみんなお上品なので、「うっせえわ」くらい強いこと言えばいいのに、言い方はおだやか。

しっかし、私から見ると、「寄り添う」ってものすごく気持ち悪い。なんか、世間では好意的にとらえられている言葉のようですが、私の感じる「寄り添う」ってこんな絵かな。


小学生くらいまでならいいと思うんですが、中学以上になったら、こういうの、うっせえわ、と思いません?

ある程度成長したら必要なソーシャル・ディスタンスがない。

昔はべたべたする大人はうっせえわと若者は感じたと思うのだが、最近はそうでもないというのは実感でわかる。

で、もう1つは、現代ビジネスという講談社のサイトに出たこの記事ですよ。

「うっせぇわ」を聞いた30代以上が犯している、致命的な「勘違い」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

著者の鮎川ぱてという人、どういう人なのか調べたけど、よくわからない。ググってもあまり出てこない。肩書は音楽評論家で、5年前から東大の教養課程で非常勤講師をしていて、東大の研究員にもなっている。大学は東大理1に入ったというから、理学部か教養学部を出て駒場の大学院へ進学したのかもしれない、というのはあくまで推測だけど、この駒場の大学院からマスコミに進出する人がけっこういて、例の古市氏とかそう。

この鮎川氏は10年くらい前に「ユリイカ」に記事を書いたというのがググると出てくるので、年齢的にはもう40歳くらいかもしれない。初音ミクのようなボーカロイドを研究しているらしいが、こっち方面は全然わからないので何も言えない。

東大での授業は人気授業らしく、本人は書籍化をもくろんでいるようなので、現代ビジネスで毎回多数のPVを稼げれば、講談社で書籍化も可能?

今回は話題の歌「うっせえな」を取り上げて、PVはかなり稼いでいそう。

で、記事の内容なんですが、感想は「別に」。

頭にくることもなかったし、感心することもなかったです。本田由紀・東大教授が「意外性はなかった」と切り捨ててますが、20代の院生が書いたのならもっと好意的に紹介したような気がする。おっさんが若者に「寄り添って」書いた文だからね、あれは。

他の感想も「面白かった」というのと、「この文自体がうっせえわ」というのに二分されてますね。昔の若者も感じていたことで、新しくない、という意見も多数。

面白かったのは、この記事のコメント欄の最初にある東大准教授の意見です。


「記事とは直接関係ないですが「日本の10代人口は約1100万人でセクシャルマイノリティと同じくらいのマイノリティである」という議論は興味深いですね.
通常はマジョリティがいてのマイノリティですが,ここでは年代区分である10代だけを取り出し,それ以外と比較しています.このロジックで行くと80代以上も1178万人なのでマイノリティという事になってしますし,各年代区分すべてがマイノリティと言えてしまいます.
さらに,東京都の人口は1350万人なので人口の10%強のマイノリティ,日本のTiktokユーザも7%程度なのでマイノリティ,佐藤さんなんて200万人くらいしかいないので超マイノリティです.
ここでの主張全体が正しいかどうかについては議論しませんが,同じくらいの人数だから「10代はセクシャルマイノリティと同程度のマイノリティ」といって良いかは慎重に考えるべきではないでしょうか.」(鳥海不二夫)


鮎川氏は東大の講義で若者はセクシャル・マイノリティと同じくらいの数だからマイノリティと言っているそうですが、マイノリティは数ではありません。こういう間違った前提で講義をしていることに危惧を覚えます。

若者はある種のマイノリティですが、それは数のためではありません。「うっせえわ」の曲は女が男に対して言っているんだ、という意見がありましたが、歌詞を見ると確かにそうですね。女なら、若くなくても自分のことと思える歌詞がある。

人類の半分は女性ですが、女性は数が多くてもある種のマイノリティです。それは若者がある種のマイノリティであるのと同じ意味で。

鮎川氏が記事で強調する大人世代と若者世代の断絶と、それに対する若者の「うっせえわ」の叫びは、団塊の世代が若者だったときに言っていた「30歳以上の大人を信じるな」というのと本質的には同じです。いつの時代にもあるものですが、ただ、時代によって状況が違うので、その差はある。

今の若者は本音を言わない、抗議しない、というのはそのとおりで、そこが昔の若者と違うところかもしれない(人によるとは思うけど)。

でも、結局、鮎川氏が何を言いたいのかというと、若者はマイノリティだということを強調することで若者の選民意識を鼓舞しているわけです。

これもまた、昔からあるやり方で、しかも対象は若者に限りません。もう、既視感バリバリなんだけど。

自分はまわりとは違うが、選ばれた人なんだ、という考えはいつの時代も若者に受けます。ファンタジーの世界ではchosen oneと言われて、「スター・ウォーズ」とかアーサー王伝説とか枚挙にいとまがない。

鮎川氏が記事でやっているのは、この若者の選民意識をおっさんである氏が若者に付与してあげているってことです。ここ、ちょっとつらくないですか、大人世代として。

若者はいいんです、選民意識で。だって、マイノリティだから、弱い立場だから、そう思わないと生きていけないから。

でもさ、おっさんがそれをああいう文章で若者に保証してあげるって、

うっせえわ!

「寄り添う」って、もしかして「媚びる」ってことですかね?

2021年3月5日金曜日

なつかしい表紙

 アマゾンでなんとなくいろいろサーチしていたら、なつかしい表紙の画像が。


アマゾンのページはこちら。

1987年の本なのでとっくに絶版ですが、キンドル版があるの?と思ってクリックしてみたら、画像の上の方にタイトルがある原書のキンドル版でした。試し読みもキンドル版の原書で、日本語版はありません。

作者のロバート・シルヴァーバーグは日本ではあまり人気のないSF作家だったので、ハヤカワ文庫や創元推理文庫で出ていたSF小説はすべて絶版。ノンフィクションが1冊だけ現役です。

上の本はヴァレンタインという人物を主人公としたシリーズ物の3作目で、原書ではこのあともシリーズは続いたのだけど、日本では売れずにこれで打ち止め。下巻は画像がありませんでしたが、下巻で解説を書かせてもらいました。

上下巻並べると表紙が1枚の絵になります。上巻の表紙の青年の顔が、当時はデイヴィッド・リンチの「砂の惑星」のカイル・マクラクランに似て見えたのですが、今見るとそうでもないか。

ドゥニ・ヴィルヌーヴの「砂の惑星」再映画化が待機中ですが、予告編を見ると、リンチの方が華やかだった感じが。評判の悪かったリンチ版だけれど、私は最初から支持していて、好きだったし、やはり評判悪かった主役のカイル・マクラクランもカリスマがあってすばらしいと思っていました(当時のキネ旬に短評を書いています)。

マクラクランは最近、トム・ハーディ主演の「カポネ」で見ましたが、普通のおじさんになっていたなあ。