2023年4月30日日曜日

明日は

 5月1日、メーデーですが、

15年間つきあった地域猫の月命日。

なんかつらくてね、その猫がいた場所へ行けなくなっている。

思えばその猫と初めて会ったのが2008年4月1日。

ちょうど15年後の4月1日に旅立った。

かなり元気な猫だったので、突然のことだった。

生まれたのは2007年の春から夏のようで、その年の秋に捨てられていたという。

2007年春というのは、私が精神的に一番つらかった時期で、軽いうつ状態だった。

原因は長年住んでいたアパートである日突然、低周波音に悩まされるようになったこと。

いろいろ調べて、エコキュートという夜11時から朝7時まで稼働する機械が原因らしいことがわかったけれど、機械の置かれた場所はわからず(ある程度遠くても被害があるらしい)、結局、引越。そのとき、英文学の研究書やらなにやら大量に本を処分してしまったので、もうこれで自分は英文学者としては完全に終わったのだと思った。

眠れないので内科で睡眠薬を処方してもらったのだが、これは実は精神安定剤で、この薬がうつ状態をさらに悪化させた。引越先にも失敗し、1ヶ月でまた引越、その次も失敗だったが、さすがにすぐまた引越ではお金もなく、いよいよ精神的に追い詰められた。が、そんな私を内科医がせせら笑ったのがきっかけで目が覚め、精神安定剤をやめたことで少しずつ回復していった。

2度目の引越先はアパートの周囲に大型と小型の室外機が10台以上あり(アパートに隣接する複数の家のもの)、その中の1台が一日24時間、1年365日稼働、しかも音がすごくうるさい、という状態だったが、エコキュートなどの低周波音と違い、耳栓でなんとかなるので、それでしのいだ。

そんなふうにして、低周波音被害からちょうど1年たった2008年春に、その猫と出会ったのだ。

3度目の引越先でやっと静かな生活を手に入れたのだが、そこも2年半後にまた低周波音に悩まされるようになった。どうやら2000年代後半からこの手の低周波音を出す機械が周辺に普及しだしたようで、4度目の引越先では至近距離に1日中低周波音を出す機械があることがあとでわかり、結局、郊外の団地に引っ越して、ようやく低周波音から解放されて現在に至っている。古い団地では低周波音を出す機械を設置できないのだけれど、団地の外の住宅地にはこの種の機械が普及しているようだ。

そんな苦しい時期にその猫と出会い、定期的に会うようになり、猫もなついてくれて、この猫に出会えたからさまざまなことを乗り越えられた。合掌。


2万円以上した名探偵ピカチュウぬいぐるみは、汚れないようにまだビニール袋入り。

追記
このブログは4代目なのだけど、1代目が2007年夏まで。久々にのぞいてみたら、3月まではデレク・プラントと日本製紙クレインズの追っかけで充実した日々を送っていて、クレインズ優勝後の心にぽっかり穴が開いたときに低周波音被害が始まったことがわかった。
1代目は2度目の引越をしたあとまでなのだけど、文章は意外に明るく、あんなうつ状態になっていたとはまったくわからない。実際は、ほんとうにひどい精神状態だったのだが。
その後、2代目に移り(当時は画像の容量制限があって、容量いっぱいになるとブログを移転していた)、2008年春から猫写真が登場。前年よりは精神的に安定しているが、当時は仕事がなく、産業翻訳に挑戦するもすでに人手が足りていて、仕事が得られなかったことが書かれている。
それから3代目に移るのだけど、ブログにド派手な広告が入ることになり、わりと早くにこのブログに移転した。その頃には画像の容量制限がなくなり、今に至っている。

2023年4月23日日曜日

りさ~ちまっぷ、その後

 ツツジとアゲハチョウ。


今年は花が咲くのが早く、ツツジも花がかなり枯れてきています。

さて、先月登録したリサーチマップ。ぼちぼち更新してるのですが、先は長い。

しかし、国立国会図書館のデジタル化が進んでいて、私が書いていた雑誌がけっこうデジタル化され、ネットでコピーを買えるらしいことがわかり、驚いています。

それも利用してぼちぼち更新していますが、私が業績として書き込んでいる映画評とか、商業誌に書いたものは、私が若い頃だったら業績とは認められないものだったんですよね。

業績と認められるのは学術誌に書いたものだけだったのです。

でも、今の研究者の業績リスト見ると、商業誌に書いたものが普通に研究論文リストに入っていたりします。まあ、私も「フランケンシュタイン」解説やシルヴァーバーグ解説、それに「幻想文学」に書いたものは研究論文に匹敵すると思っているので、入れてますが。

あと、驚いちゃうのは、同じ媒体に載った同じ文章を二重に業績にしている人が複数いたこと。

いや、私もキネ旬に書いた映画評がその後、ムック本に再録されれば、雑誌の映画評と共著の本として二重に書きますが(この場合も再録であることを断るのが本来の在り方)、上で言ってるのはそういうのじゃなくて、共著の本に書いた文章を、論文リストと著書リストの両方に二重に載せるとか、同じ論文を日本語と英語の両方で紀要に載せているのを、両方論文リストに入れるとかいうものです。

同じ文章が2つの媒体に載ったので二重に出すのではなく、まったく同じ媒体の同じ文章を二重に出すってことです。これで研究論文の数が実際の2倍になっている人がいて驚きあきれた。

私の若い頃は研究の世界はこういうことはだめったんですが、今は違うんですかね。あるいは、リサーチマップならいいけど、ほかではだめなのかな?

私が若い頃というのは1980年代で、この頃は商業誌にさかんに書いている人は研究者としてはキワモノ扱いでしたが、1990年代からマスコミで活躍する人が大学教授になるようになり、その辺の垣根が低くなったのかもしれません。私がリサーチマップに登録して書き込む気になったのも、その辺の変化に遅ればせながら気づいたからというのがあります。

でも、過去に書いた文章ばかり見ているというのは、未来に向かっていないということなんだよなあ。なんだか身辺整理をしているみたいで、複雑な心境。

2023年4月22日土曜日

「ベネデッタ」(ネタバレ大有り)

 ポール・ヴァーホーヴェンの新作「ベネデッタ」をやっと見られた。



17世紀に実在し、レズビアンの罪で裁かれた修道院長ベネデッタの実話を大胆に脚色したフィクション。

出だしはあまり才気が感じられず、新しく入った修道女バルトロメアの性的行為で蛇の幻想を見るあたりは、バルトロメアがエデンの園に侵入した蛇の寓意があからさますぎて、蛇の描写もなんだかなあなベタな表現に、ヴァーホーヴェン、年取ったかなあ、と思ったのだが、その後はどんどんよくなり、やっぱりヴァーホーヴェンはただの悪趣味じゃない、芯のしっかりした骨のある作家!と思ってうれしくなった。

この映画にある聖と俗、キリストの寓意などは過去の彼の作品にも見られたもので、特に「ロボコップ」の主人公がキリストになぞらえているのは有名。が、ヴァーホーヴェンが聖書の寓意を使うときは批判と愛着の相反感情がある。

ヴァーホーヴェンのキリスト教会に対する批判は、修道院に入るのも金しだいというシーンや、ベネデッタを利用しようとする男性聖職者たちの姿に現れている。幼いころから妄想癖があったベネデッタがバルトロメアと同性愛の関係を結びながら、その一方で、自分はキリストの花嫁だとして、体に聖痕ができていき、町の人々からは聖者扱いされる。修道院内部の人々は聖痕は自作自演だと思っているが、彼女たちより上位の立場にいる男性聖職者たちが彼女を利用しようとしているので、何も言えない。唯一、修道院長の娘だけが告発するが、彼女は罪深いとして罰を受ける。

修道院長に娘がいるというのがちょっと疑問だったのだが、娘を産んでから母娘で出家したのだろうか?

このことのために修道院長はその地位を追われ、ベネデッタが修道院長になる(男性聖職者がそれを決める。キリスト教会では女性たちには何の権限もないのだ)。

修道院長をシャーロット・ランプリングが演じているので、ベネデッタと対立するのかと思ったら、娘をいさめてことを荒立てないようにするなど、穏健派の女性として描かれている。

このランプリングの元修道院長はベネデッタとバルトロメアの性行為をのぞき見して、フィレンツエの偉い人に訴えるが、その後、彼と町に戻ったあと、心を変えてベネデッタを支持するようになり、最後はベネデッタのかわりに火に身を投じて焼け死ぬ。

ベネデッタの聖痕は自作自演かもしれないが(彼女を愛するバルトロメアもそう思っている)、元修道院長は最後に男性聖職者たちよりも彼女を支持するようになったのだろう。

ベネデッタが子どもの頃からだいじにしていた聖母マリア像をバルトロメアが下半身を男根にしてしまい、ベネデッタが怒るどころか喜んでそれを使うあたり、彼女の信仰心が完全に変化してしまっていることを示す。

最後も、バルトロメアは現実的に考えているのに、ベネデッタは自分は聖人だと信じ込んでいて、町を救いに行く。はたから見たら自作自演の詐欺師だが、本人は妄想を現実と信じ込んでいるわけで、ヴァーホーヴェンはそんな彼女を決して否定しない。もともと聖人とはそういうものなのかもしれないし、そんな聖者が人々を救ったこともあるのだろう。バルトロメアを含め、すべての宗教者が彼女を信じていないのに(宗教者なのに、あまりにも世俗的な人々)、彼女と、そして彼女を支持する民衆は、それを信じているのである。

肉体を傷つける痛みの表現も「ロボコップ」などに見られたヴァーホーヴェンの特徴の1つで、ヴァーホーヴェン・ファンには納得のテーマと表現の映画だった。

2023年4月21日金曜日

吉野家コピペのスープストック

 スープストックが離乳食無料にしたら、それまでの常連が反発、というのがニュースになってましたが、どうもそういうことではないらしいのです。

最初にこのツイを見たときはそういう話かと思ったのですが、その下のレスを見ると、これは実は20年前の吉野家ネタのコピペで、ジョークだということがわかりました。

yucoさんはTwitterを使っています: 「「スープストックは女の吉野家」というのを見て笑ってしまった。 昨日、近所のスープストック行ったんです。スープストック。 そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです。 で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、離乳食無料、とか書いてあるんです。 もうね、アホかと。馬鹿かと。」 / Twitter

下のレスに盛んにインターネット老人会と書かれてますが、いにしえのインターネットを知る高齢者じゃないとネタだということがわからない。たまにマジレスしてる人がいますが。

私もインターネットがダイアルアップ接続で、ギーガーという音とともに始まる時代からの人間ですが、このネタは知りませんでした。

元ネタ



スープストック改変版



スープストックは長居する場所じゃないので、利用者はそれほど気にしていないのでは、と思います。私はここは1度しか入ったことないですが、私には満足度が低かったので、その後は行っていません。

2023年4月14日金曜日

「幻滅」(ネタバレ大有り)

 先週、「ザ・ホエール」と「AIR/エア」を見に行ったら、どちらの映画でもバルザック原作の映画「幻滅」の予告編を2種類やっていて、このシネコンのイチオシなのかな、と思った。もともとコスチューム文芸ものは大好きなので、早速、初日に鑑賞。


その前に図書館から原作を借りてきた。が、かなり長いので、これは読めるかな、もともとバルザックは大学時代に中編をフランス語で読んだだけで、それ以外何も読んでいない。


写真のうち、文庫は「ゴリオ爺さん」と、この小説に登場する人物が出てくる「幻滅」と「浮かれ女盛衰記」の抄訳。抄訳といってもほんとにさわりの部分だけみたいで、これでは読んだことになりそうにない。で、映画を見たら、原作すごく読みたくなったので、がんばって読みます。

そして、珍しくもパンフレットを買ってしまった。入場料無料の回だったので、よいでしょう。800円もして、公式サイトとだぶる文章もあるけど、読みごたえはありそう。


予告編2種類もやってイチオシ、なのかどうかは知らないけれど、この手の映画はお客さん呼べない、ましてやそのシネコンは人気作でもあまり混まないので、まあ、お客さん5人くらいかな、と思ったら、まさに5人であった。

映画は原作のストーリーや人物をかなり変えているようで、特にグザヴィエ・ドランの演じるナタンという小説家が映画独自の人物で、原作の3人の人物をもとにしているらしい。

物語はナポレオン時代のあとの王政復古期のフランス。田舎の詩人リュシアンがパリに出て、詩人として成功しようとするが、現実はきびしく、当時のイエロー・ジャーナリズムの記者となって、金のためなら嘘でも何でも書く人間へと堕落していく。

当時のこの手のジャーナリズムは、書評も劇評もまっとうな批評ではなく、金をくれればほめる、くれなければけなす、みたいなものだったようだ。

リュシアンはここで2人の男と出会う。1人は彼をイエロー・ジャーナリズムの記者にするエチエンヌ。もう1人はそうした現実に流されない優れた小説家ナタン。この2人はリュシアンにとって、悪魔と天使のようなもの。

一方、リュシアンは2人の女性と恋に落ちるが、普通、このパターンだと2人は善女と悪女になるところ、映画ではどちらも善人。

のっけからナレーションが多く、映像よりも言葉が先立っている印象で、映画としてはどうかと思ったが、最後になってこの手法の謎が解けた。

ナレーターは作家のナタンだったのだ。(声でわかった人もいるだろうけど。私はわからなかった。)

つまり、ナタンが原作者バルザックの分身だったのだ。

ナタンを映画監督として有名なグザヴィエ・ドランが演じたわけもこれでわかった。作家の役を本物の作家が演じたわけである。

前半はナレーションに頼りすぎなのではないかと思ったが、後半、ナタンの小説を読んだリュシアンがそのすばらしさに、いつものやり方でけなすことはできないと思うあたりからは純粋に映画として面白くなる。

そのリュシアンに対し、エチエンヌが、長所をけなすさまざまなやり方を言うシーンは、実際にそういうやり方で作品をけなすのが今でもよくあることを思って、苦笑してしまう。

リュシアンはナタンの小説を出版する出版社から詩集の出版を断られた恨みもあり、ナタンの小説をくそみそにけなす文章を書くが、それをまえもって出版社の社長に見せる。すると社長は、金を出すとか、詩集を出すとか言い出し、してやったりと思ったリュシアンは、最初に書こうと思っていた絶賛評を書く。リュシアンが文学魂を取り戻した瞬間であり、前からリュシアンにそれを望んでいたナタンも彼の文章に感動するが、しかし、リュシアンはその後も堕落の一途をたどる。

シューベルトをはじめとするクラシックの音楽が全編を流れ、リュシアンが爵位を求めて借金まみれになるあたりは「バリー・リンドン」に似てくるのだが、やはりここはバルザックの世界なので、登場人物も社会も単純ではない。王党派と自由派といった社会背景はよく知らないのだけど、その辺もからんでいて、また、ジャーナリズムの世界の変化も起こってくる。

いろいろと盛りだくさんな文芸娯楽映画であり、役者もみな、いいので、楽しめる。

2023年4月9日日曜日

土曜日の上野動物園

 春休み中は大混雑だった上野動物園、春休みが終わったあとの天気の悪い土曜日にちょっとだけのぞいてみた。

上野公園は緑の桜が満開。白い桜はほぼ終了。



3時に入ったので双子は並ぶのは終了。でも、土曜日にしてはすいている。


シャンシャンのいた東園パンダ舎。この木を切り倒してホールを作るとかいう計画があるらしいが、この緑を残してほしい。




アルンは牙が生えてきた。



子猿たちはもうすぐ3歳。かなり大きくなっている。そろそろ乳離れか。



西園のパンダのもりの入口では、リーリーとシンシンは待ち時間20分表示だったけれど、両方とも庭に出ていて自由観覧。待ち時間なしでした。

シンシンお食事中、リーリーはうろうろタイム。




リーリーは部屋に入りたいのか、何度もドアに体当たり、その後、部屋に入ったので、またシンシンの方へ戻ります。絶賛食事中のシンシン。







シンシンをこんなにじっくり見られたのはあまり経験がなかった。やがて、シンシンも食べ終えて部屋へ。


仰向けに寝るミーアキャット。


西園休憩所の藤棚。レッサーパンダは屋根に登って、そのあと木に移る。




バーバリーシープ2頭のうちの1頭が亡くなってしまった。


2023年4月7日金曜日

「ザ・ホエール」&「AIR/エア」

 今日から始まった2本の映画。アカデミー賞主演男優賞受賞の「ザ・ホエール」とナイキとマイケル・ジョーダンの逸話「AIR/エア」をハシゴ。


どっちもすごくよかった。

「ザ・ホエール」はいかにも舞台劇の映画化らしく、登場人物たちの葛藤が見ごたえがある。

冒頭、バスを降りる人物を俯瞰でとらえ、そのあと、この人誰?な状態のまま物語が進み、途中で、この若い宣教師だろうと思うが、なぜこの人がバスでこの町に降り立ったのか?と疑問に思っていると、しだいにそのわけがわかっていくという作劇のうまさ。

異常に肥満した主人公を介護する女性(彼女と主人公の関係もしだいに明らかになる)、妻と離婚後、ずっと会っていなかったのに突然訪ねてくる娘、そして、最後に現れる元妻の3人の女性が、それぞれ、形は違うが、主人公に対して愛情を抱いていて、その愛情がストレートなものではなく、娘は父の遺産が目当てのように見えたり、元妻は夫がゲイの恋人に走って別れたことに怒りを感じつつも、元夫への愛がまだ残っているよう。そして介護する女性は実は(ネタバレ)主人公のゲイの恋人の妹だったことがわかり、この兄妹が若い宣教師の信じる新興宗教の被害者であることもわかる。若い宣教師も実は新興宗教に嫌気がさして逃げ出してきたこともわかる。

主人公を取り巻くこの3人の女性と若い宣教師のさまざまな対立を通して、主人公も含む5人の人生が浮かび上がってくる。家族ぐるみの新興宗教の問題は旧統一教会の問題が取りざたされる日本でもリアルに感じられるだろう。キリスト教の中のある種の偏狭な考え方が人々を追い詰めることを描いているが、その一方で、ラストの白い光は神の光、偏狭な考え方の人々の神とは別の、包容力のある真の神を感じさせる。

ラスト、真っ白な画面に黒い文字が現れるのは「ブラック・スワン」をほうふつとさせる。「ブラック・スワン」は主人公は母と舞台監督に認められたがっていたが、最後にそれを実現して満足して死ぬ。「ザ・ホエール」の主人公は妻や娘と幸福だった頃の記憶が最後によみがえる。

という内容なのだが、この映画、今の私には別の部分で刺さるところが多かった。

死が迫る主人公をめぐる3人の女性たちの屈折した愛情は、つい最近経験したこととあまりにも似通っていたので、他人事とは思えなかった。

そして、主人公はズームの講義で大学生にレポートの書き方を教えているのだが、彼は文学作品を読んで学生が感じたことを正直に書くようにと言う。そして、いよいよ死が迫り、もうこれ以上授業はできなくなった、今後は別の先生が講義をするだろうが、その先生はきみたちに何度も書き直しをさせ、自分を出さないようにさせるだろう、自分とは正反対に、と言う。

これまた私が比較的最近経験したことと重なっていて、私が非常勤講師をしている大学の学科では専任が学生に論文指導をしているが、その指導がまさに、「自分を出すな」ということで、それに対し、私のやる授業では、自分が感じたこと、考えたことをだいじにさせようとしている。つまり、私はあの主人公と同じ立場なのだ。

そんなわけで、私にとっては共感マックスな映画であった。

「AIR/エア」はとにかく面白かった。

「アルゴ」でアカデミー賞作品賞を取ってしまったベン・アフレック監督だが、演出がてきぱきとしていてうまさを感じる。最初から最後まで、だれたところがまったくなく、いちいち演出が決まっている。脚本もうまい。

マイケル・ジョーダンのためのシューズを作るという、それまでにないコンセプトでジョーダンを口説き落とすナイキの実話で、この新しいことをするという考え方をジョーダンの母が気に入って、弱小だったナイキがジョーダンを獲得する。

登場人物が男性ばかりで、唯一、女性のジョーダンの母(ヴィオラ・デイヴィス)が男たちに負けない存在感を示す。ラストも、母の偉大さを強調している。

1984年が舞台で、当時の映像が冒頭で次々と出てくるし、その後も当時の歌が流れ、当時の髪型や服装、パソコンの画面はブラウン管、録画はビデオテープ、携帯などない、といった時代の風景が随所に現れていて、なつかしいと同時にまがいものではないリアリティがあった。

映画は近隣のシネコンで見たのだけど、前日、上野駅へ行ったら、こんなディスプレイが。下の方が4面シャンシャンで、シャンシャン去ってすでに1か月半だけど、いまだシャンシャンとは。






2023年4月5日水曜日

イギリスで「紳士になる」ということ:「生きる LIVING」

 キネマ旬報の最新号を見たが、いろいろ疑問に思うことがあった。

スピルバーグの「フェイブルマンズ」をやたら高く評価している文章は、ラストのジョン・フォードのエピソードの意味を理解してないように感じるし、この映画は父と母を悪く描きたくないというスピルバーグの気持ちからか、人間描写などがこれまでの彼の傑作群に比べて浅い。映画としても前年の「ウエスト・サイド・ストーリー」より劣る。スピルバーグが監督賞候補になったこと自体が疑問だし、これで取ってほしくなかったから「エブエブ」でよかった。

「生きる LIVING」についても、イギリスで「紳士になる」ということの意味が理解されていない気がする。

確かにこれは、私のように19世紀のイギリス文学文化をやってないとわからないのだろうし、かつてのキネ旬ではそういう解説が私に求められていたが、今は全然需要がない。私よりも詳しい人が他の媒体で書いているだろうから、それでいいのかもしれないが。

イギリスというか、イングランドで「紳士になる」ということがどういう意味かは、チャールズ・ディケンズの「大いなる遺産」を読むとよくわかる。イギリスには貴族、紳士、労働者という3つの階級があり、「大いなる遺産」は労働者階級の青年が紳士階級をめざす話。

「生きる LIVING」の主人公ウィリアムズは、母がスコットランド出身ということはわかるが、父のことは出てこない。おそらくイングランドの労働者階級だったのだろう。19世紀末の生まれと思われるウィリアムズは、たぶん、父は工員などのブルーカラーで、紳士になりたいと思ったということは、ホワイトカラーになりたいと思ったということだ。

彼の勤める役所では、一番偉い人は貴族で、同僚は男性は紳士階級のようである。レストランの副店長になるといって転職したが、ウェイトレスをしている若い女性は労働者階級のようだ。

ウィリアムズが紳士になりたいと思って紳士になったことについて、ノブレス・オブリージュを持ち出している人がいるのだが、ノブレス・オブリージュは貴族の理想であって、紳士階級にはあてはまらない。ただ、上の階級である紳士になれたウィリアムズは、ブルーカラーにはできないことをやって世の中の役に立とうという志はあっただろう。しかし、早くに妻を失い、役所の中で埋もれていくうちに志を失い、死人のようになってしまったのだろう。

ウィリアムズの歌うスコットランド民謡には妻への思いがこめられている、というのはまったく同感だ。母の故郷であるスコットランドの歌だが、この歌は母と妻の両方への思いがこめられた歌だろう。彼にとって、愛する女性は母と妻の2人だけだったに違いない。

ウィリアムズが山高帽を盗まれてソフト帽をかぶるのは非常に重要なエピソードだ。

山高帽はイギリス発祥の帽子で、英語ではボーラーハットという。ウィキペディアによれば、1850年に貴族のために作られた帽子だが、上流階級(貴族)がかぶるシルクハットと労働者階級がかぶるソフト帽の中間、つまり、紳士階級のかぶる帽子になったのである。

だから、通勤する役人たちが山高帽をかぶっているのは、彼らが紳士階級であることを表している。


ウィリアム自身、山高帽にステッキというイギリス紳士の典型的な姿。


それがボーンマスで出会った作家のすすめで労働者階級のかぶるソフト帽をかぶる。


子どもの遊び場を作ってほしいと陳情に来た女性たちは、映画ではレイディーズ(レイディは本来は貴族の女性)と呼ばれるが、彼女たちはアパートに住む労働者階級だ。

ブルーカラーからホワイトカラーになり、紳士になったウィリアムズだが、労働者階級のソフト帽をかぶり、労働者階級の若い女性と話をすることで、かつて自分が所属していた階級の人たちのために立ち上がる決心をする。

そうだ、これこそが、黒澤の「生きる」と違うところであり、日系人という、イングランドの紳士階級に所属しなかったイシグロ(今はナイトの称号を持つ貴族だが)だから描けたことなのだ。

前の記事でこの映画を低く評価したけれど、この一点で、イシグロのアカデミー賞ノミネートは納得できた。

追記 かつて自分が所属していた階級の人たちのために立ち上がるって、「七人の侍」の三船敏郎だ!

2023年4月4日火曜日

「生きる LIVING」

 土曜日に15年間つきあったなじみの地域猫が亡くなり、今見るとしたらこれしかないだろうと思った映画「生きる LIVING」。画像はRotten Tomatoesから。


ちなみに、その地域猫に初めて会ったのは、亡くなった日と同じ4月1日。エイプリルフールだから、嘘だよ、と言って生き返ってくれてほしかった。

さて、カズオ・イシグロ脚本による黒澤明の名作「生きる」のリメイクだが、オリジナルは10代の頃に一度見たきりなので、かなり忘れているけれど、オリジナルの濃さに比べてあっさりとした淡白な味わい。

主演のビル・ナイがこの役には年をとりすぎているというか、彼の年齢だったらもう役所は定年退職しているはずで、オリジナルのようなまだ高齢者とは言えない人が死の宣告を受けるのとはニュアンスがかなり違う。

ビル・ナイが演じることで、主役がカズオ・イシグロの主人公らしくなったのは事実だが。

お葬式でみんながあの人はすばらしかった、これからは自分たちも変わらなければ、とか言っていた役人たちが、次のシーンではまたもとのやる気のない役人に戻ってるというあのオリジナルの落差、皮肉もリメイクはいまひとつ。

黒澤の「生きる」に一番近いイギリス映画、というか、外国映画は、「おみおくりの作法」だと思う。

あの映画の主人公は、やる気のない役人ばかりの役所で、身寄りのない孤独死の人のおみおくりを担当している。彼は人づきあいもない孤独な人間だが、この仕事には情熱を傾けていて、生きがいとなっている。

ところが役所の都合でその仕事がなくなることになり、最後の死者の縁者を探してみようということになり、その過程で人と出会い、淡い恋も生まれる。しかし、その後、というところで、このあとは非常に感動的であり、なおかつ、皮肉も感じられる素晴らしいエンディングなので、未見の方はぜひ見てほしい。

「おみおくりの作法」の主人公は死者に生きがいを見出していて、ある意味、生を生きていなかったと言えるが、その彼が死者の縁者を探す中で生を生きるようになる、という点で、役所の中でミイラやゾンビと呼ばれるほど生きていない「生きる」の主人公が、死を覚悟して初めて生きるというところと若干重なる感じがする。

「おみおくりの作法」は「生きる」とはまったく違う作品だけど、黒澤の「生きる」に対するイギリス映画の返歌だと思う。それに比べると、「生きる」リメイクは中途半端。ネットを見るとほとんど絶賛だけど、私はそれほど評価できない。