2015年12月31日木曜日

大晦日

30年間、文京区のお寺のそばに住んでいたので、毎年、大晦日には除夜の鐘が聞けたのだけど、今は公団住宅のど真ん中、あっちを見てもこっちを見ても団地の建物なので、除夜の鐘は聞けそうにありません。
この辺の人たちは初詣はどこへ行くのだろうか。
私は明日は谷中の周辺に行ってみようかと思ってます。
30年間、ずっと、初詣は根津神社でしたが、昔は根津神社は元旦の夕方に行けば並ばずにお参りできたのに、「谷根千」ブームになってからは年ごとに参拝客が増え、数年前からは三が日は暗くなっても長い行列、とうとう三が日の参拝をあきらめ、4日目に行っていたのでした。
なので、谷中に行っても根津神社はパス。
「谷根千」ブームも、最初の頃は地図を持った観光客がうろうろしていて、「**はどこですか?」「え? 知りません」てな会話をしていたものでした。
どこもそうだと思うけど、地元民は地元の観光地を知らない。つか、地元っていうだけで観光地とは思えない。生活感ありすぎなので。
でも、個人の観光客がうろうろしてた頃はまだよかったというか、最近は観光バスが来るんでびっくり。「谷根千」じゃないですが、六義園なんか、外に観光バスがずらりと並んでいます。千駄木あたりも、観光客を降ろした空の観光バスがどこかの駐車場に行くのか、住宅街を走ってたりします。
まあ、あの辺は観光バスが停まれる駐車場ないんですが。
文京区に住んでいたときは、除夜の鐘が鳴る頃に、根津神社へ初詣に行く人の足音が外に響くということもいつものことでしたが、その根津神社も、除夜の鐘が鳴る頃に遠くの地名のナンバーの車がたくさん来るようになって、路上駐車するから迷惑、とか、近所の方が言ってました。
もう除夜の鐘と、根津神社へ行く人の足音が聞こえないのか、と思うと、少しさびしい。
実は年末になって、谷中についての文章を書く機会があり、地元のときはさすがに「谷根千」観光なんて絶対したくなかったけど、地元じゃなくなったから少し観光してみようか、と、ネットで観光スポットを調べ、先週末に出かけたのですが、日暮里の駅を降りたとたんに観光客がどっといて、もうそれだけでいやになってしまいました。
結局、猫に会いに行ったくらいで、観光はなし。「谷根千」の観光客にはなるまいと思って帰ったのでした。

というわけで、除夜の鐘はラジオで聞きましょうか。
では、よいお年を。

佐川急便の真実・その2

前回の続きです。
インターネットで佐川急便の配達の実態がよくわかりました。
以下が、今回、トラブルになった荷物の出荷状況です。
アルファベットは頭文字ではありません。


出荷日
2015年12月21日

↓集荷  12/22 14:02  A営業所 
↓輸送中  12/23 08:18  B中継センター 
↓保管中  12/23 14:55  C営業所 
↓輸送中  12/23 21:00  D中継センター 
↓輸送中  12/24 01:37  B中継センター 
↓配達中  12/24 09:24  E営業所 (届けに行かなかった。)
↓持戻り  12/24 21:56  E営業所
↓配達中  12/25 08:22  E営業所 
↓ご不在  12/25 20:35  E営業所 (届けには行ったが、不在連絡票を入れない。)
↓持戻り  12/25 21:48  E営業所 
↓配達中  12/26 08:16  E営業所 (届けに行かなかった。)
↓持戻り  12/26 20:52  E営業所 
↓配達中  12/27 09:35  E営業所 (届けに行かなかった。)
↓持戻り  12/27 23:15  E営業所 
↓ご不在  12/28 19:35  E営業所 (届けに行ったが、不在連絡票を入れない。)
↓持戻り  12/28 20:54  E営業所 
↓配達中  12/29 08:36  E営業所 
↓ご不在  12/29 19:12  E営業所(届けに行き、25日と28日分の不在連絡票を入れる。)
⇒持戻り  12/29 20:10  E営業所

これを見ると、なぜ佐川の荷物が届かないのかが一目瞭然です。
出荷日の21日は夜と思われるので、この日は省いてもいいでしょう。
が、22日から24日まで、4つの営業所をたらいまわしにしています。
この荷物は24日までに届かなければ意味がないものですが、送り主は「至急」とか、「何月何日必着」とか書いていませんでした。もしも書いていたら、このたらいまわしはなかったかもしれません。
また、24日に届けに行かないということもなかったかもしれず、不在連絡票を入れないということもなかったかもしれません。
佐川では、この荷物は急ぎではないと判断したり、この受取人は不在がちだと判断したりした場合、配達はあとまわしにするそうです。そうでないと仕事がまわらない会社だからです。
実際、27日は午前9時から午後11時まで配達していたことが上の表からわかります。にもかかわらず、うちには来なかったのです。

今回の荷物は、私もどうしても必要なものではなかったということもあり、佐川はやめて、とか、「必着」と書いて、とか言わなかったのですが、この実態を知って、佐川急便は断固拒否すべきと思いました。
ネットには、佐川急便トラブルについての質問や怒りの文章がたくさんありますが、上のような実態を知れば、今後は佐川には気をつけようと、送る方も送られる方も考えるようになるでしょう。
佐川急便の問題は、非常に安い値段で荷物を引き受け、そのかわり受取人や配達人は苦労するというところにあるので、結局、得をしているのは激安の値段で荷物を送る企業だということは忘れてはならないと思います。前にも書いたように、異常に安いものはどこかで誰かが必ず泣いているのです(佐川の場合は受取人と配達人が泣いている)。
ちなみに、過疎地の友人の地域は佐川は非常によいそうで、地域によっては佐川がよいところもあるようです。

追記
そういや、一時、佐川がわりとよかった時期があったのを思い出しました。
それは4年間住んだアパートでのことで、理由は、その地域の担当者(わりと高齢の方)が大家さんと懇意にしていたので、うちへの荷物は最優先で持ってきてくれたんです。
あとはもう、佐川っていうと、頭に来る思い出しかないんですが、どうも佐川は人によるみたいで、優秀な担当者がやめたとたん、その地域の佐川がまったく使い物にならなくなったりするらしいです。
なので、今は佐川がいい地域もご用心。

2015年12月29日火曜日

佐川急便の真実

かなーり長い間、佐川急便の荷物を受け取ることがなかったので、相手が佐川で送るかもしれないということがまったく頭に浮かばないでいたら、ついにやってくれましたよ、某県某市の佐川急便。
佐川は都内にいたときも都内の会社から自宅に荷物が来るまで発送の翌日から4日間かかっていました。
1日目 会社が荷物を発送。
2日目 自宅に来るが不在。しかし、不在連絡票を残さない。(来なかった可能性もある。)
3日目 配達に来ない。
4日目 自宅に来るがまたも不在。連絡票を残す。
5日目 再配達してもらう。

仕事の荷物の場合、というか、個人が個人に送るときに佐川を利用するわけはないので、必ず会社から個人へとなるのですが、出版関係はけっこう急ぎの仕事が多いので、届くのに4日かかるのはもう致命的。なので、もうだいぶ前から出版社からの荷物はヤマトやゆうパックでした。
今回も3日目になってもまだ届かないので、必要な資料(古い映画のDVD)を3日目から探し始め、2軒のツタヤで貸し出し中または在庫なしだったので、4日目にふと思いついて、都内にいたときによく利用した某店へ行ったら、ありました。
これでことなきを得たので、たぶん資料を送りそこなったのだろうと思っていました。
ところが原稿を送った翌日、佐川急便の不在連絡票が2枚も。
ポストは毎日見ているので、2枚の不在連絡票はその日に一緒に入れられたのは間違いありません。2枚の日付は4日くらいあいてましたが、紙は重ねて入ってました。
とりあえずインターネットで再配達の依頼をすると、そこに会社が荷物を送った日から現在までの詳しい状況が書かれていて、唖然茫然。
まず、都内から隣の某県に送るだけで3~4日かかるのです。
1日目 会社が発送(おそらく夜)
2日目 引き受けた支店が発送。
3日目 どっかのセンターに留め置き。
4日目 うちの近くの支店に発送。
5日目 うちに最初に配達したらしい(不在連絡票なし)。(来なかった可能性もある。)
6日目~8日目 一応、配達に行ったことにはなってる(不在連絡票なし)。(1度も来なかった可能性もある。)
9日目 不在連絡票が2枚入っていた。日付は5日目と8日目だが、8日目にはポストに何もなし。
というわけで、都内なら4日かかるところ、隣の県だと10日かかるわけです。
特に3日目のどっかのセンターに留め置きってのがすごい。ヤマトなら翌日配達なので。

佐川急便についてはいろいろなことが書かれていて、実際、佐川の配達の様子を見ていても、ここに期待する方が悪いと思うので(あの様子ではとてもヤマトのような配達はできない)、今回も佐川だと4日かかるから締め切りに間に合わないと踏んで、ツタヤめぐりをしたわけです。が、4日どころか10日だよ(9日目で不在連絡票だから受取は10日目以降になる)。
つか、どっかのセンターに留め置きがあるから、初回配達時に自宅にいても5日目なのね。

というわけで、今後は佐川急便の荷物はいっさい受け取らないことにします。
実際、そうしている人がけっこういることがネットでわかりました。
どっかのセンターに留め置き、ってのがもう、笑うしかないというか、都内にいたら絶対わからなかったことですね。

追記
その後も佐川急便トラブルをネットで調べたら、まあ、出てくるわ、出てくるわ。
テレビとか大きいものは運ぶのが面倒なので、チャイム鳴らさずに不在連絡票入れて持ち帰り、別の人に再配達させるとか。
再配達で時刻指定しても来ない。つか、佐川は時刻指定してもそのとおり来るのは無理、とか。
それはその通りでしょう。佐川って、昔は時刻指定は午前、午後、夜の3つしかなかったのに、今はヤマト並みにしてるんでびっくり。佐川がヤマト並みの配達できるわけないじゃん。
なので、今回の荷物も再配達の時間に来る可能性は低いと思うので、「ポストに入れといて」と書いて、指定時間には外出してやろうと思ってます。
つか、都内のときは勝手にポストに入れてることもあったな。私としてはその方が便利だったよ。
ていうより、都内の時は4日目に、待っていたらちゃんと来ていたってのが、実はすごいことだったんだって気づいた。
どっかのセンターに留め置き、っていうのも、年末は特に荷物が多いから、さばけないから留め置きだったみたいだ。不在連絡票入れないのが再配達時間指定されたくないから、ってのは最初からわかってたけど、そもそも配達に来てなかった可能性もありそう。
あと、佐川は下請けがやっていて、荷物1つ届けて150円から200円とか書いてあった。うーん、もう、届けなくていいよ、と言いたくなってきたな。

2015年12月22日火曜日

「不屈の男」と「白鯨との闘い」

最近は映画鑑賞から遠ざかっているが、見た映画でちょっと気になっている2本。
「不屈の男 アンブロークン」は旧日本軍の捕虜収容所での米兵への虐待を描いているので一部で反日映画のレッテルを貼られ、日本公開は不可能かと思われたが、公開が決まり、ただ今試写中の作品。監督は女優のアンジェリーナ・ジョリー。
公開未定の頃から、すでに見た人からは、反日映画ではない、悪いのは収容所の1人の軍人だけで、その人物は周囲からも頭がおかしいと思われていた、などといった意見が出ていたが、確かにこの程度の日本軍人が悪役の映画はけっこうある。
それより奇妙だと思ったのは、脚本家にコーエン兄弟やリチャード・ラグラヴェネーズやウィリアム・ニコルソンといった、名だたる面々が顔をそろえているのだが、そのわりには下手な脚本なのである。船頭多くして船山を登る、の典型なのか、それとも、誰がやってもだめだったのか(たぶん後者)。
映画は実在の五輪選手ルイ・ザンペリーニが第二次大戦中、爆撃機の墜落で47日間漂流することになる前半と、日本軍の捕虜収容所で虐待を受ける後半に分かれている。ジョリー監督は戦後のザンペリーニの苦悩とそこからの救済も描きたかったようだが、いろいろな制約でそれは無理だったらしい。結局、肝心なその部分(復讐よりも許すことがだいじと悟って自分が救われる)なしで映画化しようとするから、誰がやってもだめなんだろうと思う。
戦争が終わってザンペリーニが故郷に帰るまでの話だったら、虐待する日本軍人・渡辺をもっと深く描かなければだめだ。MIYAVIというロックスターが演じる渡辺は「戦場のメリー・クリスマス」の坂本龍一のへたくそなパロディでしかない。「戦場のメリー・クリスマス」や「戦場にかける橋」が優れていたのは、坂本やビートたけし、そして早川雪洲の演じた日本軍人の描写が優れていたからだ。
ジョリー監督が日本を貶めようとしているのではないことは十分にわかるが(米軍の空襲で日本の民間人が殺されたシーンを入れている)、時代考証その他が全然いいかげんなのは困る。日本国内の捕虜収容所で玉音放送を聞いてないわけないだろう。大森の収容所のまわりが田んぼってのもねえ。「硫黄島からの手紙」のようにきっちり作っている映画と比べると、やっぱりこれはアメリカ国内向けのキワモノか、と思う。
ジョリーはこの映画を日本人に見てもらいたいとコメントしていたようだが、本当に心から日本人に見てほしい映画と思って作ったとは思えない。その辺が「戦場にかける橋」などとは根本的に違うのだ(「戦場にかける橋」についても反日映画のレッテルを貼る人はいるので、反日は無関係だが)。
つまり、要するに、私にはこれは、アメリカ人がひどいが虐待を耐え抜いて精神的に勝利するという、アメリカ映画に時々あるパターンの映画の1本にしか見えないのである。
たとえば、オリヴァー・ストーンがアカデミー賞の脚本賞を受賞した「ミッドナイト・エクスプレス」。監督はアラン・パーカーなので、さすがに悪夢的な雰囲気が優れていたが、内容的には、トルコの刑務所で虐待されるアメリカ人がついに脱獄に成功するという、不屈のアメリカ人を描く映画なのだ。
そういう不屈のアメリカ人を描く背景として、トルコがあったり、旧日本軍があったりする、そういう映画の1つなのだ、と私には思える。
ジャズの世界での教師の学生へのいじめを描いた「セッション」もこのタイプの映画だ。虐待やいじめに耐えぬいて、最後は勝利する不屈のアメリカ人。要するにプロレスの世界。
軍隊内のいじめを描いても、「地上より永遠に」はそういう映画ではなかった。イギリス軍人が日本軍人の虐待に耐えて勝利する「戦場にかける橋」も、そのイギリス軍人の錯誤を描く後半によって、この映画は名作になった。スピルバーグの「太陽の帝国」にも虐待する日本軍人は出てくるが、日本軍人をリスペクトし、「ぼくたちは友達ではないですか」というイギリス人少年に彼は心を動かされる。
前半は漂流の話、後半は収容所での虐待の話と分かれているが、この2つに共通することといったら、せいぜい、ザンペリーニが苦難を生き抜いた不屈の男であるということを示すだけで、ただの災難2本立てみたいになっているのもなんだかなあである。渡辺という軍人ににらまれていじめの対象にされたのも、あの描写ではサメに襲われたようなものだしなあ。

というわけで、次はハーマン・メルヴィルの名作小説「白鯨」のヒントになったという実話をもとにした「白鯨との闘い」。こっちも漂流もので、監督はロン・ハワード。ハワードとしては別に名作の部類ではないが、相変わらず手堅い。名作ではなくてもこのくらい手堅く作れるかどうかでその監督の技量がわかる気がする。
大作家ナサニエル・ホーソーンに比べて、まだ駆け出しの作家だったメルヴィルが、これは自分が小説にすべき題材だと思い、生存者に話を聞くという設定で、最後に「白鯨」をホーソーンが絶賛したという字幕で幕を閉じるのもいい。
もちろん映画なので、メルヴィルの話も含め、フィクションが相当入っていると思うが、捕鯨船の船長にふさわしい実力の持ち主ながら、捕鯨で有名な島の生まれではないために船長になれず、かわりに島の有力者の息子が船長になり、この2人の対比で物語が進んでいく。人物は特に深みはないが、役者の存在感はいい。巨大な白鯨によって船は破壊され、生き残った乗組員たちは食料もないまま漂流を続け、ついに、生きるために人肉を食べることを余儀なくさせられる。
ここでは白鯨は単なるクジラではなく、悪意を持った怪物のようで、執拗に乗組員を襲う。また、過酷な自然の中で生き残るためにきびしい選択をしなければならない。
漂流の末、ようやく救い出された彼らを待っていたのは、事実を闇に葬ろうとする捕鯨業界。それに対し、主人公たちはどう行動したか。そして、人肉を食べたことで罪の意識を持ち続けている乗組員はどのようにして心の救いを得るのか。こういうところをきっちりと作っている映画だから、見終わって、ある種のカタルシスを得られるのである。

2015年12月18日金曜日

地理院地図

地図好きにはけっこうたまらないサイトかな、と思うのは地理空間ライブラリー。
http://geolib.gsi.go.jp/
過去の地図や空撮も見られるようですが、サイトの一番上にある地理院地図。これで日本のいろいろな場所の高度がわかります。
まず、地理院地図をクリックして、そこで検索のところに地名を入れ、あとは下の矢印をクリックすると、×印のついた地点の高度が出ます。
そのほか、左上の情報をクリックすると、いろいろな情報が見られるのですが、その中にある「表示できる情報」→「地図・空中写真」→「色別標高図」をクリックすると、表示された地域の標高が色で表示されます。
これ、地図と標高図が同時に出ると便利なんだけどなあ。
前回、文京区は山あり谷ありで、ということを書きましたが、これで見ると、ほんとに山あり谷ありなのがわかります。
私は文京区ではほとんど高台に住んでいたのですが、文京区の高台は標高20メートルくらいでした。最後に住んだところは坂の途中だったので、標高は少し低かったです。
今住んでいるところは標高27・5メートル。おお、文京区の高台より高いところなんだ。しかも、団地の建物の4階。
団地もけっこうゆるい坂があちこちにあって、多少の高低差はありますが、私が住んでいるところはこのあたりでは一番高いようです(煙となんとかは高いところがどうのこうの、という)。
で、じゃあ、これまで住んでいたところはどうだったんだろう、と、いろいろ調べてみました。
私は親が持ち家でなかったので、子供の頃から引越は日常茶飯事。東京近郊ばかりですが、ずいぶんいろいろな場所に住みました。が、わりと海に近いところが多かったので、標高の低い平坦な場所に住んでいたことが多かったです。
実は子供の頃、一時、公団住宅に住んでいたのですが、そこが高台で、標高20メートル。文京区と同じだった。でも、それ以外はほぼ低地。いかにも関東平野という場所でした。山あり谷ありの文京区に最近30年間住んでいたけれど、子供時代や青年時代の記憶は、低地が広がる関東平野の風景ばかりです。
8年前にわずかな期間、西東京市に住んでいましたが、ここの標高を調べてみたら、なんと、50メートル超え。私の人生で一番標高が高い場所が実は西東京市だったのです。東京も西部は標高が高いのですね。西に向かって山になっていくわけです。
もともと地図が好きな人間なので、グーグル地図とかよく見ていますが、また楽しみが増えました。

2015年12月8日火曜日

崖っぷちのマンション

すでに全戸完売、完成間近の高級マンションが建築計画取り消しになった、というニュースがあり、え、どこ?と思って調べたら、なんと、文京区じゃございませんか。
ル・サンク小石川後楽園という名前で、なんでも堀坂という急こう配の坂のところにすでに巨大な姿をさらしているらしい。
地図で調べたら、こんにゃくえんまの近くなのね。あの辺、一度も行ったことない。すぐ近くの白山通りとそのすぐ西側、それに南の区役所、ラクーア、東京ドームあたりは何度も行ってるのに。
地下2階、地上8階建てで100戸以上、億ションの部屋も多いらしい。かなーり昔から近隣住民の間では反対運動があり、でも、行政も裁判所もマンション寄りだったのが、ここに来て急に住民側に有利になったらしい。
問題はいろいろあるらしいのですが(ぐぐれば関連サイトが山ほど出てきます)、建築計画取り消しの直接の理由は、1階が避難階として機能していない、とのこと。
じゃあ、1階を作り直せばいいじゃん、と思うところですが、そうなると新しい建築計画にしなければならず、そうなると、最近できた文京区の高さ制限に引っかかり、上の2階分を削らないとだめなんだとか。
業者が例の傾きマンションの会社のような大手ではないそうなので、買った人に保証とかできるのかという問題があるようですが、この会社、以前にも問題があったところだという話も。
まあ、大手もあんなことしてるのですから、会社の大小にかかわらず、やっぱりマンションはヤバイ、と思ってしまうのですが。
しかし、もう文京区離れたからいくらでも言わせてもらいますが、文京区は狭い路地や急な坂が至るところにある土地なのです。そういう狭い路地や急な坂のところにでかいマンション建てたがる業者が次々と現れて、地域住民とトラブルになってます。私が22年間住んだ某地区でも、数年前に巨大マンションと機械式駐車場の計画があり、付近の家には「建設反対」のダンマクがいくつも掲げられてました。結局、計画を変え、高さを低くし、機械式駐車場は作らない、ということで決着。団子坂という坂を登りきったところにあるので、団子坂を上り下りしていた私は、そのマンションができる前と、できたあとと、その風景の移り変わりを鮮明に記憶しています。
そのマンションはそれでもまだ高台の上で安定した土地だからよいと思うのですが、急な坂のところに巨大マンションて。しかも周辺は路地ばかり。
文京区でも、不忍通りとか、白山通りとか、広い大通り沿いには高層マンションがずらっと建っています。問題は、奥まったところにある程度の広さの空き地ができたときなんですが。
文京区は確かに便利だし、お受験に有利な小学校があるし、住みたい人がたくさんいるのはわかるのですが、ウォーターフロントじゃだめなの? あっちなら周辺住民との問題もなさそうだし。
というわけで、文字通り、崖っぷちのマンションになってしまったらしいそのマンション。地下2階っていうのは、その2階分は坂の低い方が窓で、背後は崖なんだよね。まさに崖に建ってるわけでしょう。文京区は坂が多いし、崖みたいなところも多く、以前、部屋探ししたとき、ほんとに崖っぷちのアパートとかマンションとかけっこうありました。私が住んだ文京区の場所は大部分が本郷通りの東側の高台、一時期、本郷通りの西側の少し低くなったところでしたが、最後に少しだけ住んだ文京区のアパートが坂の途中でした。窓から外を見ると、前の家がうちより低い、その前の家はさらに低い、という立地。生まれてこのかた、そういう立地の場所に住んだのは実は初めてで、これまではどこでも平坦な場所に住んでいたのです。
その最後のアパートがだめだったのは立地とは無関係でしたが、団地の部屋を決めるとき、坂の途中に建っている棟はいやだと思い、坂を上がって平坦になった場所に建っている今の棟の部屋に決めたのです。この団地も坂に建っている棟はいくつもありますが、やはり平坦な場所の方が落ち着きます。
文京区に住むのなら、安定した高台の戸建てをおすすめしますね。8000万円くらいからありますよ。ただ、高台の戸建てだと、駅まで10分くらいかかるんで(しかも帰りは坂を登る)、それで後楽園駅まで徒歩2分のマンションとかがよいのかなあ、お金のあるみなさんは。

追記 避難階になっていた1階の駐車場、実は実質地下駐車場なのだそうです。
てことは、その階と、さらに下の階2階分が駐車場なのだろうか。
後楽園駅まで徒歩2分なら車なんか持つな、と思うのだけど、なぜか都心でも駐車場がないと売れないみたいですね。戸建でも新しいのは1階は駐車場と玄関、2階と3階が居住部分という木造3階建てばかりです。
100戸以上のマンションだと、車も当然100台以上になるわけで、そんなのが狭い路地に駐車場から出てくるんですよ。それが迷惑だから住民が反対してるのに、なぜか報道では景観がどうのとか。で、文京区に景観があるのか、とか、小石川あたりには景観なんかない、と言われてますが(それはそのとおりです)、問題は景観じゃないんだけど。
あと、文京区は治安がいいので住みたい人が多いようですが、なんで治安がいいかというと、町内会がうるさいからなんだけど。ゴミ出しがうるさい場所とかあるし。冬になると火の用心カッチカッチとやりながら毎晩まわってる人たちがいます。
つまり、文京区のよさっていうのは田舎のよさなんですよね。その田舎をつぶしに来るのが大手のマンションなわけです。
そういえば、先日、谷中を通ったら、ワンルーム・マンション建設反対とかやってました。
西日暮里のあたりでは、田端の方まですでにできている広い道路が来るっていうんで、あちこちの家に反対のダンマクが出ています。
この広い道路、もしも西日暮里まで来たら、次はどこへ行くのだろう。そのまま行くと、谷中がつぶされるのでは?

2015年12月6日日曜日

愚痴記事の整理

最近愚痴記事が多くて、なんだか愚痴ブログになってしまったみたいなので、愚痴記事を一部整理しました。解決した件もあるし。

そして、なぜか今の時期に花粉症を発症しています。
しかも、いつものより重症な感じ。
冬なのに、あまり寒くならないから、花粉症の原因になるものが飛んでいるのでしょうか。
近くの自然公園ではタンポポが咲いていました。

2015年12月4日金曜日

ふちねこ

このブログは写真の投稿ができないので、前のブログにふちねこ写真アップしました。
http://sabreclub3.exblog.jp/24734225/

水曜日に上野へ行ったので、引っ越す前は行きつけの店だったベローチェ上野三丁目店へ行き、3枚目のレシートゲットして、ふちねこをもらいました。
これまではおもに引っ越しした町の店でもらっていましたが、そこがついに在庫終了。
ふちねこ在庫状況を見て、上野三丁目店が在庫わずかと知り、どうせもらうならなじみの店で、と思って。
レシート3枚集まりました、と言うと、店員さんは後ろの戸棚の中からふちねこの箱を取り出して、もう残り少ないんですけど、と言って差し出します。その日、私がほしかったのは、人気がなくて残っていそうな種類だったので、中を見たらすぐに見つかり、それをゲット。
そして木曜の夜、ふちねこ在庫状況を見たら、上野三丁目店は終了になっていました。
9月から郊外の団地で生活するようになってから、この上野三丁目店は行かなくなっていたので、本当にひさしぶりでしたが、なじみの店でゲットできてよかったです。
上野三丁目店は松坂屋のそばで、松坂屋は今、南館が建設中。なんでもシネコンの入る高層ビルになるのだそうです。
このあたりは以前住んでいた場所から行くには便利で、散歩がてら歩いていくこともあったので、シネコンができたらここに通おうと思っていたのですが、ビルが完成する前に引越。久しぶりに上野から御徒町まで歩いて、なんだかなつかしい世界になってしまったことに寂しさを感じたのでした。

2015年12月1日火曜日

あなたが今年やり残したこと

今年もあと1か月。あなたが今年やり残したこと、という診断メーカー。
https://shindanmaker.com/581579

ペンネームでやってみたら、答えは「冬眠」。
うーむ、やっぱり開店休業中だからか。

本名でやってみたら、答えは「世界征服の実行」。
このところ、だまされ、ぼったくられ、だから、気持ち的には合ってるかなあ。

2015年11月30日月曜日

TSUTAYAで初トラブル

日曜日はお気に入りの公園で写真撮影を楽しんでいたら、突然、「写真を撮っているところ、申し訳ありませんが、この新聞を読んでください」といきなり男に話しかけられた。男が手に広げて持っている新聞が、見るからに気持ち悪い見出しの新聞で、一目で新興宗教の勧誘だとわかったので、「いいです」と言ってさっさと立ち去ったが、この公園でこういう活動をするのはもちろん禁止のはず。他の人のためにも管理者に報告すべきかどうか迷っている(警察の不審者情報に報告するって手もあるんだけど)。(追記参照)
で、そのあと、ツタヤにDVDを返しに行ったら、見習い中の店員が、「あと2枚借りていますね」というので、「いや、これしか借りてない」というと、店員はタイトルを2つ言った。1つは名前は知っているが見たことのない映画、もう1つは全然聞いたこともない映画(つか、店員の発音がよく聞き取れなかった)。「1枚しか借りてない。ただ、私のカードが機械を通らず、番号を手で打っていたので、そのせいで間違いが起こったのではないか」と、カードを見せた。
そこへ先輩の店員が来てカードと袋に入っていた貸出票を見て、「この貸出票では1枚しか借りてないから、こちらが正しいのでしょう」といい、「他のお客様の分と一緒になってしまったのでしょう」ともいった。
んなわけで、事なきを得たのであるが、長年ツタヤを利用していてこういうことは初めてだったので、この店はやめた方がいいのか、いや、ツタヤ利用自体をやめた方がいいのか、と思い、ネットで少し調べてみた。
すると、返却ボックスやかごの中に返却したのに、返却されていないと連絡が来るトラブルがかなり多いことがわかった。私がこれまで利用していた都内の店数店では、いずれも開店時でも返却はレジの横のかごにいれることになっていて、大丈夫かなあ、といつも思っていた。しかし、これまでそういうトラブルにあったことはなかった。
カードに関していえば、しばらく前からドトールやジョナサン、ファミマなど、Tカードが使える店でカードが機械を通らなくなり、いちいち手で数字を売っているのを見て、めんどくさくなり、ツタヤ以外ではカードを使わなくなった。一方、カードの発行店というか、発行店が閉店してしまったので、その後、近隣の店がかわりに発行店になっているのだけど、その店ではカードは通る。別の大きな店でも通ったと思う。なのでツタヤ以外では通らなくなったのかと思ったが、今回、引越した先の町のツタヤで初めてカードが通らなかったのだ。
それはともかく、ネットで調べたところ、他人がレンタルした分まで自分がレンタルしたことになってしまうというのは、店員が次の人のカードを通しそこなった場合なのだそうだ。
今回、もう1つ疑問だったのは、1週間後の返却日は12月1日なのに、返却日が12月3日になっていたらしいのだ。以前は貸出票を必ずコピーして保存していたのに、最近はその辺がいいかげんになり、貸出票を見もしなくなっていたので、返却日が何日になっていたのかも記憶にない。ちょっと注意力低下している自分なのであった。
その店は返却は必ず店員がチェックするので(レジ横に返却のかごがない)、返却トラブルが多いのかもしれない。とりあえず、ツタヤのレンタルはもうあまりしたくないし、どうしてもするときはこれまでよく行っていた店でしようと思う。

追記
その新興宗教団体はコレ。
http://matome.naver.jp/odai/2137886990537251501
かなりヤバそう。やっぱり報告した方がよさそう。

2015年11月29日日曜日

ふちねこを作っている会社

このところカフェ・ベローチェに通い詰めてふちねこを集めています。
ベローチェはバイトを4年で雇い止めのところなので、同じ非正規労働者としては通うのは忸怩たる思いがあるのですが、ベローチェはもともと一番好きなコーヒーショップだったし、ふちねこ欲しいし。うーむ、軟弱な自分。
で、そのベローチェのふちねこ、シャノアール=黒猫にちなんで5種類の小さな猫のフィギュアがあるのですが、それを作っているのはこの会社。今野産業。
https://www.techno-city.sumida.tokyo.jp/company/index.php?company_cd=7218
有名なスカイツリーのそばにある会社のようです。
従業員は正社員37名にパート3名、典型的な中小企業。つか、零細企業か?
ガチャポンのパイオニア的存在だそうですが、ふちねこももともとはガチャポンでやっていて、猫の種類もいろいろだったのを、今回、シャノアールの依頼で黒猫バージョンを作ったようです。
よいなあ、こういう会社。取材にお伺いしたいくらいです。そばまで行ってみようか(迷惑?)。
ベローチェのふちねこは10月1日から始まり、すでに2か月近くが経過。在庫が終了したお店もぼつぼつ出ています。在庫確認はこちら。
http://fuchineko.chatnoir-company.com/zaiko.html
なんか、余ってるところは余ってるんですね。なに、この違い、と思ってしまいます。(注)
私はすでに5種類全部プラスアルファ持っているのですが、1匹以外はすべて同じお店でもらいました。というのも、そのお店は選ばせてくれる、つまり、「***をください」というと、それを出してくれていたのです。他の店は箱から取るのだけど、1匹もらった店は箱の中を見たら2種類しか入ってなかった。在庫が少なくなった今ならともかく、キャンペーンが始まってまだ1週間以内だったのに。
それで、レシートはあちこちで集め、選ばせてくれる店でもらうようにしてたのですが、さすがに在庫が減って、箱から取るタイプに変更になってしまいました。その店も終了間近になってます。

注(追記) 昨日まで在庫500だった店が、なぜか今日は終了に。どうやら在庫の多い店は実際の在庫の報告をしていない可能性が高いようです。

2015年11月24日火曜日

真っ白な2か月間が終わり

そしてまた生活のにおいのする毎日が始まった。

9月下旬の連休初日、旅行鞄に必要なものと小型扇風機を入れて団地の管理事務所に向かい、そこで鍵を受け取って契約した部屋に入ってから2か月間。その間はまったく生活臭のない暮らしだった。
部屋に入るとまずガスの開栓。前日に宅急便で送っておいた段ボール箱2つを受け取り、買ったばかりのエアベッドと寝袋を取り出して、それからカーテンとシーツを買い、トイレットペーパーとティッシュペーパーを買い、100円ショップでこまごまとしたものを買いそろえて、団地生活が始まった。
9月下旬はまだ暑かったので、寝具はエアベッドと寝袋で十分だったが、だんだん涼しくなるにつれて毛布を買ったり、冬用パジャマを買ったりして、とにかく部屋も新しいし、物も新しい、そんな生活臭のない暮らしはまさにリゾート気分。
団地は建ってからすでに半世紀以上がすぎた古いものだが、室内はきれいにされていて、特に畳と風呂が新品だったのが気に入って借りたのだ。2DKを借りたのだけど、その前に見た1DK2部屋はどれも畳や風呂が新品でなかったので、ほとんどこれで契約してしまったようなもの。
これまではきれいにリフォームされたところに引っ越しても、自分の荷物を運びこむとそこはもう新品の部屋ではなくなってしまったし、それが当たり前だと思っていたけれど、ほとんどすべてが新品で、生活のにおいがしない真っ白な生活(壁や天井がきれいに塗られて真っ白)は初体験だった。
最初は団地と都心のアパートの二重生活を続けるつもりだったので、冷蔵庫や布団も新しい物を買おうと思っていたのだが、団地に住み始めてすぐに都心のアパートに帰るのが苦痛になってしまった。羽毛布団を買おうと思っていたのに、突然思い立って、アパートにあった古い羽毛布団を布団用バッグに詰め込み、それをかついで団地に帰ったときに、都心のアパートを引き払う決心がついた。
都心のアパートで悪臭がするようになったのは10月に入ってからだったが、1か月かそれ以上の間、悪臭のある部屋に荷物を置いていたので、荷物に悪臭がついてくるのではと心配した。引越の翌日はどこへ行っても悪臭が鼻から離れず、前のアパートで使っていた、一級遮光の真新しいカーテンを思い切って捨てた。洋服のカバーなども捨てた。実際は悪臭はそれほど移っておらず、自分の長年の生活臭の方が強いのだが、あのアパートの悪臭が悪夢のようにまとわりついていたのだ。今も時々、その悪臭が鼻についてくるときがある。(悪臭は大家の居室の方から臭っていたので、大家の飼い犬の排泄物ではないかと思うのだが、まさか隣に死体が、なんてことはないよね?)。

ハロウィーンが終わると、翌日から町はクリスマス商品があふれる。早速100円ショップでミニツリーとLEDライトを買ってキッチンに飾ったが、2DKだからクリスマスツリーを飾ろうと思い、近所のスーパーで高さ1メートルほどのツリーのセットを買う。まだ店頭に出たばかりで、誰も買ってなかったが、先日売場へ行ったらもう2つしか残ってなかったので、早く買ってよかった(たぶん一番乗り)。
まだ生活臭のない真っ白な部屋で電球をチカチカさせていたツリーは、今は運び込んだ荷物と同居している。レンタルスペースを借りて、そこに荷物を運びこめばよかった、と少し後悔(それはまたそれで不便なのだが)。
ステレオをセットしたので、音楽が聞けるようになったが、音楽がまた、その曲をよく聞いたときに住んでいた部屋を思い出させる(幸い、前のアパートではステレオを出していなかった)。そこでまた過去の生活臭がよみがえってしまう。
それと、荷物の中をいくら探しても見つからないコートがあるのだ。そのコートは北千住のイトーヨーカ堂(ご存じ、ヨーカ堂1号店)で1900円で買った安物で、見栄えは悪いが着やすいのでさんざん着たおして、もうヨレヨレになっていたのだけど、それでも二重生活をしていたときに団地に持って帰りたいと何度も思ったコートだった。11月くらいにはちょうどいい厚さのコートなのだ。
が、それがどうしても見つからない。今一番欲しい物が見つからない。もしかして段ボール箱が1つ行方不明なのだろうか、と思ったが、そのコート以外で見つからない物は今のところない。
今はない池袋のキンカ堂で買ったジャケットを捨てる時、このコートは残してジャケットを捨てよう(捨てるというかリサイクルに出す)と思ったことは覚えているが、コートを捨てたことは記憶にない(服はリサイクルに持っていくので、記憶に残るのだ)。
それで荷造りの記憶をたどっていくうちに、だんだん、コートを段ボール箱に入れたのかどうかもわからなくなってきた。今年の春に、このコートはもう限界だよね、と思ったことも思い出した。でも、捨てたという記憶もない。二重生活の時に、持って帰りたいと思っていたが、実際にコートを出してみたりはしなかった気がする。
まあ、あの引越し屋がいい加減で、段ボール箱1個行方不明、なんてことにだけはなってほしくない。生活のにおいがいやと言いながら、なぜ、あのヨレヨレのコートに執着していたのか不思議だ。

追記
コート、見つかりました。衣装箱の一番下にあった。
100円ショップで売っている洋服カバーに入れてハンガーラックにつるしてあったのを、ポリ袋に入れて衣装箱の一番下に入れたのだが、ポリ袋を開けたとたん、アパートの悪臭が。
大部分の衣類は物入れに入れてあったけど、ハンガーラックにつるしておいた服は1か月以上、アパートの悪臭にさらされていたのだ。幸い、すべて洋服カバーに入れてあったけれど。
ポリ袋と洋服カバーは即、ごみ袋へ。悪臭というのは引越してもついてくるので、悪臭のする部屋に長居をしてはいけないとわかった。

2015年11月18日水曜日

教訓

「常識的に見て、異常に安くていいものというのは、どこかで必ず誰かが泣いているから、買わない」と言った友人がいた。
確かに、100円ショップで売っているものを作っているアジアの人たちはいったいどのくらいの賃金で働いているのだろうと思う。
最近、このコーヒーはフェアトレードで作られました、と書いてあるのを見るが、これは、ちゃんとした報酬を払っている農園で作られたコーヒーだという意味。逆に言うと、労働者を搾取して作ったものがけっこうあるということだ。
ブラック企業とか、本当にひどい労働条件は日本にもあふれているわけで、引越業界なんかもけっこうブラックじゃないの?と思う。
で、例の不動産屋が、契約した一部の客のために直々に引越業者に電話し、それで業者は安い料金でよいサービスを提供し、それで評判がいいということになっているが、私が不動産屋から薦められて自分で電話したら、高くてひどい対応、というのは、結局、「安くていいものは必ずどこかで誰かが泣いている」という、まさに、その「泣いている誰か」が自分になったのだということに気づいた。
自分さえ安くてよいものが手に入れば、他人はいくら泣いてもいい、と思う人は多分少ない。たいていの人は、自分がいい思いをする陰で泣いている人がいるということに気づかないのだ。私自身、今回の経験をするまでは、漠然と、アジアの安い賃金でものを作る人のことしか頭に浮かばなかった。

その不動産屋はその地域では老舗で、評判もよさそうだったし、私が契約したときには親切だった。しかし、今回、こんなことになったのはそこが紹介したからなのに、そのことについて責任をまったく感じていなかった。2か月しか住まず、その後の2か月は倉庫と化していたアパートについても無関心だった。
ある人のブログで、この不動産屋が非常にほめられていて、自分の周囲の人はみな、ここはよいと言う、と書いていた。その一方で、近くの別の不動産屋については、自分の周囲では悪い評判ばかりだと書いていた。どっちも知っているのでなんとなくわかるのだが、どうもこの地域はお客をお得意さんと一見さんに分ける傾向があるような気がする。自分の周囲の人たちには、こっちが評判がよくてあっちが悪い、というのは、この人の周辺の人たちがこちらではお得意さん、あちらでは一見さんなのではないか、と思った。この地域は私は30年間知っていたのだけど、最近は裕福な人でないと部屋が借りづらい、暮らしにくい、という感じがしていたので、そのせいもあるかもしれない。
この地域、と書いたけれど、そこはごく狭い地域で、他の地域はまったく違う。大学の近くで学生が多いところは大手のチェーン店と老舗の不動産屋が混在していて、まったく違う雰囲気。こっちはこっちでまたちょっと別の問題があるのですが。

いろいろな業界でも、一見さん歓迎のところと、一見さんは入りにくいところがある。
文芸翻訳なんかはわりと社交界的で、誰でも入れる業界ではなく、正直、うまいから仕事が来るわけではない感じが強い。翻訳家と作品で相性が悪いのに、その出版社でコンスタントに仕事してきたから作品あげちゃってるようなのもある。編集者がつきっきりの新人の頃はよかったけど、中堅になって編集者があまり口出ししなくなったら読めない翻訳ばかりになった人とか。
20年くらい前に、知り合いの知り合いくらいの人で、ジュヴナイル小説家になった人がいたが、編集者がきびしい人で、いじめられていじめられて泣きながら書いていた。でも、その編集者は優秀なので、指導のおかげで人気作家になった。が、優秀な編集者は栄転して去り、かわりの編集者が仕事できない人で、一気に本が売れなくなったと聞いた。
私も映画評論ではけっこういろいろ仕事させてもらえ、いい思い、楽しい思いをさせてもらえたけど、それを自分の実力だと思ったことはない。仕事を依頼できる立場の人たちに気に入ってもらえたということなのだ(感謝)。

2015年11月17日火曜日

近況報告(追記あり)

全然更新してませんでしたが、先日、31年住んだ東京都から某県某市に転居し、もう都民ではなくなりました。
31年のうち30年間は文京区民でしたが、文京区は22年住んだA地区が最も愛着があり、続いて最近4年間住んだ高級住宅地のB地区が思い出深いです。一方、その前4年間住んだC地区は住み心地はあまりよくなかったなあ。そして、一番最近住んでいたD地区は最悪でした。(アルファベットは頭文字ではない。)
D地区は、その地区自体が悪いわけじゃないし、こちらもなかなかの高級住宅地なのですが、住んだアパートが最悪だった。
1 近くにエネファームがあって、1日24時間低周波音を出す。
2 窓の下の路地で近所の情緒不安定な子供がしょっちゅう大声で叫んでいる。
3 アパートの部屋の収納が高いところにしかないため、ふとんや重い段ボール箱を入れることができず、6畳の部屋の半分が常にふとんと段ボール箱に占領されていて、まるで倉庫に住んでいるようだった。おまけにアパートの造りが悪いのか、引っ越してから腰痛が絶えなかった。
4 アパートの部屋と、その隣の大家宅の一室の間の壁が薄く、どんな小さな音も聞こえる、逆に言うとこっちの音も丸聞こえと思ったら、音をたてられなくなった。これまでも木造アパートにはいくつも住んだが、これほど筒抜けの部屋は初めて。
5 10月に入ったら、部屋にものすごい悪臭がたちこめるようになった。この頃には郊外の公団住宅を借りて二重生活に入っていたので、このアパートに泊まることはなくなり、完全に倉庫となっていた。
とにかく1から4が耐え難かったので、9月の下旬に某県某市の古い公団住宅を借り、そちらで生活するようになったのですが、その頃から腰痛も治り、精神状態もかなりよくなってきました。その団地の周辺は緑が多く、歩いていける距離のところに広大な自然公園があり、また、某市の人々は柔和で親切、子供ものびのびと遊んでいて、自然公園で子供が遊ぶのを見るのが楽しいと感じるほど。以来、都心へ行くと強いストレスを感じるようになり、ついに完全な転居を決意したのでした。
それでも都心と郊外に2つ部屋を持つというのはなかなかに魅力的で、また、長年住んだ文京区のA地区の銭湯に通っていたので、銭湯のおかみさんや、それに、銭湯の帰りに必ず会う猫に会えなくなるのがさびしいとか、しばらく悩んだのですが、そのD地区のアパートからは早く出たかったので、ついに決断。特に10月からの悪臭はきつかった。
このD地区では、2万円も払った仮の入れ歯が全然使い物にならないとか、不用品回収業者から3個の品物を回収するのに3万円要求されたとか、ぼったくりされまくりでした。不用品回収業者は断ったけど、なんか、世間の人って、財布に常に2万とか3万とか入っているんでしょうか? 私は財布に1万円未満しか入ってないのが普通で、おかげで不用品業者のぼったくりには乗らなかったのですが。
で、いよいよ引越、ということになって、今度は引越業者にやられました。
この業者はその悪臭のするアパートを仲介した不動産屋の紹介でしたが、今まで頼んだ引越し屋の中で最悪でした。料金もけっこう高くて、これだったらあと1万数千円足して日通に頼めばよかったと激しく後悔しています。つか、ヤマトのボックスの引越の方が安かったけど、ヤマトは搬出と搬入で2日かかるので、二の足を踏んだのだよね。
その前はいわゆる安売り3大大手の1社に頼んだのだけど、還暦すぎた女の私が持ち上げられる段ボール箱を若い男がまったく持ち上げられないのにショックを受け、不動産屋に相談したのが運のつき。段ボール持ち上げられなくても引越は無事完了したんだから、こっちの方がマシでした。
考えてみたら、最悪の部屋を仲介した不動産屋の紹介の引越業者は最悪で当然、なのでしょうね。その不動産屋も退去の連絡とかスムーズでなくて、ここがそもそも失敗だったかなあ。
文京区を離れるので、思い出の場所を散歩してまわったとき、22年間住んだアパートのそばに来たので、大家さんの家に寄ってみたら、高齢の大家さんは健在でした。8年前に引っ越したときは大家さんは病気でかなり具合が悪かったので、心配していたのだけど、回復してすっかり元気になっていました。しかも、私が住んでいた部屋がもう2か月も空いているそうな。
それにしても、9月下旬からの2か月間、生活のにおいのする荷物は文京区のアパートに置き、必要なものだけ持ってきて団地の部屋で生活していたときは毎日がリゾートのようでしたが、荷物がすべてこっちに移ってくると、ここはもうリゾート地ではなくなってしまうのが残念です。近くに1坪7000円のレンタルスペースがあるからそこに荷物を置けば、などと考える今日この頃。とにかく家賃は安いです。

追記
翌日、その最悪引越業者への怒りが収まらない状態で、その最悪業者を紹介した不動産屋へアパートの鍵を返しに行き、そのことを報告すると、意外な事実が。
実はその不動産屋は自分のところで契約したお客さんのために、不動産屋が直々にその引越業者に電話して引越の依頼をしていたとのこと。不動産屋からの電話なので、業者は異常に安い値段で最高のサービスを提供。なので、お客さんはみな、この業者のことをよく言う。それで不動産屋はこの業者は安くて評判がいいと思い込んでいる、ということがわかったのです。
私の場合は不動産屋は引越業者を紹介してくれなかったので、一部のお客さんだけへのサービスなのでしょうが、引越業者からすれば、この不動産屋から来る依頼は儲からない、損するだけ、なのに違いありません。そこへ、業者を推薦された私が電話してきて、この不動産屋の紹介であると言った、しかも、転居先が不動産屋の管轄外なので、出ていくのだということがわかる。そこで、業者は高い値段をふっかけ、最悪のサービスを行ったというわけです。
この業者は客のクレームをかわすことを日常的に行っているという感じがしたので、不動産屋の直々の依頼以外ではかなりひどいことをしているのではないかと思います。
この不動産屋によると、引越業者についてのクレームは作業員の言動が乱暴ということばかりだそうですが、私はこれまでかなりの回数の引越をしているけれど、作業員の言動が乱暴だと思ったことは一度もありませんでしたし、今回も問題は、会社が高い料金をふっかけた上、嘘を言って依頼させ、当日もするべき連絡を何もせず、何時間もこちらを待たせ、こちらが電話してものらりくらりとごまかす。というか、当日の朝に電話すると言っていたのに電話をよこさないとか、とにかくひどい。こんなひどいところは初めてでした。電話の応対にも本当に誠意がなく、客をなめきっているのがわかるものでした。
不動産屋の方は特に悪いわけではないですが、今から思うと契約のときからどこか変でした。ここに行かなければ、最悪のアパートに入ることもなく、近くの歯医者で使えない入れ歯に2万も取られることもなかったのですが、なにか悪いものに魅入られて、そこに行ってしまうみたいなことが人生には何度もあるような気がします。

2015年10月17日土曜日

谷中 の ようなもの

森田芳光の商業映画デビュー作「の・ようなもの」の続編が、森田映画ゆかりのスタッフや俳優たちによって製作された。
題して「の・ようなもの の ようなもの」。
内容は前作の主人公、落語家の志ん魚の35年後を描くというもの。
志ん魚はすでに落語家をやめていて、谷中で便利屋をやっている。その彼を探しだし、亡き師匠や後援者のためにもう一度落語を、と口説くのが若手落語家の志ん田。この若い落語家と、もう60歳近いと思われる元落語家の、落語というよりは漫才のようなもの?で話は進む。
森田の「の・ようなもの」は昔見たきりで、どういう内容なのかすっかり忘れているけど、森田映画の中では特に好きな作品の1つとして記憶に残っている。
そういや、以前、森田作品の私のベスト5とか考えたことがあったっけ。
1位は「ときめきに死す」で、あとは順不同で「の・ようなもの」、「それから」、と、えーと、あとはなんだっけ。あとでゆっくり思い出します。
この「の・ようなもの」続編も、ほのぼのとした雰囲気で、笑わせる場面も多く、なかなかよい映画だったが、その一方で、気になることもあった。
志ん田が志ん魚を探して日光やら長野やらへ行くのだけど、最初日光へ行く時の列車がJR日光線なのだ。
志ん田が谷中のあたりに住んでいるとしたら、最寄駅は日暮里だから、常磐線で北千住に出て、そこから東武線で日光へ行くのが普通だと思うのだよね。つか、日光行くならJRより東武の方が便利で安い。私も北千住からよくスペーシアに乗って行ったわ、日光(ホッケー見に)。
たぶん、東武の許可もらうとか面倒だったんだろうね。あるいは、JRの方が景色がいいとか。
ちなみに、日暮里駅には宇都宮線のホームはなく、線路をただ通過していくだけです。日暮里駅の外にはいろいろな鉄道が見られる場所があって、あの辺は鉄オタのメッカなのよね。
森田監督も鉄オタだったってことで、この映画にもいろいろな鉄道が出てくるのだが、鉄オタでない私にはどれが何だか判別不能なのがちょっと悔しい。
それから谷中ですよ、谷中。
今の区に引っ越して以来30年、谷中は近いので、何度も行っているが、猫ウォッチングを始めてからはさらにいろいろな場所に出入りするようになり、台東区にも詳しくなった。
それで気になるのは、志ん魚が家の前のゴミを集積所に持っていくアルバイトをしていること。
実は台東区はゴミは軒先収集で、家の前に置いておくことになっている。だから、谷中ではこのバイトは成立しない。
ただ、谷中は文京区と接しているので、文京区側でならできますが。
よみせ通りという通りが台東区と文京区の境になっていて、通りの片側にはゴミの集積所があり、もう片側では軒先収集というビミョーな地区。
それ以外にもいろいろ知っていると気になるのだが、志ん田が金網のある陸橋を通るシーンが何度かあって、ああ、あれは谷中霊園から線路を超えて荒川区東日暮里に出る橋だな、この状況で志ん田がここを通るのは変だよな、とか。
谷中といっても、たとえば谷中商店街は片側が台東区、もう片側は荒川区で、有名な夕焼けだんだんは完全に荒川区。そして日暮里駅も荒川区。荒川区も含めて「谷中」と総称されているところがある。
もちろん、映画を作った人たちはこういう事情は知った上で、映画として、古きよき町・谷中というフィクションを作り出しているのだろう。まさに、の・ようなもの。の・ようなもの、とは、現実に似たフィクションという意味にもなる。劇映画はすべて、の・ようなもの、なのだ。森田映画の根底に常にこの考え方があると思うと、わかってくることがある。
谷中の有名なヒマラヤ杉とそのまわりの古い民家(元商店の名残りがある)が何度か出てくる。この地域は大資本に買われ、いずれビルにされてしまうと言われている。ヒマラヤ杉の右側の道は言問い通りに通じていて、その道沿いのアパートが空いていたときに引越を考えたことがあった。行ってみたら、言問い通りに近いので騒音がうるさく、あきらめたが、あのあたりにはまだ古い民家やアパートがある。観光客は普通、左側の道を行く。
そしてラスト近く、森田家の墓がある墓地の背後に、うっすらと浮かび上がる高層ビル。これは日暮里駅前の3つの高層マンションだ(所在地は荒川区東日暮里)。
ヒマラヤ杉と日暮里の高層マンション。失われゆく谷中と、その近くの新しい「町」。この辺の押さえ方はとても納得であった。

マレフィセント(ネタバレ大あり)

「アナと雪の女王」の次回作だったので、このアニメを見た人は必ず予告編を見るので、「アナ雪」に続いて大ヒットとなったというディズニーの実写ファンタジー「マレフィセント」。人気があるのか、去年の映画なのになかなかツタヤで旧作にならず、結局、準新作で見ました。
なんだ、これ、「アナ雪」と同じパターンじゃないか、というのが最初の感想。
要するに、女たちの連帯と真実の愛。女たちといっても姉妹とか疑似母娘とか家族系の女たちですが、彼女たちの戦いに男が協力するというのも似てるし、なにより真実の愛が、愛が。。。
って、こう書いた時点ですでにネタバレですが、以下、ネタバレ大ありで行きますので、注意してください。

「マレフィセント」は「眠れる森の美女」のスピンオフというか、王女に呪いをかけた魔女マレフィセントが主役で、実は彼女は悪い魔女じゃなかった、というお話。
なので、設定とか完全に変えてます。
まず、この世界は人間の世界と妖精の世界があって、妖精の世界は平和だけど人間の世界は争いばかり、という設定ですが、なんかすごい乱暴な設定で、出てくるのは主役クラスの妖精と人間だけなので、それ以外の妖精も人間もほとんど描かれないから、一部の主役クラスの妖精と人間だけで話が出来上がっているので、妖精の世界と人間の世界なんていうほどの広い世界じゃないわけです。なんつうか、小さいグループが2つある程度なんです。
で、マレフィセントが生まれてきた王女オーロラになんで呪いをかけたかというと、それは、オーロラの父親が自分を裏切り、傷つけたから。まあ、それはいいです。
このあとは「眠れる森の美女」とまあまあ同じで、父王は糸車をすべて隠し、オーロラは3人の妖精に森の中でひそかに育てられる。
が、マレフィセントが悪役でないとなると、この3人の妖精がその分悪くなるんですね。この3人、とにかくダメダメな妖精で、育児はまったくできない。なので、オーロラは飢え死にしそうになったり、崖から落ちそうになったりで、呪いが実現する前にオーロラ死んじゃうじゃないか、ってわけで、マレフィセントがオーロラを助けまくり。助けられたオーロラはマレフィセントをゴッドマザーとして慕う。マレフィセントもだんだんオーロラが好きになってしまい、母娘のような関係になる。
しかし、マレフィセントにも一度かけた呪いは解けない。やがて呪いが実現する日が近づき、というところでまたも別展開に(ネタバレ大ありですから注意)。
とにかくあの3人の妖精がガンなんですが、この3人がオーロラに呪いの話をしてしまうのですね。オーロラはゴッドマザーとして慕っていたマレフィセントが、とショックを受け、王の城へ出かけていく。母親の王妃は心労のためにもう亡くなっているのですが、この父王ってのがなんだろね、娘を愛してない。もともと、娘を愛していたから糸車を隠したり、3人の妖精に託したりしたのだろうに、娘と再会したとき、明らかに王は娘を愛してないのだ。なんか、この王の人物描写がすごく雑で、イライラする。これじゃご都合主義の悪役でしかない。
でもまあ、そういう親父と対面したせいか、オーロラはじっと手を見る。指を見る。そして糸車が隠してある部屋へ。
あれ、糸車全部燃やしたけど、1つだけ残ってたという童話の話は無視か。
オーロラが昏睡状態になったあとも、童話では長い年月がたつのでその間、人間たちは石になってたとか、そういう展開だったと思うのだけど、こっちはそんな悠長なことはやってられないのか、さっさと話は進む。
で、ネタバレ大ありだと何度も言うが、呪いは真実の愛によるキスでしか解けない。
「アナと雪の女王」の真実の愛は、姉妹の愛でした。
「マレフィセント」の真実の愛は、母の愛なのです。
目を覚ましたオーロラはたぶん、してやったり。
じっと手を見る、指を見るオーロラは、マレフィセントは悪い魔女なのか、それとも本当に自分を愛してくれる「母」なのか、それを確かめるために糸車に手を出したのでしょう。そして、マレフィセントの愛が真実の愛だという確信もあったに違いない。
母と娘の真実の愛、まあ、それはよいんですが。
しかし、ディズニーの実写ファンタジーって、なんで無駄に暗いのだろう。とりあえず暗くしとけって感じのあまり深みのない暗さ。
あの傑作アニメ「眠れる森の美女」の明るさ、楽しさはなく、3人の妖精もつまらなくされてしまい、童話にあった魅力的な部分は失われ、かわりに別の魅力があるかといえば、あまりないような気がする。ディズニーはかつて、MGMに「オズの魔法使」でディズニーアニメの実写版をやられてしまったのだが、ディズニーの実写ファンタジーは永遠にMGMの「オズ」に遠く及ばないのではないかと思う。CGでなんでもできるということ自体が、「オズの魔法使」のような映画はできないということなのだ。

2015年9月16日水曜日

「屍者の帝国」試写会

行ってきました、「屍者の帝国」アニメ映画の試写会。
公開が迫っているせいか、補助椅子を出すほどの盛況。
しかし、終わったあと、「わからない」という声が。
でしょうね。これ、原作読んだ人だけを対象にしている感じで、最後の部分なんか、原作知らない人にはさっぱりだと思います。
その一方で、原作もかなり変えていて、レット・バトラーなど、人物もかなり減らされてます(バトラーは出してほしくなかったので、出てこないのはよいのだが)。
ワトソンとフライデーのボーイズ・ラブ的アニメになってるのかな、と思いましたが、そこまではやってないので、消化不良だし。
死んだ親友フライデーをよみがえらせたい、というワトソンの欲望をメインにしているので(原作と違いすぎる)、結果、ケネス・ブラナーの「フランケンシュタイン」に近づいています。あの映画のクライマックス、死んだエリザベスをフランケンシュタインが女の怪物としてよみがえらせるシーン(原作にはもちろん、ない)。
ブラナーの「フランケンシュタイン」は最初から、死んだ愛する人をよみがえらせたいという感情が出ていて、この辺が原作と違ってましたが、こういう感情は観客に受けやすいので、映画ではよく使われます。でも、小説ではちょっと手垢がついてる感じがあるので、円城塔が完成させた「屍者の帝国」ではこうしたセンチメンタリズムは徹底的に排除されてます(そして、最後にだけ、ちょっと出てくるから効果的なんだが)。
というわけで、原作ファンのみを相手にしている映画ですが、原作ファンがこれで満足するとは到底思えないのです。

2015年9月15日火曜日

SEALDs奥田氏@戦争法案公聴会

フランク・キャプラの映画の一場面が日本の現実になるほどの民主主義の危機。
https://twitter.com/uvanaranja/status/643670049308344320

政治生命と国民の生命を比べないでほしい。
政治家が生きるために、国民の命を差し出さないでほしい。
彼らはこの法案が成立しないと、アメリカに殺されるとでもいうのか?

2015年9月10日木曜日

デレク・プラントのニュース続々

母校UMDのホッケー部のアシスタント・コーチをしていたときはそこのニュースしかなかったデレク・プラントですが、母校のチームをやめたあとは次々とニュースが。
先月書いた、シカゴ・ブラックホークスのディヴェロップメント・コーチ就任のニュースのあと、デレクはなんと、古巣バッファロー・セイバーズのOBのゴルフ・トーナメントに参加。元チームメイトのドナルド・オーデットと先輩のダニー・ゲアにはさまれた写真が出ていました。このトーナメントには実況アナのリック・ジャネレットも参加していました。
そして、今度は、バッファローで9月24日に行われる、NHLに来年ドラフトされる可能性のある有望なアメリカ人選手の試合で、ジェレミー・ローニックとともにヘッドコーチをつとめるのだそうです。
記事(英語)
http://www.allamericanprospectsgame.com/news_article/show/551617?referrer_id=641381
ローニックといえば、JRの愛称で親しまれた大人気選手でしたが、彼もシカゴにいたのだよね。
今はテレビの解説者をしているそうですが、セイバーズの掲示板でも、時々、ローニックがこういうことを言った、とか話題になっています。
そんなわけで、9月24日にはセイバーズの本拠地であるファースト・ナイアガラ・センターにデレクとローニックがやってくるというニュース。うらやましいなあ、バッファロー周辺の人たち。

2015年9月9日水曜日

「屍者の帝国」の試写

伊藤計劃原作の小説3作のアニメ化の話は知っていましたが、「虐殺器官」、「ハーモニー」、「屍者の帝国」の順で公開されると思っていたら、「屍者の帝国」の試写状がいきなり来たのでびっくり。
つか、この3作、どれも試写状来るとは思ってなかったので、なんで来たのか不明ですが、前の前の住所からまわりまわって来たようです。
10月2日公開とのことで、試写の回数も少なく、なんとか行ければ行きたいですが、果たしてどうなることか。
絵を見ると、ちょっと原作(伊藤計劃のアイデアを円城塔が完成させたもの)とイメージが違うような。
「フランケンシュタイン」の原作には言及してないので、原作小説とのタイアップはしないのね。それでよいと思いますが。つか、タイアップしだすとカラマーゾフとか風と共にとかいろいろあって、収拾がつかなくなりそう。

7月末に引越して以来、まず腰痛になり、それがなんとか治ったと思ったら、また腰痛になり、そしてついにぎっくり腰になってしまい、この夏は腰痛との戦いで、何もできませんでした。ぎっくり腰になると歯科の治療も中断、美容院にも行けなくて、髪はぼさぼさ。
しかも、今回の引越はいまだかつてないほどの大失敗だったので、すぐにも次を探したいのに、腰痛でそれも思うように行かず。それでもUR賃貸をネットで探して、見に行ったりもしていて、先日見てきたのに決めようかと思ってますが、ここも必ず大丈夫という自信はありません。ただ、今の部屋があまりにもひどいので、ここにいたら体調がどんどん悪くなるから、とりあえずの避難場所として住んでみようかな、と、そういう感じです。

試写も時々見させていただいてまして、非常によい作品、思いがけず気に入った作品もあるのですが、なかなかじっくり書く余裕がありません。いずれまとめて書きたいと思います。

2015年8月25日火曜日

デレク・プラント、シカゴ・ブラックホークスのスタッフに

まだ詳しいことはわからないのですが、デレク・プラントがNHLのシカゴ・ブラックホークスのディヴェロップメント・コーチに就任したようです。
ニュース等、まだ見かけてませんが、デレクのツイッターと、ブラックホークスのサイトのスタッフ一覧ページには出ています。
ブラックホークスといえば、バッファロー出身の問題男パトリック・ケインを中心に、最近、何度も優勝している常勝チーム。ハシェックがここからトレードでセイバーズに来たり、デレク自身も現役時代に一応在籍していたりというチーム(デレクはほとんど二軍でしたが)。
なんかずいぶんといい転職先だのう、という感じですが、ディヴェロップメント・コーチだとあまり表には出てこないのかな。でも着実にコーチ街道を歩んでいるようです。

追記
ネットにニュースありました。
http://www.northlandsnewscenter.com/sports/Cloquets-Plante-Takes-Job-with-NHLs-Chicago-322219402.html
ドラフトされたが契約に至っていない選手のコーチらしい。

2015年8月16日日曜日

デレク・プラントのインタビュー

昨年に続き、チェコとスロヴァキアで行われたU18の男子ホッケーのトーナメント、イヴァン・フリンカ・メモリアルで、元セイバーズで元クレインズのデレク・プラントがアメリカ代表チームのヘッドコーチをつとめました。今年は残念ながら8チーム中5位でしたが、大会を終えたデレクのインタビュー記事がネットにアップされていました。
http://www.iihf.com/home-of-hockey/news/news-singleview/?tx_ttnews%5Btt_news%5D=9972&cHash=498da3ff4c12b18af31bc260fc1a1d92
選手時代とはすっかり面影の変わったデレクの写真もあります。
記事では大会についての話のあと、NHLを去ったあと、ヨーロッパとアジアでプレーしたときのことが語られています。
最近、デレクは日本とアジアでプレーしたことを積極的に語っているのですが、指導者になる上で、クレインズ時代の経験が役に立ったと思っているのではないかと思います。北米とヨーロッパでは選手としてがんばるので精いっぱいだったでしょうが、アジアリーグでは若い選手の指導をする余裕があったのだと思います。アジアリーグでプレーしたということは、北米のトップを経験したホッケー選手にとっては普通は語りたくないことだと思うけど、デレクは他の媒体でも積極的に語っています。
デレクの頃にはアジアリーグは8チームでしたが、上位4チームと、中堅2チーム、だめな2チームがあった、と言ってますが、だいたい想像できますね。今はもうなくなってしまったチームもいくつかあるのですが。当時に比べると、今のアジアリーグは拮抗してきています。デレクはその後のアジアリーグには興味がないのか、自分の時代のことしか語りませんが。
「最初の年にファイナルで負け、次の年にファイナルで勝った」、そして、「クレインズのアリーナはキャパが3000人くらいで、毎試合2500人から3000人の客が入っていた」と言ってますが、後者はだいぶ水増しというか、ファイナルだとそのくらい入るけど、それ以外は半分入るかどうかでしたね。そのクレインズ、今季は指定席をやめて全部自由席にし、チケットも全国で買えるようにしたそうで、なかなかの英断であります。お客さんが増えるといいね。

引越

約1か月ぶりの更新です。
引越当日、運び込まれた段ボール箱を動かしたときに腰を痛め、なんとか痛みが治まるまでの2週間、荷物の片付けもできず、荷物の間で寝る日々。おまけに家賃を安くするため、風呂なしアパートにしたので、腰が痛いのに毎日銭湯通いというつらい日々でした。しかも銭湯激減で、片道徒歩10分。
また、住む前には予想もしていなかったことがいろいろとあり、まあ、家賃が安くて初期費用も安かったからいいけど、なんかまた引越失敗だなあ、と。
悪いことは続くもので、Surface3を買ったからパソコンのネットはしらばく使えなくても大丈夫、と思ったら、そのSurface3が壊れた。買ったときから少し変で、途中でサポートの指示で初期化してやり直したのだが、やはり初期不良だったのか、とりあえず、返品して新品と交換となったのだけど、ネットができない日が10日くらい続く。新品が来たのと、パソコンのネットが開通したのがほぼ同時でした。
そのSurface3ですが、やっぱり必要なかったかなあ、と、プチ後悔。製品の分割払いとネット使用料で毎月8千円くらい取られるし、従量制のブロードバンドなので、Windowsの更新も思うようにできないという、うーん、これ、ほんとに必要だったのか? 単に見かけがよくて欲しかっただけなのか?
ほかにもいろいろありましたが、これまでに3回使った引越業者が倒産してしまい、今回は大手に頼んだけど、倒産した業者がいかに優れた技術の持ち主だったかを思い知らされました。あんなに優秀な人たちがやってくれて、料金激安だったからね。だからつぶれたのか。
その他、前のマンションの仲介をした不動産屋がつぶれ、それまでまったく姿を見せなかった大家が突然現れて要求を突き付けるので、引越決意したのだけど、その非常識な大家には最後まで煩わされました。そのマンション、去年の春に問題が2つ起きて、それ以来引越を考えていたのだけど、思いきれないうちにこういう事態になったわけで、去年のうちに引越していれば不動産屋もつぶれてなかったし、物件的にも当時の方がよいものがあったので、思い切りが悪かったなあと反省。
年をとると民間の賃貸住宅を借りるのはむずかしくなるので、次はUR(公団住宅)かな、と思っていますが、以前書いた、契約を不当に拒否したY営業所が、7月中旬に改築か何かで休業になってました。もめたのが6月末だったので、2週間後には閉鎖の予定だったわけで、だからまともな職員がいなかったのか、と納得。部屋選びもそうですが、この辺の自分の勘の悪さみたいなのがいかんともしがたいなあと、またも反省の日々です。

2015年7月18日土曜日

総括

というほどでもないんだけど、某大学での英米映画に見る太平洋戦争と戦後の授業が終わり、試験も済んだので、ある種の総括をしたいと思う。
この授業、以前にも書いたように、初回授業に60人もの学生が来たが、その内40人が抽選で落とされ、初回に来なかった20人が当選するという事態になり、受講生のボルテージが2回目以降、大きく下がってしまった。
初回では旧作「日本のいちばん長い日」のさわりを見せたところ、学生から、日本史の教科書にはポツダム宣言受諾としか書いていない、ただ終戦としか書いていなかった、でも、ポツダム宣言から玉音放送までの間にこんな大変なことがあったと初めて知った、もっと日本の歴史を勉強したい、という声が多数寄せられた。授業終了後にわざわざ教師のところへ来て、自分の祖父は赤紙が来る直前に玉音放送があって命が助かった、終戦が遅れたら自分は生まれていなかったかもしれない、と話してくれた。
初回に来て抽選で落とされた学生たちがみな来てくれていたら、と思わずにはいられないが、当選した学生にも熱意のある学生はいた。ただ、あまり熱心でない学生も少なくなかったし、戦争についての反応も首を傾げるものがいくつもあった。
扱ったのは真珠湾攻撃前後の米軍基地を舞台にした「地上より永遠に」、日本軍捕虜収容所が舞台の「戦場にかける橋」、アメリカ人監督が描く日本軍の戦い「硫黄島からの手紙」。そして後半は戦後のマッカーシズムを描いた「追憶」と「マジェスティック」で、この2本は昨年度までと同じメニュー。昨年度は映画やテレビの世界と社会問題がテーマで、「チャイナ・シンドローム」や「インサイダー」、「ネットワーク」なども取り上げていた。太平洋戦争を描く3本の英米映画は今回初めて取り上げた作品。
意外だったのは、「地上より永遠に」が大学生にも人気があったことだった。これは大人の映画なので、若い人にはあまり共感されないと思っていたのだが、演技派スターたちの演じる主要人物がどれも個性的で、感情移入しやすかったようだ。いじめの問題も学生には身近な問題と感じられたのかもしれない。また、後半、米兵同士が殺し合いになる展開に戦争への批判や皮肉を感じ取ってもらえたようだ。
一方、学生には理解がむずかしかったのは「戦場にかける橋」。日本でも人気が高い映画なので意外だったが、アレック・ギネス演じる大佐が橋爆破に来たウィリアム・ホールデンを見て、「自分は何をしたのか」と思い、そのあと銃撃されて爆破のスイッチの上に倒れ、橋が爆破されるクライマックスを、大佐は最後に軍人としての自覚に目覚め、意図的にスイッチの上に倒れて橋を爆破したという意見が多かったのには驚いた。これでは最後に軍医が「マッドネス(狂っている)」と叫ぶ意味がわからないだろうと思うので、そのあたり、説明はしたが、学生にはこの辺が理解できないらしい。最後にイギリス軍人としての使命に目覚めたとする解釈の方が彼らには受け入れやすいらしいのだ。
続く「硫黄島からの手紙」でもこの傾向は目立った。この映画では当時の日本人が本音を言えず、「生きて帰る」と言うことも許されず、国のために死ぬという洗脳を受けていたこと、若い兵士、西郷だけはそれに反発していたことが描かれているが、学生にとっては、硫黄島の日本軍兵士が国を守るために戦い、命を落としたというヒロイズムの方が受け入れやすいらしい。確かに「硫黄島からの手紙」には、国のために命を落とした兵士たちへの鎮魂があり、そのこと自体は間違いではないのだが、それだけではない。上に書いたような当時の日本の現実が描かれているし、また、生きたいと思った兵士が死に、自爆しようとした兵士が生き残るといった皮肉もある。
全体に学生はやはり皮肉に対する理解度が低く、「戦場にかける橋」への無理解もそこから出ているのだが、「地上より永遠に」のような描写だと理解できるというのも面白い。この3作の中では「地上より永遠に」が一番悲しみの感情を表現しているからだろう。
「追憶」と「マジェスティック」はどちらも、アメリカは第二次世界大戦は自由と民主主義を守るために戦ったのに、戦後はマッカーシズムとなり、自由と民主主義を自ら踏みにじったと主張する映画だ。当時のアメリカは米ソ冷戦という戦争の状態だったので、言論の自由や思想の自由が抑圧されたが、これを「硫黄島からの手紙」の日本の中の抑圧と比較する学生が少数ながらいた。また、「マジェスティック」のクライマックスで「憲法を守れ」と演説するところで、憲法について注目する学生もいた。ただ、こうした見方をする学生はごく一部で、大半は正直、レベルが低かったし、所詮は映画の中の世界、他人事なのかという思いも抱いた。軍人としての使命にめざめるとか、国のために戦い死ぬとか、そういう物語の世界のかっこよさに目が行くとしたら、戦争映画を通じて戦争について考えるのはむずかしいのだと思わざるを得ない。
また、学生も、大学の授業の中であるので、意見を抑制している面もあるのかもしれない。
いろいろと考えさせられた。

2015年7月17日金曜日

いろいろ勉強になります。

木曜日、あと少しで出勤という時刻にアベの犬がやってきた。
いわゆるNHK=日本滅ぼし協会。
ピンポーンと鳴らすので、「ハイ」と言うと、何か小さい声で言っている。「こんにちわ~」とか。名前は名乗らず、小さい声で「こんにちわ~」
気持ち悪い。きっとセールスか宗教団体に違いない、と思い、「セールスはお断り!」と叫んだ。
すると、「NHKです」
「NHKが何の用だよ?」
「受信料の件で」
「うちはテレビなんてものはないんだよ!」
「そうですか」と言って帰る様子(ドアはもちろん開けてない)。
「くたばれ、NHK!」と思わず怒鳴っていた。
このところのNHKの報道がひどい、戦中の大本営と同じ、という話はネットでさんざん見ていた。政権に都合のいいところばかり報道する、明らかな憲法違反の法案についても、あたかも違憲と合憲が半々であるかのように報道する、全国の大きなデモは報道せず、わざと小さいデモを報道する、などなど。
テレビがないのは本当なので、実際に見てはいないのだが、ネットや新聞で報道されているのを見ると、NHKはもはやジャーナリズムではない。国民から得たお金で国民を不幸にし、国を滅ぼす国賊放送だ。
国会前をはじめ、全国でデモが起こっていて、みんながんばっている。でも、なぜ、NHKを取り囲むデモがないのか。受信料不払い運動とか、NHKの前にみんなが自宅のテレビを持ち寄って、一斉に壊すパフォーマンスとかしないのか?
知識人とか、NHKのお世話になったことのありそうな人たちがNHKの中の人は違うとか言うんだけど、普通の国民よりはるかに高い給料を得ている彼らが内部にいて何もしないのは、彼らが仕事と地位と金を失うのがいやだからで、そして、戦争になったら、彼らのようなお金持ちの子供は戦争に行かなくていい、しかし、逆らってクビになって年収300万とかなったら、その人の子供が戦争に行くことになる。
「日本のいちばん長い日」のような、拳銃や日本刀を持った反乱将校の前で断固拒否の姿勢をしたNHKではないのだ。

NHKはアベの犬HKでも、民法はがんばって報道している。そして、NHKの受信料を払うから民放を見られるというのが日本の変な仕組みで、まともな民放の報道を見るために受信料払っているような人もいるだろう。でも、ジャーナリズムに値しないNHKに金払って民放を見るっておかしくないか?

と、いらだっているのですが、うちの近所の自民党のポスター、あのアベの写真、けっこうひどいことになってます。目のあたりが破られたり、上半分がなかったり。相当憎まれてますね。

今は犬HKなんか相手にしてる場合じゃないのだろうとは思いますが、NHKについて、こんなサイトが。
http://matome.naver.jp/odai/2143702800257801801
NHKとBBCを比べて、BBCの方がよっぽど事実を伝えているということを示しているのですが、その理由がコレ。
「NHKが劣化するのは彼らのメインの視聴者層を「高齢者」と「B層」をターゲットにしているからではないのか」
へえほう。「B層」ってなに?」と思って調べたら、こんなまとめが。
http://matome.naver.jp/odai/2132453558316284801
この「B層」っていうのは、もろ、私の敵だね。
私が目の仇にしているのがこの「B層」じゃないのかね。
だいたい新潮文庫の「フランケンシュタイン」新訳のような、原文にない尾ひれをたくさんつけて、原文とは正反対のやわらか文体にして、原文と全然違うものにしているのに(ストーリーは同じだが)、それがB層には受けちゃうわけだ。
「風と共に去りぬ」や「嵐が丘」の新訳もそうで、翻訳者の知名度や人気が優先で、作品の訳としてどうかなんてどうでもいい。
それを、新潮文庫だから、有名な翻訳者だから、で売れちゃう。
光文社の新訳文庫もわりとそうなんだろうな、カラマーゾフとか問題あっても売れちゃうわけで。
でもって、某映画雑誌も有名人の映画評しか載せなくなった。

と、ちょっと私怨になってしまいましたが、その「高齢者」と「B層」が今回、だいぶ変化しているように思うのです。
それにしても7・15アベ・クーデターの翌日に家をまわるNHKの勧誘員、いったい、何回怒鳴られたことでしょう。私もドア開けてあとを追いかけてさらに怒鳴りたいのをこらえてましたから。

2015年7月15日水曜日

予期せぬ出来事

とりあえず引っ越し先は決定。
そして、念願のタブレット、Surface3を買おうと某有名電気店へ。
土曜の夜に行ったら、店員が「買うなら今日買った方がいいですよ、今だとキーボードが無料だから」。が、あいにく本人確認書類がなく、翌日再度出向くことに。
まあ、そのあとが大変で、日曜なので客は多いし、店員は忙しいし、慣れない店員も多そうな感じで、店員の不手際からか、なかなかプロバイダーと契約できない。一度は無理なのかと思って帰ろうとしたが、その後もひと悶着あった末に、ようやく手に入れたのでした。
これで初期不良とかあったらもう泣きっ面にハチだよね、と思ったら、初期不良はなかったけど、初期設定ができない。なぜか、電源を入れてもスタートアップが始まらず、Surfaceが始まっちゃってるんですね。プロバイダーとの接続もできてる。でもこれではだめなんで、アカウントの作成とかサインインとか、適当にあちこち触ったら出てきたので、やってみたけど、途中でアウト。
こりゃあかん、明日、サポートに電話だわ、と思ってとりあえず寝て、翌日は朝からサポートのお世話に。
とにかく途中でおかしなことになったせいで、すべて初期化してやり直しだったのですが、とりあえず、初期設定はできました(半日がかり)。
ふう、先が思いやられる。
だいたい、Windowsは7どまりで、スマホに触ったこともない人間がいきなりSurface3だからいけないのか? ていうか、「できるWindows8.1」とか買った方がいいのかしらん、と思った。
この「できる」シリーズ(本)は、95のときはさすがにパソコン初めてだったので買いましたが、実際にはあまり使わなかった。メーカーも詳しいマニュアルつけてくれていたし。そのあとのXPと7は全然マニュアル見ないでできたので、今度もそのつもりでいたら、まったくだめでした。
幸い、富士通のサイトに初めてのWindows8.1という特集があったので、そこを参考にさせていただきます(さすが富士通さん。富士通のパソコン買ったことないけど)。

次は引越が決まったので、引越業者に電話。すると、「その番号は使われていません」。
ええ!と思ってネットで検索したら、2年前に倒産してた(泣)。
これまで3度利用して、とても仕事がていねいでうまくて、料金も安かったのですが、やはり小さい会社は大変だったのですね。
で、とりあえず、大手の某社に頼むことになりました。

そしてそのあとは、光ファイバーを解約して、休止していた固定電話を復活させるという作業。これが最後の難関というか、これもけっこう大変(引越先に電話線が来てないので、その工事も必要)。

ちなみにSurface3のキーボードは、ほしかった水色は一番人気でとっくに在庫切れ。土曜には他の4色はあるという話だったけど、日曜にはもう赤と黒しかなく、もともと赤が第2希望だったので赤にしました。要するに、売れない色の在庫処分の無料サービスだったのだろうか?

映画はちょぼちょぼと見てまして、火曜日は老優と少年の映画2本立て。ビル・マーレイ演じる不良老人と母子家庭の少年の交流を描く「ヴィンセントが教えてくれたこと」と、ダスティン・ホフマン演じる音楽教師と家庭に恵まれない少年の葛藤を描いた「ボーイ・ソプラノ」。どちらもほのぼのとした作品で、前者はコメディタッチ、後者はマジな感動もの。どちらも少年が父を求めていて、老優がその代わりになっているという共通点があります。
「ボーイ・ソプラノ」はホフマンがほのぼの教師じゃなくてわりときびしい系の教師ですが、「セッション」みたいなデンパ入ってるタイプではなく、昔ながらのきびしいけれど本当はいい人のタイプ。少年を見捨てた父と少年の関係が隠し味になっています。

2015年7月8日水曜日

デレク・プラント、母校のコーチを退任

久々にUMD=ミネソタ大学Duluth校のホッケー・チームのニュースを見たら、5年間、アシスタント・コーチをつとめていたデレク・プラントが個人的な理由で退任したというニュースが。
http://www.umdbulldogs.com/news/2015/6/23/MHOCKEY_0623152211.aspx?path=mhockey
この写真見ると、眼鏡までかけてすっかり年とったなあと、しみじみ思う今日この頃ですが(昔の面影ないじゃん)、デレクも44歳か。家族とすごす時間ができる、と言っているけど、しばらく休養してまた次のステップに進むのかな。この記事読むと、奥さんもアスリートだったんだね。息子たちもさぞかし優秀なアスリートに、なるのだろうか? 3人の息子のうち、2人は日本に住んでいたわけだなあ。思えば、デレクがクレインズに来たのはちょうど10年前でした。

2015年7月6日月曜日

引越で一番面倒なのは

インターネットの引越です。

子供の頃からアパートや公団住宅を転々とし、大学生になってからは一人暮らしで何度も引越をしているので、引越そのものはわりと慣れている私ですが、インターネット時代になってからは、とにかくインターネットの引越が面倒。
今のマンションの前まではネットはADSLだったので、その引越手続きをしないといけない、NTTに工事を頼まないといけない、で、引越までに工事完成とはいかないので、ダイヤルアップのお世話になったりしていました。
それでもADSLはまだ楽だった、と思う今日この頃。だって、ADSLならモデムを自分で持って引越すればよかったんだもの。
が、今のマンションに移ってからは光ファイバーですよ。
最近のマンション、アパートは光が入っているところが多いので、引越のときは光から光で楽だろうと思っていました。
が、しかし、今回、私が探したところはことごとく光が入ってなかった。
古い公団住宅、古い木造アパート。家賃安くていいのですが、光じゃない。
で、フレッツ光を解約して、ADSLにするには3週間以上かかりそうだ。しかも、光からいきなりADSLにするのではなく、いったん、ダイヤルアップにして、それからADSL申込みだと。
こりゃ、引越したら、当分、常時接続インターネットは無理じゃね?
とりあえず、今のパソコンでダイヤルアップ接続をするためにモデムを買わねばならないようです。
で、考えたのは、タブレットを買うこと。
もともとスマホは持ってないし、ガラケーとタブレットの方がよいな、と思っていたので、タブレット買おうかな、と思う今日この頃。
ああ、ネットの引越はほんと面倒臭い。

2015年6月26日金曜日

災難続き

不動産屋が夜逃げ、大家が理不尽な要求で引っ越しするはめになったのですが、その後も災難は続いています。
一応、近所で安いアパートを探しているのですが、同時に、将来を考えて、郊外の古い団地に申し込んでみようと思い、50年以上前に建てられた某県の某団地の部屋を申し込んでみました。
ここはかなり古いので設備も悪く、家賃も激安。空き部屋も多いのでより取り見取り。その中でもちょっとよさげな部屋があったので、インターネットでポチッとやってみたのです。
そして、内覧の予約をし、実際に出向いてみて、わりといいんじゃない?と思ったので、契約のための申し込みをしに都心のY営業所へ。
本来なら某県のその団地の近くの営業所へ行くべきだったのですが、Yは近いのでそっちにしてしまったのが運のつき。
最初から全部インターネットで手続きしていたので、ネットのサイトに書いてあった提出書類をそろえて持っていきました。
提出書類は住民票と、それに源泉徴収票か住民税通知書かそれに類するものが1つあればいい、ということだったので、住民票と住民税通知書を持参。源泉徴収票は確定申告で税務署に出してしまったし、源泉徴収票よりも住民税通知書の方がよいらしいので、それで大丈夫だろう、と思ったのが大間違い。
窓口に出てきたのは研修中の名札をつけたS女史。研修中なので、別室の誰かのところへいちいち行って戻ってくるので時間がかかってしょうがない。素人だな、こいつ、と思ったが、とりあえず待つ。
そして、S女史は住民税通知書の所得金額を指さし、この金額では家賃の4倍に足りないので契約はできないと言ったのです。
かつての公団住宅、今はURというようですが、ここでは収入が家賃の4倍以上ないといけないのですが、それは収入であって所得ではない。所得というのは経費が引かれたあとの金額なので、当然、収入より低い。私の場合は現在、給与収入がメインなので、計算法が決まっていて、所得は収入の3分の2くらいになります。
URの規定では確かに収入が家賃の4倍であるとネットに書かれています。
が、S女史は、所得が家賃の4倍でないとだめだと言い張ります。私が何度も収入のはずだと言っても聞きません。なぜなら、S女史は奥の部屋にいるY女史の言うことをそのまま繰り返さないといけない。なぜなら、研修中だから。自分で判断なんかできないのです。
そしてついにY女史が登場、彼女も収入でなく所得だと言い張ります。
Y女史がどの程度のキャリアなのかはわかりませんでしたが、私の印象では、研修中のS女史とあまり変わらない知識の持ち主のようでした。
2人とも税金に関してはまったくの無知で、住民税がどうやって決まるのかも知りませんでした。
Y営業所の窓口には、「警察を呼ぶ」みたいな怖いことが書いてあって、なんだか物騒な営業所だなと思いました。
Yのようなところだと、扱う物件は湾岸の高層タワーとかで、家賃も月数十万くらいしそうな物件が多いから、きっと、お客さんは一流企業の源泉徴収票を持ってくる人ばかりなのだろうと思います。そういうのしか見てない、あるいは、そういうの以外の人は全部断る営業所なのかもしれないと思いました。
S女史とY女史が収入と所得の違いを知らなかったのは事実のようで、知っていて、契約せずに追い返すためにわざとやったとは思えませんでした。ただ、断る練習をさせていたのかな?という感じはちょっとしています。
そのあともいろいろあって、こういう人たちのところで契約するのはまずいと感じたので、結局、この物件はキャンセルしました。
私も相当頭に来たので、とりあえず、少し頭を冷やして、次は地元の営業所へ行くようにします。
民間の不動産屋もねえ、貧乏そうな高齢者はきびしいんだなあと実感。年をとったときに金持ちでいられる人は限られているから、酷い目にあっている人はけっこういるのだろうと思いました。高齢者の派遣労働者を若い社員が奴隷のように使っている派遣の実態を書いた本が出たようですが、ジジババよ、怒れ!
ちなみにS女史とY女史は若めのオバサンという感じで、美人でもなんでもないので、花として置かれてるわけでもなさそうだったなあ。あれはいったいなんだったのだろう。

2015年6月19日金曜日

近況

なんかちょっと、今、プライベートなところが面倒なことになっているので、しばらく記事をあまり書けないと思います。
手短に言うと、今住んでいるマンションを仲介した不動産屋が突然廃業。更新日までに大家から何の連絡もなし。一応家賃を払って住み続けていたら、突然、大家が更新料と大家手製の契約書への署名捺印を要求。
その内容が承諾できないものだったので、引っ越すと言ったら、それでも更新料を払え、契約書に署名捺印しろという要求。
大家はそれまで不動産屋任せだったので、ほとんど顔を知らず、名前もよく知らない相手。おまけにかなりの高齢で、話が通じない。
大家以外の人では家族だという若い女性が来たが、大家の言うことをテープレコーダーのように繰り返すだけで、やはり話が通じない。
7月末までに引っ越すから、と何度も繰り返したら、ようやく納得したらしい。
というわけで、突然、引っ越すはめになったのです。
もともと、長く住む気はなかったので、それはよいのですが。
しかし、不動産屋が突然、夜逃げって、初めてでした。大家も被害者といえば被害者ですけど。
私が住む地域の不動産屋は今のところ、すべて失敗なので、今度は違う地域で探そうと思っていて、実は去年あたりから別の地域の不動産屋をよくのぞいていました。
で、どこがいいのかなあ、と思っていたのですが、検索していたら、その地域の不動産屋について書いてあるブログがありました。
評判がいいのはY商事、A不動産。
評判が悪いのはW不動産。
なんと、それは私の印象どおりです。
W不動産が高飛車、っていうのは、建物見ただけで感じていました(中に入ったことはない)。
一方、Y商事とA不動産はなんとなく親しみが持てて、一番よく見ている不動産屋でした(まだ中に入ったことはない)。
問題は、Y商事、A不動産は今住んでいる区とは別の区なのです。
別の区や市町村への転居って、けっこう面倒なんですよ。同じ区内だと転居届だけで簡単なのに。
でも、W不動産が住んでいる区の不動産屋だと思うと、この区の不動産屋はだめなのかなと思ってしまいます。
ただ、その隣の区は自治体としては評判がいいですね。多少の面倒は我慢して、住んでみるのもいいかもしれません。

リメイク版「日本のいちばん長い日」の試写を見せてもらいましたが、正直、「出来の悪い映画」という感想しか持ちませんでした。
出来が悪いけれどよいところもある、とか、ここがけしからん、とか、そういう感想すらない映画でした。
今この時期にこの映画を公開することの意義もないけれど、かといって、悪い影響もないという、だから別に積極的に批判する気にもなれません。

それにしても、旧作はすごかった、というか、あの旧作に対してこういうリメイクを作ってしまって恥ずかしいと思わないのか、というくらいですが、リメイクにはけっこうそういうものが多いです。
そう思うとまたまた批判する気にならなくなります(「チャイルド44」は批判したけど、あっちはまだ骨があったのかな)。

その旧作の一部を初回授業で見せた、某大学の映画の講義ですが、以前書いたように、初回出席した60人のうち40人が抽選で落ち、かわりに初回欠席の20人が当選したため、2回目以降はボルテージが下がりまくり。一部には真剣な学生がいますが、あまり真剣でない学生、真剣かもしれないけど理解度が低い学生が多い。その中で、たとえば、「ファシズムは必ずしも悪とは限らない」などといった感想が小テストに出てきたりするので、頭を抱えています。
授業の小テストでこういう感想を書いてしまうというのは、無邪気にそう考えているということでしょう。決してネトウヨとかそういうのではないのです。
でも、頭を抱えていても始まらない。若い人からそういう感想が出てくる原因は大人にあるわけだから。でも、そこをどうやって直していけばいいのかと思うと、また頭を抱えてしまうのです。映画でそれをすることが可能なのだろうか、という究極の問いが目の前にあります。

2015年6月8日月曜日

人生スイッチ

アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたアルゼンチン映画「人生スイッチ」を見た。
6つの短編からなるオムニバス映画で、いわゆるスイッチが入ってキレてしまった人々のお話。
「めぐりあう時間たち」や「バベル」のように複数のストーリーが同時進行する映画とか、「ニンフォマニアック」のように主人公の経験する物語が短編集のようになっている映画とかとは違って、共通のモチーフはあるが、1つ1つは独立している短編が集まった映画がオムニバス映画。この種の映画でも、ある話の人物が別の話の背景にちらっと出ているとか、そういうつながりを入れたものもあるが、この「人生スイッチ」はそうしたつながりはいっさいない、いさぎよいくらい独立した6つの短編の集まりになっている。
第1話は、とある飛行機に乗り合わせた乗客がすべて、ある男に冷たい仕打ちをした経験があるとわかり、なぜ自分たちがここに、と思ったとき、飛行機が、という話。このアイデアだけで長編映画が1本できるくらいなのだが、監督はいさぎよく短くまとめ、タイトル前のイントロにしてしまっている。なんというぜいたく。
第2話は、客のいないレストランに入ってきた男が、実はウェイトレスの親の仇で、彼女はコックに相談。コックは太ったオバサンで、話を聞いて怒り、料理に猫いらずを入れて殺しちゃえ、と言って実行する。が、なぜか男は料理を食べても変化なし。で、このコックのオバサンが前科のある人で、このあと、トンデモな展開になっていく。6つの短編のうち、4つが文字通りのバッドエンドなのだが、第1話と第3話はあまり暗くないのに対し、第2話と第5話は結末が暗い。ただ、この第2話も第1話と同様、短い話で、最初のこの2つが前座のような扱いだろうか。
第3話は、ノロノロ運転のオンボロ車を追い越した男が運転手に恨まれ、という、スピルバーグの「激突!」と同じような設定で始まる。が、スピルバーグの映画と違い、この話では追い越した方も追い越された方もどちらもクレイジーで、壮絶なけんかが始まってしまう。そして結末はブラックユーモア。これはすごい。この第3話からあとはどれも長めのストーリーで、じっくり見せる。
第4話は一番爽快な話だと思う。結末もバッドエンドではない。主人公はビル解体のプロだが、駐車禁止でない場所に車を停めてレッカー移動させられるということが何度も起こる。そのたびに苦情を言うのだが、取り合ってくれない。どうやら役所とレッカー会社の間に癒着や利権があるらしい。主人公はまじめに抗議するのだが、相手にされず、それどころか会社をクビになるわ、奥さんから離婚を告げられるわ、そこでついに、というところで、何をするかは予想はつくのだけど、そのあとが予想外の展開。ネタバレはしないが、おそらくアルゼンチンではこの種の癒着や不正が多くて、国民は怒っているのだろう。
第5話もそうした社会悪が背景にあることを感じさせる内容。ひき逃げ事故を起こし、妊婦と胎児を殺してしまった金持ちの息子を、父親が守ろうと、弁護士や警察に金を握らせて、息子が逮捕されないようにしようとする。ここでかわされる会話が金の話ばかりで、人の命などどうでもいいといった感じなのだが、途中、息子と父親が強欲な連中に嫌気がさして真実を明かそうと思うところがある。だが、一瞬、良心を取り戻した親子も結局は金で解決の方に行ってしまい、そして皮肉な結末が来る。第5話も金のからむ癒着や不正を背景にしているという点で、この2つが後半の核になっているのはなかなかに秀逸。
そしてトリを飾る第6話は、結婚披露宴に新郎の愛人がいるのを知った新婦がキレて、パーティは大混乱というお話。これもまた現実にありそうな話だけれど、それが現実にはありえないようなすごい展開になっていく。そして、そのすごい展開が、最後に予想外の結末に。バッドエンドにしかなりえない話がなぜかバッドエンドにならないという、これはまさに南米的なカオスの世界。
というわけで、ひたすらネタバレなしで書いてきたけれど、6つのストーリーがバラエティに富んでいる上、その構成もすばらしい。アルゼンチンでは「アナ雪」の2倍ヒットというのもわかる。アルゼンチン人でなくても十分面白いのだけど、アルゼンチン人ならさらに面白いのだろうなあ、と思わせる、奥の深い映画です。

2015年6月5日金曜日

It ain't over till the fat lady sings

なんだか急に思いついて、サリンジャーを読んでいた。
サリンジャーは若い頃に「ライ麦畑でつかまえて」を読んで、いたく感動したものの、なぜか、他のサリンジャーを全然読んでいなかった私。
なんで?
自分でも不明。
自分好みのサリンジャーはライ麦畑だけで、ほかは違うと本能的に察していた?
まさか。
たぶん、そう、たぶん、ライ麦畑でおなかいっぱいだったのじゃないかと思う。
レストランで、ライ麦畑でおなかいっぱいのときに、ウェイターに「サリンジャー・シェフの料理にはこんなものも、こんなものもございます」とメニューを見せられたけど、もうおなかいっぱいで、そのまま店を出た。で、その後、そのレストランの近くには行くチャンスがなかった。たぶん、そんなところ。
でも、数年前から「バナナフィッシュ」は妙に気になっていたので、「ナイン・ストーリーズ」は読んでみようかな、とは思っていた。で、6月から1年間休館になる図書館にあるノンフィクションを借りたくて、そこへ行ったとき、「ナイン・ストーリーズ」の新訳があった(野崎孝じゃないやつ)。で、そのそばに野崎孝訳の「フラニーとゾーイー」があった。「フラニーとゾーイー」は今は村上春樹の訳に置き換えられて、野崎訳は絶版状態みたいなので、これも借りなきゃ、と思って、借りた。
で、「ナイン・ストーリーズ」から読み始めたのだが、別に新訳が悪いとは思わないのだが、なにか、野崎孝訳の方が性に合ってるのかなあと思いだしたのが、半分近く読んだとき。ネットで調べたら、そのあとにある「エズメに」が野崎訳が最高とか書いてあった。「エズメに」の前で読むのをやめたのは、おそらく天啓かもしれん、とかなんとか理屈をつけて、野崎訳の「フラニーとゾーイー」に移った。
「フラニーとゾーイー」の結末近くに、「太っちょのオバサマ」というのが出てくる。聖と俗に悩むフラニーに、兄のゾーイーが「太っちょのオバサマ」の例を出して、それでフラニーが救われるという結末だ。村上春樹は「太ったおばさん」と訳してるらしいが、どうせなら「太ったレディ」と訳せばよかったのに。
この「太っちょのオバサマ」はガンを患っていてラジオを聞くしか楽しみがない女性ということらしいけど、ガンを患っていたらやせてるだろ普通、というツッコミはなしで。
で、この「太っちょのオバサマ」は英語ではfat ladyのようだ。
fat ladyといえば、記事のタイトルにしたIt ain't over till the fat lady singsという言葉が有名。もともとは「太ったレディが歌うまではオペラは終わらない」という文章で、これはワーグナーの「神々の黄昏」の最後でヒロインのブリュンヒルデが20分にも及ぶアリアをえんえんと歌って終わるのを意味してるのだそうで、ここから、太ったレディが歌うまでは(試合は)終わらない、という具合に、スポーツの世界で使われる言葉になったとのこと。
私がこの言葉を知ったのは、アイスホッケーの最高峰、NHLをフォローしていたときで、NHLの掲示板でそう書かれているのを見たのが初めてだった。NHLの試合では最初に国歌斉唱(アメリカまたはカナダ、または両方)があるのだけど、その名物歌手に太った女性がいて、彼女についてもこの言葉が言われていた。
んなわけで、「フラニーとゾーイー」に「太っちょのオバサマ」が出てきたとき、すぐにピンと来たね。これはあのファット・レディだって。
が、日本人の書いた評論にはなぜか、この決まり文句への言及がない、と文句を言っている人がいた。でも、英語で検索しても、確かにサリンジャーはこの決まり文句をヒントに「太っちょのオバサマ」を考えたんだろうとは書いてあるが、それ以上のことは何も書いてない。要するに、ヒントにしただけで、決まり文句とは関係ないのだろう。ガンを患っていてラジオを聞いている太っちょのオバサマとオペラのソプラノ歌手では全然違うし。
でも、ファット・レディが歌うまでは終わらない、まだまだ大丈夫だ、という言葉は、フラニーの人生にも当てはまる気がするのだけどね。
あと、面白かったのは、「フラニーとゾーイー」の原文を野崎訳と村上訳を比べたブログで、そこでは村上訳の方が原文に忠実である例をいくつか紹介していた。そこだけ見ると、確かに野崎訳の方がまわりくどく、説明的に長くなっていた。私だったら、村上訳のやり方にするだろうと、少なくともそこにあげている例では思った(一部だけで判断することはできないが)。ただ、その人も、「太ったおばさん」よりは「太っちょのオバサマ」の方がずっといいと言っている。

2015年5月30日土曜日

久々「バリー・リンドン」講義

今年は某大学の英米文学の講義で久々にサッカレーの「バリー・リンドン」をやった。
この講義、始めたばかりの頃はアーサー王伝説、シェイクスピアに続いてイギリス小説は「フランケンシュタイン」、「バリー・リンドン」、「ダーバヴィル家のテス」、「インドへの道」と、私の得意な作品ばかり取り上げていたのだが、どうも「バリー・リンドン」が受けない。そこで同じ時代のディケンズの「クリスマス・キャロル」にかえてみたりしたが、どうもイマイチ。「嵐が丘」や「ジェイン・エア」は別の授業でやってるらしかったので、しゃあない、ヴィクトリア朝前期は作品抜きで概説だけにしようか、そのかわり、オースティンの「高慢と偏見」を入れよう、ってわけで、「高慢と偏見」、「フランケンシュタイン」、「ダーバヴィル家のテス」、「インドへの道」とラインナップがかわっていったのだった。
で、この路線が定着したか、と思ったところに来て、今年2月のNHKの100分で名著に「フランケンシュタイン」が登場。安いムック本も出てしまって、こういうのが出ると、学生は自分の頭で考えずにムック本そのまま試験の答えに書くようになるのですね。
これまでは「フランケンシュタイン」を取り上げると、寝ていた学生がみんな起き出して真剣に聞き入るという、講師冥利に尽きる展開で、学生の反応も各自が自分の頭と心で感じたことや考えたことを書いてくれていたので、やりがいがあったのだが、テレビで取り上げられてムック本が出てしまうとこういう展開でなくなる可能性が非常に高くなるのだ。
そこで、今年は「フランケンシュタイン」をやめて、「高慢と偏見」の次に「バリー・リンドン」を入れようと考えた。そして、これがけっこうよかったように思えたのだ。
その理由を考えてみると、以前は「バリー・リンドン」はヴィクトリア朝前期の作家と作品を紹介したあと、駆け足であらすじを説明するくらいだったが、今回は時間をかけてじっくり作品の世界を紹介したということ。そして、オースティンの「高慢と偏見」のすぐあとだったのがよかったのだと思う。
「高慢と偏見」と「バリー・リンドン」はイギリスの階級や結婚観などの点で共通点が多い。「高慢と偏見」が女性の世界なら、「バリー・リンドン」は同じ世界を男性側から見たもの。だから、「高慢と偏見」ではこうだったけれど、というような説明が可能になったのだ。
要するに、「フランケンシュタイン」の次に「バリー・リンドン」ではだめだけど、「高慢と偏見」の次ならよいということだろう。
確かにオースティンとサッカレーはイギリス中産階級を皮肉とユーモアで描くという共通点がある。だが、「フランケンシュタイン」はフィールディング、オースティン、サッカレーといったイギリスのリアリズム小説の流れからははずれた作品なので、流れとして別の世界になっているのだ。「フランケンシュタイン」は18世紀のゴシック小説、ヴィクトリア朝前期のブロンテ姉妹などと一緒にやった方がいいのだろう。
「フランケンシュタイン」は来年くらいになればテレビのことは忘れられるからまたやってもいいかな、と思うのだが、来年ではまだ早いかもしれない。それに、やるとしたらイギリス小説のあとのアメリカ小説のさらにあと、SFとファンタジーでやった方がいいのだろうと思う。

2015年5月27日水曜日

フェルメールの天文学者

火曜日は1日に3つのイベントをこなしたので、かなり忙しい日だった。
まずは今月で終わり?というシネマート六本木での試写(映画館は6月14日閉館とのことです)。ヴェネツイア映画祭金獅子賞受賞のスウェーデン映画「さよなら、人類」。
シネマート六本木は3つのスクリーンのある古い建物で、そのうち1つが試写室になっていたのだが、ここは冷房を入れると寒いし入れないと暑いという、夏は行きたくない場所だった。でも、それさえなければけっこう好きな試写室で、座席数が試写室にしては多いので入れないことはめったにないし、階段利用の地下なので帰りも便利(エレベーターのみの試写室は帰りが大変)。座る席もだいたい決まっていて、私好みの試写室だった。
そんなわけで、「さよなら、人類」を見に行ったのだけど、このところの暑い陽気で、冷房がうまく効かないこの試写室を最後にまた経験してしまった。暑い中、駅から歩いて試写室に入り、冷房が入っていないと、汗だらだらになってしまうのだ。でもまあ、これが最後なら。
で、いろいろと意味深な短いエピソードから成る「さよなら、人類」を見た後は、同じ六本木の国立新美術館のルーブル美術館展へ。

正直、私は美術館は上野専門で、他はめったに行かない。なので、国立新美術館も興味のある美術展はあったのだけど、なかなか行く気になれなかった。
今回はフェルメールの「天文学者」初来日、ということで、別にフェルメールのファンじゃないけど、「天文学者」と「地理学者」は興味あったので、これは見たいな、と思い、たまたまこの日は火曜日なのに開館(いつもは火曜日が定休日)。シネマート六本木のあとに行くとちょうどいいので、出かけた。
まあ、しかし、混んでますね。上野とは桁違いに混んでる。だいたい、「ルーブル」とか「印象派」とかつくだけで混みそうな雰囲気なので、ずっと敬遠してたのだけど、まあ、とにかく人が多い。上野のフェルメールの真珠の首飾りや耳飾りのときはこんなに混んでいなかった。
展示はいろいろな絵画を時代別に並べていくタイプで、こういうのは私はあまり面白くないのだが、予想どおり、フェルメール以外はまあまあな感じ。そのフェルメールの「天文学者」は上野の東京都美術館の「真珠の耳飾りの少女」と同じく、絵画の前に行くコースは立ち止まっちゃだめ、絵画の前に行かないところでは立ち止まっていい、という仕様。「真珠の耳飾りの少女」は細かいところのない絵なので、それでよかったが、「天文学者」は細かいところが多いので、前に行っても立ち止まっちゃだめだとよく見れない。立ち止まっていいところだと遠くてよく見えない。オペラグラス持ってる人がいたけど、フェルメールに限らず、国立新美術館のタイプの展覧会はオペラグラス必要だと通切に感じた。上野ではそんなことは一度も感じなかったのだが。
まあ、そんなわけで、立ち止まっちゃダメのコースを2回通り、立ち止まっていいスペースでじっくり見たけど、それでもよく見えない、見た気になれない感が圧倒。たまたま立ち止まっちゃダメコースがすいていたからいいけど、そのあとどっと混んできて、何度も通るのが大変な感じになっていった。
この「天文学者」がちょうど真ん中くらいで、なんとなく消化不良でがっかりしていたが、そのあと、「これは!」という作品が出てきた。
イギリスの画家ゲインズバラの「庭園での会話」。木々の茂る庭園のベンチに座った男女を描いた絵で、見た瞬間、思わずそこに立ちつくしてしまった。音声解説もないので、人はあまり集まらない。だから、前でじっと立って見ていても全然平気であった。
美術展に行って、1つだけでも「これだ!」と思える作品があれば、行った価値があったというもの。このゲインズバラはターナー、コンスタブルと並んで、イギリスの代表的な風景画家だが、実はキューブリックの映画「バリー・リンドン」の映像はコンスタブルやゲインズバラの絵を参考にしたと言われている。そして、このゲインズバラの「庭園での会話」は、まさにその「バリー・リンドン」の世界、いや、原作者サッカレーの世界そのものだった。
うっそうと茂る木々のみずみずしい緑を背景に、ベンチに腰かけた男性の赤い服と女性のピンクのドレスが際立つ。まじまじと見てしまったけど、ピンクのドレスのきらめきがなんとも言えず、背景の緑がまた美しい。絵ハガキは残念ながら、その色合いをまったく表現できていなかった(カタログも同様)。
というわけで、ゲインズバラの絵に出会えただけで来たかいがあったというもの。もちろん、ほかにも気に入った絵はありましたが、なんというか、こういう百花総覧みたいな、あまり求心的なテーマがない美術展はどうも面白くないのですね。やっぱり上野の西洋美術館がテーマがはっきりしていて面白いな。国立新美術館はワンフロアでの展開なのがよいけれど。ただ、この種のガラス張りの建物って、もうあまり流行らなくなっているような。

ルーブル美術館展のあとは東銀座で「ルック・オブ・サイレンス」の試写。インドネシアの50年前の大規模な虐殺事件を描いた「アクト・オブ・キリング」の姉妹編で、虐殺を正しいと思い、良心の呵責を感じない加害者たちを前回は加害者側から描いたのに対し、今回は被害者側から描くというもの。これもヴェネツイア映画祭で5部門受賞なのだけれど、前作に比べていろいろとむずかしいというか、やはり個人としての加害者だけ責めても限界があるな、という感じがした。
最初に見た「さよなら、人類」も人間の歴史の暗部を描いたようなところがあり、「ルック・オブ・サイレンス」とあわせて、そういった面について考えさせられる。

2015年5月25日月曜日

キング牧師の映画

キング牧師が1965年に黒人の投票権を求めて行った抗議の行進を描いた映画「グローリー 明日への行進」を見た。
この映画、アカデミー賞作品賞候補になったときは日本での公開が決まっておらず、主題歌賞を取ったので公開が決まった。
映画自体はちょっと演出がぬるいところもあるのだけれど、たまたま試写を見たのが先週の月曜日で、その前日の日曜日に大阪市で市を解体して特別区にするかどうかの住民投票が行われ、また、東京・秋葉原ではヘイトスピーチの団体が警察に守られてデモをするということもあったので、いろいろと考えさせられたし、また、キング牧師の力強いスピーチには何度も目頭が熱くなった。
アメリカは1965年にはすでに黒人にも投票権があったのだが、あちらは投票するには有権者登録をする必要があり、南部では黒人の有権者登録を妨害していたのだ。そこで、キング牧師は大統領に、黒人の投票権を守る法律を作るよう迫るが、大統領はなかなか行動しない。そこでキング牧師は南部の中でも最も人種差別が激しいアラバマ州セルマで抗議の行進をするが、警官隊によって参加した黒人たちが多数負傷するという事件が起こる。それがテレビで放送され、全国から支援者が集まり、次の行進には白人も多数参加。参加した白人が差別主義者の白人に殺されるという事件も起こる。
大統領はキング牧師に妥協案を出したりするのだけれど、キング牧師はぶれない態度を貫く。このぶれない態度というのが、大阪市の解体に反対した自民党大阪府連や沖縄の翁長知事の態度を連想させて、やっぱりこうじゃないといけないのだなあと思ったりした(自分だったらけっこう妥協案にのってしまいそうな気がしたので)。
大阪市の住民投票は、とにかくあの都構想というのがかなりいかがわしくて、賛成派の市長らが大金をつぎ込んで宣伝活動し、反対する側は自民党から共産党まで一致団結してはいたけれど、草の根で活動していたというのが印象的で、おまけに自民党は反対なのに官邸は大阪市長に肩入れして、その背後にはこの住民投票を憲法改正につなげようとしているのでは?という憶測もあり、どうなるかと思ったのだが、僅差で反対派が勝利。しかし、その結果に対し、高齢者や生活保護受給者のような弱者が反対するから世の中がよくならないという論法がマスコミや評論家などから流れるようになった。
そして、弱者は社会に養ってもらっているのだから投票権をなくせとかいった主張まで出てきている。大阪市の住民投票は女性の反対が多かったのだが、さすがに女は投票権を持つなという論調は出ていないが、極端なことをいえば、この論調は女性の参政権を奪うところまで行くような理論なのだ。
結局、日本には民主主義は根付いていないのではないか、投票権の意味がわかっていないのではないか、という気がして、最近は暗澹たる思い。キング牧師のような投票権をめぐる戦いが日本でなかったからなのか。
そんなことを考えると、「グローリー」はやはり見るべき映画だと思う。

2015年5月21日木曜日

「つまびらかに」と「ポツダム宣言」

安倍首相がまたやっちまったので、今度はポツダム宣言がトレンド1位とか、以前は日教組がトレンド1位になったのですが、ポツダム宣言は衝撃的で、もう英文記事が世界に発信されているようです(もう、ほんとに日本を滅ぼすよ)。(追記 なんと、欧米ではまったく報道されてないそうです。)
で、ポツダム宣言を読んでないからわからないというのも問題なんですが、私が気になったのは、「つまびらかに読んではいないので」という答弁。
「つまびらか」って、こういう使い方するのか?
調べたら、「つまびらか」はもともとは「つばひらか」または「つまひらか」なのだそうで、意味は「詳しく明らかなさま」ということなのだけど(この言葉、私は一応、知ってるけど使いません。私は執筆でも翻訳でも、シソーラスか何かで調べて見つけた言葉を使うということを絶対にしない。自分の頭から直接出てくる言葉しか使いません=だから翻訳家には向かないのだった)、文法的には形容動詞。おお、なつかしの形容動詞だわ!
で、用例としては、「真相をつまびらかにする」、「生死のほどはつまびらかでない」といった言い方。うん、納得!
が、「詳しく読んでいない」を「つまびらかに読んではいない」はやっぱり変だと思う。
「真相を詳しくする」、「生死のほどは詳しくない」という日本語が変なのと同じ。
文法的にいえば、形容動詞を間違って副詞として使ってしまったのが、「つまびらかに読んではいない」だと思います(国語学のみなさま、いかがでしょうか?)
おそらく、「きちんと読んでいないので、その問題についての私の認識はつまびらかでない」というのが正しい日本語であると思います。
まあ、首相の問題はポツダム宣言を知らないということではなく、日本はポツダム宣言を受け入れた、でも、私には関係ないし、私は受け入れないってことじゃないかと、ツイッターあたりでは指摘されています。英文記事もリジェクトという英語を使っていますよ。いいのか、これで?

ということで、ネット界隈ではみなさん、改めてポツダム宣言を読んでいるようです。
現代語訳(英語原文へのリンクもあり)。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/05/20/potsdam_n_7341178.html?ncid=tweetlnkjphpmg00000001
安倍首相は国民にお勉強させてくれますね。

さて、今年の前半は某大学の映画の授業で英米の監督による太平洋戦争の映画をとりあげているのですが、初回授業で「日本のいちばん長い日」の一部を見せました。その冒頭に日本がポツダム宣言を黙殺し、その後、広島長崎に原爆が落ちた、という一部始終が描かれていて、とても勉強になります。日本側にはポツダム宣言受諾すべきという意見があったにもかかわらず、軍が一億玉砕を主張、それで黙殺になってしまったという経緯が描かれています。
実はこの授業、初回は60人もの学生が出席していたのですが、なぜか2回目は30人ほどに減り、どうしたのかと学生に聞くと、初回のあとに抽選があったのだそうです。なんでもこの授業は40名定員なのだとか(担当教師が知らないのもなんだけど、非常勤だからね)。で、実は、初回に出た学生60名のうち40名くらいが抽選で落ち、初回に出席した20名と、出席しなかった20名になったようなのです。初回に出席しなかった学生の中にはもともと出る気のない学生もいるようで、毎回30人ほどしか出席していません。
というわけで、なんとなくボルテージが下がってしまうのですが、それでも熱心な学生はいるので、なんとかやっているというところです。

2015年5月20日水曜日

美しき冒険旅行

十代の頃に公開されて、ずっと気になっていた「美しき冒険旅行」をDVDで見た。
公開当時はあまり話題にならなかったが、ジェニー・アガターが全裸で泳ぐシーンとか、アボリジニの少年と一緒に全裸で立っているシーンとか、けっこう記憶にあった。内容も、「スクリーン」で読んだ記事のせいか(当時は私は映画雑誌は「スクリーン」)、ああ、そうだったよなあ、という感じで、初めてなのに妙に既視感があった。
が、その一方で、オーストラリアの生き物たちをアップでとらえるシーンや、自然と文明を絵的に比較するショットとか、予想と違ってかなり尖がった映画なのが驚きでもあった。
2年くらい前だったか、私が映画の授業をしている某大学への通学路で、学生がこの映画の話をしていて、授業で映画を2回に分けて見たのだけど、なんだかよくわからない、と言っていたが、確かにこの大学の学生の多くにはかなりむずかしい作品だと思う。私の映画の授業ではこういうのは使わない。
監督のニコラス・ローグは、実は好きな方とはいえない人で、面白いし、映像もいいけれど、なんか好きとは言えないタイプだった。たぶん、彼は写真家のようなタイプで、写真で何かを語るように、映像の断片で何かを語っているからだろう。ストーリーテラーじゃないわけだ。
もちろん、その映像の数々はすばらしい。これはあの大学の学生の多くにはわかるまい、と思いつつ、その映像には魅力を感じる自分がいる。
でも、同時に、気球を飛ばしている白人たちとか、何の関係があるの?と思うところもある。
アボリジニの子供たちを教育してるみたいな白人もだ。
主人公のイギリス人の姉妹と、大人になるための通過儀礼として放浪をしているアボリジニの少年の物語に、ああいった白人のエピソードが入るのが、あまり意味がないようにも見えてしまう。
しかし、アボリジニの少年が白人の少女に恋をし、求婚のダンスを踊りながら、しかし、受け入れられずに死んでしまうエピソードは痛切に心に迫る。少女は決して自然に同化せず、文明社会をなつかしんでいて、少年の思いは一方通行に終わる。
このエピソードは、初公開時に「スクリーン」で読んでいたのだろう。初めて見たにもかかわらず、すでに見たかのように理解できた。
その少女が大人になり、あの「美しき冒険旅行」をなつかしむラスト。
批判的なことを言えば、白人の勝手でできている映画だ。
アボリジニの少年だって、求婚しても受け入れられないことはあるわけで、そのたびに死んでたらやってけないはず。だから、結局は白人の自然願望を描いた映画にすぎないともいえる。
それでも、野生の少年の愛に報いない文明の少女という悲劇を、やっぱり感動して見てしまう私は、やっぱり文明サイドの人間なんだなと思う。

ジェニー・アガターは、「若草の祈り」を初公開時に見ていて、これはかなり好きな映画だった。「若草の祈り」と「美しき冒険旅行」だけかと思っていたが、けっこういろいろな映画に出ていると知って驚いた。「エクウス」にも出てたのか。あれは初公開時に見てるけど。
なお、この映画のアガターは16歳なので、ローグは全裸のシーンを撮ってもよいと思ったというが、当時は「ロミオとジュリエット」で15歳のオリヴィア・ハッセイと16歳のレナード・ホワイティングがベッドシーン(ヌードについて一部訂正 ホワイティングが後ろだけですがヌードに。16歳というのが当時の目安だったのがうかがえます)、そして、14歳の少年少女が結婚するという「フレンズ」という映画もあった時代なので、10代の少年少女の性は今よりもおおらかに描かれていたのだった。

追記
その大学のシラバスを調べてみたら、異文化の衝突というテーマで「野蛮対文明、ビデオ鑑賞」という授業があった。これかどうかわからないけど、もしそうなら、アボリジニの方を「野蛮」て言うのか。むむむ。「文明」の反対は「未開」だよね、普通、とかひとしきりツッコミが頭をよぎるのだった。
ところで、「美しき冒険旅行」で一番はっとしたシーンは、文明人が作った石の道路に少女が足を踏み入れると、それまで聞こえなかった靴音が響くところだった。まさに文明の靴音。

2015年5月13日水曜日

創元推理文庫「フランケンシュタイン」初版の表紙

http://blog.goo.ne.jp/picarin2005/e/da4e959f923111e3bb593b29d5200daf

創元の「フランケンシュタイン」の表紙は今とは違っていたんですよ、そのうち段ボール箱をひっくり返して探して、写真アップしますね、などと書きながら、全然その気がなかったのですが、初版の表紙をアップしているブログがありました(上記)。
おお、本文と解説からも引用が!
同じ頃に出た「ガストン・ルルーの恐怖夜話」と同じ人のイラストだと思いますが、なんかすごくシックで、ホラーって感じがしませんね。この写真はあまり鮮明ではないですが、けっこう光沢感のあるきれいな絵でした。「恐怖夜話」の方もきれいでした。

しかし、前に(http://sabreclub4.blogspot.jp/2015/02/blog-post_27.html)、新潮文庫と角川文庫の「フランケンシュタイン」はどちらもタイトルが明朝体で、上に横書きでそっくり、と書きましたが、創元の初版の表紙がまったくそれだったんだ(原題が創元は一番下で、他は一番上の違いあり)。絵の色合いとかもかなり似ています。が、創元は人間が描かれていません。
やっぱ、この初版の表紙が地味だったんで売れなかったのかな。

多くの翻訳では、真ん中の怪物の語りの一人称を「おれ」にしていると思いますが、創元の訳では「自分」という言葉が使われていますが、もともと怪物の語る英語は格調高いので(なんたって、ミルトンから学んでますので)、そうしたとかいう話を聞いたことがあります。

なんにしてもなつかしい表紙。上記ブログの主様に感謝。

追記 ブログ主様の引用見たら、「全体的な完成度は今一歩」とか書いていたんだね、自分。今となっては作品としての優劣とかはどうでもいいんだけど、当時はやはり主流の古典と比べていた英文学の学徒としての自分がいたのだなあ。

2015年5月10日日曜日

大学でフランケンシュタイン(追記あり)

最近、「フランケンシュタイン」がずいぶん流行っているみたいだな、きっと、大学の授業でもやっているんだろうな、と思ってぐぐってみたら、いろいろな大学のシラバスが出てきました。
中には数年前の私の授業も出てきたが、あれは2年やったあと、やめています。
私の場合は「フランケンシュタイン」と人造人間テーマの映画という内容だったので、「フランケンシュタイン」(これは小説)から始まって、「ブレードランナー」、「ロボコップ」、「シザーハンズ」、「A.I.」、「アイ、ロボット」と映画が続き、最後に小説「わたしを離さないで」でしめるというものでした。
これだと「自分探しのテーマ」、「異端の人間のテーマ」、「生命倫理」、「アシモフのロボット三原則」あたりが全部入るという、以前からやりたかった内容で、たまたま某大学がチャンスをくれたので実現したのでした。
で、1年目は学生の反応がよかったのですが、2年目の反応が悪くて、2年でやめてしまいました。
同じ年にウェルズの「宇宙戦争」から始まる宇宙人テーマの授業もやってましたが、これも2年でやめています。
その後はおもに20世紀や現代を舞台にした普通の映画をいろいろなテーマに合わせて選んでやっていますが、学生にはやはりSFよりこの方がとっつきやすいみたい。

なのに、なんで、「フランケンシュタイン」が人気があるのか?
SFとして、ではない扱いだから?
そうかもしれない。怪物がかわいそうとか、そういうので人気があるのか?
先だってのNHK教育の番組も、ムック本を見ると、怪物とは誰のことか、とか、怪物は虐げられた女性だとか労働者だとか、ああ、そういうふうにしないと受けないのね、と思ってしまったわ。
それと、フランケンシュタインが無責任だという意見が一般に多いのだけど、確かに前半は無責任だけど、後半、女の怪物を造るときには、彼は怪物への責任と人類への責任の板挟みになるのだよね。そこに科学の深いテーマがあるのだけど、どうも英文学者は、女性を破壊するとかそういうフェミ系の解釈の方が好きみたい。
あと、フランケンシュタインが女の怪物を造らないことにした理由の1つが、女の怪物が怪物を好きにならなかったら、と思ったから、というのも重要で、ここから「フランケンシュタインの花嫁」とブラナーの「フランケンシュタイン」のクライマックスが生まれたのです。
女の怪物にさえ選ばれない怪物=究極の非モテですね。でも、女にも選ぶ権利があるのだよね。
実はこのあたりのテーマ、最近興味持ってるのですが、なんか、「フランケンシュタイン」だとフェミ系が多くて、それでなんとなく最近はやる気なくしてます。

さて、各大学のシラバスの「フランケンシュタイン」を見たのですが、うーん、やっぱり、大学の先生はこの程度なのか? 見てみないとわからないけど、全然SFわかってなさそう。まあ、オールディスの「十億年の宴」も翻訳は絶版だしな。
でもまあ、学部レベルならこれでもいいのかなと思うけど、東大の大学院のシラバスにも「フランケンシュタイン」があって、1818年の初版のテキストを読む、というのはいいんだけど、参考文献が、これが東大の院生が読む本か、と思って絶句してしまったよ。まあ、駒場だしな、と思わず言ってしまう(失言だけど消さないでおこう)。
なお、大学で「フランケンシュタイン」をやる先生のお名前には、私の知る人は1人もいませんでした。なので、好き勝手書いてしまいました(てへ)。

追記
以前、「新訳とか新薬とか」という記事で、新潮文庫の「フランケンシュタイン」の訳が長すぎる、1つの単語を長々と説明訳していると書いたが、同じように感じ、しかも実際に原文と比べた人のコメントがあった。
http://honto.jp/netstore/pd-book_26466539.html
2015/03/15 09:10
読み易くて楽しんだが原文と比較してかなりの付け足しがされている翻訳である。字が大きめとはいえ他社の物に比べて数十ページも増えないだろうと思っていたが数ページ程原文と比較して納得した。ただしそれが悪いとは言わない。芹澤氏のフランケンシュタインはこうであるという翻訳だろう。フランケンシュタインという小説を楽しむ上での不都合は感じなかった。同様の訳ばかり出ても仕方がないのでこれはこれでよい。ただし付け足しが多い故に研究目的での使用には向かない。
(追記)
全文を比較したがちょっと足しすぎである。文章も軟らかくて親切なようだが固く冷たい原文とは異質のものに感じられた。何らかの意図が有って故のことであろうが残念ながらそれは見えず、ただ付け足しの多い訳であるようにしか感じ無かった。同時に他の訳も比較したが光文社新訳文庫版は非常にライトで新潮社版とは逆に少々細部が削除されていた。創元推理文庫版と角川文庫版の新訳は程よい訳であると感じた。これから読む人にはこの両者どちらかをお薦めする。


私の場合は書店で立ち読みした程度だったので、これほどはっきりとは言えなかったが、やはりそうだったのかと思った。
「文章も軟らかくて親切なようだが固く冷たい原文とは異質のものに感じられた」というのもまったく同感。また光文社文庫は少々細部が削除というのも、立ち読みしたときの印象と同じ。
新潮文庫版は「付け足しが多い故に研究目的での使用には向かない」というのもそのとおりで、実際、新潮文庫版はそういう目的で使われることはあまりないだろうと思う。
一方、光文社文庫は大学教授の翻訳なので、大学の授業でテキストや参考書に指定されている。光文社文庫は改行も原文どおりでないので、これは問題では、と私は思うのだが、大学の授業では光文社文庫の翻訳と京大教授の中公新書で「フランケン」というのが多いようなのだ。
角川文庫に関しては、翻訳者が創元の訳をリスペクトしているようなので、創元の訳をめざしたものなのだろう。実際、訳文の簡潔さは創元に非常に近い。ただ、文の流れがイマイチな印象を受けた。(2015/5/30記)

2015年5月6日水曜日

GW最後の日

ゴールデン・ウィークもいよいよ最終日。
このところ話題もなく、写真ブログの更新ばかりしてましたが、最近目に入ったトピックから。

伊藤計劃原作の「虐殺器官」、「ハーモニー」、円城塔が引き継いだ「屍者の帝国」の3作がアニメ化予定、という話は聞いていたけれど、いったいいつ?と思っていたら、公開日の発表があったようです。
「虐殺器官」10月、「ハーモニー」11月、「屍者の帝国」12月とか。
このうち、「虐殺器官」と「ハーモニー」のポスターが出ていましたが、なんだか文庫の表紙の絵の方がよいかなあ。
「虐殺器官」は読んだんですよ。
面白いことは面白いんですが、元ネタに使った映画の数々がいちいち頭に浮かぶんで、気が散ってしょうがなかったです。
元ネタの映画の方が小説よりインパクトがあるから。
元ネタ映画の連想に頼るのはもう少し控えた方がよかったかと。
物語は、途上国が内戦などしていてくれた方が先進国に対してテロを起こさないから先進国の人たちは安心、という、先進国のエゴ丸出しの考え方に対する痛烈な批判になっていて、そこは非常によいと思いました。そこからのどんでん返しのラストもよかったです。
あと、描写が映画的というよりはアニメ的、特にゲームのアニメを連想します。
その辺の生でない感じというか、そこが物足りないと言うと、年だと言われそう。
アニメ化はどうなんでしょうね?
あまりお金をかけられそうにない感じですが。劇場公開も、一応公開して、あとはDVD&ブルーレイでの展開が中心という感じ。
「ハーモニー」はまだ読んでいませんが、「屍者の帝国」はアニメ的でないので、どうなのかな。
昔の文学や歴史の有名人総出演がアニメか。レット・バトラーをクラーク・ゲーブルに似せると肖像権の問題が出そうな気がしますが、全然別の顔にするとイメージくるっちゃうだろうしな。

鴻巣友季子氏がツイッターで、古典名訳文庫を作れと前から言ってるのにどこもやらない、というようなことをつぶやいたそうです。
古典名訳文庫。
定義がむずかしい。
森鴎外の「即興詩人」とか、坪内逍遥の「ハムレット」とか、二葉亭四迷のツルゲーネフとか、そういうのじゃないですよね?
かくいう私は高校時代に森鴎外の「即興詩人」を読んでいたく感動した覚えがあります。普通の翻訳ですでに読んでいたので、ストーリーはわかっていたのですが、鴎外が訳すとものすごい格調の高さでした(オリジナルは文学史的にはさほど高い評価は受けていなくて、メロドラマみたいな感じですが、私は好きでした。あ、作者の名前、書いた方がいいかな、アンデルセンです)。
たぶん、新訳が次々と出るので絶版になりつつある、大久保康雄や中野好夫といった過去の名訳者の翻訳のことを言っているのだろう、と誰もが思うと思いますが、このあたりの人の翻訳って、確かに新訳が出たために絶版になっているのもあるけど、現役のものもまだまだ多くて、たとえば「大久保康雄全集」は当分できそうにないのが現状だと思います。
それでも「大久保康雄全集」はいずれできるかもしれないな、と思いますが、このあたりの人の翻訳を出す古典名訳文庫は現状からしてまず無理でしょう。
講談社が自社の文学全集に入っていた名作の翻訳を学芸文庫みたいなところで出していますが、売れてないのか、定価は高いし、「鳩の翼」とかもう絶版じゃないかな?
もっとも、新潮文庫の「風と共に去りぬ」新訳は5冊全部買うと3500円超えそうだし、岩波文庫の「風と共に去りぬ」新訳は6冊全部買うと5000円超えそうです。
だったら、定価も高くしても、と思っても、やっぱり売れないだろうな、と。
出版社は在庫を抱えると税金がかかるから、電子書籍にしたり、オンデマンドで印刷するみたいなやり方でないとだめじゃないかな?
しかし、若い頃に愛読した岩波文庫のフィールディングの「トム・ジョウンズ」(朱牟田夏雄の名訳)が絶版状態らしいのを思うと、なんとかしてよ、とは思うんですけど。
それと、なんで今、古典新訳ブームかというと、光文社の「カラマーゾフ」がものすごく売れたのがきっかけらしいんですが、この「カラマーゾフ」の翻訳がいろいろ問題があるようで、ほかにも光文社の新訳には問題があるものがいろいろあるようで、その上、新潮文庫の新訳にも問題のあるものが少なくないみたいなのに、それでも新訳と銘打てば売れるから次々新訳が出てきてるわけなんだけど、ではなんで新訳と銘打てば売れるかというと、それは、日本人は新しいものが好きだから、としか思えん。
実際、旧訳をのぞいてみると、それほど古くないんです。え、これでもいいじゃん、と思うものが多い。たぶん、1950年以降の名訳は実はあまり古くなっていないような気がします。
だから、新訳ブームは新しいもの好きな日本人の嗜好が大いに関係してるんじゃないかと。
賃貸住宅だって新築がやたら人気だし、ナントカと畳は新しい方がいいということわざ(?)もあるし。
西洋は石造りの長持ちする家を作るが、日本は木造の家を作り、短いサイクルでどんどん新しく作り変えていくから、日本人はなんでも新しいものが好きなのだ、ということをもうだいぶ前にどこかで読んだのですが、新訳ブームも結局そこなんじゃないか、そして、この古典新訳ブーム自体が新しくなくなり、新訳だからといって売れるわけではなくなるのではないか、と思うのです。
光文社の古典新訳文庫の定価の高さを見ると、新訳という言葉はしだいに売りにならなくなっているのではないかと思います。
で、そのとき、新訳が出て絶版にされた過去の名訳はどうするよ、って、困りましたねえ。でも、もともと、需要がなかったんでしょうね。

2015年4月23日木曜日

All Summer Long

先日、ビーチ・ボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンの伝記映画「ラブ&マーシー」を見たのだが、ついさっき、深夜のFMで「アメリカン・グラフィティ」のサントラをかけていた。
「アメリカン・グラフィティ」のサントラは当時、カセットテープを買ってよく聞いていた。その中で一番好きだった曲がビーチ・ボーイズの「オール・サマー・ロング」。
そのタイトルのアルバムがここで聞けます。
https://www.youtube.com/watch?v=fmuj6LEZaIo

そのFM放送では、ビーチ・ボーイズの曲は流してくれなかったのだけど、私にとって、やはり「アメリカン・グラフィティ」はビーチ・ボーイズだったような気がする。

ビーチ・ボーイズのリーダーでソングライターでもあったブライアン・ウィルソンについては何も知らなかったので、映画を見て驚いた。
1960年代、一世を風靡したビーチ・ボーイズだが、ブライアンは父親の虐待やプレッシャーに苦しみ、この「オール・サマー・ロング」の頃にマネージャーだった父親を解雇。しかし、音楽製作のプレッシャーから麻薬中毒になったブライアンは心を病んでしまい、その結果、1980年代にはある精神科医に利用され、食い物にされていた。
映画は60年代のブライアン(ポール・ダノ)と80年代のブライアン(ジョン・キューザック)を交互に描いている。ブライアンを統合失調症と決めつけ、大量の薬を与えて、彼の財産を食い物にする精神科医ユージンは、ある意味、ブライアンを支配し続けた実の父親のかわりである。そうした父親的人物による支配から彼を解放しようとするのが、ブライアンを愛する女性。彼女は精神科医のやり方に疑問を持つ家政婦を味方につけ、ブライアンを救う。

この映画は最近流行の20世紀後半の音楽家の伝記の1つだが、2つの時代のブライアンを2人の俳優に演じさせたり、その表現が前衛的だったりするところに魅力がある。
でも、この映画は、私の好きな「オール・サマー・ロング」を流してくれなかった。
「オール・サマー・ロング」は「アメリカン・グラフィティ」のサントラの最後の曲で、これが本当に好きだった。でも、ブライアンの伝記では、あまり重要でない曲なのだろうか。
ルーカスもコッポラもハリソン・フォードもロン・ハワードも、まだ大スターじゃなかった時代の「アメリカン・グラフィティ」、久々に見たくなったし、サントラを聞きたくなった。

2015年4月22日水曜日

これはひどい

スターリン時代のソ連を舞台にした犯罪ミステリーの映画化「チャイルド44」を見たのですが、

これはひどい。

原作好きな人は怒り心頭か茫然自失じゃないでしょうか?

もっともアマゾンのレビューを見ると、批判的な意見も少なくないですが、もともと原作を気に入らない人は映画も見ないので実害なし、と。

原作は読んでませんが(これよりモデルの事件のノンフィクション「子供たちは森に消えた」の方が読みたい)、アマゾンのレビューにはネタバレもあって、へえ、そうだったのか、でも映画にはそれはなかったけど、それがないとなんだか変だよねえ、もしかして、時間の関係でカットしちゃったのかしらん、て感じ。
監督はスウェーデン出身のダニエル・エスピノーサという人ですが、「裏切りのサーカス」の爪の垢を煎じて飲んだ方がいいレベル。
ひとことでいうと、スターリン時代のソ連がひたすら暗く汚く鈍重に描かれるあの映像がひどい。
映画というものはたとえ汚いスラム街を描くときでもそこに映像美や映像の凄みを出すべき、という、誰が言ったか忘れたが、それが映画というもの、映像というもの。スターリン時代が暗くて悲惨だったからといって、それをただ暗く汚く鈍重に描けばいいってものじゃない。そういうのはリアリズムとは言わない。
あとさあ、これだけじゃないんだけど、ハリウッド映画の描くロシア人(役者はロシア人ではない)のロシア語訛りの英語って、なんとかならんか。「硫黄島からの手紙」が全編、日本語訛りの英語だったらどうよ?
あと、主演のトム・ハーディって、小説家のトマス・ハーディからとったのか? それとも偶然?
このトム・ハーディが全然よくない。妻役のノオミ・ラパスもリスベット的女性じゃないというだけが取り柄。ゲイリー・オールドマンは可もなく不可もなし。ヴァンサン・カッセルは無駄遣い。
というわけで、公開はまだまだ先ですが、たまには辛口で行ってみました。

2015年4月21日火曜日

遥か群衆を離れて

トマス・ハーディの小説「Far from the Madding Crowd」が再映画化されたようだ。アメリカでは5月1日公開とのこと。RottenTomatoesのサイト。
http://www.rottentomatoes.com/m/far_from_the_madding_crowd_2014/

この小説は1960年代にジュリー・クリスティー主演で映画化されていて、そのときの邦題が「遥か群衆を離れて」。公開に合わせて、確か角川文庫から翻訳が出たはず。英語のタイトルは「群衆の狂気をよそに」という意味で、英文学の世界ではこの邦題で書いてあるものが多い。
ハーディはフォースターの次に研究していた作家なので、もちろん、英語で読んでます(翻訳は未読)。
ハーディの中では「帰郷」(The Retrurn of the Native、「村人帰る」という意味)と並んで最も好きな作品だが、読んでからだいぶたつので、細かいところは忘れてしまった。ヒロインのバスシバが魅力的で、彼女が夢中になるトロイという軍人が剣を振り回すところがかっこよかったな、という程度(ほとんど覚えてないじゃん)。映画でもこのシーンが魅力だったようです。
で、こちらがInternet Movie Databaseの67年版。
http://www.imdb.com/title/tt0061648/?ref_=nv_sr_5
バスシバ(クリスティー)は3人の男性に愛されるのですが、そのかっこいいトロイがテレンス・スタンプ(当時、女性に大人気だった)、他の2人がピーター・フィンチとアラン・ベイツ。す、すごい豪華キャスト。実はこの映画、見たい見たいと思っていてまだ見てないのです。ハーディのことなんか何も知らん中学生の頃から見たかったけど、ビデオとかDVDになってるのかな? 監督もジョン・シュレジンジャーと有名どころ。
ちょっと見たところ、日本ではDVDは発売されてないのかな?
で、今回の新作はバスシバがキャリー・マリガンで、うーん、違うような気が???
監督は「偽りなき者」のデンマークの鬼才トマス・ヴィンターベア。しかし、この人がなぜトマス・ハーディを?
Rottentomatoesの批評家の評価は、まだ数が少ないとはいえ、好意的なものが多いですが、ハーディの映画化としてはちょっと、という意見も。
ハーディの映画化ではやはりポランスキーの「テス」が最も有名で、あとはイギリスのマイケル・ウィンターボトムが「日蔭者ジュード」(邦題「日蔭のふたり」)と「カスターブリッジの町長」(邦題「めぐり逢う大地」)を映画化しています。ウィンターボトムは英文科出身なのだね。ただ、この2本は地味だし、ウィンターボトムの映画としてもそれほど有名でないので、「テス」の次に有名なハーディの映画化はやはり67年の「遥か群衆を離れて」でしょう。
ウィンターボトムのフィルモグラフィーを見ていたら、「マイティ・ハート」がありました。これ、UIP最後の配給作品で、銀座にあったUIPの試写室で見たのを覚えています。最後の配給作品とのことで、最初にそのあいさつがありました。
というわけで、今度の「遥か群衆を離れて」、アメリカでの配給はFOXですが、日本で公開されるのか、邦題はどうなるのかはわかりませんが、やっぱ、監督と出演者(マリガン以外も)がビミョーな感じはします。

2015年4月18日土曜日

最後にまともな映画評を書いたのは

いつのことだろう。
商業誌で言えば、去年の「蜩ノ記」の特集号(キネマ旬報社)の映画評が最後なのは確か。
その前は、というと、かなり前になってしまう。
森田芳光の特集号(またもキネマ旬報社)の監督論か。
キネマ旬報本誌で書いた最後のまともな映画評は、思い出せない。かなり昔なのは確か。

そんなことをなぜ考えたかというと、このブログに書いた、今年のアカデミー賞にノミネートされた音楽映画についての映画評が、アクセス数はあまり多くないのに、なぜかグーグルでおすすめするが4ポイントもついていたからだ。
このグーグルでおすすめするがついたのは、このブログではアクセス数ナンバーワン、2万以上のアクセスがある、あのマクドナルド事件をもとにした映画の記事以来のことなのだ。
そりゃあ、2万以上のアクセスがあれば、おすすめするがついてもおかしくないが、くだんの音楽映画はまだアクセスが200くらいなのだ。マクドナルド事件の映画評の100分の1。
で、その映画評をあらためて読んでみたら、うーん、最近の私の書いた文章の中ではピカ一の出来。うーん、読者はわかってらっしゃる。
そんなわけで、アクセス数が200くらいでもおすすめされちゃって、とてもうれしいのですが、商業誌に書いたまともな映画評って、いつだっけ、と思うくらい、商業誌に書いていた時代が遠ざかっています。
結局、読者が有名人の映画評を求めるからだよね、と思いながらも、こんなブログの映画評でも、アクセス数が少なくても、おすすめしてくれる人がいるんだ、ということに、とてもとても感激しています。感謝。

2015年4月17日金曜日

アマゾンのランキングの真実

以前、アマゾンのランキングの順位は4ケタ以下のものは信用できない、と書いたことがあるが、興味深い記事を見つけた。
http://web.econ.keio.ac.jp/staff/hattori/amaznj5.htm
統計学者たちがアマゾン日本のランキングを研究した結果が一般人にもわかりやすく質疑応答の形で書かれている。
これによると、アマゾンのランキングの順位は、その本が売れてからの時間を表すのだと。
なるほど、納得。
それは順位が10000位以下の本におおむね当てはまるそうだ。そして、アマゾンの本の99%はこの10000位以下の本とのこと。
私が4ケタ以下の順位は信用できない、と思ったのは、自分の翻訳書とか、解説書いた本とかの順位を時々見て、どうしようもなく売れてない私の本でも3ケタになった本があったからである。
具体的に言うと、映画が公開された直後のノベライズ。というか、「インソムニア」のノベライズだけだと思う。しかもほんの一瞬。
あとはまあ、創元推理文庫の「フランケンシュタイン」(解説執筆)が一度、1000位くらいになって、このときは創元のランキング1位になった。もう何年も前の話。
NHK教育で2月に「フランケン」やっていたときは、創元の「フランケン」も4ケタになることが何度もあって、創元のランキングでも3位くらいまで上がったかな?
もちろん、たまたまチェックしたときのことなので、チェックしてないときにもっと上がってることもあったかもしれない。でも、その後、数万位に落ち着くのは、これが定位置ってことでしょう。
NHKで「フランケン」やった頃から、なんとなく気になって、4つの文庫の「フランケン」の順位を時々のぞいてみるのだけど、光文社がやたら順位が高い。ただ、光文社古典新訳文庫は10000位でもこのジャンルで1位になったりするので、やっぱり古典新訳文庫は全体にあまり売れてないんだな、と思う。創元の「フランケン」は10000位だと創元で20位以内は無理。
じゃあ、光文社の古典新訳文庫は「フランケン」ばかり売れているのだろうか?
新潮文庫は書店で他の文庫より優遇されているので、書店で売れる方が多いのではないかと思う。アマゾンのランキングもわりと順当な感じ。
そして、後発の角川文庫は出遅れもあって、かなり低いランキングが続いている。

というわけで、アマゾンのランキングは最近売れたときからの時間の短い順、ということで納得したのだけれど、もう1つ気になることがある。
1つは、創元の「フランケン」はもう8万部以上出てると思われるので、当然、古本がたくさんある。その古本が売れてもランキングが上がるようなのだ。
で、古本が売れると値段が高くなり、在庫が増えると値段が下がる。さっき見たら、創元の「フランケン」の古本は30円くらいでした(送料がつくので合計すると300円弱)。
まあ、私の絶版になった翻訳書なんて、古本は1円からですので。
「フランケン」について言えば、古本が売れてもありがたくないわけです。
で、アマゾンでは新品について、在庫ありとか、10点在庫ありとか書いてある。古本も数が書いてある。そして、その数が減ると確かに順位が上がるのですが、なぜか、そのあと、在庫数がまた増えるのですね。
10点在庫あり、が、9点在庫あり、になり、それからまた10点在庫あり、に戻る、とか。
これは新たに入荷して増えたとは思えない。
で、そこでランキング操作ですよ。
「アマゾン ランキング操作」で検索するといろいろ出てくるけれど、注文しておいてお金を払わず受け取らない(キャンセル)という方法でランキングを上げることも可能なようです。
「フランケン」ではランキング操作するほどの順位ではないと思うが、このランキング操作というのは確かにあるようです。特にキンドルはかなりやってるというブログ記事もありました。また、ランキング操作の実験をしてみた、というブログ記事もあります。
というところで、やっぱりアマゾンの順位はあてにならない、じゃなくて、売れてからの時間、ということですね。売れた総数はわからないわけです。

2015年4月12日日曜日

地上より永遠に

「日本のいちばん長い日」の次は「地上より永遠に」(ここよりとわに)です。
「日本のいちばん長い日」が、終戦直前の日本で日本兵同士が殺し合う映画だとしたら、「地上より永遠に」は真珠湾攻撃前後にハワイで米兵同士が殺し合う映画です。
「地上より永遠に」は1953年のアカデミー賞作品賞受賞作ですが、やはり傑作です。
しかし、私は若い頃、この映画を見て、どこが傑作なのかわからなかった(未熟者)。
当時、映画雑誌に誰だか忘れたが、評論家が「この映画は作品賞に値しない」みたいなことを書いていて、やっぱりそうなのかなあ、と思った。
けれども、数年前、この映画についてのコラムを依頼され、DVDで再見して驚いた。
すごい傑作だ。
作品賞は当然というか、こんな米軍の暗部を描いた映画、戦争を皮肉に描いた映画を、アメリカが戦争に勝利した8年後に作っていて、しかも作品賞あげるのだからすごい。
原作もすごいのだろうけど(「シン・レッド・ライン」の原作者ジェームズ・ジョーンズ)。
最近、ミュージカルにもなっているようで、5月にスターチャンネルで舞台の録画を放送するらしい。見たいなあ。電波を受信できるテレビはないけど。
それにしても、「作品賞に値しない」と書いた評論家はどこが気に入らなかったのでしょう。
あれはたぶん1970年代前半だったと思うけど、日本の評論家の多くはこの映画をどう見ていたのかな?
監督のフレッド・ジンネマンの評価は高かったはず。ただ、若い頃の私はジンネマンの映画は全体的に苦手だった。なので、「地上より永遠に」のよさがわからなかったのかもしれない。
この映画は「ローマの休日」を抑えて作品賞とのことで、「ローマの休日」大好きな日本では受けなかった?
あるいは、男女2組のカップルの話が昔の保守的な男女観の日本では理解されなかったかもだなあ。今見ると、軍隊に身も心も捧げた男たちと、彼らについていけない女たちの対比が面白いし、そうした男たちを皮肉に見る女たちの目みたいなものも感じるのですが。
米軍内のいじめや虐待は、旧日本軍のいじめや虐待に比べたらたいしたことないと、昔の日本人は思っただろう。
というわけで、私が年をとって大傑作とわかった「地上より永遠に」なのですが、やっぱり、なんといっても、ラストが皮肉。以下ネタバレのため、文字色を変えます。
軍隊から逃げて隠れていた兵士(モンゴメリー・クリフト)が、真珠湾攻撃を知って、軍隊に戻ろうとするが、途中で味方から誤解されて射殺されてしまう。ラスト、彼の恋人(ドナ・リード)はアメリカ本土に帰る船で、クリフトの上官(バート・ランカスター)と恋仲だった女性(デボラ・カー)と出会う。カーはランカスターからクリフトの死の真相を聞いている。そうとは知らず、リードはクリフトが名誉の戦死をしたと言う。この2人のヒロインのなにげない会話で映画は終わる。
なにげないけれど、これはすごいシーンだと思います。ただ、知識がないと、あるいはこのシーンの意味をきちんと把握できないと、「地上より永遠に」が大傑作だということがわからないのではないか、と。うーん、上級者向けの映画かもしれない。
(以下おまけ)
「日本のいちばん長い日」をDVDで見たとき、一緒に高倉健出演の「燃える戦場」も借りて見たのですが、これもなんかすごい戦争映画で、主役のイギリス軍がもうめちゃくちゃ。なんてひどい軍隊なんだ、という感じで、それに比べると高倉健の日本人将校は理性的で立派な人物に描かれています。この映画ではクリフ・ロバートソンの米兵がイギリスの部隊に派遣され、そこでイギリス軍部隊のめちゃくちゃぶりを目撃するのですが、そのイギリス軍に所属する兵士マイケル・ケインは労働者階級出身なので、生き残るのが第一。めちゃくちゃなイギリス軍なんかにつきあっちゃいられねえ、という感じ。が、ロバートソンはイギリス軍はめちゃくちゃでも使命は果たさねば、という感じで、生き残るのが第一のケインと対立、というところが「戦場にかける橋」のアレック・ギネスとウィリアム・ホールデンのイギリス人とアメリカ人をちょうど逆にした感じで面白かったです。ギネスは中産階級出身だから名誉が大事だけど、労働者階級出身のケインは名誉なんかくそったれ。
この頃のケインはイギリスの富裕な階級に反抗する労働者階級の若者を演じていて、私は大ファンでした(今もファンですが)。
話がずれましたが、この「燃える戦場」もラストがすごいです。戦争の愚かさを表した映画です。でも、この映画、公開当時は日本では評判悪かったような? まあ、確かに、われらが健さんがあんなにあっさりと殺されちゃうのは、日本人としては受け入れがたいですけどね。

2015年4月10日金曜日

日本のいちばん長い日

木曜から新年度の授業が始まった。
木曜は映画の授業をしている大学で、今年は終戦70周年なので、太平洋戦争を描く英米映画というテーマの授業を前期に計画。その第1回に、太平洋戦争をコンパクトに見せるのに適した日本映画「日本のいちばん長い日」をほんのさわりだけ取り上げた。
1967年のモノクロ映画、監督は岡本喜八。三船敏郎はじめオールスターキャストで、ポツダム宣言受諾を決めた8月14日午後から翌15日正午の玉音放送までの長い長い1日を描く。その間に敗戦を受け入れられない青年将校たちが師団長を殺害し、偽の命令書を作って反乱を起こし、皇居やNHKを占拠して玉音放送阻止をはかる。
まあ、とにかくすごい映画で、全編大迫力。戦争を終わりにするってこんなに大変だったんだ、戦争中は人間は頭がおかしくなってしまうんだ、ということが激わかりの大傑作。
授業では、ポツダム宣言受諾の背景と太平洋戦争が簡単にわかる冒頭部分と、青年将校が反乱を起こすなかほどの映像を少し、それにラストの戦争がどれだけの犠牲者を出したかを数字で見せるところだけを見せた。
長い長い映画のほんのわずかな部分だが、それでも学生たちにはかなりの衝撃だったようだ。
この映画には血がどばっと出たり、日本刀で斬ったりという残虐なシーンもあるので、女子の多いこの大学では一応、そのあたりを注意した上で、興味のある人はぜひDVDで全部見てほしい、と言っておいた。

実はこの映画、今年の夏に再映画化が公開予定なのですね。
http://nihon-ichi.jp/index.html
ここにスタッフ、キャストが出ていますが、
三船敏郎が演じた阿南陸軍大臣が役所広司?
笠智衆が演じた鈴木総理が山崎努?
昭和天皇が本木雅弘?
黒沢年男が演じた狂気の青年将校が松坂桃李?

だ、だいじょうぶか?

監督は「クライマーズ・ハイ」の原田真人だから、そんなにひどいことにはならないとは思うが。
なんか不安。

製作は、旧作は東宝だったけど、今度は松竹か。
ついでに旧作もリバイバルしてほしい。

大丈夫か、といえば、この授業、定員40名のはずがなぜか60名もいたのでびっくり。
昨年度までは45名で、今年度から40名と聞いていて、それでプリントを45枚刷って持っていったら、全然足りず、20枚余計に刷って、結局、5枚余ったのできっかり60人だ。
私の授業は希望者が定員より多いことが多く、抽選になるのだけど、一度、定員が45名なのにミスで抽選で35人しか選ばれず、2回目から急に10人増えたということがあったが、今回も40名のところミスで60名になった可能性がある。多くの学生が「日本のいちばん長い日」のさわりを見て、授業にかなり期待感を持ったようなのに、あとからミスで20人はお帰り、とかなったら気の毒だけど、どうなることか。

2015年4月6日月曜日

北極点到達

今日は何の日?
1909年4月6日、アメリカのロバート・ピアリーが北極点初到達。

と、立ち寄ったファッションビルのエレベーターのモニター画面(?)に出ていたのですが、ウィキペディアによれば、実際は北極点のわずか手前までしか行っておらず、しかも、1990年代頃から捏造疑惑が???
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%A5%B5%E7%82%B9
このピアリーは犬ぞりだったのですが、その後、1926年にはアメリカのリチャード・バードが飛行機で往復とのこと。
まあ、いずれにしろ、「フランケンシュタイン」のロバート・ウォルトンが18世紀末に北極点到達はとうてい無理、引き返してよかったね、という感じですね。
ウィキペディアでも初期の北極点挑戦は19世紀に入ってからのものが紹介されています。
当時は船は帆船ですからね。
帆船といえば、創元推理文庫の怪奇幻想ファンタジーは昔は帆船のマークがついていたものでした。「フランケンシュタイン」もそうだったかな? いつ頃から帆船マークがなくなったのか、記憶にありません。昔は創元の怪奇幻想ファンタジーは帆船マークと呼ばれていて、反戦マークとかジョークにもなっていました。そういう古い時代の怪奇幻想冒険小説の翻訳が入っていたわけです。「フランケンシュタイン」の翻訳もその流れで入ったのでしたが、私の解説はSFをガンガン強調していて、本が出たあともSFファンに受けてましたね。
当時は「ブレードランナー」が公開されてまだ2年しかたっておらず、この映画はヒットしなかったので、熱烈に好きなマニアが一部にいるだけという状況でした。で、私もその熱烈マニアだったので、「フランケンシュタイン」解説のトリにこの映画を使ったのですが、私と同じくこの映画が好きな人にとても喜んでもらえました。
今では「フランケンシュタイン」と「ブレードランナー」を結びつけるのはごく普通のことで、光文社文庫の「フランケン」の解説でも最後にこの映画を出してるけど、これは私の解説のパクリじゃないの?
また、検索してみたら、大学の一般教養の文学の授業で創元の「フランケン」をテキストにして講義をしている先生がいて、最後にやっぱり「フランケンシュタイン」と「ブレードランナー」というテーマを出してるのがありました。そういう形で使っていただいてもいるのですね。

というわけで、今日は北極点初到達の日、と思ったら、捏造らしいとかでがっかりですが、「フランケンシュタイン」が書かれた当時は北極点到達は人造人間製造と同じくらい夢のような話だったのでしょう。

2015年4月5日日曜日

人様の翻訳を批判するということ。

私自身、翻訳書を出している身であるので、人様の翻訳に対して批判を述べるというのは天に唾するようなところがあり、できればやりたくないことの1つである。
と同時に、やっぱり人様の翻訳の中にはどうにも許せない、これはないだろう、と思うものもある。
でも、なるべくやらないようにと思っているのだが、前の記事で書いたオー・ヘンリー「賢者の贈りもの」の新訳(新潮文庫)についてはやはり書かないといけないのではないか?と悩んでいる。
悩んでいる最大の理由は、該当書を買って、原文と照らし合わせて、いろいろ文句をつけることになるからで、それに使うお金とエネルギーを考えると、無駄だなあ、と思うのである。

人様の翻訳の批判というのは、やはり、純粋な読者がする方がいい。
たとえば、新潮文庫の新訳「嵐が丘」は、アマゾンのレビューを見るとものすごい悪評だが、純粋な読者が書いているので、かえって納得できる。それに対し、翻訳でお金をもらった人間がするとどうしても純粋でなくなる気がするのだ。
映画の字幕でいえば、「オペラ座の怪人」は舞台のファンが字幕に抗議し、「ロード・オブ・ザ・リング」は原作の愛読者が抗議した。無名の純粋なファンや愛読者の抗議だからよかったのだ。

新訳「賢者の贈りもの」の場合、それでも逡巡してしまうのは、この短編の新訳がかなりの欠陥商品だと思うからだ。この本に含まれている他の作品はわからないが、この表題作「賢者の贈りもの」を立ち読みした限りでは、これはかなり問題がある。
それは誤訳というレベルの問題ではない。
1つには、作品理解の問題。
もう1つには作家の文体の問題。
翻訳者は東工大教授のアメリカ文学者で、翻訳書も多数ある人なのだが、この2点がクリアされていないのには愕然とする。
たとえば、「賢者の贈りもの」の最後の文章、賢者についての説明の文章は詩的なリズムのある美しい文章なのだが、翻訳はぶっきらぼうで汚い日本語になっている。
オー・ヘンリーは小説の中で読者に語りかけるが、この語りかけの言葉づかいがえらそうな日本語になっている。原文を読む限り、作者(というより語り手)は読者に親しげに語っていて、えらそうではない。この新訳だとオー・ヘンリーってえらそうなやつと思ってしまう。
作品の解釈についても、「オー・ヘンリーの小説を心温まる作品ととらえない」方針で訳したようだが、「心温まる作品」とは、決してすべてがハッピーな作品ではない。オー・ヘンリーの作品が読者の琴線に触れるのは、ユーモアとペーソスであり、ある種のもの悲しさもまた「心温まる」要素の1つなのだが、翻訳者は原作者をもっと意地悪な作家にしたいようなのだ。そこから作品の雰囲気を作っていくから、作品理解に問題が出る。

以上、今感じていることをおおざっぱに書いたけれど、詳しく実例を挙げて書くにはやはり本を買って原文と逐一比べる必要がある。でも、そこまでする必要ある? いや、もしもこの訳者のオー・ヘンリーが大久保康雄訳に置き換わり、売れる新潮文庫なのでこれがスタンダードになってしまうとしたら? でも、決めるのは読者。読者がこんなオー・ヘンリーはいやだと思えば買わないし、こういうのもいいと思えば買う。それでいいのでは?
この新訳については、アマゾンでは批判のレビューが出ているが、具体的ではないのでわかりづらい。また、ネットで検索しても特に批判は出ていないようだ。「嵐が丘」のような非難ごうごうではない。中にはほめているブログもあるので困る。うーん、むずかしい。

2015年3月28日土曜日

古典新訳ラッシュに思うこと

長らく大久保康雄訳がスタンダードだった「風と共に去りぬ」の新訳が新潮文庫から出た。
大久保訳は最初は新潮ではなかったと思うが(私が途中まで読んでやめてしまったのは河出書房の文学全集だった)、1970年代に新潮文庫に入ってからはこれがスタンダードになっていた。
今度の新訳は書評家としても有名で人気のある人で、新訳が出れば当然、旧訳は絶版になるだろう。もっとも、書店では大久保訳の文庫も棚に置いてあるので、気になる人は今のうちに買っておけばいい(私はねえ、この小説、あまり読む気にならないのだよね)。
そして、驚いたことに、なんと、岩波文庫からも新訳が4月から出るのだという。新潮も岩波も全6巻のようで、一度に全部ではなく、1~2巻ずつ出していくようだ(訂正 新潮は全5巻で、4か月で完結。岩波は全6巻で、完結までには半年以上かかるらしい)。岩波の翻訳者はアメリカ文学、特に黒人文学の研究者で、年齢は私より1世代上くらいだからかなりのご年配の方。ただ、文学史的な解説はこちらの方が期待できる。特にこの小説は作者が黒人に対する差別意識を持っていて、それが小説にあらわれているということがアメリカ文学者の間では普通に言われているからだ。ただ、映画はさすがに黒人俳優が多数出演することもあって、差別的な部分は変えてある。なので、映画だけ見ている分には「風と共に去りぬ」に人種差別的な面があることはあまりわからない。むしろ、映画は黒人女優ハティ・マクダニエルが黒人初のアカデミー賞を受賞するという、ハリウッドの黒人の歴史に名を残すものとなった。
ただ、訳文自体は新潮文庫の方が一般人向けだろうし、訳者の知名度も、岩波文庫のアメリカ文学者もその世界では有名な人だが、やはり新潮文庫の翻訳家の方が断然上。岩波の方はアメリカ文学の背景解説を充実させ、地味に売っていくことになるのだと思う。
というわけで、「風と共に去りぬ」新訳が2つの文庫から同時出版だけれど、ねらうターゲットがまったく違うと思うので、両方出るのはよいことかもしれない。ただ、大久保訳は確実に絶版になるので、気になる人は買っておけ、と再度言う(もっとも、古本で手に入る、キンドルになる、といった可能性もある)。

というわけで、新訳が出ること自体は悪いことではないのだが、そのために過去の名訳が絶版になってしまうこと、そして、問題のある新訳がスタンダードになってしまう可能性がどうしても気になる。
村上春樹が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を訳したとき、白水社は野崎孝訳も残すと決めた。同じ出版社だけれど、両方残すことにしたのだ。また、村上が「グレート・ギャツビー」を白水社で訳したが、野崎孝の旧訳は新潮文庫で生き続けている。しかし、早川書房で村上がチャンドラーを訳し始めると、早川の旧訳はやはり消える運命にあるだろう(訂正 今のところ、旧訳も残されているようです)。幸い、私の好きな「大いなる眠り」の旧訳は創元推理文庫だから無事だろう(だよね?)。
この新訳を出すことで同じ出版社の旧訳が消えるというのは、私が若い頃にもすでにあって、アイザック・アシモフの「裸の太陽」が文庫に入るときに新訳になってしまったのはショックだった。私はポケット版の旧訳を愛読していたからだ。他のアシモフは新訳にならないのに、なぜこれだけが、という疑問もあった(翻訳者の知名度だろうか?)。
最近の新訳では、新潮文庫が出した「賢者の贈りもの」がショックだった。オー・ヘンリーの短編集は新潮文庫から大久保康雄訳で出ていて、これが長らくスタンダードだったのだが、新訳が出れば当然、大久保訳は消える運命にある(同じ出版社だから)。それでも新訳がそれなりによいものであればいいのだが、この「賢者の贈りもの」という短編の訳文、最後がひどいのだ。私は原文も知っているが、これはないだろう、と思うような訳なのだ。なんだか、それまでの話をすべてぶち壊すような訳文なんである。これじゃ余韻も何もない、あんまりだ。オー・ヘンリーは翻訳がたくさん出ているが、やっぱり新潮文庫が一番強い、一番スタンダードになりやすいのだから困る。まあ、大久保訳は図書館にあるし、原文読めるんだから別にいいんだけど。

新訳が次々と3つも出た「フランケンシュタイン」について言えば、31年前の創元推理文庫は確かにマニア向けで、普通の読者にはとっつきにくいかもしれないと思う。特にNHK教育で放送され、ごくごく普通の人にまで興味を持たれたとき、ごくごく普通の人にはやはり新潮文庫が一番とっつきやすい。光文社古典新訳文庫はこの文庫のブランドがあって、そのファンが選ぶと思う。一方、NHKの放送が終わる頃に出た角川文庫は不利なように見える。もともと角川文庫は古典のブランドがないし、翻訳者の知名度もイマイチ。てゆーか、角川文庫の翻訳ものって、書店にあまり置いてないのよ。去年、解説書いた「猿の惑星新世紀」でよくわかったのだけど。
書店に置いてないといえば、創元推理文庫と岩波文庫も置いてない文庫の双璧で、岩波文庫なんて大書店にしかないし、創元は「フランケンシュタイン」の入った背中が灰色の怪奇と幻想ジャンルは特に置いてない。
そんなわけで、「フランケンシュタイン」はこれからは新潮文庫がメイン、光文社文庫がサブ、そして私が解説を書いた創元推理文庫は消える運命なのかな、というさびしい思いがわいてくる。31年前の出版とはいえ、訳文も解説も古くないんだけどね。つか、古いのではなくてマニア向けなのだ。

追記 「風と共に去りぬ」新潮と岩波を書店で見比べてみたが、岩波文庫の方は買おうかなと思い始めた。というのも冒頭の訳文が岩波の方が普通の訳でとっつきやすい感じだったのと、解説などが非常に充実しているようだったから。1巻の3分の1くらい解説や資料のような感じ。一方、新潮は冒頭のページですでに「容」と書いて「かんばせ」と読ませるといった、鴻巣氏の世界炸裂で、その上、「うざい」とか「ビュア」とかいった現代語も出てくるらしいから、鴻巣氏の世界が好きな人向けという気がした。なので、とりあえず物語を知りたい、という人にとっても新潮はイマイチじゃないかという気がしている。物語+資料解説なら岩波文庫だろう。
 ちなみに新潮の「フランケン」の訳は、短い原文にやたらと装飾的尾ひれをつけている印象がある(立ち読みだが)。なので、他の文庫よりページ数がやたら多い。立ち読みして、なんだか原文と違う、と思い、創元訳を読むと納得という感じなのだ。創元訳は原文と一番近い長さと雰囲気になっている。

参考(5月30日記)
「フランケンシュタイン」新訳の問題、特に新潮文庫が長すぎることについて、次のような指摘があった。
http://honto.jp/netstore/pd-book_26466539.html
2015/03/15 09:10
読み易くて楽しんだが原文と比較してかなりの付け足しがされている翻訳である。字が大きめとはいえ他社の物に比べて数十ページも増えないだろうと思っていたが数ページ程原文と比較して納得した。ただしそれが悪いとは言わない。芹澤氏のフランケンシュタインはこうであるという翻訳だろう。フランケンシュタインという小説を楽しむ上での不都合は感じなかった。同様の訳ばかり出ても仕方がないのでこれはこれでよい。ただし付け足しが多い故に研究目的での使用には向かない。
(追記)
全文を比較したがちょっと足しすぎである。文章も軟らかくて親切なようだが固く冷たい原文とは異質のものに感じられた。何らかの意図が有って故のことであろうが残念ながらそれは見えず、ただ付け足しの多い訳であるようにしか感じ無かった。同時に他の訳も比較したが光文社新訳文庫版は非常にライトで新潮社版とは逆に少々細部が削除されていた。創元推理文庫版と角川文庫版の新訳は程よい訳であると感じた。これから読む人にはこの両者どちらかをお薦めする。

2015年3月27日金曜日

誘拐映画2本

木曜日は誘拐映画2本立て。
最初はローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズの1作の映画化で、リーアム・ニーソンがスカダーを演じる「誘拐の掟」。
私はリーアム・ニーソンをかなり早い時期に発見したと自負しているファンで、「ダークマン」の頃にコミケでファンブックを作って売っていたという実績もあるくらいだけれど、2000年代以降のアクション・スターになってからはあまりフォローしていない。私が好きだった彼とは違う彼になってしまったんだもん、という感じかな。
で、この映画もアクション・スターとしての彼の映画なので、まあ、そこそこかな、というか、猟奇殺人が目的のサイコキラーがついでに身代金を要求という設定にかなり無理を感じたのは私だけか?
このサイコキラーたちの描写がどうにも説得力がないので、とりあえず、脚本に破綻がないので見られるけれど、なんだか消化不良な出来栄え。
続いて見たのが、1983年にオランダで起きたハイネケン経営者誘拐事件の映画化「ハイネケン誘拐の代償」。こちらは「裏切りのサーカス」のトーマス・アルフレドソンの兄のダニエル・アルフレッドソン監督。スウェーデン版「ミレニアム」の2と3の監督でもあり、芸術的香りのあった1に対し、ダニエルの監督した2と3は完全な娯楽映画だったことからもわかるように、この映画も完全な娯楽映画で深みはない。
映画はイギリス出身の俳優が多く出演し、セリフも英語。誘拐されるハイネケンはアンソニー・ホプキンスで、彼が老獪な人物で、若い犯罪素人の誘拐犯を手玉に取るというので期待していたが、実際はホプキンスの演じるハイネケンは精神的に強いが、特別ユニークな人物ではなかった。
このハイネケンが言うせりふ、裕福とは大金を持つことと友人を多く持つことで、この2つは両立しない、という言葉は、実際に彼が言ったのかどうかはわからないけれど、なかなかに的を射ている。映画の初めの方で、誘拐犯の1人の親がかつてハイネケンの友人だったが、解雇されたにもかかわらずハイネケンを友人と思っているというシーンがあって、これがこのテーマの伏線にもなっている。
映画は90分余りと短いので、非常にテンポがよく、飽きない。深みはないが、よくできた映画だ。誘拐犯たちは世の中に不満を持っている普通の若者たちで、周到に準備して誘拐をするが、徐々に破綻が起こる。ただ、彼らが人を殺したり傷つけたりしないという方針を最後まで貫くので、ハイネケンにも誘拐犯にも寄り添える仕組みだ。
犯人側からだけ描いているので、不満は残るが、金に換えられないものがこの世にはある、というテーマは生きている。
なお、この題材はオランダでも映画になり、そこではルトガー・ハウアーがハイネケンを演じているのだそうだ。こんなに名優が演じるハイネケンて、どんな人だったんだろか。

実は私は若い頃はビールはハイネケンが好きだった。なので、ハイネケンがタイトルにあるこの映画にはかなり期待していたし、映画を見たらハイネケンが飲みたくなった。
そこで帰りにコンビニでハイネケンを買って飲んでみたのだが、あれ、こんな味だっけ?
うーん、発泡酒が出てからというもの、本物のビールを飲まなくなって、ビールの味を忘れてしまったのかな。でも、このハイネケンの味だったら、キリン一番搾りの方がいいかも。
日本のハイネケンはキリンが出しているので、本場のハイネケンは違うのだろうか。
などと、ほろ酔い気分でこの記事を書いています。

2015年3月20日金曜日

「バリー・リンドン」とシューベルト

久しぶりに「バリー・リンドン」のサントラCDを聴いた。
映画公開時にLPレコードを買っていて、今も持っているが、アナログレコードプレーヤーはとっくの昔に処分して、たくさんあったLP(おもに映画のサントラ)も大部分はプレーヤーを持っている人に譲ったりして、でも、このサントラだけは保存してある。
でも、聴けないので、CDを買ったのはだいぶ前のこと。その前にレーザーディスクやDVDも買っていたが、このサントラはとても聴き応えがあるので、輸入CDがあると知って、たぶんアマゾンで買ったのだと思う。(訂正 HMVの店舗で買っていた。)
このサントラCD、今はもう廃盤らしく、アマゾンを見たら、6750円とかいうすごい値段がついていた。私が買ったときは1500円以下だったと思うのだが。(訂正 1590円だったが、2枚買うとさらに割引と書いてあったので(ビニールの袋に)、さらに安かったかもしれない。)
さて、この「バリー・リンドン」の音楽はクラシックやアイルランドの古謡が使われているのだけれど、私が特に気に入っているのはシューベルトの曲。シューベルトはご存じ、19世紀の作曲家で、映画の時代(18世紀)にはまだいなかった人だけれど、この映画はほかにも映画の時代よりあとの時代の曲を使っている。また、テーマ曲のヘンデルの「サラバンド」は原曲を大幅に変えたアレンジで、原曲を聴いたときは同じ曲とは思えなかった。
そんなわけで、18世紀から19世紀のクラシックが映像にみごとにマッチしていて、もう本当にすばらしいのだが、中でもシューベルトの「ドイツ舞曲」と「ピアノ三重奏第2番」が気に入った。特に後者は映画の後半のテーマ曲になっていて、主人公に降りかかる災難や悲劇の数々にこのもの悲しい曲が重なっていく。一方、「ドイツ舞曲」は主人公に息子が生まれ、まだ幸せがあったシーンで流れる軽やかな曲。この映画は前半がコミカル、後半がしだいに悲劇になっていく。
そして、この映画には、もう1つ、シューベルトの曲が使われている。「即興曲第1番」というピアノ曲だ。ただし、使われているのは冒頭のほんの短い部分だけ。なので、サントラには入っていない。どこで使われたかというと、第一部から第二部に移るあたり。ピアノの音がバン!と鳴って、そのあと、短いフレーズが続く。原曲はそのあとさらに長く続くのだが、映画は最初の部分だけを使っている。
「ピアノ三重奏第2番」と「即興曲集」のクラシックCDはたくさん出ているので、クラシックのCDもすぐに手に入ったが、「ドイツ舞曲」がなかなか見つからなかった。あるとき、ギドン・クレーメルという有名なバイオリニストの「シューベルト・ソワレ」というCDを見つけて買ったら、そこに入っていた。このCDはシューベルトの明るい曲ばかりが入っていて、とても楽しい。
そんなわけで、「バリー・リンドン」では、第一部と第二部の間に暗い運命を予感させる「即興曲第1番」の冒頭のメロディ、後半のまだ幸せがあった時代に明るいドイツ舞曲、そして、最後にもの悲しく暗い「ピアノ三重奏第2番」が入っているという格好。なかなかにみごとな選曲だと思う。
なんて書いていたら、「シューベルト・ソワレ」と「即興曲集」のCDを出して聴きたくなってきてしまった(段ボール箱の中なので、ひっくり返さないと出てこない)。
「ピアノ三重奏第2番」も一応、持ってますが、これはどうも気に入った演奏がないのです。「バリー・リンドン」のサントラがやはり一番気に入っています(映画では第二楽章だけですが)。
(4月12日追記 曲について記憶違いがあったので、一部訂正しました。)

というわけで、「バリー・リンドン」について語り出したらおそらく語りつくすことはないと思うくらい語りたいことはたくさんあるのですが、あまりにたくさんあるので、かえって何もしていない。別にブログ作ろうかな。
「アイズ・ワイド・シャット」の映画評を再録していただいた「ムービーマスターズ スタンリー・キューブリック」では、「バリー・リンドン」は初公開時の特集記事の対談と、映画評論家の短評が2つ載っていますが、対談もさることながら、山田和夫氏の映画評が的を射たものになっています。貴族社会の崩壊が迫っている時代の物語であり、バリーのような下からの突き上げみたいなものがやがて革命の時代になっていくというとらえ方は、原作についても、映画についても正しい見方です。映画のラスト、リンドン女伯爵がサインする書類の日付が、フランス革命の年であること、ここは原作にはないということを考えると、キューブリックが貴族社会の崩壊の予兆を描いたというのは間違いないことです。

2015年3月16日月曜日

私の乗ったブルートレイン

このところ過去ばかり振り返っていますが、北斗星運行終了でついにブルートレインと呼ばれる寝台列車がすべてなくなったというので、私の乗ったブルートレインの思い出を。

初めて乗ったブルートレイン。
あさかぜ3号(1971年だと思う)
 当時、あさかぜは1号、2号、3号とあり、東京・博多間の運行(一部は東京・下関間)。
 乗車区間は広島→東京。修学旅行で瀬戸内をまわったあと、最後の訪問地、広島からあさかぜ3号に乗って東京へ帰った。当時は新幹線が岡山までしか開通していなかったので、行きは新幹線、帰りは寝台特急だった。3号はたしか夜10時すぎの発車だったので、発車までの間、広島で自由時間があった。

最後に乗ったブルートレイン。
まりも(1990年代初頭)
 まりもは北海道の札幌と釧路を結ぶ夜行列車。寝台車と座席車がある。私が乗ったときは急行だったが、その後、特急になったらしい。
 乗車区間は釧路→札幌。釧路の友人宅を訪れたあと、札幌の同人誌即売会に参加するため、まりもで札幌に向かったのだ。その後、2000年代になって、クレインズ応援のために釧路によく行くようになり、駅に停車中のまりもを何度も見たが、乗ったのは1990年代初頭の一度だけだった。

その間に乗ったブルートレイン。
さくら(1970年代なかば)
 さくらは東京・長崎間を走る寝台特急。みどりの窓口で切符を買った初めてのブルートレイン(あさかぜは修学旅行なので、自分で切符を買っていない)。
 乗車区間は東京→長崎、長崎→東京。あこがれの長崎への初めての旅行。雲仙普賢岳もまだ危険でなく、かなり近くまで行けた。

はやぶさ(1970年代なかば)
 はやぶさは東京・西鹿児島間を走る寝台特急。この頃は中国地方や九州によく旅行に行っていた。乗車区間は東京→西鹿児島。22時間かかった。帰りはまた長崎に寄って、さくらで東京に帰った。

銀河(70年代から80年代に数回乗車)
 東京・大阪間を結ぶ寝台急行。急行だから料金が特急より安く、また、夏休みなどでも切符が取りやすかったので、何度か利用した。当時は新幹線に乗るより寝台車に乗った方が安かったので、夏休みなどは寝台特急はすぐに売り切れていた。

さくら、はやぶさ(1980年代初頭)いずれも前出。
 福岡の学会へ行ったとき、行きはさくらで福岡まで、帰りは熊本に寄ってはやぶさで帰京したと思う(記憶があやふや)。この頃はブルートレインはまったく人気がなくなり、半分も人が乗っていない状態だった。70年代にはシーズンでなくてもほぼ満席だったのに、4人分の寝台のあるボックスに1人を入れるような格好になっていた。

尻、大雪(1980年代末)
 利尻は札幌・稚内間、大雪は札幌・網走間を走る急行(寝台車と座席車)。まりもと同じく、のちに特急になったが、このときはまだ急行で、料金が安かった。
 乗車区間は、利尻が札幌→稚内、大雪が札幌→網走。初めての北海道周遊一人旅。夏のシーズン中だったので、なるべくホテルに泊まらずに列車で夜に移動と思い、最初は利尻は安い座席で行こうと思ったのだけど、それまでの観光で疲れ果て、急遽、寝台に変更してもらった。目が覚めると、窓の外には青い空をバックに美しい利尻富士が見えたのが忘れられない。稚内の周辺を観光し(とても美しかった)、ホテルに一泊したあと、列車で札幌に帰り(半日くらいかかったような記憶)、今度は大雪で網走へ。これは最初から寝台を買ってあった。北海道内のブルートレインはどれも夜11時くらいに出発し、目が覚めるともう終点、という感じ。そのあと、バスで知床へ行った。

こんな程度なので、あまりたくさん乗っていないのだけど、ブルートレインの旅というのは特別な思い出がある。70年代に九州へ行ったときは、同じボックスのお客さんと長い時間をすごすので、そこでいろいろと話がはずむのが楽しかった。長崎からさくらで帰るとき、雪のせいで何時間も遅れ、途中で新幹線に乗り換えた人が多かったのだけど、最後まで乗っていたお客さんたちと雑談などしたこと、2時間以上遅れると特急料金の払い戻しがあるので、東京駅で払い戻してもらったことなど、なつかしい思い出。北斗星は乗りたかったが、北海道は飛行機の方が早いし、料金的にも差がなかったので(私は釧路に行くことが多かったので、北斗星だとむしろ高くなる)、ついに乗ることはなかったのが残念。

2015年3月15日日曜日

昔書いた文章

自分の古い文章を見ると、え、これ、自分が書いたの?とショックだったり、気恥ずかしかったりするのですが、先月28刷が出た創元推理文庫「フランケンシュタイン」の解説を見て、やっぱり隔世の感がありました。書いたのが1983年秋なので、すでに31年半前。当時は英文学の研究論文ばかり書いていたので、解説の文章が明らかに論文調だ。映画評論家になってからはこんな文章は書いていません。
そして、スタンリー・キューブリックの作品4本が公開されるのを機に出た「ムービーマスターズ スタンリー・キューブリック」に再録された「アイズ・ワイド・シャット」の作品評を見て、またまた何とも言えない気分に。こちらは1999年夏に書いたので、16年前ということになりますが、このときはキューブリックが亡くなってまだ時間がたってなかったので、ある種の追悼的な感傷がある文章になってます。
このムック本はおもに映画館でパンフレットとして売るようで、大きな書店でも置いていないようです。アマゾンでも在庫は少ないよう(でも売れてない)。
執筆者についての紹介が何もないのですが、映画評論家の大先輩が何人もいます。私なんざほんとまさに末席を汚すというか、「アイズ・ワイド・シャット」作品評も急遽ピンチヒッターみたいな感じで私のところに話が来た感じでした(そこにしっかり「バリー・リンドン」を滑り込ませたのは、この映画について書きたいという長年の願望の表れですが、古典文学の映画化だし、それほど場違いではないと思います)。
創元の「フランケンシュタイン」の28刷は、とりあえず買っておいてよかったというか、もう「フランケン」は3つも新訳が出たから創元はいいやってか、書店の店頭に置いてもらえないみたい。アマゾンで注文しても28刷が来るとは限らないしねえ。
で、その31年半前に書いた「フランケンシュタイン」の解説ですが、当時と今ではこの作品の置かれていた状況が非常に変わってきていて、たとえば、この作品がまともに評価されていない、とか、名のみ有名で読まれていない、というのは今では正しいとは言えなくなっています。むしろ、今ではシェリーといえば詩人のパーシー・ビッシュより小説家のメアリの方が有名らしいし、「フランケンシュタイン」自体も大学の授業でとりあげられ、文学史に残る傑作として認知されています(100分で名著、と言われるのだから、名著認定されてるわけでしょう)。
ただ、フランケンが怪物の名前だと思っていた、という人はいまだに多いので、名のみ有名で読まれていないのは今でも本当かもしれません。が、新訳が文庫で3つも出たのだから、それも今後は変わっていくでしょう(創元は31年で28刷とはいっても、売上総数はたぶん、8万部以下)。
でも、私が解説書いた頃は、「フランケンシュタイン」は「オトラント城」などのゴシック小説として、一山いくらで売られてた二流作品扱いだったのです。それにSFの始祖としての高い地位を与えたのがブライアン・オールディスで、「フランケンシュタイン」を最初に名著認定したのはSF界だったと思います(アシモフも「ロボットの時代」序文で言及しています)。
そんなわけで、「フランケンシュタイン」の文学の世界での評価は、解説に書いた頃とは一変している、ということは書いておかねばなりません。
それと、「フランケンシュタイン」と「ブレードランナー」を結びつける、というのも今では普通のことですが、私が解説を書いた当時は非常に画期的だったようで、あちこちから「ブレードランナー」を出したのがいい、と言われました。私自身、最後に「ブレードランナー」について書こうと決めて解説を書いたというか、極端なことを言えば、「ブレードランナー」について書きたくてあの解説を書いたみたいなところがありました。ただ、リドリー・スコットがその後作り変えたディレクターズカットなどを見ると、スコットは「フランケンシュタイン」の要素を減じたいと思っているように感じます。おそらく、「フランケンシュタイン」を意識していたのは脚本家で、スコットはこの脚本家の意向を消す方向でディレクターズカットを作っているように思います(この辺、きちんと検証しておかねばと思っているのですが)。
「屍者の帝国」では、メアリ・シェリーの書いた「フランケンシュタイン」は事実とは異なる、ということになっていて、怪物は醜くなかったとなっています。となると、「本当の怪物」は醜さゆえに迫害されることもなく、それゆえに殺人を犯すこともなく、ただ、伴侶を作ってもらえなかったのでフランケンシュタインの花嫁を殺した、ということになりそうです。「フランケンシュタイン」の原作が今、受けている1つの理由は、怪物が醜い姿で生まれ、創造主に見捨てられ、他の人間たちから迫害されて、ついに殺人鬼になってしまった、というところが読者の同情を誘うからですが、その部分をあえて、メアリ・シェリーの創作だ、と言い切ってしまう「屍者の帝国」は、SFが発見した名著を文学が奪っていき、怪物への同情が読書の主流になっている現在の状況への風刺かもしれません。実際、最近の新訳では怪物への同情を誘うような内容が売りになっているように思います。創元はやはり怪奇小説として売ったので、科学者が思いがけず恐ろしい怪物を生み出してしまった、というのが紹介文になっています(ここも31年前と今の違いと言えます)。
ちなみに、「屍者の帝国」で怪物がNoble Savage 001となっているのは、怪物は文学における高貴な野蛮人の系譜にある、というところから来ています(解説に書いたっけ?)。フライデーが007なのはジェームズ・ボンドが入ってるからで、じゃあ、002から006は?といったら、女性のハダリーが003でしょうね(「サイボーグ009」を見よ)。

2015年3月12日木曜日

「屍者の帝国」とりあえずの感想

故・伊藤計劃が残したプロローグをもとに、円城塔が長編小説として完成させた「屍者の帝国」ですが、読み終えたので、とりあえずの感想のようなものを書いておきます。
この小説、大変な人気で、大好きな人も多いようなので、私の感想なんてどうでもいいだろうと思うのですが、一応、気がついたところくらいは書いておこうかな、というくらいの感想です。
まず、私は伊藤計劃の本は1冊も読んでいません。円城塔は芥川賞受賞の「道化師の蝶」ほか1篇が収録された本を読んでいます。
円城塔の小説は、ひとことでいうと、山の頂上に立つまでは何も見えないけれど、頂上に立つととたんにすべてが見えてくる、という感じです。
登山にもいろいろあって、山に登りながらまわりの風景を楽しみ、そして頂上からの景色を堪能する、というタイプと、登るときはまわりが見えない、登るのはある種の苦行みたいなところがあるのですが、ひとたび頂上に上がると、突然まわりが開け、これまでたどってきた道がすべて見えて、ああそうだったのか、と納得、というタイプ。円城塔の小説は明らかに後者で、途中はよくわからないけれど、最後まで読むと突然すべてが見えてくる、というタイプです。
最後に突然視界が開け、すべてが腑に落ちるから、途中は我慢してでも読む価値がある、という感じ。
「屍者の帝国」はしかし、長編であるせいか、最後にすべてが見えて腑に落ちる、とは行きませんでした。純文学の中編のような美しい秩序は感じられませんでした。でも、内容的にはゾンビものだし、「リーグ・オブ・レジェンド」のような19世紀パスティーシュなのだから、美しい秩序は最初からねらっていない、むしろ混沌をねらっていると言えるかもしれません。
それでも、最後の章には、突然視界が開け、心に響く何かがありました。
この最後の章は伊藤計劃の残した文章をもとに作られたのだということが文庫のあとがきを読むとわかります。が、それを知らなくても、円城塔の言いたいことは十分伝わります。
最後の章の語りは、あたかも「ユリシーズ」の最初の3章、若き芸術家スティーヴン・ディーダラスの難解な意識の流れの章から、ごく普通の中年男であるレオポルド・ブルームのわかりやすい意識の流れの章に変わったときのような、突然空が晴れたような雰囲気があります。
山の頂上に着いたら突然空が晴れた、そんな感じです。
いわゆるアウェイクニングとか、覚醒とか、エピファニーとかいったものを感じさせてくれる章です。
最後にカタルシスを味あわせてくれる円城塔の面目躍如というところでしょうか。
基本的にはゾンビもので、19世紀の文学作品のキャラや歴史上の人物が次々と出てくる話なので、「高慢と偏見とゾンビ」なんて小説もあったから(未読)、「カラマーゾフの兄弟とゾンビ」とか、「風と共に去りぬとゾンビ」とか、「シャーロック・ホームズとゾンビ」とかであってもおかしくないわけで、さすがに「吸血鬼ドラキュラとゾンビ」や「フランケンシュタインとゾンビ」は手垢がついてる感はありますが、そういう文学作品とゾンビの路線もあるな、と思います。カラマーゾフはもっと出してくれてもよかったと思うし、レット・バトラーはやはり映画のクラーク・ゲーブルのイメージが強すぎるので浮いてしまう。ほかにいいキャラはなかったのかな。
バトラーが、「結婚生活がうまく行かなかった、子供が死んだので妻と別れ、エジソンの研究所でハダリーと知り合った」というようなことを言うシーンがありますが、バトラーを出せば当然スカーレット・オハラが追いかけてくるであろうと思ってしまうわけです。
「屍者の帝国」はある種、ホモソーシャルな世界で、スカーレットのような生身の女性は主要人物にはいません。ただ1人の女性キャラ、ハダリーは(以下ネタバレ)「未来のイヴ」に登場する女性の人造人間で、生身の女性ではない。彼女は最後にアイリーン・アドラーと名前を変えるのだけど、彼女が「ボヘミアの醜聞」でホームズをやりこめるアドラーだということはすぐにわかってしまうのですね。そして、このアイリーン・アドラーもまた、ホームズとワトソンのホモソーシャルな世界が許容するタイプの女性です。
そんなわけで、若き日のワトソンがカラマーゾフに会ったり、レット・バトラーに会ったり、アフガニスタンや日本やアメリカへ行って、ついにラヴクラフトでおなじみのプロヴィデンスでフランケンシュタインの怪物に会うという、文学歴史てんこもりの小説なのですが、この小説の世界はフランケンシュタインの技術を応用して死者をよみがえらせ、労働力として使っている世界なのだけど、どうもこのゾンビ=屍者が労働力になっているというのがあまりピンと来ない。むしろ、過去の文学や歴史の人物が大勢出てくる、そのこと自体が実は屍者=過去の人物だからすでに死んでいるけれど、この物語のためによみがえらせた人々であると、だからこの小説自体が屍者の帝国であると、そういう見方の方がすっきりします。
また、人間は死ぬと体重が21グラム減る、それが魂ではないか、とか、バベルの塔のせいで言葉が多様化したとか、アダムとイヴに始まる聖書の話が出てきて、それが人間の造ったアダムであるフラケンシュタインの怪物と重なっていくとか、あるいは、人間の意識や魂とはいったい何かといったテーマが出てきます。
「21グラム」と「バベル」は、先だって「バードマン」でアカデミー賞を取ったイリャニトゥ監督の映画のタイトルで、この監督の映画には「ビューティフル」というのもあるのですが、ビューティフルも小説に中に出てきて、あれ、と思ったような気がしたのですが(ちょっと記憶不確か)、イニャリトゥの映画を意識してますかね?
人間の意識とか魂とかは、やはり、聖書にある「はじめに言葉ありき」、まさに言霊としての言葉が意識や魂の根源であると思われますが、言葉だけだと純文学のメタフィクションになってしまうので、この小説ではSFらしく、菌株というのを持ち出してきています。
でも、やっぱり、本当は言葉、言霊なのですね。なぜなら、ワトソンの語りを自動筆記するフライデー(「ロビンソン・クルーソー」か)が、(以下ネタバレ)最後に言葉を獲得することで意識を持つからです。そこが最初に紹介した最後の章。突然、空が晴れる章です。同時に、ワトソン博士はいない、という言葉に伊藤計劃はいないという思いが重なって、うるっと来てしまうのですが、このラスト、私は「アイ、ロボット」のラストシーンを思い出しました。あの映画はアシモフの「アイ、ロボット」と「鋼鉄都市」、そしてロボット三原則を取り入れた映画でした。外へと足を踏み出すフライデーと、映画のラストが重なって、意識を持った人造人間が新しい世界を作り出すというモチーフを感じました。

2015年3月9日月曜日

雨の日と月曜日は

カーペンターズの歌で好きなのは「雨の日と月曜日は」という曲ですが、これは雨の日と月曜日は気分が落ち込むという歌。で、今日は雨の月曜日と、一番憂鬱な組み合わせ。おまけにこのところ、某大学のバカキョームのせいでキレそうになってたので、やだなあ、と思いつつ、東京駅周辺にお出かけ。
別に用はなかったんですが、創元の「フランケンシュタイン」が2月に28刷になったのに、なぜか書店で28刷を見かけない。丸善の丸の内本店では平積みになっていますが、他ではなぜか25刷とか26刷とか27刷とかにしかお目にかからないのです(ほとんどもれなく「屍者の帝国」のタイアップ帯つき)。
いったいどこにあるのか、28刷。
いやそれ以前にだよ、創元の「フランケン」すっかり売れなくなってるんですけど!
書店でもアマゾンでも、売れてるのは新潮文庫と光文社文庫、それに続いて角川文庫の新訳3文庫。
ありゃー、まずい、もしかしたら28刷が最後になるかも。だったら買っておかなきゃ、と思って出かけたのです(丸善・丸の内本店へ)。
ついでに「屍者の帝国」の文庫版あとがきも読んできました。本編は単行本で読んだので。
「屍者の帝国」についてはそのうち感想を書きますが、創元の「フランケン」の帯は正式な「屍者の帝国」とのタイアップのようですね。黒い帯のデザインが単行本の表紙のデザインっぽい。「屍者の帝国」は河出書房なのだけど(「屍者の帝国」の最後に参考文献として創元の「フランケン」が入っている)。
というわけで、丸の内本店で平積みの1冊を買ってきましたが、この平積みが最初に見たときから全然減ってないんですよ。もともと創元の売り場はあまり人来ないしなあ。
私は解説だけだから、増刷になっても本はもらえないので、たまーに買うのですが、この帯つきは記念に。

そして、帰宅すると、この本が届いていました。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA-%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF/dp/4873764327/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1425903958&sr=1-1&keywords=%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA
「ムービーマスターズ スタンリー・キューブリック」1200円。
キネ旬のバックナンバーからキューブリックに関する記事を選んで載せたという、大変安上がりな本(おい!)。
今月から特集上映される「時計じかけのオレンジ」、「バリー・リンドン」、「フルメタル・ジャケット」、「アイズ・ワイド・シャット」のキネ旬の特集からの再録で、私の「アイズ・ワイド・シャット」作品評(1999年のバックナンバーから)が掲載されています。映画館で売るパンフレットを兼ねているのでしょうね。
ただ、写真がかなーり残念な出来。文章も縦書きだったものを横書きにしているのですが、うーむ。
でも、劇場用パンフレットとして考えれば値段のわりに読むところが多いし、初公開時にどう受け取られていたかがわかるという点では価値ありのような気がします。

2015年3月8日日曜日

セッション(ネタバレあり)

20代の監督の初長編映画がアカデミー賞作品賞などにノミネート、助演男優賞など3つのオスカーを勝ち取った「セッション」を見てきた。
ひとことでいうと、パワハラ、セクハラ、アカハラ盛りだくさんの音楽映画、である。
主人公は名門音大の1年生ニーマン。鬼教師として有名なフレッチャー教授の率いる優秀なジャズバンドにドラマーとして参加することが許される。
フレッチャーのやり方は、とにかく学生を罵倒し、限界まで追いつめて高い能力を引き出すこと。
怒鳴るわ、物を投げるわ、ビンタするわ、差別用語で相手をののしるわ、プライベートなことまで言って相手を罵倒するわ、とにかくパワハラ、セクハラ、アカハラのオンパレード。この種のハラスメントを知るには絶好の映画。
音大では教授が絶対的なパワー(権力)を持っていて、学生は従うしかないから、まずこれはパワハラ。そしてアカデミズムの世界だからアカハラ。そして、バンドのメンバーは男ばかりなのだが、セクハラに相当する差別用語もたくさん言っている。メンバーに女性がいたら即セクハラ。
この音大は女子学生もいるのだが、なぜかこのバンドは男ばかりで、フレッチャーのシゴキに耐えて演奏を競い合う男性メンバーたちを見ていると、これは体育会系の世界だな、とすぐに思った。高校野球とか、ああいった学生のスポーツの世界は男だけのホモソーシャルな世界で、なおかつ、フレッチャーのようなシゴキをする指導者がいて、シゴキの仕方もそっくりというか、特定の学生をいじめることで全体に緊張感を与えるとか、そういうやり方で強くなる、うまくなる、みたいな世界だ。
いや、これは体育会系だけではない、男だけの世界だけでもない、と思う。
たとえば、去年話題になったスタップ細胞の世界、分子生物学とか、いわゆる実験系の世界もまた、指導者の教授が描いたストーリーに合った実験結果を持ってこないと学生を怒鳴るとかいろいろあるらしい。だから教授のストーリーに合わせた捏造をしてしまうケースも少なくない。小保方晴子もそういう世界で捏造したのだろう、と言われている。
この実験系の世界では若い研究者たちはピペドと呼ばれ、奴隷のように実験を繰り返し、教授の望む結果が出ないと罵倒されるという、パワハラ、アカハラの世界らしいのだ。
もしかして、こういうのは日本だけ?と思うところだが、「セッション」みたいな映画ができるところを見ると、どうやら日本だけではないようだ。「セッション」は監督が高校時代に優秀なジャズバンドでドラマーをしていた経験をもとにしているようで、その高校のバンドはきびしい指導者のもと、全米一と言われるほどのバンドになっていたらしい。しかし、監督にとっては、指導者のシゴキはいまだにトラウマになっているようだ。
そんなわけで、「愛と青春の旅立ち」とか「フルメタル・ジャケット」とかの軍隊ものに似ているのだけど、「愛と青春の旅立ち」ほど感動路線ではなく、かといって「フルメタル・ジャケット」ほど狂気でもない。その中間あたりにあるのが面白い。
「愛と青春の旅立ち」では、鬼軍曹のシゴキに耐えて士官学校を卒業する若者たちにはある種の達成感があるが、「セッション」にはそれはない。フレッチャーは人間的な面も持つが、こと演奏に関しては完全にイッテしまっている。しかし、ニーマンも、他の学生も、こういうシゴキに耐えて一流になりたい、と思う。だから、フレッチャーとニーマンや学生たちの間にはある種の共犯関係が生まれる。
体育会系の世界でも、実験系の世界でも、シゴキや罵倒に耐えた末に何か大きなものをつかむと、シゴキや罵倒もいい思い出になってしまうのだろう。
しかし、実験系で捏造が多発するように、シゴキや罵倒に耐えて大きなものをつかめるのはごく一部。大半は精神を病んだりしてしまうに違いない。指導者にいじめられていた高校野球のキャプテンが自殺したとき、なぜ早くやめなかったのか、と思ったが、こういう世界にいると共犯関係になってしまって、脱出するのがむずかしいのだろう。
ニーマンはフレッチャーのシゴキに耐えてなんとか一流になろうとするが、ある失敗からフレッチャーに見放され、音大をやめることになる。以下ネタバレにつき、色を変えます。
音大をやめたニーマンには平穏な日々が訪れるが、その後、フレッチャーと再会する。フレッチャーは教え子の自殺が原因で大学をクビになり、今はフリーの指揮者になっている。現在指揮をしているバンドがドラマーを必要としているので、参加しないか、と言われ、ニーマンは参加することになる。
そのバンドはメンバーはみな大人で、女性もいるから、フレッチャーはこのバンドでは大学のときのようなパワハラはしていないのかもしれないが、元教え子のニーマンに対しては大学時代と同じイジメをする。というか、フレッチャーは大学をクビになったのはニーマンのせいだと思っていて、彼に恥をかかせようとするのだ。だまされた、とわかったニーマンは反撃に出る。そのあとのクライマックスがすごいのだが、ここでも憎みあうニーマンとフレッチャーの間には奇妙な共犯関係があることがわかる。バンドの主導権を握ることでフレッチャーに対して勝利するニーマンの姿は、いかにもアメリカ映画、ハリウッド映画が好む結末だ。自我の強さと戦う意志の強さが勝利するという結末に爽快感を感じつつも、自我の強さも戦う意志の強さも持ち合わせない人々はどうすればいいのかと思う(私自身は戦う意志が強い人間だが)。結局、強さがすべて、ということなのか、と思うと、考えさせられる。

2015年3月7日土曜日

「バリー・リンドン」の思い出

本日7日からスタンリー・キューブリック監督の4作品が上映されるとのこと。
作品は「時計じかけのオレンジ」、「バリー・リンドン」、「フルメタル・ジャケット」、「アイズ・ワイド・シャット」の4作品。
このうち、「アイズ・ワイド・シャット」はキネ旬の特集で書かせてもらった作品。しかも、これは試写当日に突然、電話が入り、これから試写に行けるかと聞かれ、もちろん、「行けます!」と答えて、試写を見て書いた作品だった。
この「アイズ・ワイド・シャット」も好きな作品だけど、キューブリックの映画で私が一番好きなのは「バリー・リンドン」。
なんといっても、私が英文学者をめざすきっかけになった映画。これがなければ「バリー・リンドン」の原作者サッカレーについて研究して大学院へ進むこともなく、「フランケンシュタイン」の解説を書くこともなく、E・M・フォースターを研究してその映画化で次々と仕事をすることもなかったはず。
そう、キューブリックの「バリー・リンドン」が私の原点なのだ。
それは1976年、「バリー・リンドン」が劇場公開され、それを見た私は原作者サッカレーに興味を持った。最初に読んだのは角川文庫から出た原作の翻訳。これは原作の単行本の翻訳だったのだが、その後、洋書店で、単行本になる前の雑誌連載の原稿をまとめた本に出会った。
この単行本と雑誌連載の違いが面白く、しかも、キューブリックの映画は雑誌連載の方をもとにしているのが明らかだった。
このあたりのことは当時、映画仲間とやっていた同人誌に書いたが、これがきっかけで私は卒論のテーマにサッカレーを選び、代表作「虚栄の市」などを読んだ。
正直、「バリー・リンドン」の第一人者は、少なくとも日本では私だ、という自負はある。が、悲しいかな、英文学の世界で地位を得られなかった私はいまだに「バリー・リンドン」で仕事をしていない。今回のリバイバルでもできれば「バリー・リンドン」についてどこかで書きたかったが、無名の私にはなすすべもない。
もちろん、ネットでならいくらでも書けるし、それを読んでくれる人もいるだろう。
「バリー・リンドン」について、何も残さずに終わりたくない。今はただそう思っている。

2015年3月6日金曜日

20万pv超え

日付が変わる頃にこのブログのページビューが20万pvを超えました。
もう少し時間がかかるかと思ったのですが、「小さいおうち」への急激なアクセスの増加で、一気に大台へ。
いろいろと使いづらいところもあるブロガーですが、とりあえず、ここで続けていきます。
みなさま、ありがとうございます。

2015年3月3日火曜日

英語の専門家を気取る馬鹿を晒す。

塾長で英語の専門家を自称するこんな人物がバカを晒しているので、注意喚起します。
https://twitter.com/ashikabiyobikou/status/570842108212310017
しかも、誰も決定的な間違いを指摘してあげてない(あ、1人いましたね。ただ、別のツイートにリンク貼る形なので、直接教えてあげる気はないのがわかる)。
おそらく、神戸大学の入試問題なので、神戸在住の内田樹が書いた英文と勝手に脳内妄想しているのでしょう。

この英文が誰のものかを知るのはまったく容易です。
because democracy is built upon respect and concern でぐぐればいいだけの話。
see other people as human beings でもOKのようです。
すると、マーサ・ヌスバウムというアメリカの哲学者の文章が出てきます。

哀しいかな、ネットはデマや間違いの方が流布しやすく、真実はデマに隠れてしまいがちです。
しかもデマの発信者は予備校の経営者?
恐ろしや。

2015年3月2日月曜日

昨日という日

昨日は1日で傘を2本壊してしまった。
最初は少し壊れかかっていた折り畳み傘をさして美容院へ行き、そこで預けたときに壊れてしまった。そこで美容院はビニール傘をくれたので、それをさして帰るとき、猛烈な風が吹いてきて、ビニール傘はあっという間に骨が折れ、ビニールがはがれてしまった(こんなに弱い傘なのか)。
結局、コートのフードをかぶって帰りました。幸い、雨脚も衰えてきていた。
美容院のあと、コーヒーショップで「屍者の帝国」を読みだしたので、その呪いだろうか?
「屍者の帝国」は、舞台となる19世紀後半の実在の人物や、小説のキャラの名前が次々と出てくるんだけど、出す必然性のない名前も多い。レット・バトラーみたいに世界の違う人を出してほしくないと思う。ハダリーはすぐにわかっちゃうしねえ。ピンカートンはこの時代の話によく出てきますが。
こういう本て、若い頃に読むと、出てくる名前が次々とわかるのが自分の知識自慢になってけっこううれしかったりするんだけど、年をとると経験でいろいろ知識があるのが当たり前だから、むしろ、またかよ、うざい、と思ってしまう。年をとるってこういうことか。もちろん、必然性があって出てくる人は違うけど。
話の方は読み終わってからでないと判断できないので、今は書きませんが、アシモフのロボット三原則のパクリが出てきて、しかもフローレンス・ナイチンゲールが考えたフランケンシュタイン三原則となってるので、ここは笑えました。

さて、帰宅してこのサイトの統計を見てびっくり。最近にないページビューの多さ、それも「「小さいおうち」読了後の覚書」の記事がものすごく読まれている。映画と原作の比較論です。
http://sabreclub4.blogspot.jp/2013/11/blog-post_24.html
昨日は1日のページビューが2000近くと、もしかしてこのブログ最高? そのうち「小さいおうち」の記事のアクセスが1700近く。昨夜、テレビでこの映画が放送されたからですね。いや、驚いた。今日もアクセス数が増えています。
テレビってすごいねえ。NHK教育で「フランケン」やっただけで、原作本は新訳中心にかなり売れているみたいです(創元も少しは売れてるみたい)。「屍者の帝国」は「フランケンシュタイン」が元ネタで、参考文献に創元の翻訳が入ってますが、劇場アニメ化といっても「フランケン」は原作じゃないし。

2015年2月28日土曜日

BookJapanの書評

久しぶりに書評サイト「BookJapan」を訪ねてみたら、書評が読めなくなっていた。
おととしから更新してないのは知っていたが、書評が読めないとは。
人様の書評が読めないのも残念だけど、このブログで書評を書きましたと何度も書いているのに、貼ったリンクが切れていたとは。
というわけで、SabreClub Archivesという別のブログに掲載しました。
映画「シングルマン」原作から「テルマエ・ロマエ」最終巻まで、全8本の書評です。
今なら右サイドに全作品のタイトルが出ています。

http://sabrearchives.blogspot.jp/

2015年2月27日金曜日

表紙の字体

どーでもいいことかもしれませんが、

新潮文庫と角川文庫と光文社文庫の「フランケンシュタイン」の表紙の字体がまったく同じだ。

明朝体、でしょう。

で、新潮文庫と角川文庫は上の方、左から右までいっぱいに白地で同じ字体の「フランケンシュタイン」。
表紙の絵もどちらも暗い色使いなので、なんとなく似て見えます。

光文社の方は字体が同じで上の方に横書きというのが同じなだけで、印象は違います。

創元推理文庫も字体は明朝体なのでしょうが、レイアウトや色がまったく違います。
創元と光文社の表紙はホラー色がないのが特徴。

どこかの本屋が4種類並べてくれたら面白いのにな。

創元の初版の表紙はどうだったかな、と思うのですが、段ボール箱をいくつもひっくり返さないと出てこないので(どこに入れたのか不明)、そのうち見つかったら写真アップします。定価は400円でした。当時は消費税がなかった。

追記 いろいろな表紙をアマゾンで眺めてみましたが、タイトルの字体、明朝体とゴシック体が圧倒的に多いのですね。私の訳書は明朝体でもゴシック体でもないのがわりとあるので、ちょっとびっくり。「テロリストのダンス」と「ブルース・オールマイティ」は独自の字体、「不思議な猫たち」は斜体になっています。

2015年2月23日月曜日

アカデミー賞発表

「6才のボクが大人になるまで」が有力視されていたアカデミー賞作品賞、なんと、「バードマン」に決まりました。監督賞も「バードマン」のイニャリトゥ。マイケル・キートンは主演賞とれず、残念。「博士と彼女のセオリー」のエディ・レッドメインとキートンの一騎打ちだったと思いますが、ホーキングそっくり演技に軍配が上がったか。キートンはセルフ・パロディ演技だったけど。
個人的には作品賞候補で見たものの中では「バードマン」が一番好きなので、大満足、というか、私が推すものは絶対、賞はとれない、と思っていたので、夢じゃないかしら、という感じです。イニャリトゥ監督も「アモーレス・ペロス」の頃から注目していたし、「バードマン」はやはり勢いを感じる刺激的な映画です(作品賞候補で見ていないのは「アメリカン・スナイパー」、「セルマ」、「セッション」)。
「バードマン」のこのブログでの紹介はこちら。
http://sabreclub4.blogspot.jp/2015/01/blog-post_18.html

助演男女優賞はおおかたの予想どおり。そして、主演女優賞のジュリアン・ムーア、やったね。何度もノミネートされながらついに受賞できずに終わる演技派たちの1人になってしまうかと思っていましたが、よかった(映画はまだ見てないけど)。
しかし、「6才のボクが大人になるまで」は結局、助演女優賞(パトリシア・アークエット)くらいしかとれなかったのか。私もこの映画は世間ほど高い評価はしてなかったのですが(ベスト10の下位に入れた)。
結局、「バードマン」と「グランド・ブダペスト・ホテル」が最多4部門受賞とのことで、後者は主要部門以外での受賞だから、実質的には「バードマン」圧勝かな。「グランド・ブダペスト・ホテル」や「6才のボクが大人になるまで」は非常によくできていてユニークで面白いのだけど、なにか、突出したすごいものを感じなかったのですが、「バードマン」にはそれを強く感じていました。