2022年2月26日土曜日

「ゴヤの名画と優しい泥棒」「ガガーリン」「ボブ猫2」

  2月25日はつくばエクスプレス沿線で3本ハシゴ。



まずは流山おおたかの森で「ゴヤの名画と優しい泥棒」。ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵のゴヤ作のウェリントン公爵の肖像画が盗まれた実話の映画化。このウェリントン公爵の肖像画、2020年に西洋美術館で開催されたロンドン・ナショナル・ギャラリー展で見ている。盗難のことは知らなかったが、かなりよく覚えている印象的な絵だった。

そして、隣の柏の葉で「ガガーリン」と「ボブという名の猫2 幸せのギフト」。どちらも大きなスクリーンの広い部屋だったが、「ガガーリン」はお客さん5人くらい。そして、「ボブ猫2」はなんと、おひとり様でした。

これまでもおひとり様で映画見たのは何度かあるけれど、公開初日でかなり広い部屋でおひとり様って初めて。大丈夫か、この映画。

「ガガーリン」は60年代初めに建てられたパリ郊外の古い公営住宅、宇宙飛行士ガガーリンにちなんで名づけられた団地が老朽化で取り壊しになる話で、今住んでいる団地が同じころに建てられたものなので興味をそそられた。

そして、まさかのリピーター映画になっている「ボブ猫2」。「ゴヤの名画~」と同じ日に見たので、イギリスの貧しい人々についての映画として比較できたのはよかった。

実は3本とも、貧しい人々が主役の映画なのだ。

そのうち、イギリスが舞台の「ゴヤの名画」と「ボブ猫2」には、貧しい人は~してはいけないのか、という共通のテーマがあることに気づいた。

「ゴヤの名画」はテレビを持つ人はBBCに受信料を払わないといけない、そのために貧しい高齢者がテレビを見られない、ということから、主人公はゴヤのウェリントン公爵の肖像画を盗んで、その身代金を受信料にあてて、貧しい人もテレビを見られるようにしようとする。つまり、受信料を払えない貧しい人がテレビを見られないのはおかしい、という主張だ。

原題は「ザ・デューク(公爵)」だが、ザ・デュークといえばイギリスではウェリントン公爵のことなのだろう。歴史上の有名人であり英雄でもあるが、主人公はむしろ、普通選挙権に反対した人物ととらえていて、このあたりもイギリス人らしい反骨精神が感じられる。

主人公はロビン・フッドの精神でゴヤの絵を盗むのだが、あの裁判の結果は、やはりロビン・フッドの国だと思う。

間に「ガガーリン」を挟んで「ボブ猫2」を見たわけだが、「ボブ猫2」もまた、貧しい人はペットを飼ってはいけないのか、というテーマがある映画だと気づいた(「ゴヤの名画」のおかげです)。

映画の前半、主人公ジェームズが外でバスを待っているとき、向かいの獣医から裕福な夫婦がペットの猫を抱えて出てくる。それを見たジェームズが「世界が違う」とつぶやく。映画のなかほどでは、慈善団体のもとでペットを無料で診てくれる獣医のところへ、貧しい人々が犬などを連れてきているシーンがある。

そして後半、ジェームズが貧しいので猫が不幸なのではないかと疑われ、動物福祉局にボブを奪われるかもしれない事態が発生、そんな中でジェームズ自身、貧しい自分のもとにいたのではボブは不幸なのではないかと思うようになる。

この映画を見た人がツイッターで、「自分より裕福できちんとした人に飼われた方がこの子は幸せだったのではないかと一瞬でも考えたことのある人はタオルハンカチが必要」と書いていたが、まさに映画の核心を言い当てている。

ペットにとってはお金持ちの家で安楽に暮らせるのが一番。貧乏人はペットを飼うな、それがペットのためだ、と言われたら、なかなか反論できない。

「ゴヤの名画」の老人は、貧しい人もテレビを見るべき、という考えに迷いはなかったけれど、ジェームズは、やっぱり貧しい人はペットを飼わない方がいいのではないかという気持ちになる。でも、「ボブ猫2」の結論は、貧しい人でもペットを飼っていい、責任を持って飼っていれば、ということだ。ジェームズはボランティアの獣医にボブを診せたり、マイクロチップを埋めたりもしている。貧しい人がペットを飼うことを支援してくれる人たちがいるのだろう。

「ゴヤの名画」と「ボブ猫2」を見ると、イギリスでは貧しい人でも~していいんだ、ということを正々堂々と主張できるのだと思った。日本では、貧しい人は~するな、みたいな言説が多いように感じる。貧しい人は我慢すべきという考えがはびこっているように思う。

この2本に挟まれて見た「ガガーリン」は非常に芸術的で幻想的な作品で、ちょっと落差がありすぎたせいか、あまり乗れなかった。

公営住宅なので、住んでいる人たちは貧しい人たちのようだが、取り壊しになって住む場所がなくなるとかそういう問題はない。もっと社会性のある話かと思ったのだが、どうもそのあたりが抜けている。

主人公の少年は取り壊しになる団地にたてこもって、そこを宇宙船のように見立てている。月面歩行やライカ犬のモチーフもあって、まさに1960年代の宇宙開発なのだが、現代の少年がなぜそれを夢想するのかがイマイチよくわからない。私が住んでいる団地もガガーリンとかテレシコワとかの時代の建物なんだが、この映画のような感覚は、当時を知っている私でも持てないし、ピンと来ない。当時を知っているから余計に違和感があるのかもしれない。

入場者プレゼントで、4種類あるポストカードの内、ランダムで1枚もらえる。下の4種類の絵柄のようだが、配られるポストカードには細かい文字はなく、「ガガーリン」のタイトルと絵だけです。私がもらったのは右の絵のもの。4種類の中ではこれが一番好みなので、よかった。


2022年2月24日木曜日

「ドリームプラン」(+「ボブ猫2」)

 ヴィーナス&セリーナ・ウィリアムズ姉妹を育てた父親を描く「ドリームプラン」。


アカデミー賞作品賞候補にもなっているのだが、今ひとつ面白くない。

上映時間が長すぎるせいもあるが、映画として凡庸で、途中で飽きてくる。

魅力的なのは父親リチャードのキャラクターと教育方針で、姉妹が生まれる前からプランを練ってはいるが、子どもをテニスだけの人間にする気はない。勉強もしっかりさせるし、子ども時代は子どもらしくとも思っている。また、大会に出ることでつぶされる若い選手が多いことも知っていて、大会に出すことには消極的。ただより高いものはない、ということもよく知っている。この辺りは子ども時代の人種差別社会での経験から来るものとして描かれている。貧しい黒人社会の抱える問題も背景にちらりと出てくる。

リチャードには実は5人の娘がいて、上の3人はどうやら妻の連れ子らしい。けれども、実子と連れ子をまったく差別していない。連れ子たちには勉強で期待している。で、妻も夫に負けず優れた教育者のようだ。

リチャードと妻は貧しいが、優れた能力の持ち主で、こういう人から成功者の子どもが出てくる、というのはかつての日本にもあったが、今はなかなかむずかしい。その辺、アメリカは今でもあるのかどうかわからないが、そういう観点はなく、完全に昔ながらのアメリカン・ドリームで、古い。

原題の「キング・リチャード」は善の王、獅子心王リチャードと悪の王、リチャード三世を連想させる。全体としては獅子心王の方だと思うが、途中で行き過ぎて暴君的になるところはリチャード三世という感じ。

リチャードは心はまさに獅子で、娘たちも獅子の心を持っている。弱さがないわけで、このあたりが日本ではイマイチ共感を呼べない気がする。

というわけで、ちょっと期待はずれだったので、そのあと、またオンライン試写で「ボブという名の猫2」を見てしまった。

前作より落ちるし、前半が弱い、と思っていたのだが、いやいや、かなりうまくできている映画だな、と再認識。92分と短いのもいい。最初のロンドンの遠景で赤いバスが走っているところとか映画館では見えなかったが(最後列で遠かったからか)、パソコンの画面でははっきり見えた。後半はやっぱり涙。「愛情は数えきれないほど示しただろ」という主人公の友人のせりふがボブ亡き今、心にしみます。次は映画館で、前の方の席で見ます。

映画館でもらったオリジナルのポスターの絵葉書、ボブの顔が日本版ポスターと違うな、と思って比べてみたら、サンタの帽子だけでなくボブの顔自体を取り替えていることがわかった。オリジナルのサンタの帽子のボブの方がはるかにいい顔。

ネットで見つけたビジュアルです。


2022年2月23日水曜日

2022年2月22日はスーパー猫の日

 2022年2月22日は222×2ということで、スーパー猫の日。いろいろイベントがありました。

まずはにゃぽりのキャラで有名な日暮里駅。駅の中でいろいろ猫の店が出ています。



そして、2月25日公開の「ボブという名の猫2 幸せのギフト」のプレミア上映イベントが2月22日に。


オミクロン拡大中に新宿へ行くなんて命知らずな、と思いながら、ボブはもう死んじゃったので二度とこういうイベントはない、しかもスーパー猫の日は次は100年後(21220222)、200年後(22220222)。ということで、危険をおかして行くことに。

新宿といえば、東口に出現した巨大猫の立体動画が話題ですが、なんと、そこにボブ猫が!

公式サイトのツイッターからのスクショ。


動画はこちらで見られます。

2月25日公開🐈映画『ボブという名の猫2 幸せのギフト』さんはTwitterを使っています 「💥💥衝撃映像💥💥 ボブさん🐈が東京・新宿に・・・ と、飛び出す・・・⁉️ ぜひ実際見に行ってくださいね😸 #ボブ猫2 #ボブという名の猫 #新宿 #3D猫 #猫の日 #猫 #映画 https://t.co/5Hh7P9h95i」 / Twitter

スーパー猫の日ということで、こんなものも。新宿ピカデリーのイベントへ行くと見られませんが。

というところで、新宿に向かって出発しました。

東口を出て、早速例の巨大猫を鑑賞。現場で見ると飛び出して見えない、という話でしたが、確かにそう。


で、ボブ猫の動画が出ないかな、と思って待っていたのですが、なかなか出ない。10分くらいして、そろそろ映画館へ行かなければ、と動き始めたとき、テレビ東京のスーパー猫の日の番組の宣伝が。引き返したら、次に出たのがボブ猫2。あっという間に終わってしまったので、1枚しか撮れませんでしたが、携帯カメラのわりにはきれいに撮れた。


急いで映画館へ。久々の新宿は表通りはすっかり様変わりしていて、新宿ピカデリーってどこだっけ、と一瞬、迷いましたが、裏通りに入ったらそこは記憶どおりの風景で、すぐにわかりました。

エスカレーターを上がる途中にあった大きなポスター。


そして、入口にはボブのフィギュアが。携帯カメラだときれいに撮れない。デジカメ持ってくればよかった、と後悔しました。





映画の上映のあとに原作者ジェームズ・ボーエンがリモートでスクリーンに登場し、質問に答えるというイベントがあるのですが、会場で観客を指名してマイクを渡して、と言うことがコロナのせいでできないので、映画の前に質問がある人は紙に書いてスタッフに渡すという形に。これだと映画を見ての質問は無理なのが残念です。私は試写で見ていたけど、席についたのが開映ぎりぎりだったので、そういうことを考える余裕はありませんでした。

映画が終わって、マスコミの人たちが入場し(最前列はマスコミ用)、テレビ東京の人が司会をしてスクリーンにボーエン氏が登場。ソファの上に犬がいたんですが、途中でどこかへ行ってしまった。(写真撮影OKでした。)


どうやってハイタッチをするようになったかとか、ボブはちゅーるが好きだったとか、ボブの銅像のある公園の話などが出てきました。コロナが収束したらイギリスへ行き、ボブの銅像のある公園へという観客に対し、自分も東京に行きたい、とボーエン氏。ボーエン氏が猫だったら、とか、ボブが人間だったら、とかいう話も出ました。

ボーエン氏の後ろにボブの大きな写真があるのですが、この写真の上の方が映らないので、ボーエン氏が何度も映るようにしようとしていて、最後にやっとボブの顔が見えて、ツーショットになりました。ボーエン氏の音楽スタジオから中継ということだけれど、中継のためのスタッフとか特にいなかったのかな。


入場者プレゼントはクリスマス仕様のボブの絵葉書。クリスマスシーズンに公開された本国のポスターですね。日本ではクリスマス仕様の部分を消したビジュアルになっています。


パンフレットが先行販売されていましたが、880円もするのか。

この日は駅へ行く途中で猫に出会い、知らない猫なのに「ニャア」と鳴いてよびかけてきたので、まさにスーパー猫の日。急いでいたので、相手にしてあげられなかったけど。

試写を見た時の感想はこちら。

さーべる倶楽部: 「ボブという名の猫2 幸せのギフト」 (sabreclub4.blogspot.com)

2022年2月16日水曜日

消されたカーテンレールのことなど

 東京都美術館のフェルメールと17世紀オランダ絵画展、平日はほんと、チケット売れてないです。オンラインチケットサイト見ても、今日はいつでも買える状態。週末と来週の祝日の午前中が売り切れくらいで、来週の週末は朝イチからあり。当日券状況を知らせるツイッターも月曜からずっと買ってすぐ入れる状態のせいか、昨日から何時の当日券を発売していますのツイートがほとんどなくなってしまった。

まあ、ゴッホ展もチケット争奪戦になったのは最後の頃で、私が行った頃(始まって3週間くらいか?)はまだ当日券買って1時間後には入れた。それでも午後2時かそこらには売り切れてたので、今回はほんと売れてなさそう。

やっぱり、オミクロンが怖いのと、フェルメールが1枚だけなのと、キューピッドが出てきたのは見たくないって人がけっこういそう。

さて、その「窓辺で手紙を読む女」のカーテンレール問題ですが、公式サイトの修復前と修復後の写真。前者は今来ている複製画(カーテンレールがはっきり見える)とは違う、修復前の写真です。後者は今来ている本物の写真ですが、会場でもこれと同じ感じでカーテンの輪っかがかろうじて見える程度。



しかし、公式サイトにあった修復途中の写真ではカーテンレールがしっかり見える。


やはり、額縁の問題なのだろうが、でも、絵葉書などもカーテンレールが見えない写真なので、カーテンレールを消した方がいいという考えでもあるのだろうか。

消されたキューピッドに続き、消されたカーテンレール。謎は深まる(違う)。

今回はフェルメール以外をどの程度楽しめるかで満足度が違ってくるでしょう。通の人は面白いのだろうが、普通の人は物足りないかもしれない。帰るとき、「なんだか物足りない」「ゴッホの方がよかった」と話し合っていたシニア女性がいましたが、一般人の感想はこんな感じかと。

私も通ではないので、物足りなかった、ガツンと来る絵、何度も何度も前へ行ってみたい絵がほぼなかった。

17世紀オランダ絵画といえば、まだ20世紀のうちに静物画だけを集めた美術展があって、その印象が強いので、今回の静物画の展示もあまり面白くなかったです。あのとき見た静物画の方がよいものがたくさんあった気がする。

これとか、細かく見ると虫がいたりカタツムリがいたり、花瓶に窓が映っていたりするのだけど、前に見た方がいろいろクオリティが高かった気がする。花に虫がいたりという絵もあったけれど、もっとガツンと来る絵だった。


西洋美術館がいよいよ4月から再開、ル・コルビュジエの前庭が復活するのだけど、あそこの常設展にも魅力的な静物画があります。そして、フェルメールもあるのだ。


写真はいずれも公式サイトから(最後のは西洋美術館の公式サイト)。

2022年2月14日月曜日

フェルメールと17世紀オランダ絵画展

 2月14日月曜日はバレンタインデー。

オミクロン怖いと思いつつ、東京都美術館のフェルメールと17世紀オランダ絵画展へ行ってきました。

なんで月曜日開館しているのかというと、例の「窓辺で手紙を読む女」のキューピッドが復元されたので、バレンタインデーは開室となったのでした。

いやはや、あのでかいキューピッドが現れてすっかり俗っぽくなった「窓辺で手紙を読む女」ですが、バレンタインデー開室とか、ミッフィーのコラボグッズが人気とか、もう最初から俗っぽい世界だったのだわ。まあ、フェルメールの絵は風俗画だしね。これまで神秘的に見すぎていただけなのかもしれない。

というわけで、上野公園。


12時50分に都美術館に到着。



美術館に向かう人は少ない。当日券買ってるのは私だけ。12時50分に買ったのは12時半から1時までに入るチケットなので、荷物をロッカーに預けてすぐ入ります。バレンタインデーなので月曜開室はどうも知られてないらしく、今日は終日、当日券買ったらすぐ入る感じだったようです。中もすいてました。


フェルメールの死後に塗りつぶされたキューピッドの絵が復元された「窓辺で手紙を読む女」と、レンブラントの「若きサスキアの肖像」くらいしか目玉がないので、実はオンラインチケットも土日の朝イチ以外はまだ余裕ありのようです。

「窓辺で手紙を読む女」と復元の過程の展示をはさんで、17世紀オランダの画家の肖像画や風景画、版画などが並び、それなりに見ごたえはあるものの、全体に地味な感じ。「若きサスキアの肖像」が一番気に入ったかな。

フェルメールに興味を持ったのは1980年代にピーター・グリーナウェイの「ZOO」を見たときで、この映画がフェルメールの光に影響を受けたと知り、フェルメールの画集を買ってみたら、この「窓辺で手紙を読む女」が窓からの光が印象的で、一番記憶に残った絵だった。

その後、実物を見る機会がないまま時がすぎ、なんと、キューピッドのでっかい絵が真ん中上に現れたのを見るはめになったのだが、美術展では復元前の絵の複製画と復元後の本物が展示されていた。

で、復元前の絵の複製には上の方にカーテンレールが描いてあるのだが、今度の復元後の絵は額縁のせいか、カーテンレールが見えない。絵葉書は復元前と復元後の両方を売っていたけれど、絵葉書では復元前の絵もカーテンレールが見えない。このカーテンレールが今、謎になってるみたいなんだが。

それはともかく。キューピッドが現れたせいで絵の意味があまりにもわかりやすくなり、見る人の自由な想像とかが完全に断たれてしまったのだけど(つか、説明しすぎだろ)、それに加えて、見る人の視線が女性とキューピッドの両方に行ってしまうので、復元前のように窓からの光に照らされた女性に視線が集中しない。

つまり、私が最初に興味を抱いたフェルメールの光が減じられてしまった気がするのだ。

あと、キューピッドがでかいので絵がごちゃごちゃした感じになったな。

ただ、復元前の複製画を見ると、80年代からずっと頭の中で昇華されていた「窓辺で手紙を読む女」は実際はそんなに自分好みではなかったのかな、という気もする。

わりとすいていたので、「窓辺で手紙を読む女」の復元前の複製画と復元後の本物を何度も行ったり来たりして見比べた。他の絵も2巡して、特に気に入った「若きサスキアの肖像」は何度も戻って見たりした。どのくらいすいていたかというと、「窓辺で手紙を読む女」の前にいる人は10人いるかいないか。他の絵も、前に人がいない絵があちこちにあるので、次が混んでいたら誰もいない絵を見て、また戻ってくることができた。

ゴッホ展のチケット争奪戦がすごかったけれど、ゴッホ展に比べたらかなりすいている。目玉が少ないのと、コロナで行くのをためらっている人が多いのだと思う。

グッズ売り場もグッズの数が少なくて、すいていた。ミッフィー・コラボなどの人気グッズは始まってすぐに売り切れてしまったとか。次の入荷は2月末らしいので、それもあってすいているのかもしれない。

というわけで、1時間半ほどで美術館を出て、上野動物園を門から少しのぞく。


上野公園は花が咲き始めていた。





都美術館の裏側。こちらからは入れない。



展示作品リストとチラシと絵葉書。毎度のことなのだが、目玉以外で私が気に入った絵の絵葉書はないのだった。絵葉書の種類も少なかった。




2年前は都美術館でハマスホイ展をやっていたら、コロナで途中終了してしまった。終了前に2回見に行っていたからよかったけど、今度もいつ突然終了するかわからないし、そうでなくても終了間近になるとチケット争奪戦になって、その頃にやっぱり行きたいと思ったら困るので、まだすいていそうな今、行ったのでした。

バレンタインデーで開館なのに、上野公園のあたりは全然バレンタインデーの雰囲気はありませんでした。

2022年2月12日土曜日

40年ぶりの「ウェスト・サイド物語」

 昨日、「ウェスト・サイド・ストーリー」を見て、前記事を書き、そして日付が変わった深夜、どうしても旧作「ウェスト・サイド物語」で口直しがしたくて、DVDを見てしまった。


だいぶ前に買ったものだが、通して見たのは今回が初めて。大学の授業で何度か取り上げたときに一部のシーンを見せるのに使っただけだったのだ。

実は私はこれまで「ウェスト・サイド物語」は映画館でしか見たことがなかった。

始めて見たのは1969年。初公開時に1年以上のロングランをした丸の内ピカデリー(旧)でのリバイバル上映。初公開後の最初のリバイバルだった。

その後、日比谷スカラ座(旧)、テアトル東京などで何回か見た。映画鑑賞記録を見ると、最後に見たのは1981年11月、今はない渋谷東急。

数えてみたら全部で6回で、意外と少ないと思ったが、テアトル東京のみシネラマ、あとは全部70ミリで見ているはず。(当時は入れ替え制でなく、1日に2回見たりしていたので、7回以上の可能性が高い。)

その後、午前十時の映画祭などで上映されたが、見に行かなかった最大の理由は70ミリじゃないから。

映画館ですら70ミリじゃないので行かないのだから、ビデオやDVDなどで見るはずがない。映画館で見た映画をとことん劣化した状態で見るのは耐えられない。

最後に映画館で見てから40年あまり。劣化した状態のものを見るくらいならもう一生見なくてもいいと思っていたが、スピルバーグのリメイクにいろいろ疑問を感じたので、ついに見てしまった。

それにしても、三つ子の魂百まで、とはよく言ったもので、ずっと昔に見ただけなのにものすごくよく覚えている。英語の歌詞もばっちり覚えていて、リメイクで歌詞が変わっているところがことごとくわかってしまう。

そんなわけで、深夜にDVDを見ていたのですが、リメイクとほぼ同じ上映時間なのに旧作の方が全然テンポがいいので、短く感じる。もう、最初から完璧な出来栄えなんだが、その完璧が後半になるとさらに完璧な展開になり、こりゃどこをとっても新作は負けるわ、比べちゃあかん、とも思った。

いや、新作もいいところはいろいろあって、特に前半はこれはなかなかいいぞと思えたのだが、途中からだんだん疑問が多くなってきてしまった。特に「アイ・フィール・プリティ」と「サムウェア」の出し方は大いに疑問。決闘前のクインテットも今一つ。ただ、「あんな男に、私は愛している」だけは抜群にいい。

ラストも、旧作はジェット団、シャーク団の全員、それに刑事と警官も登場して、みんながマリアの姿に心を打たれる、という描写になっているが、新作はジェット団とシャーク団の一部だけしかその場にいない。つまり、新作では、これほどの犠牲を払っても一部の人の心にしか響かない、という現実を示しているのだろうが、でも、それが納得のいくような描写とも思えない。旧作の方が「ロミオとジュリエット」のラストに従っている。

「ウェスト・サイド物語」(舞台と映画の両方)には絵空事だとか甘いとかいう批判があるのだが、今回旧作を見たら、公民権運動の時代らしく、人種差別が強調されていた。新作は人種差別の要素は旧作より薄い。

絵空事といえば、「ロミオとジュリエット」とか、古いものはだいたい絵空事なんで、「ウェスト・サイド物語」もすでに古典だから、絵空事でどこが悪い、と私は思うのだが。スピルバーグの方は絵空事ではないとでもいうのかな。スピルバーグこそ、絵空事でも素晴らしい映画を作ってきた監督なのでは?

40年ぶり、DVDで見た「ウェスト・サイド物語」。映画館の記憶と比べるとやはりものすごく、ものすごーく、ものすごおおおおおおおおおおく劣化してました。

ポータブル・ブルーレイ・プレーヤーだから画面小さいし。

特に最初のマンハッタンを縦線で表した序曲の映像、70ミリで見たのに比べ、あまりに小さく、あまりに色が悪く、その劣化に打ちのめされたけれど、本編が始まったら、映像が劣化していても引き込まれてしまいました。経年劣化はしょうがないよね。記憶の中の最高の映像を忘れないようにしよう。

2022年2月11日金曜日

「ウェスト・サイド・ストーリー」

スピルバーグによるリメイク 「ウェスト・サイド・ストーリー」を見てきた。

70年代前半、映画雑誌「スクリーン」の姉妹誌「シネ・ストーリー」という雑誌があった。ほんの数年で廃刊になってしまったが、そこに読者の映画評というコーナーがあり、高校生だった私は3回、文章を掲載してもらった。

その「シネ・ストーリー」最後の号だったと思うが、そのときの読者の映画評に掲載された「ウェスト・サイド物語」評に大きな衝撃を受けた。

映画評の筆者はジョージ・チャキリス演じるベルナルドに注目し、彼がシャーク団やジェット団の若者たちとは根本的に異なっていることを論じていた。

いわく、他の若者たちは対立していても本当の意味で憎み合ってはおらず、決闘のための話し合いをしたり、握手をしたりする。しかし、ベルナルドは違う。握手を拒否する彼は白人たちに怒りと憎しみを感じている。妹のマリアと恋仲になったトニーに対する激しい怒りもそこから来ている、と。

中学生のときに初めて「ウェスト・サイド物語」を見て以来、リバイバルのたびに何度も見ているが、こういう発想はなかったので、非常に驚いた。目からうろこであった。

確かにベルナルドは他の若者たちとは違っている。眼光鋭く、どこか暗い表情をしている。プロローグで壁にこぶしを押し付けるシーンが印象的だ。彼は本気で怒っている。他の若者たちはそこまで怒りや憎しみにとらわれていない。彼らの行動はゲームのようで、決闘の取り決めや握手はゲームの規則なのだ。

「ウェスト・サイド物語」でジョージ・チャキリスが大人気になったのもうなずける。彼のベルナルドは映画の中で抜きんでた存在だった。

チャキリスは舞台ではジェット団のリフを演じたというが、この映画のリフは明るく陽気なラス・タンブリンである。彼のリフには暗いところはない。ジェット団とシャーク団の対立がある種、ゲームのようなのはこのリフの屈託のなさによる。憎しみと怒りを胸に秘めたベルナルドとは対照的な人物だ。このリフに代表される若者の無邪気さが、マリアに恋したトニーに怒りを燃やすベルナルドによって悲劇に変わる。無邪気さと無縁なベルナルドは真に悲劇的な人物だ。

こうしてみると、「ウェスト・サイド物語」を名作にした要因の1つがジョージ・チャキリスのベルナルドであることがわかる。


「ウェスト・サイド物語」から60年後、スティーヴン・スピルバーグ監督がリメイクした「ウェスト・サイド・ストーリー」では、ベルナルドとリフの人物造形がかなり異なっている。

旧作ではマリアと結婚する予定のチノはベルナルドの腹心の部下で、2人の関係は兄弟のようだった。チノがトニーを殺したいと思うのは、マリアを奪われた以上に、兄貴分のベルナルドを殺された怒りの方が大きいだろう。ベルナルドがマリアをチノと結婚させるのも、マリアを手放したくないという気持ちがあるのではないか。アニタという恋人がいるが、妹のマリアにもどこか近親相姦的な愛を抱いている、そうでないとトニーへの怒りが説明できない気がする。

スピルバーグの新作では、チノは夜学で勉強する実直な青年で、シャーク団に入りたいと言ってもベルナルドに断られる。妹を将来性のある堅気の男と結婚させたいと思うのは兄としては当然である。こちらのベルナルドには妹に対する近親相姦的な愛はない。そのため、マリアと恋仲になったトニーへの怒りも、旧作のベルナルドに比べると弱い。新作ではむしろ、怒りが高じると人を半殺しにしてしまう暴力性がトニーにあることが悲劇の一因になっている。

新作のベルナルドには旧作のようなダークな面、白人社会に対する怒りや憎しみがそれほどない。その理由の1つは、新作では移民してきたばかりのプエルトリコ系の若者たちには未来があるように描かれているからだ。チノは夜学で勉強して資格をとろうとしているし、ベルナルドもボクサーという職業があり、アニタは洋裁店を持つという夢がある。新参者だからこその未来への希望である。

一方、ジェット団の若者たちはヨーロッパからの移民の2世3世で、成功した移民たちはとっくにスラム街を出ている。開発のためにビルの取り壊しの進むこの地域に住んでいる白人は成功できず負け犬となったヨーロッパ移民の子どもたちなのだ。

新作のリフは旧作のベルナルドを思わせるダークな表情をしている。彼は家族に恵まれず、悲惨な少年時代を送ってきたらしい。リフだけでなく、ジェット団の他の若者たちも未来のないプア・ホワイトだ。

旧作では非白人のプエルトリコ移民の方が虐げられた人々のように描かれ、その怒りをベルナルドが体現していたのだが、新作では悲惨な立場にいるのはむしろ白人の方になっている。

ただ、新作ではダークな表情のリフは旧作のベルナルドのような際立った人物にはなっていない。悲惨な生い立ちが暗示されるだけで、それ以上のものはない。決闘で刺されたあと、「ロミオとジュリエット」のマキューシオのようにふるまうのも、それまでの描写から見て必然性がない。

リフが拳銃を手に入れるシーンは彼の狂気が感じられるところだが、それも一過性にすぎない。

旧作ではトニーとリフの間にホモソーシャルな男同士の関係があって、それがトニーが怒りのあまりベルナルドを殺してしまう理由になっているのだけれど、新作ではこういうホモソーシャルな男同士の関係とか、ベルナルドの妹への近親相姦的な愛とか、そういった人間の情念みたいなものが決定的に欠けている。ベルナルドを殺されたチノの怒りも旧作ではベルナルドとチノのホモソーシャルな関係があるのがある程度わかるのだが、新作ではベルナルドとチノの関係が淡白に見えるので、トニーを殺すほどの憎しみが今一つだ(シャーク団の他のメンバーは意外と冷静)。このあたりは人間の情念を描けないスピルバーグの弱点だろう。


「ウェスト・サイド物語」はもとの舞台と映画化では歌の順番が違うなどの相違がある。スピルバーグ版は舞台に従うという話だったが、実際はどちらとも違うようだ。

舞台では決闘のあとに歌われる「クラプキ巡査の悪口」が旧作映画では前半になり、かわりに決闘のあとには「クール」という新曲が挿入された。

新作映画では「クラプキ巡査」は決闘の前の警察署のシーンで歌われ、「クール」も決闘の前にトニーが中心になって歌う。旧作で印象的だった「クール」を歌うタッカー・スミスの演じたアイスは、新作では歌もなく非常に影が薄い人物になっている。

体育館のダンスでは、トニーとマリアは裏の方へ行ってダンスするのだが、ここでなぜか全身を映さない。ダンスシーンで全身を映さないって、スピルバーグはミュージカルがわかってないのだろうか? デイミアン・チャゼルだったら絶対、こんなことはない。

そして、旧作ではブライダルショップでトニーとマリアが結婚式のまねをして歌うシーンが、美術館の礼拝堂のような場所でのシーンに変わっている。旧作ではここでアニタが2人が恋仲になったことを知るのだが、新作ではこれがないので、決闘のあとに初めてアニタが知ることになるのだが、これもどうなのだろう。

また、旧作ではこのブライダルショップでマリアと女性たちが歌う「アイ・フィール・プリティ」が決闘のあとに変更され、まだ何も知らないマリアが勤め先の清掃係の仲間たちと歌うようになっている。決闘のあとに明るいシーンを入れているのだが、新作も旧作同様、決闘の最後に弔いの鐘を鳴らしているのに、そのあとにこの歌はないと思うのだが。

そして、きわめつけは、リタ・モレノが歌う「サムウェア」。トニーとマリアはこの歌をまったく歌わない。リタ・モレノは製作総指揮なんだが、だからって、うーむ。なんか違うだろ。


というわけで、開発のために町が破壊される冒頭のシーンからしばらくはよかったのだが、だんだん疑問を感じてしまった映画だった。

全体に、ダンスシーンが旧作ほどキレがないし、映像的にも旧作の方が魅力的だった。

マリアのレイチェル・ゼグラー、アニタのアリアナ・ディボーズは歌は抜群にうまく、全体的に歌は遜色ない。歌のハイライトと言うべき「あんな男に、私は愛している」は両者の歌唱力でみごとなシーンになっている。ただ、マリアが若者たちに怒りをぶつけるクライマックスからラストはナタリー・ウッドくらいの演技力がないと苦しい。


というわけで、スピルバーグなので無難にできているので、旧作に比べてひどい出来ということはないのだが、欠けているものの大きさも認識せざるを得ない出来栄えだった。

IMAXで見たのだけど、年配のシングル客がほとんどだった。若い人は吹替えを見るのだろうか。

2022年2月10日木曜日

「ボブという名の猫2 幸せのギフト」

 映画「ボブという名の猫」の猫ボブが2020年6月に亡くなったことはニュースで知っていましたが、続編「ボブという名の猫2 幸せのギフト」の試写を見せていただいたあとで、ボブの死についてネットで検索したら、なんと、交通事故死、それもひき逃げと知ってショックを受けています。

映画では外に出すときは常にリードをつけていたので、放し飼いにしているとは思わなかったので。(追記参照)

ボブを愛する人たちのブログなどに書かれていたのですが、飼い主のジェームズは現在はロンドンではなく、郊外のサリー州に住んでいるのだそうです。日本では猫は完全室内飼いで外には出さないのが常識、と思われていますが、それは都会の話で、今でも田舎では放し飼いが普通だとも聞きます。そんなわけで、ロンドンにいた頃はリードをつけていたけど、郊外に引っ越して放し飼いになったのかもしれません。うーん、でも、ロンドンが舞台の第1作でもボブがいなくなるエピソードがありましたね。(追記参照 実際は放し飼いではなかったようです。)


「ボブ猫2」はベストセラー作家になったジェームズがかつての自分のような暮らしをしている若者を助け、自分の過去の話を聞かせる、という内容で、ビッグ・イシューを売ったりストリートミュージシャンをやったりしてなんとか生活しているジェームズが、動物福祉局の人たちからボブを取り上げられそうになる話です。ちょうどクリスマスの時期が舞台で、クリスマスのための映画となっています。

お金がないので電気ガスはしょちゅう止められ、ボブに寒い思いをさせたり、病気になっても助けてやれない自分は、動物福祉局の人たちが言うようにボブを手放した方がいいのではないか、と悩みます。

その間、子どもを失った商店主から重荷を背負う3人の巡礼の話を聞いたり(この話が実によい)、ビッグ・イシューを売って生活している男が長らく会えていない娘をなつかしがる話を聞いたりして、大事な人、ジェームズにとっては猫のボブをケアすることで自分が成長することを再認識します。

ちょっとできすぎなくらいよい話なのですが、相変わらずボブはかわいいし、そのボブとジェームズを周囲の人たちが応援している様子もなごみます。

私自身、霊園の地域猫と知り合って、その猫たちと会うことが人生の励みになるみたいなところがあります。昨年、八柱霊園で親しかった猫が、高齢で冬を乗り越えられないと判断したボランティアに引き取られ、以来、会えなくなって寂しいけれど、でも、猫にとってはこれでよかったのだ、という気持ちをまだひきずっているので、映画を見ながら涙ぐんだりしてしまいました。

谷中霊園の方ではもう15年近く前から猫たちと知り合っているので、この間、老衰や病気そして交通事故で猫が亡くなることが何度もあって、いなくなった猫たちのことを時々思い出したりします。そして、今知り合っている猫たちも、いつかはいなくなるのだと。

「ボブ猫」第1作は試写状いただきながら試写室には行かず、シネコンで見ましたが、今度の続編は早く見たくて、オンライン試写で見せていただきました。でも、またシネコン行ってしまうかな。


追記

その後わかったのですが、ジェームズ・ボーエンはボブを放し飼いにしていたのではなく、敷地の周囲に高いフェンスを張り巡らせていたのに、ボブが天窓を押し開けて屋根伝いに外に出てしまったのだとのこと。そして、半マイルも離れたところで交通事故にあってしまったのだとか。

普段から外に出ていたのではないため、事故にあってしまった、とも考えられますし、そんな遠くまで行ってしまうとは、やはり野良の本能がそうさせたのでしょうか。

「ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ」

 明日から公開の「ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ」を試写で拝見。

原作のノンフィクション「麻薬と人間」も図書館から借りてきた。借りてきたばかりでまだ読んでいないけれど、第1章が「アメリカvs.ビリー・ホリデイ」で、特定の人々への迫害や弾圧の口実として麻薬が使われた、という話らしい。


映画はロッテントマトでの評論家の点数がかなり悪かったので、期待はあまりしていなかったが、確かに映画としては不満な出来。

主演のアンドラ・デイは熱演しているけれど、脚本と演出がまずいので、彼女の演じるビリー・ホリデイの生涯がドラマとして引き立たない。

彼女を逮捕する黒人麻薬捜査官ジミーは、黒人を麻薬から救いたいという思いから記者を装って彼女に近づくのだが、その後、考えを改め、彼女の味方になる。が、どうも存在感が薄い。

そしてビリーの敵、麻薬捜査局長アンスリンガーは、彼がどういう信念で執拗にビリーを逮捕しようとしたのか、その心理も政治的社会的背景もまったく描かれないので、単なる敵役にしかなっていない。

ビリーの歌う「奇妙な果実」が公民権運動を巻き起こすのを防ごうとしたようだが、アンスリンガーと警官たちがビリーがこの歌を歌うのを断固妨害して歌えなくするシーンや彼女を罠にかけて逮捕しようとするシーンが時々ある程度で、タイトルのような国家権力対ビリーのような印象はそれほどない。アンスリンガーの描写が不足していて小者にしか見えないのもその原因だが。

逆に印象に残るのは、ホテルのエレベーターに乗ろうとしたビリーが黒人のエレベーターボーイに拒否されるシーンや、南部でリンチされ木に吊るされた黒人の姿を見て「奇妙な果実」を歌うシーンだ。後者はダイアナ・ロス主演の「ビリー・ホリデイ物語」でも印象的だったが、暗い雰囲気の描写だった「ビリー・ホリデイ物語」に比べ、こちらは日の当たる明るいシーンに子どもの悲痛な叫び声が聞こえるという効果的な描写になっている。

一方、エレベーターボーイに拒否されるシーンでは、ビリーはボーイを激しくなじるが、ボーイは自分の仕事と立場を守るためにやむなくやっていることがわかる。他の黒人たちの描写も、ビリーのヒモのようなあくどい男や、ビリーの仲間たちなど、非常に人間臭く描かれている。やはり、実在の人物であるジミーとアンスリンガーの描写に相当の遠慮が働いてしまったのだろう。この2人の描写がとにかく弱いのだ。