2017年7月29日土曜日

花火の音

今日は第40回隅田川花火大会。雨にもかかわらず決行しています。
で、自宅の窓の外から今、花火の音が聞こえるんですが。
ディズニーランドでおなじみ浦安の花火大会もやっているのだけど、どっちも近くない。
うーん、去年は隅田川の花火は江戸川の土手から見ました。




去年もアップした写真なんですが。
この土手まで、自宅から5キロはあります。そこから隅田川会場まではもっともっとあるはず。
浦安は方向少し違いますが、隅田川より少し遠い。
空が曇っているから遠くまで音が聞こえるのかもしれません。
ツイッターに、練馬区からも聞こえると書いてあったので、うちは練馬よりは近いから、隅田川の花火の音なんでしょう。けっこう遠くまで聞こえるものなのですね。

2017年7月27日木曜日

「君の名は。」の奥寺と司は結婚したのか?

答えはイエス。
理由は、エピローグのシーンで2人とも結婚指輪をしているから。
ただし、誰と結婚したのかは不明。
ここで問題になるのが、奥寺と司が結婚したのか、あるいは、それぞれ別の人と結婚したのか。

まずその前に、新海監督はパンフレット第2弾で、ファンから「奥寺と司は結婚したのですか」と聞かれ、2人は婚約しているという裏設定がある、と答えている。
どうも新海監督は勘違いしているのではないかと思うのだが、2人が指にはめているのは結婚指輪で、婚約指輪ではない。
婚約指輪というのは、男が女に贈るダイヤの指輪のこと。昔、映画館では、「婚約指輪は給料の3か月分」という宝石屋のCMが必ずかかっていた。
さっき調べてみたら、婚約指輪の相場は20万から40万円とのこと。私が大学生くらいの頃は初任給10万円くらいだったから、値段は上がってないのだね。
こんな値段のダイヤの指輪をはめて外出とかしないよね、普通。
だから2人は完全に結婚している、入籍してるのである。

では誰と?

先日発売のコレクターズ・エディションにはアフレコ用の台本がついていて、それによると、就活中の瀧が司や高木と喫茶店にいるシーンで、司が見ているスマホの相手が奥寺であり、(二人はつきあっている)とかっこつきで書かれている。
しかし、映画では司のスマホの相手が奥寺だという描写はまったくない。
だから裏設定なわけで、新海監督はこのことを表に出すつもりがまったくなかったのだ。
もしもこの場面が映画にあれば、観客は奥寺と司がカップルになっていて、瀧もそのことは前から知っていて、今は奥寺には友人としての気持ちしかないので、2人が結婚しても平気だし、奥寺とちょっと散歩するくらいなら別にやましいところもないのだとわかる。
逆に、実際の映画のように、この場面がなければ、奥寺と司はそれぞれ別の人と結婚したのであり、瀧と奥寺が会うのも奥寺がたまたま近くに来たからで十分なのだ。
もしも「君の名は。」があれほどのヒットにならなければ、パンフレット第2弾は発売されず、裏設定を新海が語ることもなく、そして台本も公にされなかっただろう。
内部の人間だけが知る裏設定が表に出てしまい、ファンが動揺したり、いろいろ想像したりしてしまう、という結果になったのだ(ごく一部の熱心なファンだけだが)。
なお、台本には司の指に指輪があるということは書いていない。
奥寺の指輪はかなり強調されているが、ここでも台本は「婚約指輪」になっていて、新海監督、かなり勘違いしてますね。

結論を言えば、裏設定はあくまで裏設定なのであって、表に引っ張り出すべきではないだろう。
むしろ、ここで重要なのは、卒業、就職、結婚が子供時代からの卒業、大人時代の始まりとして描かれていることだ(非常に古典的な考え方だけど)。
大学卒業を控え、司と高木は就職内定をもらい、司は結婚もし、奥寺も結婚している。その上、三葉の友人、テッシーとさやかも結婚の準備をしている。瀧だけが子供時代を卒業できない、それを描いているのだ。

奥寺と司が仲良くなるのは瀧と飛騨へ行ったときで、ここの奥寺と司のシーンが瀧と奥寺のデートシーンと対比されている。
三葉が設定した奥寺とのデートで、瀧は緊張してしまい、ろくに会話もできない。別れ際に奥寺から、今は別の人が好きでしょう、と言われ、そこで初めて三葉を異性として意識するようになる。
この時点で瀧の心は三葉に移り、奥寺に対する恋愛感情(恋というよりはあこがれに近い)はなくなり、だから飛騨で奥寺と司が仲良くしていても「邪魔だなあ」と思うだけなのだ。
ここで仲良くなった奥寺と司がその後交際を始め、結婚した、という可能性はある。これが裏設定。
瀧と奥寺のデートと司と奥寺の飛騨シーンを対比させたのは、思春期の恋愛と大人の恋愛を対比させるために違いない。思春期の恋愛は誤解のようなもので、だから瀧はデートがうまくいかない。瀧にとって奥寺は女神のような存在で、彼女を崇めている。しかし、司と奥寺は互いを対等の人間として見て、自然につきあっている。飛騨の段階ではまだ恋ではないが、大人の恋愛はこのようにして始まる、と新海誠は考えているのだろう。
だから、司と奥寺が結婚することは意味があったのだが、これを入れてしまうと話が重くなる。町長が三葉に説得されたことがはっきりわかるシーンを入れると重くなるのと同じように。

結末について、新海監督は、瀧と三葉が出会ったところで2人の思春期は終わり、ここからは大人の男女として出会う、その先のことは見る人の想像に任せる、というようなことをパンフで語っていた。上に書いた、奥寺を媒介とする思春期の恋愛と大人の恋愛の対比がまさにこれなのだ。
そう考えると、奥寺と司の結婚という裏設定は重要に見えるが、同じことを重ねて描写するのはしつこいとも言える。だから裏設定にして、それぞれ別の人と結婚したように見える方が映画全体としては重くならずにすむ。テーマの押しつけがましさもなくなる。

こうしてみると、「君の名は。」の成功は、押しつけがましくなるものをすべて抑制したところにあるのだろう。東日本大震災から発想したということも、新海監督はかなりあとまで隠していた。この抑制が、映画を批判的に見る人には軽いと感じさせていたが(私も最初はそういう面があった)、実際はこの抑制に奥深さがあったので、それが観客の心に押しつけがましくない形で浸透し、多くの人を感動させたのだろう。

2017年7月25日火曜日

「君の名は。」ディスク

「君の名は。」のブルーレイとDVDが26日発売のところ、店頭には今日25日に並んでいるとのこと。
私はオムニセブンでコレクターズ・エディションとDVDを予約していましたが、セブンイレブンに今朝届いていました。
いい年して、と思われるかもしれないけど、たぶん、日本中で同じことしてる人が多数いるのでは?
写真を撮って見せびらかすことです。

DVDのケースを開いたところ。映画にはないシーンですが、非常に有名な絵。

コレクターズ・エディションの箱の裏側とそこについている紙、DVDのケース。

左がコレクターズ・エディション(左がディスクのケース、右が台本とブックレット)。DVDケースの裏側。そして初回特典のフィルムしおり。

まさかこの年でこういうものが欲しくなるとは。DVDについていたフィルムしおりは四葉。

コレクターズについていたフィルムしおりは三葉が顔にアホと書いているシーン。バックはコレクターズのボックス。

左がブックレット{パンフレットとの重複が多いようだ)、右が台本。台本はちらっと見たところ、完成映画の採録ではなく、実際の映画と違うところがわりとすぐに目についた。

ブックレットの裏表紙と、ミニキャラシール。DVDとコレクターズの両方についている。

コレクターズのディスクの入ったケースをまず開くと、こんな絵が。

さらに開くと、4Kディスク1枚とブルーレイ4枚が入っている。



ディスクケースを裏返したところ。

4Kどころかブルーレイプレーヤーも持ってないので、さしあたってはDVDを見ます。
でも、映画館のような輝きは失われているだろうな。

追記
 DVD見ました。うちのテレビ(アナログ時代のものなので今はテレビは見れない)は画面が小さいので、映画館でははっきり見えた小さい文字がつぶれて見えない。色彩が映画館とは違う場面もあって気になる。と、やっぱり映画館で見たい、と思ってしまいます。
 歌が英語バージョンのを見たのですが、私のリスニング力ではあまり英語の歌詞が聞き取れませんでした。それでも。英語の歌詞が曲に合っていないのでは、という感じがひどくしました。最後の「なんでもないや」だけはわりと合っています。
 もともとこの映画の歌は日本語の歌詞も曲に合っていないところが多く、曲が先で無理に歌詞をあてはめたのかな、と思ってしまうほどなのですが、それでも「なんでもないや」だけは歌詞が曲にぴったり合っていました。

2017年7月24日月曜日

アボタコ

ネットで話題になっていたアボタコを作ってみた。
うーん、できあがりの見かけが悪いので写真は撮らず。
アボカドとタコを一口大に切って器に入れるだけの料理なんですがね。
普通はわさび醤油をかけるらしいけど、ゆず胡椒でもいいと書いてあったので、うちの冷蔵庫にゆず胡椒のチューブがあったのを思い出し、それにしてみました。
アボカドのやわらかさとタコのプリプリ感がよいですが、ネットで騒ぐほどの料理か?

いや、それよりもなによりも、私にとって重大なのは、アボカドを口にしたのが人生でこれが2度目だということ。
最初ははるか昔、ウェンディーズにサラダバーがあったころ、っていったらもう数十年前ですが、銀座通りに当時あったウェンディーズでサラダバーにアボカドのスライスがあるのを見て、思わずたくさんお皿にのせてしまったのです。
が、食べてみたら、味がないのにべちょっとして気持ち悪い。しかもたくさんとってしまったので、全部食べたらおなかも気持ち悪くなってしまったのです。
で、以来、アボカドは嫌い、食べない、という具合に数十年がたってしまいました。
あの銀座通りのウェンディーズでアボカドを食べたときは、アボカドはまったく知名度のない食材でしたが、時がたち、いまやアボカド大人気の模様。
どうも日本ではわさび醤油のような和風の辛いもので食べるのが主流のようです。
確かにゆず胡椒で食べたらけっこういけました。
アボカドは切るのがむずかしい、ともネットには書いてありましたが、色と手触りでサラダにちょうどいいやわらかさのものを選んだので、皮をむくのも種を取るのもまったく簡単でした。
あとはまあ、刺身用のタコがけっこうお値段高いので、今回のアボタコは450円くらいかかってしまいました。
タコのかわりにサラダチキンでもよさそう。
そんなわけで、二度と食べないと思ったアボカドを、数十年後についにまた食べたというお話。

2017年7月23日日曜日

郵便局が悲惨

今の町に引っ越して2年近くになりますが、国保料が単身者だけ異様に高い(全国平均より上)のをのぞけば満足な環境です。
が、時々、やっぱり田舎なのね、と思ってしまうことも。
まず、郵便局が使えない。
今住んでいるところはJRのターミナル駅から私鉄で10分。ターミナル駅が中心部だとすると、ちょっと奥地です。
で、ここをカバーする郵便局の本局がさらに奥地。そっちに行く用などないので、書留などは地元の郵便局か、ターミナル駅近くのもう1つの本局で受け取ることに。
が、地元の郵便局は午後5時まで。土日は開いていない。
なので、ターミナル駅近くの本局で受け取ることにしていたら、なんと、日曜日の午後4時に行ったらもう閉まっている。
なんと、書留などを受け取れる窓口は平日と土曜が午後8時まで、日曜は午後3時まで。
「ここは24時間営業ではありません」と大きく書いてありました。
もう1つの奥地の局は24時間営業です。おそらくそっちの方が大きいのでしょう。
それで日曜日は避けて、土曜の午後にいそいそとターミナル駅近くの本局へ。
が、窓口のおっさんが全然わかってない。
どうも入ったばかりの新入りのようです。
もう全然わかってないので、いちいち私はああだこうだと教える。それでもわからないので、だんだん声が荒くなってくる。久々にキレる中高年やってしまったよ。
(いや、久々というのは嘘で、数日前にもやってしまった。某大学で前期の試験をしたとき、早く終わった学生は答案を提出して退室することになっているのだが、その中の1人が答案を出したあとも教室に居続け、スマホをやりだした。そこで、外へ出るようにと言ったら、なんで出ないといけないのかと口答えするので、キレてしまいました。長年講師しているけど、答案出したあと、まだほかの人が試験を受けているのにそのままスマホなんて学生は初めでで、ましてや注意されて逆らう学生も初めて。この大学、少し前から質の低下が気になっていたが、ここまで来ると没落一直線かも。)
郵便局の窓口のおっさんは定年後くらいの年齢で、おそらく自分で郵便局に郵便を取りに行くなどの経験がなかったのだろう。新入りとはいえ、経験があればもっと対処できるはずで、社会経験が乏しいのではないかと思った。が、それ以上に教えてない上司がどうかと思う。何もわかってない人が書留を扱っているんですよ。
実は地元の局も窓口に出るおばさん(やっぱりシニアくらいの年齢)が素人っぽくて、こういう人が書留扱って大丈夫か、と思ったのでターミナル駅近くにした、というのもあるんだけど、この町の郵便局はもしかしてヤバイのかも。今後は都内の郵便局で受け取ることを真剣に考えています。
それとは関係ないけど、うちの近所は私鉄の駅前のポストはさすがに平日は2回収集に来るけど、道路の途中にあるようなポストは平日でも1回しか収集に来ないのです。んなわけで、郵便物も急ぐのはターミナル駅の近くか都内で投函しています(田舎なんですね、のんびり)。
なんかもう、「コンビニは9時に閉まるし、そのくせスナックは2軒もあるし」の「君の名は。」みたいな気分になってくるけど、コンビニはもちろん24時間営業です。また、スーパーは24時間営業や午後11時までが多く、コンビニはあまり利用しません。なのに、至近距離にセブンイレブンが3軒もあるという。
でもって、たまにコンビニ利用すると、店員がやっぱり新入りで、トラブルのですね。
スーパーの方はベテランっぽい人ばかりで、たぶん時給も都内並みなんだろうな、と思いますが、コンビニは時給が安いので次々やめていくのだろうか(だって、川向こうが都内なんだもの)。
やっぱり最低時給は全国一律で、そしてもっと高くしないと、働く方もだめになっちゃうと思うのですが。
来週はセブンイレブンに通販のものを取りに行くので、ちょいと心配なのです(前にローソンでアマゾンのものを取りに行ったときが大変だったので)。

2017年7月21日金曜日

水曜日のリベンジ

水曜日に続いて木曜日も行ってしまった川崎チネチッタ。
木曜は神奈川県で仕事なので、帰る途中で寄れるのですが。
水曜のチネチッタでの「君の名は。」はなんとなく場内が落ち着かなくて集中できなかったので、急遽木曜も行くことにした。
チネチッタで見る「君の名は。」はこれで4回目だが、2回目だけスクリーン9、あとはすべてスクリーン3。で、1回目のスクリーン3のときは少し前すぎるかなと思って3回目(この前の水曜)は1列後ろにしたら、なんだかまわりに人が多くてそれも落ち着かない理由だった。で、4回目の今回はまた1回目のときの列にしたら、1列違うだけで全然人がいない。というのもチネチッタの座席はいくつかのブロックに分かれていて、1列違うとブロックが違う。1つ前の列のブロックはほとんど予約されていないのだ。
それだけでなく、やはり木曜の方が客席が断然静かだった。振り向いたらけっこう人は入っていたのに。客層がやはりレディスデーとは違う雰囲気。
画面も1列前の方が私には見やすかったので、とりあえず水曜のリベンジは成功。

で、今回気づいたこと(もう21回目なのにまだ新しい気づきがある)。
前前前世のところで、瀧と三葉がお互いに禁止事項を伝えるシーンで、瀧が三葉に「司となれなれしくするな」みたいなことを書いていた。
そういえば、司は三葉の入った瀧のことを「かわいかった」と言っていた。
三葉は最初は司に惹かれたのだろうか。
確かに瀧、司、高木の3人の中では司が一番女性好みっぽい。
そうなると、5年後に司と奥寺先輩が結婚している、というのもなんとなくわかる。
瀧は奥寺先輩、三葉は司に惹かれたが、その後、瀧と三葉が相思相愛になり、司と奥寺が相思相愛になる、という、2組のカップルによくあるパターン。
まあ、前にも書いたと思うけど、エピローグの部分でテッシーとサヤカが結婚するのははっきり描かれているが、司と奥寺がそれぞれ別のシーンで結婚指輪をしている程度では2人が結婚しているという証拠にはならない。あとはせいぜい、糸守から司と奥寺が一緒に帰ったということがあるけど、これも証拠とはいえない。
新海誠としては、そういう可能性も含めながら、司と奥寺については見る人の解釈に任せる、ということなのだろう。
私としては、司と結婚しているなら、司抜きで奥寺と瀧が会うのがやはり不自然な気がするのだけど。
エピローグでは三葉の同級生たちがどこかの町で社会人になっている様子が描かれ、四葉が高校生になっているシーンもあるが、父親と祖母がどうなったのかが気になる。父親は政治家をやめて民俗学者に戻り、研究のかたわら、一葉とともに宮水神社の伝統を残す仕事をしているのかもしれない。

2017年7月20日木曜日

「パターソン」(ネタバレあり)+1

水曜日は久々の試写。
ジム・ジャームッシュの新作「パターソン」を見る。
ニュージャージー州パターソンに住むバス運転手で詩作を趣味とするパターソン(アダム・ドライバー)。ローラという名の妻と愛に満ちた生活をしている。
その彼の月曜から日曜までの1週間を描く映画。
テーマは詩作で、もともとパターソンはウィリアム・カーロス・ウィリアムズやアレン・ギンズバーグが住んでいた町。ウィリアムズには「パターソン」という詩集もある。
パターソンはノートに詩を書いているが、パソコンもスマホもやらない彼の詩が失われることを恐れる妻がコピーを取るようにすすめる。が、コピーを取る前に悲劇が。。。
キーになるのは夫妻の愛犬。カンヌ映画祭でパルムドッグ賞を受賞するも、受賞前に亡くなってしまったとか。映画はこの犬に捧げられている。
この犬、毎日夜にパターソンが散歩に連れていき、その途中で犬を外につないでパターソンはバーでいろいろな人に会う。バスの中でもいろいろな人に遭遇する。なぜか双子が何組も登場する。双子の姉を持つ少女が自分の詩を暗唱するが、なかなかすばらしい詩。
で、そのキーになる犬なのだけど、パターソンが毎日帰宅するとなぜか郵便受けの支柱が傾いていて、実は(以下ネタバレになるので自粛)。
この犬がパターソンに対してどんな感情を抱いているのか、ちょっと考えさせられます。
(自粛とか言いながら、なんとなくネタバレしてしまっているような)
妻のローラはペトラルカのソネットに登場するラウラという女性の話をする。ラウラはローラとつづりが同じ。ローラのイタリア読み。ペトラルカのラウラはダンテのペアトリーチェと同じで、詩人を導く女性。妻のローラは詩人パターソンを導く女性なのだ。それを邪魔する犬?(ダンテは映画の初めの方に絵で登場する)。
土曜日に詩のノートの悲劇が起こり、その翌日、日曜日にパターソンは日本人の詩人と出会う。「ミステリー・トレイン」以来27年ぶりのジャームッシュ映画出演の永瀬正敏。ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの「パタースン」の翻訳書を手にしている。せっかく大きな日本語で「パタースン」と書いてあるのだから、映画のタイトルも「パタースン」にしてほしかった。
パターソンというのは、パターが父親を連想させる言葉で、ソンが息子。父と息子が共存しているような名前だ。
ふたたび詩作を始めるパターソン。新たに書かれた「ザ・ライン」という詩はすばらしい。
映画で使われた詩はロン・パジェットという詩人が提供したものだそうだ。手書き文字が画面に浮かび、パターソンの声がそこにかぶさるシーンが何度も出てくるが、詩作の本質のようなものが垣間見えたような気がした。

と、非常にしんみりする映画なのだが、エンドクレジットが始まった途端、最前列ど真ん中の男がいきなりスマホの画面を全開にして強烈な光を発した。
最前列ど真ん中だから試写室にいる全員に見えただろう。
エンドクレジット見ないでスマホ見るならさっさと帰ればいいのに、と思っていたら、注意した男性がいて、さすがにスマホをしまったが、普通の映画館でもめったに見ない光景だった。
そういえば、試写の前にあいさつする人がスマホや携帯についての注意をしなかった。試写に来て、しかも最前列中央をとるような人なら早くから試写室の入口に並ぶような試写会なれした人だろうと思うのだが、この人はいったいなんだったのだろう。
このところシネコンや映画館ばかりで、試写はあまり行かなくなり、最近は喉がおかしかったこともあって、本当に久々の試写だったのだけど、ちょっと行かない間に試写室もマナーが悪くなったのだろうか。

そのあとはこちらも久々の「君の名は。」を見に川崎チネチッタへ。
チネチッタは3回目だったが、レディスデーのせいかどうか知らないけど、なんだかこれまでになく雰囲気がよくないというか、特に始まったばかりの頃はなんとなくざわついていて集中できなかった。後のやつも座席蹴るし。
そんなわけで、これが20回目の「君の名は。」だったけれど、今までで一番落ち着かなかった。
思えばレディスデーでこの映画を見たのはこれが2度目で、最初は3月の「君の名は。」展へ行く直前。去年始まったばかりの頃に初めて見て、その後いろいろ考え続け、しだいに自分の中で映画が理想化されていってしまい、2度目を見たらやっぱりたいしたことなかった、とわかるのが怖くてなかなか2度目を見れなかったのだけど、その展覧会のために直前のレディスデーに行って見た。でも、このときは別に問題なかったけどなあ。
というか、このとき、映画が自分の理想化よりさらにすばらしいことがわかり、ついにリピーターになったので、雰囲気はよかったのだろうと思う。
来週はDVDなどのディスクも発売され、私もブルーレイのプレーヤーもないのにコレクターズ・エディションとDVDの両方を予約してしまったのだけど、手に入ったらとりあえずDVDを見るだろうから、その前にもう一度映画館で見たいと思って行ったのだったが。。。
映画館の方は、キネマ旬報シアターで今週末から上映。来週末からは新海誠の過去作も上映されるので、こちらでもまた見ると思うけれど、その前に音響のよいチネチッタでもう一度と思ったのだ。ただ、チネチッタは音はいいけど、画面は少し暗いと気づいた。なかなか理想の環境はないものです。

2017年7月12日水曜日

梅雨はどこへ?

うー、梅雨はどこへ行った?と言いたくなる毎日。
暑いし、空は真っ青だし、こういうときは海へ行きたいが、引越して海が遠くなってしまった。
で、涼でもとってください、と、数年前に江の島へ行ったときの写真を。




4月だったので、生シラスがあったのだよね。ああ、また食べたい。

というわけで、ずっと更新してなかったのは単に話題がなかったから。
映画は「セールスマン」以来見てないし、鳥や花の写真も撮りに行ってないし。
先月はずっと喉の具合が悪くて、そのせいで体調も悪くて、あまり活動できなかった。
今月に入ってようやく喉が以前よりはよくなってきたけれど、なんか疲れちゃって、火曜日は風にあたりながら一日寝ていた。
図書館から3冊、本を借りているのだけれど、うーん、なんか面白くない。
ミュージカルの歴史についての本だけれど、もともと知識があったからさほど新しい発見もないし、個別のミュージカルは知っているものは別に解説してもらわなくてもいいし、知らないものは文字で読んでもイマイチ、ピンと来ない。
1冊はアラン・J・ラーナーの書いた本で、あと2冊は日本人の書いたものだけど、こういうのって、日本人の場合、どうしても、自分がいかにミュージカルをブロードウェイの劇場で見ているかの自慢が入ってくるのだね。
文学や映画と違って、演劇は外国のものは現地でオリジナルを見られる人が断然有利で、それができない人はシェイクスピアのテキストと格闘するくらいしかできないのはわかるので(いや、それだって、イギリスでしょっちゅうジツブツを見てる人の勝ちか)、結局お金のある人が有利なんだよね、という、貧乏人の僻みになってしまうのだ。
そして、今読んでいる3冊目の本は、英文学の大御所の書いた本なのだが、ミュージカルは文学である、それ以外のものはミュージカルではない、みたいな書き方が非常に鼻につく。それって、あなたの個人的見解にすぎないのでは? 実際、個人的見解以外の立証がないし。
その上、この人、まあ、年から考えたらしかたないのかもしらんが、無意識の女性差別がある。
「アニーよ、銃をとれ」で最後のアニーが恋人のためにわざと負けるのをいろいろ弁護しているが、実際はアニーが勝っているとしても、女は勝っていても男のためにわざと負けるべき、という刷り込み自体が問題なのがわかってない。(この本が20世紀に書かれたのなら、まあ、時代が古いからね、と思えるが、10年くらい前に出た本なのである。)
そして、「マイ・フェア・レディ」。実は私はこのミュージカル、まあまあ好きな方ではあるけど、なにか好きになれないところがあったのだが、この著者によると、このミュージカルはイライザとヒギンズの両方が成長するのだという。イライザの成長はわかるが、ヒギンズが? ヒギンズはそれまで女性を馬鹿にしていたが、イライザが成長して自分と対等に議論できるまでになったことで、女性蔑視をしない男に成長するというんだけど、そうだっけ?
「イライザ、僕のスリッパはどこ?」って、結局イライザに母親を求めているんじゃん、と私はずっと思っていた。
そう、私はヒギンズが最後まで嫌いだったのだ。
「ピグマリオン」の結末の方が正しいのだろうと思う。
この英文学の大御所の本がとにかくこういう感じなので、読むのが苦痛なのだが、ここまで来たら最後まで読むしかないというか、評論とか研究とかしていると、腹が立つ文章でも参考資料として読まなければならない場合が多いのだということを久しぶりに感じている。