2017年4月30日日曜日

kindleには創元の「フランケンシュタイン」の解説がないらしい。

1984年に発売されて以来、多くの方に読まれていただいているわたくしめの「フランケンシュタイン」の解説(創元推理文庫)ですが、なんと、アマゾンのkindleには解説が含まれていないのだと。
知らなかった。
この解説の報酬は印税なので、今でも印税はもらっているのですが、電子書籍にもいろいろな種類があるので、kindleは解説がないとは知らなかった。
そういえば、電子書籍の印税、以前は1年間でドトールのコーヒー10杯分くらいあったのだけど、昨年は5杯分くらいになってました。
なんか、kindleは解説がないものが多いらしい。
アマゾンのレビューで知ったのですが、申し訳ないというか、コピーをお送りしたいくらいであります。
創元の紙の本は他社から次々新訳が出た関係で、もう増刷はないのではないかと思います。
そうなると、私の解説もやがては読まれなくなるということです。
ネットではいろいろ賛辞をいただいて、大変力になり、生きていてよかったとさえ思うのですが、時代の流れはそういう方向なのかと。

2017年4月29日土曜日

「君の名は。」某シネコン最終日

もうかなりの映画館で終了してしまっている「君の名は。」。
これまでこの映画を5回見た某シネコンはついに4月28日が最終回。
夜の回だったので、6回目を見に行くことができました。
キャパが50席余りの狭いところなので、開場直前に予約チケットを発券しに行ったときはすでに完売。場内に入ると何か非常に厳粛な雰囲気が漂っていました。
前回と前々回はわりと人が入っていたけれど、何か落ち着かない雰囲気だったのに、今回は最後を見届けに来たリピーターばかりという感じでした。
そんなわけで、今回は落ち着いて見れる、と思ったら、なんと、同じ列の奥の席の人が5回も前を通過。そのうち4回はトイレに2回行ったように見えましたが、5回目はもう終わりの方で、トイレに行って戻ってきても映画が終わっていると思ったのか、荷物を持って出ていきました。
その最後に通ったときがちょうど余韻を味わうところだったのですが、そこで前を通られたら集中力が途切れてしまい、最後をしっかりと味わうことができませんでした。
でも、この人も熱心なリピーターで、たまたまおなかの具合が悪かったのだろうと思うと怒るわけにもいきません。
映画が終わると、拍手した人がいて、それに応えるように私や他のお客さん数人が拍手。4月14日の別のシネコンの最終上映のときには拍手が起きなかったので、拍手できたのはよかったです。
あと、彗星が最初に割れるときにポップコーン(?)を持って入ってきた2人連れがいて、もう半分以上すぎてると思うのに、と驚いたのと、最後だから少しでも見たいと思ったのだろうけど、それでもポップコーンを買ってくるのか、とさらに驚いたのでした。
この最終上映はほんとに厳粛な雰囲気で、飲食している音はまったく聞こえなかったというか、飲食している人がそもそもほとんどいない感じでした。それどころかみんな、身動きもしないでじっとスクリーンを見つめているような感じさえしました。
そんな厳かな、ある種、教会のミサに参加するような雰囲気の最終上映回だったのです。

「君の名は。」は最初に見たのが今回のシネコン。半年たって2度目に見たのは一番近い別のシネコン。その後はこの2つのシネコンで繰り返し見ていました。結局、今回のシネコンで6回、別のシネコンで3回の計9回になりました。両方のシネコンの最終回に参加できたのはやはりよかった。
「ルドルフとイッパイアッテナ」は最初の5回が一番近いシネコンで、そのあと早朝上映ばかりになってしまったので、午後から夜の回があるシネコンを探して4つのシネコンで1回ずつ見て、計9回。同じ9回でも「君の名は。」とはパターンが違いました。
若い頃は映画館は入れ替え制じゃなかったので、1日に2回も3回も見て、1本の映画を映画館で10回以上見るとか時々ありましたが、今は入れ替え制なので、お金も時間もかかります。

さて、「ルドルフ」は結局10回目はなかったのだけど、「君の名は。」は今回、最後の余韻のところが気が散って味わえなかったので、来週、スバル座へ行こうと思っています。たまたま、銀座の方へ行く用があるので。でも、上映館がだいぶ減ったし、GWだから混むかもしれない。シネコンと違って指定席予約じゃないから行ってみないとわかりません。
スバル座は今も入れ替え制ではないそうです。昔、ビリー・ワイルダーの「シャーロック・ホームズの冒険」をここで7回見たのですが、1日3回+1日2回+1日2回でした。その後は別の映画館をまわって、15回くらい見たと思います。ビデオもDVDもなかった時代だから、好きな映画はできるだけ映画館で見ておくしかなかったのです。高校生だったから日曜しか行けず、日曜の朝の1回目から見てましたね。スバル座の館名入りのパンフレットが売り切れで、売り場に飾ってあった1冊だけが館名入りだったので、売り場のお姉さんに頼んでそれを売ってもらったのもなつかしい思い出です。

「君の名は。」については新しいことがわかったのでまた書く、と前に書きましたが、今日は疲れているので、また今度。スバル座に行ってから書くかな。

2017年4月26日水曜日

遅い春

GW間近だというのになぜか肌寒い4月。
風が冷たくて、中綿のジャケットを手放せません。

昨日は地元の公園で写真を撮っていたときは風もなくおだやかな日和で、けっこう暑かったのに、そのあと都内某所へ行ったら冷たい強風が吹いていて、急に寒くなっていました。
藤の花が場所によって咲き加減が違っています。

まず、地元から。

近くの藤棚。まだ満開ではない。

徒歩15分ほどのところにある大きな公園。藤はまだこんな感じ。GWが見ごろ?

ここは去年はレンゲやポピーなどいろいろな花が植わっていましたが、今年は菜の花ばかりで、それもほとんどなくなりました。チューリップはちょっとだけ。




いつも会う鳥たち。カワウ。

枯れた葦の中にいるアオサギ。

ダイサギ。

電車で移動し、都心の某所。藤は満開。


チューリップなど花がいっぱいの花壇。

2017年4月23日日曜日

「美女と野獣」は、見た目はともかく趣味が合えば(追記あり)

下でさんざんけなしてしまった「美女と野獣」ですが、ツイッターで面白いツイが。

「「美女と野獣」、「見た目はともかく心が美しければ」という話ではなく、「見た目はともかく趣味が合えば」という話なので…」

いや、まったくそのとおりです。
ベルはがさつなガストンが嫌い。
野獣も最初はがさつで怖い人だと思ったら、すごい蔵書の持ち主で、シェイクスピアのセリフをそらで言えて、ベルが読んでたような白馬の王子を期待するおとぎ話ではなく、もっとレベルの高い本を読めよとか言ってくるのです。
その上、図書室の蔵書がほしければあげるよ、と。
もともと「美女と野獣」にはファザコンのテーマがあって、父親べったりのベルが野獣と出会って父親を卒業という女性の旅立ちのテーマがあるのですが、ディズニーのはどうもその辺スルーっぽい。
この野獣が読書家で、本という共通の趣味があり、2人は急接近、という設定はよいと思うのですが、これもすばらしい展開にはなってない。いつのまにか立ち消え。
やっぱ脚本悪いんですね。
野獣が地図を広げて、好きなところへ行ってみなさい、と言い、心の目で見てみよう、と言うのは「ルドルフとイッパイアッテナ」に似たシーンがあったのですが、「ルドルフ」より前に前例があったのかな?
本に関しては、「ルドルフとイッパイアッテナ」の方がずっとうまい使い方でしたね(原作のおかげだけど)。
まあ、あのシーンでは一瞬、野獣がイッパイアッテナに見えましたけど(「ルドルフ」去年の映画だからディズニーがまねしたなんてことあるかな?)。

「君の名は。」について、最近新たにわかったことがあったので、近々書くつもりです。
あと1回見ると「ルドルフとイッパイアッテナ」の回数に並びます。


追記
ディズニーの「美女と野獣」は野獣が王子に変わると女性はがっかり、という話を知り、実際、そうツイートしている人を見て、へえほうと思いました。
アニメの方のファンがそうらしいけど、今回の実写でもそういう感想が出てるらしい。
確かにディズニーの野獣はペットのようで、ペットが大人の男性になるといや、という女性心理わかる。わかるけど、これって、女性が子供のままでいるってことでは?
フェミニズム的に言えば、男性はペットのようでいてくれた方が女性は幸せということで、これもわからんでもないけど(でも、フェミニズム的に正しいかは不明)。
つまり、ディズニーの「美女と野獣」は父親べったりのファザコンのベルが、ペットのような男性に目覚める話?
コクトーの「美女と野獣」や最近のフランス映画の「美女と野獣」では、明らかに野獣のときよりジャン・マレーやヴァンサン・カッセルになったときの方が魅力的だった。野獣もペットのようではなかった。
しかし、今回のディズニーの実写「美女と野獣」は最後に出てくる王子は確かに魅力がない。野獣に変わる前の王子は邪悪な表情をしていて、野獣のあとの王子はよい人の顔になっていたが、魅力的な王子ではなかった。
いっそ、王子になった野獣を見てベルは恋が冷め、去ってしまい、という結末の方が本当はあってるのか(それじゃ受けない)。
野獣だけは呪いが解けるのが間に合わず、ベルは野獣と幸せに暮らしましたとさ、というのがいいのか(ファンはそう思ってそう)。
この辺、やっぱりディズニーの限界っていうか、中途半端。

つうか、野獣がペットみたいだからいいっていうんだったら、結局、見た目じゃないか。

2017年4月22日土曜日

「美女と野獣」+1

シネコンで大ヒット中の「美女と野獣」と「君の名は。」をハシゴ。
「君の名は。」は8回目ですが、このハシゴがなければ一番近いシネコンで「美女と野獣」を見たかったです。理由は、そっちの方がスクリーンが大きい。が、そこでは「君の名は。」はすでに終了。
「君の名は。」は14日に大量に終了したこともあって、日曜に同じシネコンに見に行ったときも今回もけっこう入っていました。が、そのかわり、途中でトイレに行く人がいたりして落ち着かない。また、今回は隣の人が途中で何度かスマホを光らせるので集中できなかった。次は別の映画館にしよう(まだ行くのか?)。久々にスバル座行くかな。

「美女と野獣」は1991年のディズニーアニメの実写化ですが、この間に舞台ミュージカルにもなっているので、非常に人気も高く、世界的に大ヒットしているようです。
が、正直言って、アニメの方がずっと良かった気が。
やはり90分弱のアニメを130分に引き伸ばして、その分中だるみというか、全体的にたるんだ演出に見えてしかたなかった。
見たスクリーンが悪かったのか、全体に画面が暗くて見づらく、豪華絢爛な雰囲気をあまり感じなかった(近いシネコンで見た方がよかったか?)。
家具や日用品に姿を変えられた召使がたくさん出てくるのですが、彼らのシーンはもちろんCGなので、実写って言ってもCGアニメの割合が高い。燭台たちが歌い踊る昔のミュージカルへのオマージュのようなシーンも、全部アニメだよね、という感想を持ってしまうのです。
野獣もまあ、俳優をもとにしたアニメみたいなものだし。
登場人物にゲイやトランスジェンダーらしき人がいること、ベルの村がマイノリティを差別するコミュニティであることなど、差別の問題やマイノリティの問題が含まれているのが今日的といえはそうなのですが、それがテーマとしてすばらしい展開を見せるかというとそうでもない。
もともと野獣にされる前の王子が美醜の差別主義者で、美しいものや人しか城にいれないために醜い老婆を追い出そうとし、実は魔女である彼女の怒りに触れて野獣にされたという設定なのが、その後の展開ではうやむやになってしまう感じ。
つまり、野獣にされる前の王子は村の差別主義者ガストンと同じであり、その野獣が心やさしい、差別をしない人物になることでガストンのダブルだった彼が別人へと変わるとか、そういう展開はまったくなし。ガストンと野獣が最初ダブルで、ガストンが死ぬのは野獣の中の差別主義者が死ぬこと、みたいな高級な展開はないのです。
ベルの村はゲイやトランスジェンダーと思われる人たちはそれを隠して生きているようで、あからさまに差別されるのはベルのような本を読む女性と、結婚しない女性(昔の言葉でいうとオールドミス。映画ではそれを意味する英語をガストンが言っている)。
ベルは本を読むのでまわりから変わり者扱いされ、結婚しない女性は物乞いしないといけない(ただ、彼女には秘密があって、それはあとでわかる)。
そんなこんなで村人たちがガストンの先導でヘイトクライムに走ってしまうのも現実社会への批判となってはいるのですが、なんか描写や展開が下手。
あと、エマ・ワトソンのベルがあまりよくない気がする。歌も声の質があまりよくないし、エマ・ストーンと比べたらいかんのかもしれないが、演技も特にうまくないし、華もない感じなのだ。
それと気になったのが、古い時代のフランスが舞台だけれど黒人が数人出てくること。
確かにシェイクスピアの「オセロ」があるようにヨーロッパにはアフリカから来た黒人がいただろうけど、そういう歴史的背景で黒人が出ているようには見えないのです。
だったらいっそアジア人も出しちゃえばいいのに。
つか、アラブ人くらいは出すべきではないですかね。

2017年4月19日水曜日

稼げるナントカ、稼げないナントカ

しばらく読みに行っていなかったあるブログをふと思い出して、主さん、どうしてるのかな、と思い、久々に見に行ってみたら、興味深いサイトを紹介していた。
そのブログで紹介されていた記事はこれです。
https://kase2.jp/13042017/2303.html
「『正確でわかりやすい通訳を心がけています』←どうでもいい」

ブログ主さんはわりとまじめに、通訳者としての技能のさまざまなレベルについて考察されていましたが、私が感じたのはマーケティング。
誰もが言うことを言っていたのではあなたは仕事もらえないよ、というのがこの記事のテーマ。
記事の著者は酒井さんという方のようですが、この方の他の記事を読むと、マーケティングについての話がいっぱい。

https://kase2.jp/15042017/2331.html
「「今日は来るつもりなかったのになあ~」というお客であふれる居酒屋の理由」
お客さんにリピートされている居酒屋に対し、リピートされない店はなぜそうなるのか。
答は、「忘れられている」
うっわー、直球。ど真ん中。
誰に仕事頼もうかなあ、と思ったとき、頼まれるのは思い出される人。
忘れられている人には永遠に仕事は来ません。
だから忘れられないように常にアプローチが大切ということですね。
営業とも言います。

https://kase2.jp/11042017/2297.html
「仲の良い通訳コーディネータが退職したら仕事が来なくなった…」
これは通訳以外でもたくさんあるでしょう。編集者がやめたら、異動したら仕事が来なくなった、とか、私も何度も経験あります。

一番上の記事を最初に見たとき、目に入ったのは、「稼げる通訳者育成」というサイトのサブタイトル。
「稼げる通訳者」ということは、「稼げない通訳者」がいるんだ、と、考えてみれば当然のことを知りました。
「稼げない翻訳者」、「稼げない研究者」もいますね(どちらも私のことだ)。
つまり、通訳者も翻訳者も研究者も供給過剰で、仕事にあぶれている人がいるわけです。
しかも、あぶれている人は能力が劣るわけではない(という前提)。
本当に能力が劣る人はやめた方がいいわけですが、能力があるのに仕事が取れない人のためのマーケティング教室ってことでおk?

昔は通訳者も翻訳者も研究者もなりたい人が少なかったし、それで食えないなら転職してたと思いますが(翻訳は会社員のかたわらやっていて、仕事が増えたら独立というケースもよくあったみたい)、今は大量の通訳者、翻訳者、研究者が学校や大学院から次々と生まれていて、だから稼げない通訳者、翻訳者、研究者が出てくるっつうか、稼げない人の方が多い?
研究者の場合、非常勤で生活したら研究する時間がなくなる、つまり研究者じゃなくなってしまうので、非常勤で食えていてももはや研究者としては終わってる人が少なくないのではと思います。第一、非常勤の人は金がないから研究書を買えない、学会へ行く旅費も自腹なので行けなくなる、それどころか、学会の会費がばかにならないので学会もやめる、という具合に、金がなければ研究できない世界なのです。
通訳、翻訳も、小さいパイを大勢で奪い合っている状態のようで、上のマーケティングやってれば誰でもうまく行くわけではないというか、最初の記事のように、他の人と同じではだめなのでしょう。
たとえば出版翻訳だと、持ち込んだ本がことごとく売れるとか、そういう翻訳家が実際にいるのです。だいぶ前に私が行っていた大学のドイツ語の非常勤講師をしていた人がそうでした。
そのくらい違わないとだめってことで、なかなか大変な世界だと思います。あとはやはり3番目の記事にあるような人脈作りでしょう。

2017年4月18日火曜日

4月の花

谷中・天王寺






黄昏の上野公園。スタバのあたり。奥が宴会でにぎわう桜並木。

出来レース公募のこととか

私はコネがなかったので、博士課程在学中から30代前半まで大学の専任教員の公募によく応募していました。
当時は公募はほとんどすべて出来レースと言われ、実際に表向き公募の人も実は出来レースだったという話をしょっちゅう耳にし、本人が自分は出来レースじゃなかったと言ってる人ほどキャリアがない人だったり。
また公募自体非常に少なく、35歳までという年齢制限があるものが多く、結局、時間切れで応募できなくなりました。
当時は応募書類が必ず返ってきたが、履歴書も論文もまったく手つかずの状態で返ってきたので、出来レースなのは明らかでした。

昔は公募情報は母校の事務室で見るしかなかったが、やがてネットで見られるようになりました。10年ほど前にそのことに気づき、また応募しだした。かつては年齢制限がありましたが、現在は年齢制限はほとんどないです。ないとはいっても実際はあるのですが、昔のように35歳までということはないだろうと思いました。
このときは地方の大学でもいいと思ったので、手当りしだい書類を送ったけれど、公募1つに論文のコピー代やら送料やらで1500円くらいかかります。100回送ったら15万円。さすがに100回は送ってないが、40回くらいは出したと思う。
おかげで出来レースではなかった非常勤講師を2大学でゲット。
ただ、今も公募は出来レースが多いらしい。昔よりは出来レースでないのが増えているとは思うけど、ある大学の専任の先生がブログに、「公募を出来レースでなく、まともにやろうと思うととてつもない時間と手間がかかる。だから公募は出来レースにならざるを得ない」と書いていて、まったくそのとおりだと思った。
だってそうでしょう。1つの公募に何百も応募があって、送られてくる履歴書と論文を全部読んで選んだら、そりゃ大変な手間がかかる。小説の新人賞みたいに下読みを雇うわけにもいかないし。
さすがに修士論文しかない人を出来レースってわけには今はいかないだろうけど、採用されて当然と周囲が思うくらいのキャリアの人がいたら、その人を採用することにして、表向き公募にして出来レース、というのがまあ、普通だろうな、と思う。
理研の小保方晴子が出来レースだったのは有名な話。
今は応募書類が返送されてくることは非常にめずらしく、紙ぺら1枚の落選通知が来るか、それさえ出さない大学が多い。たまに返送されてくる論文を見ると、やっぱり読んだ形跡なし。きれいな状態で返ってくるから使い回しできるので、別に文句はありませんが。
現在は大学教員の定年の年齢に近づいているので公募には応募しませんが、非常勤講師や特任などなら可能性があるかなと思って応募することはありますが、やっぱり出来レースだろうなと思います。
専任の場合、出来レースになるのは、手間がかかるだけではなく、研究が優れていても人間としてどうだかわからない、というのがあるらしい。
確かに、研究は優れていても人間として困る人はいるし、組織の中でうまく調和できない人もいる。
今の私はそういうこと、ほんとによくわかるので、出来レースやむなしと自分でも思います。公募しないで適任者を採用すればいいのだけど、ある時期から原則公募とされるようになったので、今の状況があるのだな、と。出来レースじゃないのもあるから宝くじよりは確率の高いチャンスがあるのかもしれないし、チャンスが全然ないよりはいいのかな、と。

昨日

昨日は仕事に出る前からものすごく疲れていて、これ、ちょっとやばいかも、と思うくらいでしたが、それでも出かければなんとかなるもので、帰ったらすぐ寝ちゃおうと思っていたんですが、夜になると元気になるドラキュラ体質なもんで。

若い頃はまわりがどんどん大学に就職していくのを見て、そのたびに嫉妬に苦しんでいました。
私が若い頃は一流国立大学院の英文科だと英語の先生の口がたくさんあるので、コネのある人は修士論文だけで就職していきました。特に男子は修士修了か博士課程1、2年で就職。
女子の就職差別がその頃は激しくて、女子は博士課程をさらにオーバードクターしてやっと就職できる人が大半。ただ、コネのある人はやはり修士論文だけで就職。私は博士課程のときに論文を一生懸命書いて、研究者の人たちに送り、けっこう有名な先生たちからおほめの言葉をもらったけれど、コネにはまったくならず、むしろ、論文書かずに就職する人から「あなたの論文なんて就職には何の役にも立たない」と言われる始末でした。
あの人は優秀だから就職できた、と思えれば少しは楽なのだけど、そう思えない人がよい就職先を得ていくのを見ているのはつらかった。
当時は文系は一流大学ほど博士号を出さなかったし、留学もお金がかかってむずかしい時代だったので、今のように留学と博士号がないと就職できない(あってもできない人多数)という時代から見たら、私の時代の方が恵まれていたかもしれません。
私自身、オーバードクターが終わる頃に岡山大学から「誰でもいいから来てくれ」て話があったのですが、その頃、評論家としての活動を始めたばかりだったので首都圏離れたくなかったし、周囲は首都圏の大学に就職できていたし、指導教官から「就職したらよそに移るのは無理」みたいなことを言われて、結局評論家をとったのでした(私は指導教官から嫌われていたのも大きかったですね。研究の世界ではこれ重要なんです)。
今は地方の大学に就職して映画評論を商業誌に書いたりできるようですが、私の頃は首都圏にいないとそういう仕事はできませんでした。そもそもその頃は大学の先生が映画評論家というケースは少なかった。映画界でいろいろな仕事をしながら評論を書く人が多かったと思います。
岡山大学に就職していたら、奨学金の返還は免除になり、まともな給料をもらえ、もちろん仕事は大変だと思いますが、今も安定していただろうし、映画評論家をそのときあきらめても、安定した仕事をしながら文筆活動をすることはできただろうと思います。むしろ今は大学教授の肩書がある映画評論家の方が多いくらいだから。
私自身は岡山大に行かなかったことをまったく後悔してないのですが、ありえた人生の1つとして、時々考えてしまいます。
以前は少なくとも非常勤講師を定年まで続けられると思っていたのですが、最近は非常勤講師を解雇したり、教えるコマ数を減らしたりして経費削減をしなければならない大学が増えてきていて、この年になって失業の危機が。
大学の専任教員と非常勤講師の間には高い高い壁があって、その壁の向こう(専任側)に行けるか行けないかで大きな差があります(まあ、大学によっては潰れる恐れとかありますが)。
壁の向こう(専任側)に行くということは、現在では、大学の経営のために壁のこちら側の非常勤講師を解雇したりする立場になるということです。
壁の向こう側に行っていたら、こういうことに目をつぶらなければならない。
それを思うと、壁の向こう側に行かなくてよかったと思います。
「わたしは、ダニエル・ブレイク」のような映画を見ると、特に。
壁の向こう側にいて、こちら側の人を安い給料で使い捨てしながら、ケン・ローチの映画について語るなんてことは私にはできないからです。

ケイナーの星占い

イギリスのジョナサン・ケイナーの星占いを何年か前からよくチェックしていた。
けっこうこっちが求めているような助言をしてくれているように感じていたのだが。ある時期からうーんと疑問に思うようになった。
それからジョナサンが突然亡くなってしまい、息子のオスカー・ケイナーに受け継がれて現在に至っているのだけど、オスカーになってからさらにイマイチになっていた。
でも、時々はやはり参考になる助言が出てくる。
今出ているのはこれ。

「なぜ有名になりたいと思う人がいるのでしょう? 私は有名人になることにそれ ほどこだわる理由がよく分かりません。才能に恵まれている人がそれを他の人た ちと共有したいと思うのだったら分かります。その一方で、才能のない人は、成 功することを夢見て有名人になることを目指すのかもしれません。多分、成功を 収めることは贅沢(ぜいたく)な暮らしをするのに最短かつ最も簡単な道だと 思っているのでしょう。誰もそんな動機を理解できると思います。今、あなたは とてつもない成功を収めたいと思っています。しかし、名声だけでその目的を遂 (と)げることはできません。今週、王侯貴族のように扱われたいのだったら、 あなたが王冠をかぶるのにふさわしい人であることを証明しなければなりません。」

うーん、私は有名になりたいとは思っていないのですが、このアドバイスは確かに効きます。

実は最近、ちょっと愚痴りたいことがありまして。
非常勤講師で行っている大学の准教授が、昨年度から東大の准教授になったことを知って、えええ、と思ったのです。
まあ、私の専門分野とは違う人なので、評価されていたとしてもわからなくて当然なのですが。
この人、懇親会でよく話しかけてくれて、わりと好印象の人でしたが、私がいろいろ参考になることを教えてほしいのに、なぜか、私から情報を得ようとばかりしているように見えていたのです。
で、最後に会ったときにはおそらくもう東大の准教授就任が決まっていたと思うのに、全然そんな様子はなかった。なんだかなあ。(いやいや、めでたいことで、ご活躍をお祈りします。)

その人とはまったく別の人ですが、以前、私に話しかけてきて愚痴ばかり言うのでいやだなあと思っていた人と1年以上たって再会し、また愚痴を聞かされたのですが、この人がなんと、東洋大の英文科に就職していたことがわかったのです(就職できなくて愚痴言ってるのかと思ったらあれま)。
東洋大って、私はその近くに30年も住んでましたが、一度も仕事の話はなかったところ。
しかも英文科なので、その人のやりたい授業を思う存分できるみたい(うらやましいです)。
で、そこの就職が決まったのが遅かったので、非常勤している大学をやめたくてもやめれなかった。それで私にその愚痴を言っていたとわかったのです。
正直、ふざけんな、ですよ。
そういえば、私に愚痴を言ってくる人て、今までにも何人かいましたが、彼らは私以外の人にはとても愛想がよくて、いいところばかり見せて、その分、私には悪い面を目一杯見せるのです。
私なら見せて大丈夫と思っているんですね。
とりあえず、愚痴ばかり言う人は避けるってのは基本ですね(あ、自分も今愚痴言ってますが)。

結局、私はこの世界とは違うところで何かやらなくてはいけないんだと再認識したのですが、映画評論家としても終わってるし、翻訳家としてもいろいろあって仕事もらえないし、うーん、もう、私にできること何もないなら、もう人生終わってもいいと思う。もう何も未練ないしな。

2017年4月16日日曜日

8日で4回「君の名は。」

先週の日曜から今日までの8日間に「君の名は。」を4回見てしまった。
先週の日曜は「わたしは、ダニエル・ブレイク」のついでにハシゴ。
その後、おもだったシネコンで14日に終了してしまうとの情報を得て、火曜日に一番近いシネコンで鑑賞。その後、やっぱり最後の日にも行きたい、ということで14日に同じシネコンで。
そして今日は、2番目に近いシネコンで。ここは最初に「君の名は。」を見た映画館で、その後も「ムーンライト」や「わたしは、ダニエル・ブレイク」とハシゴで見たところ。
ここは木曜で終わりなのだけれど、午後5時台の開始なので木曜に行くのは無理。他の平日も何があるかわからないし、ということで、日曜の昼間に思い立って見てきたのだった。
思えば、最初にこのシネコンで「君の名は。」を見たときは、「アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲」を見る予定だったときで、行く前にネットでシネコンのサイトを見たら、「君の名は。」とハシゴができることがわかり、当日の昼間に予約して出かけたのだった。
つまり、最初と最後が同じパターンになったわけ。
まあ、今日が最後とは限りませんが。
合計7回見たのだけれど、もっと前にリピーターしていたら20回くらい見てしまったかもしれない(1回目と2回目の間が半年なのだ)。
前の記事は火曜日に見に行ったあとに書いて、そのあと金曜に見に行ったら勘違いに気づき、いくつか訂正したけれど、今日見に行ったら訂正したことの1つが勘違いだった、つまり、最初が正しかったとわかってまた訂正。
全体としての話の流れは1回見ただけである程度わかるのだけれど、細部がものすごく情報量が多くて、何回も見ないとわからない、見たときによって見逃したりもする、という具合に、見れば見るほどリピートしたくなる要素のある映画なのだ。
非常に短いカットがいくつもあって、もっと見ていたいのにすぐ次に行ってしまう。そういうカットがいくつもある。
映画の中で祖母が言う、からまりあったり戻ったり途切れたりまたつながったりするのが時間、というセリフがあるが、この映画自体がそういう時間になっているのだ。
見れば見るほど脚本のうまさ、編集のうまさに驚く、絵の美しさが一番言われているけれど、映画全体の構成のみごとさ、巧みさが際立っている。

14日は某シネコンの最終日ということで、リピーターのような人が多く、終わってもなかなか席を立とうとしない人が多かったが、今日はこのシネコンの最終日ではないので、わりと入ってはいたけれど、エンドロールの途中でさっさと帰っていく人が何人かいて、14日とはだいぶ雰囲気が違った。小学校低学年と思われる子供2人を連れた夫婦がいて、こんな小さい子も見るのか、とちょっと驚く。でも、全然話し声とか聞こえなかったので、真剣に見ていたのだろう。

2017年4月12日水曜日

ついに「君の名は。」が終わってしまう。

9日の日曜日に「わたしは、ダニエル・ブレイク」とハシゴして「君の名は。」を見たときは、まだしばらく上映するんだろうと思っていました。
が、月曜あたりから4月14日で上映終了の文字が各映画館のスケジュール欄にバンバン出ている状態に。
これまでも何度か終わる終わる詐欺があったのですが、先週末あたりから4月14日終了がぼちぼち出てくる状態で、でも半分くらいは残るのだろうと思ったのですが、その後、TOHO、MOVIX、イオンといった主だったシネコンの大部分が14日で終了を出してきたのです。
あともう1回は見たいと思っていたのに、えええ、それはないよ!
15日から有楽町スバル座で上映開始されるように、映画館を移して細々と上映は続きそうなのですが、やっぱり身近なところでもう1度見たい。
調べてみると、一番近いシネコンがなぜか今週は二番目に大きなスクリーンで上映中。そこはあの「ルドルフとイッパイアッテナ」を初めて見たスクリーン。
有終の美を飾るならここでしょ!
そのスクリーンは最初に、つまり始まったばかりの頃に「君の名は。」を見たスクリーンより大きいので、この映画を見た一番大きいスクリーンということになります。
午後7時半頃開始で、とても広いのにお客さんは十数人とさびしいものでしたが、久々に大きなスクリーンで堪能しました。最後に大きなスクリーンで見せてくれたこのシネコンに感謝です。
思えば公開1週間後に初めて見て、その後、いろいろ考えてはいたけれどなかなか見に行かず、半年以上たってようやく2度目を見て、これはあと何回かは見たいと思い、それから半月後に3度目、それから約1週間後に4度目、そして2日後に5度目となりました。
3月に2回見たときはまだお客さんそこそこ入っていたし、客層もいろいろでしたが、4月に入ってからの2回はお客さん少なく、リピーターのような雰囲気の人ばかりでした。この差が上映終了につながったのでしょう。

「君の名は。」何度見てもやっぱり欠点や粗はあるけれど、見れば見るほどすばらしさがわかる作品です。
また、映像と音声の情報量が非常に多く、それがリピーターを生む理由にもなっている気がします。
たとえば「前前前世」が流れるシーンでは瀧と三葉がポンポンとせりふのやりとりをしているので、せりふと歌詞の両方を同時に聞き取るのはかなーり無理。
RADWIMPSの歌詞がまたなかなかに意味深なんですね。
映像の方も本当に情報量が多くて、5回見てもまだ気づかない、あるいはあるのはわかってるけど全部は見きれないディテールが多いです(DVD売れるでしょうね)。
前から感じていたんだけど、瀧の時間と三葉の時間、3年離れているだけではなく、季節も数ヶ月違っているんですね(追記 ここ勘違いでした。数ヶ月違っているように見えたのは、服装や背景に整合性を欠いた面があって、それでそう見えたようです)。どうして時間の差に気づかないんだ、という意見があるけど、彼らは入れ替わっているときは半分夢みたいな気分でいるわけで。
最初に不満に思った、三葉が父である町長を説得するシーン、その前に友人のテッシーが土建屋社長である父を説得しているらしいシーンが入っているのに気づきました(今更)。
町長と土建屋は町の有力者であり、選挙のときには結託していたので、三葉が町長を説得すれば、町長は土建屋と連絡をとり、すると土建屋も息子の話からすぐに状況を理解、この2人が中心になって町民避難に成功したのだろう、と。(追記 三葉が、この町狭くて濃くていややわ、と言ってたけど、そのコミュニティの濃さが一丸となって避難の役に立ったという面もあるのですね。)
三葉が町長を説得できた理由については前に書きましたが、いちいちわかるようにしなくてもよく見ればちゃんと布石を置いている、ということがわかります。
ドアの開く方向がシーンによって違うとか、整合性のないところも多いのですが、この映画は理詰めで作った映画でないから人の心をひきつけるので、むしろ、シーンのつなぎ方とか展開とかがいったいどうしたらこういうふうにうまくできるんだろうと思うくらいすばらしい。ほとんど奇跡というか、天の采配みたいなものさえ感じます。

「君の名は。」は7日から北米で公開中で、評論家の評価がとても高い。批評をいくつか読みましたが、映画のエッセンスをよく理解したよい評論が多いようです。去年、日本で出てきた評論がどうも的外れなのが多かったのに比べ、あちらの評論家の方が映画を正しく理解しているように思います。

追記 本文に勘違いがあったので、追記しました。某シネコンの4月14日の最終日、やっぱり行ってしまった。上に書いたのと同じスクリーンでしたが、終わってうしろ見たら、わあ、こんなに入ってる、というくらいお客さんが入っていました。若者からシニアまでいろいろでしたが、1人の人が多かったので、やはりリピーターが多かったのかと。

追記2 勘違いと思って追記した部分のうち、1つは勘違いではなかったので、そこをもとに戻しました。なんかもう、自分の記憶に自信がなくなる。。。

2017年4月10日月曜日

「わたしは、ダニエル・ブレイク」

有楽町まで行かないと見られないと思っていたケン・ローチの「わたしは、ダニエル・ブレイク」。運よく近場のシネコンで始まったので、見てきた。
イギリス労働者階級や貧しい人々を描き続けるローチらしい作品だが、今回はイギリスの生活保護のような制度の水際作戦ぶりがすごいのでいちいち驚いた。
日本の生活保護も水際作戦と称して、保護が必要な人をあの手この手で追い返すのだが、この映画を見ると、日本のやり方は「風俗で働け」とか、書類を受け取らないとか、いやがらせや法律違反に類するやり方のようなのだが、この映画に描かれる水際作戦は、電話がなかなか通じないとか、書類はパソコンで作成して送信しないといけないとか、スマホで動画を撮らないといけないとか、職員は手続きする人を助けてはいけないとか、手の込んだ、制度化された水際作戦なんである。
主人公のダニエル・ブレイクは優秀な大工だが、心臓病を患って、医師から仕事を禁じられている。だから日本の生活保護にあたるものを当然受けられるし、実際受けていたのだが、いきなり打ち切られてしまう。問い合わせようにも電話がつながらない、役所に行くと、打ち切りの通知の前に電話があったはずだと言うが、電話は来ていない。抗議するにはこういう段階を踏まないとだめだから、と、要するに、いろいろ面倒にして相手があきらめるのを待っているようなのだ。
しかたがないので失業手当のようなものをもらおうとするが、手続きの書類はネットにアクセスして記入し送信しなければならず、ダニエルはパソコンなどやったことがない。だからうまくできない。見かねた職員が助けようとすると、規則違反と言われる。隣人の若者の部屋でパソコンを借りてやっと送信できる。
とにかく生活保護みたいなのは埒があかないので、失業手当のようなものをもらおうとするが、求職活動をするのが条件。ダニエルはベテランの大工なので、雇おうとする人も出てくるが、心臓病で働けない。なので、求職活動をしているが仕事がないということで手当てをもらおうとするのだが、今度はその証拠をスマホで撮れとかなんとか。
まあとにかく、見ていて腹が立ってくる。パソコンやスマホがあるような恵まれた人しか助ける気がないのか、おまえら、と言いたくなる。
ダニエルは幼い子供2人を抱えたシングルマザーがひどい扱いを受けるのを見て腹を立て、彼女たちを助けるようになる。彼女は仕事を探しているが、仕事がなく、結局、風俗のような仕事をせざるを得なくなる。町には失業者があふれているようで、ダニエルがついにキレて、壁に怒りの落書きをすると、町の人々が拍手喝采する(この辺は日本と違うな)。
映画の流れを見ていると、ダニエルの心臓の病はどんどん重くなる一方のようだ。彼は早く仕事に復帰したいと思っているが、健康を回復するのはむずかしいように見える。
最後に、人間の尊厳についてのダニエルの言葉が語られるが、この映画は本当に、困った人が生きるためには尊厳を捨てて、役所の言いなりになり、奴隷になることを強いられる、ということを描いている。日本だけじゃないんだ、と思ったが、日本だと尊厳を守るために生活保護を受けず、餓死したり自殺したりする人が少なくない。一方、イギリスではダニエルのように人間の尊厳について主張する人がいる、そういう映画を作る監督がいる。後者のようにしなければ困った人は助からないのだろうと思う。ダニエルは自分のためにだけ戦ったのではない。

この映画を見て腹立たしかったのは、長年住んだ文京区から転出し、その後また文京区に戻って転入届を出しに行ったときのことを思い出したからだ。
区役所の窓口の若い女は私の転入届を受け取りたくない様子だった。
要するに水際作戦で、貧乏で年をとった人を転入させたくない、という雰囲気だったのだ。
もちろん、転入届を受け付けないのは法律違反であるし、すでに引っ越しているのに受け取らないわけにはいかないはずだが、おそらくこの女は生活保護の水際作戦の練習でもしていたのではないかと疑いたくなった。あるいは、そういうことをいつもやっていたので、転入届でもやっていたとか。
私は長年文京区に住んでいたので、文京区には税金を長い間払っていたし、住めばまた税金を払う身になるのに、その女は私を無職と決めつけて、いろいろ文句を言って転入届を受け取ろうとしなかった。なぜ私を無職と決めつけたのかは理解できない。無職ならアパートを借りられないだろう。やはりあれは生活保護の水際作戦の練習だったのだろうか。
文京区を出てからまた戻るまでに住んだ西東京市も、転入のときに、やはり、貧しくて年をとった人には来てほしくないといった感じを受けた。ただ、文京区のような失礼な態度ではなかったが。
現在住んでいる町では、転入のときにそういうことはまったくなかったが、東京都の、特に区部やその周辺では金持ちと若い人しか入れたくないということを露骨にするような風潮があるのではないかと思った。
もっとも、文京区役所はひどい、という話をほかでも聞いたのだけど、その話では介護保険を利用しようとしたら相当ひどいことを言われたのだそうだ。「じゃあ、死ねばいいんですか」と言ったら、「そうです」と担当者が答えたらしい。
と、書いてきて、やっぱり日本の方が職員の人間性が出まくりの水際作戦だなあ、それに比べるとあの映画の水際作戦は職員の人間性とかじゃなくてシステムだよなあ、と思った。
でも、まあ、いやなことを思い出してしまいました。

さて、そのシネコンでは「わたしは、ダニエル・ブレイク」が終わった20分後に「君の名は。」が始まるので、また見てきてしまった。
「夜明け告げるルーのうた」のルーの声が四葉の声の人なのだ。この子もうまい。
「君の名は。」はそろそろ終了の映画館が増えるようなので、あともう一度、と思って見てきた。
瀧が最後に三葉の中に入ったとき、朝目覚めたときから髪が短くなってるけど、前の晩に切ったのだろうか。また、三葉が高い山から短時間で下まで降りて行けるのも考えてみれば変なのだけど、このあたりは今回までは気になっていなかったこと。何度も見ている人は細かいところで整合性がないところをいくつも見つけているようです。

2017年4月7日金曜日

「夜明け告げるルーのうた」(少しネタバレ)

「夜は短し歩けよ乙女」に続く湯浅政明監督のアニメ「夜明け告げるルーのうた」の試写に行ってきた。
どっちも「夜」の字から始まるタイトル。
「夜は短し」は春夏秋冬4つの季節からなる原作を一夜のできごとにしたのが秀逸で、しかも一夜の中に春から冬までの季節がちゃんと入っている。先日、原作を読んだけど、実にうまい映画化だなあと感心した。
そして「夜明け告げるルーのうた」はオリジナル作品。
こちらは海辺の町を舞台に、人魚と少年たち、町の人々との交流や対立を描く。
舞台となる架空の町、日無町は海に大きな岩がそそりたっているので日当たりはあまりよくない。そのかわり、太陽の光にあうと燃えてしまうというドラキュラみたいな(?)人魚たちが住んでいる。
家族を人魚に食われたと思い、人魚を憎んでいる老人たちがいたり、人魚が好きで人魚の遊園地を作った人もいる。しかし、時は流れ、人魚は伝説の存在になり、人魚遊園地も廃墟と化し、細々と漁業を続けるだけの町になっている。
主人公カイは東京育ちだが、両親の離婚で父親と一緒に父の故郷である日無町に来た中学生。
こういっちゃなんだが、このカイという主人公がけっこういやなやつなのだ。
芸能界で成功したらしい母親が家を出てしまい、母を恨んで、母からの手紙を読もうともしないカイは、学校でもまわりとうちとけず、笑顔を見せることもなく、進学する高校について考えることもない無気力な少年。ところが彼が音楽をやっていることがネットでわかり、バンドをやっている少年少女から誘いを受ける。
で、いやいやながらバンドに参加するカイなのだが、ボーカルの少女が歌が下手だとかいろいろケチをつける。いかにも東京でレベルの高いものに触れてきて、田舎のレベルの低さ、それをわからない相手にイチャモンつけてる感じなのだ。
そこに現れたのが人魚の少女ルー。ルーは人間と友達になりたくてカイにアプローチ、バンドにも加わる。その様子が人の目に触れ、ルーは大人気となるのだが、ボーカルの少女はルーに嫉妬、カイはそんな彼女をなじり、という感じで、カイのいやな部分と少女のいやな部分がぶつかって、かなりいやな展開に。その上、人魚に家族を殺されたと思っている老人たちや誤解した人々がルーを窮地に追い詰める、というような話。
まあ、とにかくルーはかわいいのだが、カイと少女はいやな子に描かれていて、でも、やがてこの2人が反省していく過程と、人魚が実は人間を助ける存在だということがわかってくる展開がクライマックスになる。
「夜は短し」は90分余りの短い作品で、そこにさまざまな物語がぎゅっと詰め込まれて面白かったのだが、「夜明け告げるルーのうた」は2時間近くと長い。キャラクターデザインはそれぞれ別の人だが、湯浅監督の作家性はものすごくよく出ていて、キャラデザが違っても表現や世界はまったく同じ人の作品だとわかる。「ルーのうた」もまた、奇想天外な発想や独特の絵が面白いのだが、こちらは「夜は短し」に比べて長いのでちょっと疲れる。ストーリー的にも少し破綻しているような、人物もややありきたりなところもあるというか、ルーを目の仇にする男(少女の父)が「ひるね姫」の悪役に似ていたりとか、もう少しなんとかならんかと思うところもある。
登場人物についても1人1人きちんと描こうとしていて、そこはいいのだが、やっぱりちょっと時間が長くて盛りだくさんだと疲れるなあ、もう少しそぎ落としてもいいのでは、という気がする。
一方、人魚についてはいろいろと面白い設定がある。ルーの父親の人魚とか、犬を人魚にしてしまうとか。
人魚といえば、この映画の人魚は西洋の人魚ではなく、日本の人魚をもとにしているようだ。
「ルドルフとイッパイアッテナ」の原作者・斉藤洋の絵本に、「うみのおばけずかん」というのがあるが、ここに出てくる日本の人魚は恐ろしい姿をしている。「ルーのうた」でもこの怖い人魚の絵が出てくるシーンがある。斉藤洋の本によれば、日本の人魚はきれいな女性の姿をして男を引き寄せ、男が近づくと怖い人魚に戻って襲うのだそうで、作者の結論は「うみべできれいなおんなのひとをみても、ちかづかないように」とのこと。
「ルーのうた」の人魚も出発点はそこで、でも、ほんとうは違う、というふうになっているところもとても面白かった。

2017年4月3日月曜日

さくらまつり

さくらまつりの会場から離れたところの桜はわりと咲いているのですが、

会場の桜並木はこのとおり。ジャンボからあげ食べてみました。肉は大きいけど味がついてない。

すごい人出。

喧騒を逃れて公園へ。みんなさくらまつりに行ったのか、日曜にしてはすいている。

カワウとダイサギ。

飛び立つアオサギ。

ダイサギのそばに来たアオサギ。ダイサギもアオサギも2羽ずついました。