2011年8月28日日曜日

隅田川花火大会

 上はうちのマンションの屋上から見えるスカイツリーです。ズームしてますので、肉眼だともっと小さいです。プライバシーの関係で、周囲の建物が写らないようにしているのですが、ここに決めて、引越前に屋上に上がったとき、スカイツリーが見えたので、こりゃ、今年は隅田川の花火大会がここから見えるかな、と大期待。
 しかし、残念ながら、2つの会場のうち1つの方は、某大学の建物(たぶん)のせいでほとんど見えず。煙とそれを照らす光と、たまに花火の上の方がちょっと見える程度。
 もう1つの会場の方は、ちょうど上の写真の一番左のあたりによく見えました。高いところまで上がる花火は全体が見えました。が、この建物の屋上にある柵などのせいで、美しくは見えない。低層マンションなので、これが限界でした。やっぱり上野公園の方がよく見えるわ。距離も上野よりは遠いので、花火もその分、小さい。
 それでも、近くの高層マンションあたりからは「たまや~」とか、歓声が。高層ならよく見えたのでしょう。
 今年はマスコミの人がスカイツリーの展望台から見たようです。こちらから見ると、スカイツリーが花火の煙に包まれて、なかなかに幻想的でしたが、確かに展望台からだと正面に見えるのだな、というのはよくわかります。
 花火の映像は、youtubeにいくつか上がっています。スカイツリーと花火を映すヘリからの映像も。

2011年8月27日土曜日

アベック台風は死語ではなかった

 昨日は半蔵門の試写室に出かけましたが、駅を出ようとすると、出入り口にものすごい人。なにかと思ったら、土砂降りの雨だった。しかし、やむのを待っていたら試写に遅れる。傘をさして出て行こうとすると、「こりゃ傘さしてもだめだ」の声。なんのこれしき、と、歩くこと5分。ズボンはびしょぬれ。防水の靴でなかったので、中までびしょびしょ。試写室にたどり着いて無事、アラン・レネの新作「風にそよぐ草」を見ることができましたが、実は私が試写室にたどり着いたあと、もっとすごい雨になったことが判明。前が見えないくらいの豪雨だったそうで、電車や飛行機にも影響が出た模様です。
 御年89歳のレネの新作は、フランス文学の映画化だそうで、初老の男女の奇妙な関係を描くもの。最初は初老の男がストーカーのように女につきまとうのだが、やがて恋に。とはいっても、普通の恋愛映画ではなく、最後の最後まで奇妙なままで終わります。ラスト、唐突に現れた幼い少女が、「猫になったら猫のエサ食べられる?」と母親に聞く。意味不明。でも面白い。
 レネといえば、やはり、「二十四時間の情事」や「去年マリエンバートで」の名匠ですが、最近は「二十四時間の情事」ではなく原題の「ヒロシマモナムール」というのか。なんか雰囲気ぶち壊しな感じがするのだが。ただ、今の若い人には「情事」という言葉はピンと来ないでしょうね。インテリ女性がストーカーになる「危険な情事」が1980年代で、あのあたりが「情事」という言葉が生きていた限界かもしれません。グレアム・グリーンの「情事の終わり」が映画化されたとき、邦題は「ことの終わり」になりました。やはり「情事」は限界だったか。
 「昼下りの情事」とか、「情事」という言葉のつく映画題名は多く、かつてはあやうい恋愛の代名詞のようでしたが、今はイミフかもしらん。
 「情事」というのは、不倫とは限らないわけですが、いきずりの恋みたいな、どこかあやうい感じがある。普通に恋愛して、という感じではない。その辺の雰囲気がかつては受けたのでしょう。
 「二十四時間の情事」はフランス人の女と日本人の男が広島で24時間すごすという話で、この2人はいきずりの恋だから情事とつけたのかな。「情事」は古いとしても、「ヒロシマモナムール」も味もそっけもない邦題だね。やはり、「ヒロシマ、わが愛」くらいにしてほしい。それでも古いのかな? モナムールとやられると、「マックス・モン・アムール」とかいうシャーロット・ランプリングがチンパンジーに恋する映画を思い出してしまうよ。
 そういえば、今、台風がアベックで日本に近づいているのですが、アベックも死語。しかし、カップルとアベックは微妙に意味が違うんじゃ、と思うのは私だけだろうか。アベック台風というのは、私の子供の頃には言いましたが、カップル台風とは言わないだろう。
 アベックはフランス語の「一緒に」という意味の言葉から来ていて、人前で一緒にいるのがアベック。カップルは愛情によりパートナーになっている男女または同性の2人のことで、一緒にいなくてもカップルというでしょう(たまたま一緒にいる2人のこともカップルといいますが)。アベックの方が、情事と同じように、ちょっと色っぽい感じがありますね。カップルは単にカップルなだけ。
追記 今、アベック台風でググってみたら、かなりたくさん出てきました。アベック台風は死語ではなかった、ということで、記事のタイトルも変更。

 というわけで、以下は今週前半の猫写真。すでに6時過ぎで、薄暗い。


 にらみあい。


 このあと、シャム猫が出てきたが、もう光がない。
 以下は別の日に上野公園で。完全に夜です。

 ここの猫も世話をしている人たちがいるようで、わりと人間になれています。

2011年8月26日金曜日

HSBCからファーストナイアガラへ

 セイバーズの本拠地のアリーナ名が、HSBCアリーナからファーストナイアガラ・センターにかわるそうです。ファーストナイアガラというのは、バッファローの放送がネットで見れていたとき、しょっちゅうCMやってたんで、耳ダコというか、英語では「ナイアガラ」じゃなくて「ナイアグラ」と発音し、アにアクセントが来るんですね。
 さて、長いこと、アリーナ名だったHSBCは英国の大手銀行ということで、確か、日本でも支店を見たような記憶があります。ま、世界的に有名な銀行だったんですが、ここが不況のせいで、米国にある支店の半数近くをバッファローを拠点とするファーストナイアガラ・ファイナンシャルグループに譲渡したのだそうです。以下、その記事を日本語にして説明しているブログ記事。
http://blog.livedoor.jp/stellaford/archives/52001085.html
 つまり、HSBCが支店をファーストナイガラに譲渡したことと、今回のアリーナ名変更は密接に結びついているというわけですね。
 そんなわけで、今季からファーストナイアガラ・センターにかわったアリーナですが、あの「ブルース・オールマイティ」の中で、レポーターが「HSBCアリーナ」と言っているシーンがあったのをなつかしく思い出します。
 その「ブルース・オールマイティ」、セイバーズの試合のシーンが多数撮影されたのに、完成した映画ではほとんど使われなかったのだそうですが、その撮影で使われたセイバーズのジャージがネットで売り出されていたそうです。選手名はすべて架空なので、買った人の中には映画で使われたジャージだとは気づかず、名前と背番号をはがしてしまった人もいたそうです。
 このジャージ、映画会社ユニバーサルの文字が入っているそうですが、試合用のオーセンティック・ジャージで(つまり、レプリカじゃない)、実際に選手に扮した人が着用したゲーム・ユーズドでもあるわけで、考えようによっては貴重品。むむむ、ほしかったぞ。
 この映画で使われたジャージは例の山羊の頭と言われたロゴマークのある黒と赤と白と灰色のものです。当時はこれがセイバーズのジャージだったのですが、その後、リスみたいなマークのものになり、現在はオリジナルに近いジャージに戻っています。あの山羊の頭のレッド・アンド・ブラックのジャージもいまやなつかしい。私も黒基調のを1枚持っています。
 セイバーズは去った選手もいれば新しく入ってきた選手もいて、また顔ぶれがかわっていますが、それとは別に、3シーズン、チームのリーダーとして活躍したクリス・ドゥルーリーが引退したのが大きな話題。結局、移籍したレンジャーズでは活躍できず、バイアウトされた上、引退と、寂しい限りですが、ヨーロッパへ行くなどの選択をせずにいさぎよくホッケー界を引退というのも彼らしいのかも。

2011年8月23日火曜日

映画評リスト2010,10-2011,08

2010年10月から2011年8月までのこのブログ内の映画評および映画関連記事のリストです。
ご覧になりたい方は、右サイドの年月のところをクリックすると、その月の記事のタイトル一覧が出ますので、そこで下の赤字の記事タイトルを探してください。

2010年10月
映画的近況
「白いリボン」、「クリスマス・ストーリー」、「義兄弟」、「ウッドストックがやってくる!」
短評集です。

近況
「アイガー北壁」、「ヤコブへの手紙」、北村薫「ベッキーさん」三部作について
短評集です。

ミスリーディングな映画評
「玄牝」について。

2010年11月
試写の帰りに本を買う
「ベッキーさん」三部作について(その2)

ヴァンサン・ランドンは超法規的男が似合う
「君を想って海をゆく」について。

試写2本立て@六本木
「ウォール・ストリート」、「冷たい熱帯魚」について。

アンチクライスト、エリックを探して、幸せの雨傘
上の3つの映画についての短評集です。

2010年12月
わたしを離さないでA Movie
映画「わたしを離さないで」について。

英国王のスピーチ
「英国王のスピーチ」について。

今日のスカイツリーと猫、英国王のスピーチ補足
上の記事への補足。

2011年1月
予定変更&モーツアルトの姉の映画
「ナンネル・モーツアルト 哀しみの旅路」について。

ディケンズと、ラフマニノフと
「ヒアアフター」について。

ブラック・スワン
「ブラック・スワン」について。

2011年3月
ネタバレした方がいい映画
「ぼくのエリ、200歳の少女」について。
リメイク「モールス」については、2011年6月の久しぶりの試写室をどうぞ。

2011年5月
マーティ
「マーティ」について。

一枚のハガキ
「一枚のハガキ」について。

親の罪と母殺し
「告白」について。

2011年6月
ブレードランナーの記憶
「ブレードランナー」についての思い出話。

久しぶりの試写室
「モールス」、「ヒマラヤ 運命の山」について。

だからどうした?
「ソーシャルネットワーク」について。

2011年8月
ツリー・オブ・ライフ(ネタバレあり)
「ツリー・オブ・ライフ」について。

未来を生きる君たちへ(ネタバレ大あり)
「未来を生きる君たちへ」について。

「ツリー・オブ・ライフ」補足
「ツリー・オブ・ライフ」についての補足、「シン・レッド・ライン」との関係で。

恋の罪
「恋の罪」について。

恋の罪

 1990年代、渋谷の円山町で起こった東電OL殺人事件。原発事故で最近また注目された事件ですが、これをヒントにした映画「恋の罪」。「冷たい熱帯魚」が面白かった園子温監督の作品で、試写会場はその渋谷の円山町にある映画美学校の試写室。道玄坂の方から行ったもんだから、もろ、ラブホテル街を通っていく形になりましたよ。まあ、昼間ですから、健康的な雰囲気でしたけど。
 で、映画はねえ、「冷たい熱帯魚」はほんとに、ほんとに面白くて、好きだったんですけどね、これはだめでした。
 要するに、これって、レディスコミックのネタにすぎないんですよ。
 人気作家を夫に持つ貞淑な若妻が、気晴らしにスーパーでバイトを始めたら、そこへモデルのスカウトが現れ、行ってみたらAVだった。でも、夫との関係に欲求不満な若妻は、ノリノリに……。
 昼間は一流大学の助教授の女性が、夜は円山町で売春婦になる。エリート女性の2つの顔。
 そして、円山町で起こった殺人事件を調べる女性刑事。夫もいれば子供もいる彼女は、自分を奴隷のように扱う男との不倫に溺れている……。
 全部、どこかで聞いたことのあるネタ。レディスコミックの雑誌では、読者からネタを募集したりもするのですが、こういうネタ、いくらでもありそう。
 もちろん、処理の仕方はレディコミではないわけです。レディコミはあくまで女性のポルノ。女性がエロティックな幻想にひたるのが目的で、女性が快感を感じるような方向ですべてが描かれているのですが、この映画はレディコミじゃないので、女性がうっとりするような方向には行かない。当然ですが。
 で、それでは、どういう方向に行っているかというと、これがどうも、中途半端で燃焼不足で、ちっとも面白くならないのです。
 売春婦になることで自分を解放するとか、たどりつけないカフカの城とか、言葉についての詩とか、言葉ばかりが空回りしていて、女たちの実体が見えてこない。言葉には肉体があると助教授は言うけれど、女は言葉以前に女という存在があって、その女という存在は、決して男の理屈では理解できないものなのに、男の理屈=言葉で解き明かそうとしている、そういう感じを強く受けてしまいます。
 脇役の男たちも、「冷たい熱帯魚」みたいにもっとワルだったり、エキセントリックだったり、情けなかったりすれば面白いのですが、こっちもなんだか。
 3人の女優さんたちは健闘しています。すばらしいです。もう1人、助教授の母に扮するベテラン女優がまたすばらしいです。でも、彼女たちのこれだけの存在感をもってしても、結局は、売春で自分を解放する女とか、本当の自分を発見する女とか、そういう紋切り型の女しか描けていない。
 また、売春を描くとき、そこにはどうしても社会の問題、男性の問題、そしてフェミニズムが出てくる。そこを切り捨てて、女性だけの話にはできない。何不自由ない主婦やエリート女性が売春に走る背景には、やはり、彼女たちやその家庭だけでなく、社会の問題がある。東電OLは父親も東電の社員だったというが、この映画でも、助教授の女性は父親が同じ大学の教授だったということになっている。女性が出世するには、彼女の能力だけではだめで、必ず、父親の存在とか、別の条件とか、男性だったらそこまで七光りやら何やら必要ないのに、女性は必要になる。そういう、一見、女性が活躍しているように見えて、まだまだ女性は1人の人間として認めてもらいにくい。そういう背景が、3人のヒロインの背後にも必ずあるはずなのだ。女性刑事だって、警察では女性で苦労することがきっとある。そういう部分を切って、女のエロスだけ描くのだったら、それは男性向けポルノと同じでは、と思ってしまう(少なくとも、女性を満足させるレディコミにはなっていないのだから)。
 と、私にしては妙にフェミニズムがかった批判をしてしまったけれど、映画自体は面白い部分もある。殺されたのは誰か、殺したのは誰か、という、ミステリーの部分の謎解きが最後に出てきて、この辺は面白い(ネタバレなしね)。見て損な映画ではない。
 最後に、タイトルを検索にかけたら、水野美紀のフルヌードの話題ばっかり出てきた。なるほど、そういう話題の映画だったのか。水野美紀だけでなく、冨樫真と神楽坂恵もフルヌードですよ、お楽しみに。神楽坂恵は「冷たい熱帯魚」に続く主演で、前作ではバストばかり見てましたが(!)、今回は話が進むにつれて顔がどんどん変わっていくので、その演技が見ものです。

2011年8月20日土曜日

「ツリー・オブ・ライフ」補足

 「ツリー・オブ・ライフ」のネット上の観客の意見を読んでいたら、10年くらい前に「シン・レッド・ライン」の映画評で私が書いたのと同じことを書いている人がいた。
 その人いわく、テレンス・マリックはキリスト教を信じてはいない。彼の宗教は自然のすべてのものに神が宿るという汎神論だ。これはキリスト教以前の古い宗教。この映画ではブラッド・ピット演じる父親が神になぞらえている。古い宗教では、神は理不尽な存在なのだ。
 うーん、やっぱりか、と思った。
 「ツリー・オブ・ライフ」を見ていて、例の大自然やら何やらの映像がえんえんと続くのを見て、ああ、またマリックの汎神論だな、すべてのものに神が宿るという。母親のナレーションでキリスト教の敬虔な信仰が述べられているけれど、それをうわまわる存在を誇示しているのだな、と。
 しかし、この映画は「シン・レッド・ライン」に比べて、キリスト教の信仰に寄りかかる部分が非常に多いとも感じた。「シン・レッド・ライン」は神もいないような悲惨な戦場の物語で、しかし、そこに美しい自然の風景の映像を入れることで、キリスト教の神はいないが、それでもすべてのものに神が宿っていると私は感じ、「キネマ旬報」の特集でそのことを書いた。
 この特集では、有名な評論家K氏と私が作品評を書いていたが、K氏は映画を見て、「この世に神などいない」と感じ、それを強調した。私は「それでも神はいる」と書いた。2つの映画評を読んだ編集者はこの対立を面白いと思ったのだろう。2つの論が対立しているかのような印象の見出しをつけた。結果、私の論はK氏の論への反論のようになってしまった(私はK氏の論を読まずに書いているので、反論ではないのだが)。
 その後、K氏が、キネ旬の別の号で、はっきりとではないが、私の論を批判するような文章を書いた。それは非常に短い文で、何についての言及なのかを明らかにしていなかったので、一般論だと言ってしまえばそれで終わるようなものではあったのだが。
 それを読んで、私が思ったのは、あの2つの論は決して対立する論ではなかったのに、編集でそう見せてしまったのがまずかったのではないか、ということ。K氏は、これだけ悲惨な状況でも救ってくれる神がいない、ということを書いたのだが、私もここはK氏と同意見なのだ。ただ、ここで言う神とは、キリスト教など(イスラム教、仏教も含む)の近代宗教の神で、こうした神は人を救い、人の手本となる立派な神なのだ。しかし、それ以前の原始宗教では、ギリシャ神話の神々に見られるように、神とは気まぐれで自分勝手で、単に力があるだけの理不尽な存在なのだ。その一方で、すべてのものに神が宿るといった汎神論が存在する。この汎神論は理不尽な神よりさらに古いものだろう。私がそれでも神はいると書いた、その神とは、汎神論の神である。
 「ツリー・オブ・ライフ」が「シン・レッド・ライン」に似ていることは見る前からわかっていたので、この点、キリスト教の神はいないが、汎神論の神はいる、という視点で見ていた。しかし、この映画は「シン・レッド・ライン」ほどは汎神論の神をうまく描いていなかった。それは自然を描く映像美が唐突で、しかもイマイチであるからだけでなく、キリスト教の信仰を強く出していたからでもある。カンヌで受けたのはこの部分じゃねーの?と私は勘ぐった。
 また、この映画は、「シン・レッド・ライン」に比べると、神がいない、と感じるほどの状況を描いていない。確かに子供の死は理不尽だが、戦場ほどの悲惨さではない。自分勝手で抑圧的な父親を原始宗教の理不尽な神と重ねるのは、面白いが、それだけではいささか無理がある。この父はやはり人間だ。あまりにも人間だ。観客のレビューの中には、自分の父親と重ね合わせて書いているものがあって、とても感動的だった。そういうふうにも見られる映画なのだ。
 そんなわけで、この映画は「シン・レッド・ライン」ほどにはキリスト教の神の存在の否定や自然の汎神論を強調してはいない(キリスト教の神の存在については、決して否定はしていないと思う)。中心にあるのはやはり人間の問題だと思う。ただ、それにキリスト教の神の存在の有無や、自然の汎神論を重ねたところが、「シン・レッド・ライン」の監督なのだということだろう。

キネマ旬報「シン・レッド・ライン」特集の号
1999年4月上旬春の特別号(品切れ)
興味のある方は古本屋さんで探してください。

2011年8月19日金曜日

ツリー・オブ・ライフ(ネタバレあり)

 ラスト近くを見て思ったのですが、クリント・イーストウッドの「ヒアアフター」に続いて、テレンス・マリックも「大霊界」かい?
 浜辺のような場所で、年をとったショーン・ペンが、父や母や兄弟に再会するシーンですよ。浜辺みたいな場所っていうのがいかにもなんだけど(フランソワ・オゾンの「まぼろし」ね)、人間、年とると、どうしても、あの世に思いをはせるのでしょうね。確かに、年をとると、親、家族、親戚、友人知人が次々他界していくわけです。
 「ツリー・オブ・ライフ」ではまず、3人兄弟の次男が亡くなったという知らせが届くというシーンがある。でも、その前後がまるでわからない。そのあとは、幼い3兄弟と両親の話になる。兄弟の母親は「神の恩寵」(グレース)に生きる人、父親は世俗(ネイチャー)に生きる人、ということになっている(というか、母親がそう思っている)。ネイチャーに生きる人というのは、この世に不満ばかり見出してイライラしている。グレースに生きる人は、神の存在を信じ、すべてを受け入れて生きる。神は常に人間の善に報いてくれるわけではない。善人にも災難がふりかかる。それでもありのままにそれを受け入れるのがグレースに生きる人、ということになる。
 一方、ネイチャーに生きる父親は、音楽家をめざしたが道をはずれてしまい、発明をして特許をとってもうまくいかず、仕事も成功していない。父親はいつも不満を抱いている。隣人は遺産があるから庭師が雇えると、人と自分を比較し、恵まれていない自分にいらだつ。
 父親は息子たちには非常に厳格だ。ああしてはいけない、こうしてはいけない、と、しつけがきびしいというよりはうるさいくらいだ。子供に暴力をふるうような父ではないし、本当は子供を愛しているのかもしれないが、愛情を示すシーンがない。
 あるとき、父親が出張に出かけ、兄弟は近所の悪ガキたちと遊び、自由を満喫する。よその家に忍び込んで女性の下着を盗んだりと、悪いこともする。やがて父親が帰ってきて、自由は失われ、兄弟、特に長男は父親を殺したいくらい憎む。
 ここで注目したいのは、兄弟が近所の子供と遊ぶのは父親がいないときだけだということ。父親が帰ってきて、友達を呼びたいというと、父は、家族がいれば十分だ、みたいなことを言って、友達と遊ばせない。実際、そのあと、兄弟は兄弟だけで遊んでいる。
 なんで父親は友達と遊ぶのを禁じるのか。悪ガキだからか。確かに、男の子の親は、悪い子とつきあうな、と言う。たぶん、そのような理由なのだと思うが、子供にとっては理不尽だ。
 家族で泳ぎに行ったとき、近くで子供が溺れ、兄弟の父親が助けようとするが、死んでしまう、というエピソードがある。そのシーンのあとに葬式に出かけるシーンがあるので、そう思うのだが、あの溺死した子供がのちに死ぬ次男に重なるのだろうか。どんな理由であれ、子供の死は理不尽だ。神の作った世界は理不尽だが、神を信じるなら、それも受け入れなければならない。
 大自然や宇宙から、人体の内部までも描く映像は、それなりに美しいので、見ていてあきない(恐竜だけは不自然)。なんとなく、タルコフスキーっぽい映像だな、と思う。でも、タルコフスキーのような力は感じない。映像的には、「天国の日々」や「シン・レッド・ライン」に劣るし、マリックの映画は映像的に劣ると中身も劣る。前作「ニュー・ワールド」よりはかなりよいのが救い。
 字幕ではネイチャーを世俗と訳しているが、映画の中では、ワールドを世俗と訳している部分もある。ワールドが世俗はごく普通の訳で、教会の中に対して俗世間がワールドなのだ。おそらく、ネイチャーはこのワールドを拡大解釈した言葉で、だから世俗でよいというか、神の恩寵(グレース)と対立する観念だとどうしても世俗にせざるを得ないのだが、やはりワールドよりは広い観念、大自然や宇宙や人体内部もネイチャーで、こうした部分もキリスト教の外の世界だが、そこにも神が宿っているという、そうした意味のネイチャーではないかと思う。もちろん、ヒューマン・ネイチャーでもあるだろう。そういうふうに考えると、ネイチャーに生きる父親は決して否定されるものではなく、グレースだけではとらえきれない大きな存在の一部と考えられる。実際、最後に登場する父親は、愛情のある表情をしている。息子はようやく父を受け入れられたのだ。
 3兄弟を演じた子役、特に長男と次男がいい。この2人の絆を描くシーンはすばらしかった。
 この映画は年をとった長男の回想のようだが(そのわりには現在の長男の描写が不足)、彼は次男の死は父親のせいだと思っているのかもしれない。そう思ったのは、この映画を見たあと、スサンネ・ビアの「未来を生きる君たちへ」を見たからだ。こちらでは、愛する者の死を父親のせいだと思うというテーマがはっきりと出ている。

未来を生きる君たちへ(ネタバレ大あり)

 「ツリー・オブ・ライフ」はストーリーを書いてもあまりネタバレにはならないと思うが、このスサンネ・ビアのアカデミー賞外国語映画賞受賞作「未来を生きる君たちへ」はストーリーを書くと完璧ネタバレになる。でも、ここでは最後まで書かずにはいられないので、ネタバレ大ありとします。これから見る方は注意してください。

 「ある愛の風景」で、戦争がある家族にもたらす悲劇を描いたデンマークの女性監督スサンネ・ビアが描くのは、暴力に対して暴力で対抗することは果たしてよいことなのかという疑問。それを寓話のように面白く描いていき、最後は感動できるという、誰にでもおすすめできるわかりやすい映画だ。
 母親を癌で亡くした少年クリスチャンは、転校してきた学校でいじめにあっている少年エリアスを助け、いじめっ子に暴力をふるっていじめをなくす。
 エリアスの両親は別居していて、父親アントンはアフリカの難民キャンプで医療活動をしている。エリアスはそんな父親を慕っているが、平和主義者のアントンは暴力に対して暴力で返すのはいけないと息子とクリスチャンを諭す。そんなことでは世の中はよくならない、というわけだ。
 アントンがエリアスとその弟とクリスチャンと一緒に出かけたとき、自動車整備店を営む男とアントンの間にいさかいが起こり、男はアントンを平手で殴るが、アントンは抵抗しない。そのことに、クリスチャンとエリアスは怒りを感じる。
 クリスチャンは埠頭にあるビルの屋上に上がるのが趣味で、エリアスも彼についてそこへ行くようになる。柵のない屋上の端に腰をおろして下を見ていると、例の自動車整備店の男がいろいろな人を脅しまくっているのを見る。クリスチャンは、この男は悪者だ、だから懲らしめてやるべきだ、と考える。
 クリスチャンを演じる少年はとてもハンサムだが、エリアスに復讐主義の影響を与える彼は悪魔の子ではないかと、私は途中で思った。あのダミアンだってかわいい顔をしていたではないか。しかし、悪魔の子がクリスチャン(キリスト教徒)って? 一方のエリアスは、「プラトーン」でウィレム・デフォーが演じた士官の名前だ。エリアスは旧約聖書の預言者エリヤから来ているとも言われるが、エリアスといえば正義、善の印象がある。平和主義者の父親の影響を受けた善のエリアスが、悪のクリスチャンに影響され、悪に染まるという話なのか。
 あるいは、クリスチャンは、自分が正義の神だと信じているのか。埠頭の高い建物の屋上に上がるのが好きなのは、そこにいると神の視点が得られるからだろうか。しかし、彼の目に見えるのは、周囲の人を恫喝している男の姿だけであり、アントンと子供たちが訪ねた自動車整備店にはその男とともに働く人々がいて、この男もいやなやつだけど、子供がいて、やはり1人の人間として生活しているのだという、そのことは屋上からは見えない。
 やがてクリスチャンは爆弾を作り、男の車を吹き飛ばそうと計画する。エリアスは悩むが、結局、彼を手伝う。
 以下、ネタバレにつき、文字の色を変えます。
 早朝、誰も来ないと思った駐車場に、ジョギングする母娘がやってきてしまう。爆発寸前、エリアスは身の危険もかえりみず、2人を止めるが、そのとき車が爆発し、エリアスは倒れてしまう。
 エリアスは意外と軽症だったことがわかるが、それを知らされず、エリアスが死ぬと思ったクリスチャンは絶望し、埠頭のビルの屋上へ行く。クリスチャンの父親から息子が行方不明だと知らせを受けたエリアスの父アントンは、息子から聞いた屋上の話を思い出し、そこへ急行してクリスチャンを救う。そこでアントンは、クリスチャンが母の死を受け入れられず、苦しんでいることを知り、彼を励ます。
 このシーンの前に、クリスチャンが母の死のことで父親を責めるシーンがある。父親は、末期癌の激痛に苦しむ妻のために延命治療をやめたのだ。そのことで、息子は父が母を殺したと思っていた、というよりは、クリスチャンは母の死を受け入れられず、母の死について誰かを罰したかったのだと思う。誰かに母親の死の責任をとらせたかったのだ。その相手が父親だった。父は母を愛していなかった、だから、と彼は考えたのだ。
 暴力には暴力を、という復讐の論理は、まさに、母親の理不尽な死について誰かに復讐したいという思いから生まれていたのだ。
 映画は2人の少年のシーンの合間に、アフリカで医療活動をするエリアスの父アントンのシーンをはさむ。難民キャンプのある地域ではギャングのボスが妊婦の腹の中の子供の性別を賭けに使い、妊婦の腹を裂いて子供を取り出し、母子とも殺してしまうという事件が起こっていた。このボスが足に大怪我をして運ばれてきたとき、アントンの平和主義が試される。
 こういうシーンがあるので、何かとても深遠で、世界平和にかかわるような壮大なテーマがあるように見えてしまうのだが、実はこの映画はもっと身近なもの、愛する者の理不尽な死や、暴力に対する怒り、怒りから生まれる暴力といった、ごく普通の日常的な人間の営みに起こる問題をテーマにしているのだと思う。もちろん、それは世界の問題へとつながることではあるけれど、この映画は屋上から見ても神の視点など得られないこと、地上に立ってものごとを見ることを訴えていると思われる。
 「ツリー・オブ・ライフ」にしろ、この映画にしろ、何か壮大なものとのつながりを強調しているように見えるが、実際は、個人としての人間の思いについての物語なのだ。ただ、死という理不尽なものに向かったとき、人は壮大なものに自分を照らし合わせないと救われない。この2本の映画が壮大なものとのつながりを出してきたのは理解できる。

暑い…

 昼間も暑いんですが、夜の方が湿気があって蒸し暑く感じます。昼間の方がまだ汗がどんどん乾いていた感じ。
 水曜は久々、映画館へ行きましたが、その話はまたあとで。木曜はいつもより早めに、午後4時半くらいに猫スポットへ。しかし、まだ暑い上、餌やりの人がまわったあとだったのか、猫はあまり出てこないし、出てきても、あまり餌をほしがりません。


 しかし、この猫だけはニャアニャアしつこくつきまとい、餌をねだる。

 この日はシャム猫にかなり近寄っても逃げようとしないので、いけるかな、と思ったら、上の猫がニャアニャア割り込んできたので、シャム猫は潅木の中に逃げてしまった。

 黒猫3匹。尻尾の形が違う。



 この猫はとにかく、あいさつがわりに餌を食べる。

 いつもは暗くなってしまう一番東の場所だけれど、このときはまだ5時過ぎで明るい。



 このあと、プールへ行く予定だったので、早めにまわったのでした。プールはひところよりは少し、すいてきました。夏休みも結局、猫写真ですぎていく…。

2011年8月16日火曜日

15日は休日だった。

 8月15日はまだ休日扱いで、猫スポットには猫愛好家やお墓参りの人が。例によって、飼い猫テリトリーからシャム猫テリトリーを経て、東へ東へと移動します。


 のびをするシャム猫。相変わらず近寄ると逃げるが、餌は食べる。

 白猫には会えなかったがこの猫はいた。ごみだけでなく、猫も置いていかないように。


 ここから先は東へ向かいます。この猫、前は緑の首輪をしていたが、この日は赤いのにかわっていた。広い墓地なので、自転車でまわる常連さんが多い。


 ここからはウズラのテリトリーなのだけど、この日もウズラには会えず。この前、写真を撮った三毛色(?)の新参猫(「新顔2匹?」の記事参照)の写真を熱心に撮っている人がいました。
 下の猫は古株で、私が通ると必ず来て、餌を食べていく。


 前の場所からさらに東へ。この猫は最近、ずっとこのあたりにいる。

 さらに東へ。この日は人が多かったので、餌は足りていたみたいだったが、ここへ来るとやはり光は足りない。薄い茶トラの兄の濃い茶トラが来ていた。

 茶トラ兄妹。薄暗くなってからも猫ウォッチャーの常連さんが次々来ていました。このテリトリーで、最近見かけなくなった猫がいるのだが、元気なのだろうか。

2011年8月15日月曜日

京都の大文字送り火問題

 この問題は新聞で読むと京都が一方的に悪者にされているが、ネットで検索して記事を読むと、マスコミが偏向報道をしていて、とにかくマスコミが一番悪い、ということがわかる。
 以下、この件をまとめたウィキ。問題の経緯が書かれている。
http://www14.atwiki.jp/kyoto-henkouhoudou/
 全部読むのは大変な人のために、興味深い部分。
 偏向捏造報道。
http://www14.atwiki.jp/kyoto-henkouhoudou/pages/25.html
 結局、誰が悪いの?
http://www14.atwiki.jp/kyoto-henkouhoudou/pages/24.html
 よくある誤解。
http://www14.atwiki.jp/kyoto-henkouhoudou/pages/21.html
 大分の発案者とマスコミ。
http://www14.atwiki.jp/kyoto-henkouhoudou/pages/18.html
 元福井市議の問題発言。
http://www14.atwiki.jp/kyoto-henkouhoudou/pages/15.html

 全体としてみると、発案者はじめ、かかわった人々はもともとは善意の人のようですが、肝心の京都の送り火保存会を無視して勝手にやってしまったのがそもそもの間違い。それに加えて、最初はまったく報道しなかったマスコミが、京都が中止と言ったとたんにバッシングを始めたらしい。
 そして、きわめつけが、一番下に貼ったリンクの元福井市議の問題発言。京都の人は福井原発の電気を使っているのだから放射能を受け入れろ、という発言で、さすがにすぐに撤回、削除したようです。
 また、発案者も、自分のサイトにいろいろ書いていたのに、その後、都合の悪いものは全部削除したらしい。
 原発事故以来、さまざまな欺瞞が日本全国に広まっていますが、いろいろな意味でそれを象徴する出来事であるような気がします。

2011年8月13日土曜日

白猫、シャム猫、そして…

  いつもの入り口から猫スポットに入ると、早速寄ってきたのはヒナと呼ばれる白猫。やたら甘えるので、写真撮り放題。




 相方の猫と久々ツーショット。最近はあまり一緒にいないらしい。

 でも、仲はいい。

 いつもの飼い猫も一緒に。

 シャム猫テリトリーに移動。

 黒猫は2匹いた。どっちがどっちだかわかりません。


 シャム猫はまだなついてくれない。餌は食べる。




 東へ移動。ウズラと呼ばれる猫のテリトリーなのだが、別の猫が何匹も入り込んでいるせいか、ウズラに会えなかった。これは先日の新顔猫。

 小さくてよく見えないけど、ポン太という黒猫と、前から時々ここにいる黒猫がいる。

 この猫もしばらく前からこのあたりにいる。

 さらに東に移動。ここはいつも最後に来るので、餌と光が足りない。この日はどこでも餌をほしがる猫が多くて、餌が足りなくなった。

 5匹が勢ぞろい。