2017年10月28日土曜日

「ブレードランナー 2049」(ネタバレ大有り)

金曜日の初日に「ブレードランナー 2049」を日本橋のシネコンで見てきた。
2週間前にここで「猿の惑星 聖戦記」をTCXのスクリーンで見て味をしめ、おまけに近場のシネコンでは吹替えメインで字幕はよい時間にやってないので、またもや日本橋へ。
その前に六本木で試写を見たのだけど、2週間前も試写室は別だけど場所は六本木の試写へ行って、なんと映写機壊れて試写中止の憂き目にあったのだが、今回は試写もきちんと見れた(その話はまた別記事で)。
(2週間前の「猿の惑星 聖戦記」の記事は「13日の金曜日は」というタイトルの記事です。)

さて、日本橋で見た「ブレードランナー 2049」(以下「2049」と略記)、予約番号が4092だった。つまり、2049と同じ数字の組み合わせ。
で、もともと期待はしてなかったのだけど、なんか、その斜め下を行く昭和な世界にがくぜん。
のっけから昭和なキッチン。昭和なエアコン室外機のあるビル。昭和な時代のSF映画(「ブレードランナー」以前)の世界にあったような古めかしい未来風景。首都高速でロケした「惑星ソラリス」を思い出させる風景(「2049」の主人公のエア彼女が青い服を着て出てくるシーンで、「惑星ソラリス」の青い服を着た女性がうろうろしているシーンを思い出した)。
そういえば、「ブレードランナー」は1982年だからもろ昭和。東西冷戦真っ最中。ソ連が崩壊するなんて誰も思わなかった時代。
が、その時代の「ブレードランナー」の方が先駆的映像で、今の「2049」の方がレトロってどうよ。

レトロといえば、ハリソン・フォード演じる老いたデッカードが住んでいる建物の内装がもろ昭和。マリリン・モンローやエルヴィス・プレスリーやフランク・シナトラの映像が登場し、デッカードがプレスリーの歌う「愛さずにいられない」を好きな歌だとか言うシーンでは笑いそうになったのをかろうじてこらえた(なに、あのシーン? 同じライアン・ゴズリング主演の「ラ・ラ・ランド」の影響か?)。

あと、ゴズリングの周囲で着信音みたいな音楽が時々鳴るのだけど、これが有名なクラシックの曲、でも思い出せない、と思って帰宅してネットで調べたらプロコフィエフの「ピーターと狼」だった。

前にも書いたけど、私はドゥニ・ヴィルヌーヴは過大評価されていると思ってるので、まあこんなもんだろうと思って見ていたが、「猿の惑星 聖戦記」同様、この「2049」もやたら絶賛されている。そんなに絶賛するようなものかと思うのだが。
映像は「メッセージ」と同じような雰囲気で、映像的には「猿の惑星 聖戦記」の方がすごかった。

以下、ネタバレ大有りで内容について書いていきますので、未見の方は注意してください。





前作の世界から30年後、前作のレプリカントを製造していたタイレル社は倒産し、今は別の会社がレプリカントを製造している。主人公のブレードランナー、Kは新型のレプリカントで、旧型のレプリカントを処分する役まわり。旧型のレプリカントは寿命は人間並みに長いのだが、地下組織となって人間に対抗しようとしている。そんな中、30年前にレプリカントの女性が妊娠して出産していたことがわかる。レプリカント製造が追いつかない今の会社はレプリカントが子供を生めばそれで数が増えるので好都合、というわけで、Kは生まれたレプリカントを探すよう命令される。

まあ、ここでもう、この女性から生まれたレプリカントは誰か、というのが想像つくのですが、これは最後にひとひねりしています。していますが、生まれたレプリカントを探すKの葛藤が全然面白くない。

で、このあたりからいよいよネタバレになっていくのだが、





Kはやがてデッカードに出会い、子供の父親がデッカードだとわかる。で、父親がデッカードなら母親はレイチェルに決まってるわけで、なんかもう、予想がつくところをいちいち引き伸ばしてもったいぶってやってるんだよね(だから長いんだよ)。
で、レイチェルは出産で亡くなっているのだが、結局、タイレル社は生殖できるレプリカントとしてデッカードとレイチェルを作り、2人を結びつけた、というのがわかる。
ハリソン・フォードはデッカード=レプリカント説大反対だったのに、結局、受け入れたのね。
まあ、マニアがもうデッカード=レプリカントになっているから、マニアの需要に合わせるしかないわけだが。

しかし、最初の昭和な世界に戻ると、「2049」は日本語大杉。ソニーの宣伝でかすぎ。ああ、ソニーも昭和の時代に大発展した企業。日本での配給はソニーなんで、最初からソニー、ソニーで、ワーナーじゃない「ブレードランナー」なんてフォックスじゃない「スター・ウォーズ」ですわ。
「ブレードランナー」に登場する日本はいかにもあちらの人が取り入れた日本で、そのエキゾチックなところがよかったんだけど、今回のは日本人が入れた日本みたいでなんだかなあ。

一番がっかりなのは、「2049」には好きになれるキャラが1人もいないということ。「ブレードランナー」の方は好きなキャラばっかりだったのに。
また、女性が単純な悪役か従順な善女っていうのも時代遅れもはななだしい。

とまあ、不満だらけの映画なのだけど、前作が「フランケンシュタイン」で、今作は「フランケンシュタインの花嫁」というつながりはあるな、と思った。両方ともハンプトン・ファンチャーが原案で脚本も書いているが、やっぱり「フランケンシュタイン」はファンチャーだったのか。
で、今作が「フランケンシュタインの花嫁」というのは、原作で、もしも女の怪物を造ったら子供が生まれ、子孫が増えて人間を脅かすかもしれない、とフランケンシュタインが考えたのをこの「2049」が敷衍してるかな、というところ。
「2049」では、デッカードとレイチェルが実は怪物と女の怪物で、子供が生まれ、その子供が救世主になって旧型レプリカントたちが戦いを始める、みたいな暗示が出てくる。
まあ、それはいいんですけど(別に驚くようなアイデアでもない)。

でもねえ、「ブレードランナー」ではルトガー・ハウアーのロイが怪物だったんですよ。原作の同情される怪物。それをいまさら、デッカードが怪物で、レイチェルが女の怪物ってやられて、まあいいんですけど、はあ(ため息)。

ルトガー・ハウアーは続編の話を聞いて、興味ないと言ったそうだけど、初公開版を愛する人にとって、「2049」はディレクターズ・カットの続編だから、こちとらには関係ねえでござんす、ってことで。

2017年10月25日水曜日

ハロウィン限定

近所のドラッグストアで売っている5箱セットのティッシュ、クリスマスや桜の季節になると5箱のうち1つが限定絵柄になるのですが、10月はハロウィン限定が。

底にまで絵がしっかり描いてある。
手前はスーパーで50円で投げ売りされていたハロウィンのマスクテープ。
左が黒猫、真ん中がかぼちゃ。右は柄だけ。
ハロウィンもいいけど、早くクリスマスツリーを飾りたい。

2017年10月24日火曜日

たわごと

最近、「メイキング・オブ・ブレードランナー」という分厚い本を借りてきて読んでいました。
「ブレードランナー」の続編が今週末から公開ということで、あまり期待はしてませんが、初公開版からファイナル・カットまでを網羅したこの本を読んでみることに。
「ブレードランナー」は初公開時に見て、非常に好きになり、その後、創元推理文庫の「フランケンシュタイン」の解説を書くことになり、あれ、もしかして「ブレードランナー」は「フランケンシュタイン」だったのでは、と思って名画座に再度見に行ったのです。
最初が1982年、次の名画座が1983年だったかな。名画座の方はヴァンゲリスつながりで「炎のランナー」と二本立て。こちらもロードショーですでに見ていて2回目でした。
正直、「フランケンシュタイン」の解説は、「ブレードランナー」について書きたい、というのがかなり大きな目的の1つでしたね。そこで達成感を得てしまったので、その後は「ブレードランナー」について考えることはあまりなかったのは事実。
一方、初公開時、一部のSFファンにしか認められなかった「ブレードランナー」はやがてカルト的人気を得て、ついに1992年にはリドリー・スコットがディレクターズ・カット版を制作、そこで主人公のデッカードがレプリカントだという話になっちまったらしい。
実は私はディレクターズ・カットというやつをあまり信用してないのです。自分自身が最初に出会った映画をだいじにしたいタイプなので、そのあとなんだかんだで作り直したものを見たくないという気持ちが強いのです。なので、このディレクターズ・カットも当時は見なかったし、「ブレードランナー」に関する様々な言説にも無関心でいました。
つまり、私の中では「ブレードランナー」は1982年公開のインターナショナル版がそのまま記憶に残っていて、それ以外のものを受け入れていなかったのです。
しかし、何年か前に某大学で「ブレードランナー」を取り上げることになり、そのとき初めて北米初公開版とディレクターズ・カットを見ました。が、見たけどやっぱりインターナショナル版がいいわ、と思って、わたくし的にはそれで終わりました。
その一方で、制作裏話みたいなのには興味があったのです。
で、今回、制作裏話を知りたくてその本を読んだのですが、興味深いところも多かったけれど、その一方で、ああ、この映画は私とは違うマニアのものになってしまったんだなあ、という感を深くしたのでした。
こういう感覚って、私にはよくあることなのです。まだ日本では知られてない作家をひいきにしていたら、いつのまにか日本で人気が出て、私とは違う世界になってしまうとか。そういう運命なんでしょうね。
デッカードがレプリカントだということはスコットが撮影中に思いついたみたいで、初公開版ではあいまいになっているのですが、ディレクターズ・カットでは一角獣の夢のシーンを入れることで彼はレプリカントになった、とその本の著者は力説しているのですが、一角獣のシーンくらいでそう言われてもねえ。
私の意見を言わせてもらえば、デッカードがレプリカントだったらこの話は全然面白くないんですよ。デッカードが人間だけど、でもレプリカントとどう違うのか、というのが面白いんで、完全にレプリカントだったら、単にレプリカント同士でいろいろやってるだけで、人間対レプリカントの対比がなくなってしまう。いやむしろ、レプリカントだって人間なんだ、という方向の物語のはずなんですがね。だって、「フランケンシュタイン」がそうでしょ。怪物だって人間なんだ、って。
実は私は、脚本家が「フランケンシュタイン」を意識していたけれど、スコットは「フランケンシュタイン」テーマがいやで、デッカードをレプリカントにしたのかなあ、と思っていたのですが、どうもそうでもないらしい。つか、スコットって、最近また「エイリアン」の新シリーズやってるけど、そこで「フランケンシュタイン」テーマをやってるんだって? わたしゃもうこの新シリーズはスルーしてるんですが、そうなの? で、「エイリアン」シリーズと「ブレードランナー」をつなげるって、もろ「フランケンシュタイン」? わからん。
まあ、私としては、デッカードがレプリカントだったら「フランケンシュタイン」ではない、ということだけは強調しておきます。
どっちかっつうと、メアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」じゃなくて、もっとおおざっぱなフランケンシュタイン・テーマなのかもしれませんね??? いや、わからん(でも、それを確かめに「エイリアン」新シリーズ見る元気もないしなあ)。

2017年10月19日木曜日

なに言ってんだ、こいつ

「デートが終わる頃には彗星が見えるね」
「なに言ってんだ、こいつ」

ではありません。
とあるサイトで絶賛されていたブログ記事を読んだあとの感想です。

前半の、ブログ主が関わっている出版社の社長の話はよい。
選挙に行っても何も変わらない、というが、選挙に行けば政治の見方が変わる。
そのとおり。うまいこと言うわ。

が、そのあとのブログ主のほざいてることはいったいなんだよ。
なんか書いてることが頭の古いオヤジみたいだな、と思ってプロフィール見たら、古い時代のオヤジだった。なるほど。
経歴見ると、ヌードグラビア編集者、アダルトビデオ監督を経て、現在はエッセイスト?
こういう経歴隠さないのは正直でよろしいのかもだが。

で、なにがアホかっていうとだね、不倫する亭主の話の古臭さがともかくとしてだ、そのあと、町で安倍やめろとか前原やめろとか叫んでいる人がいるけど、そんなこと言っても彼らは変わらない、自分が変わるしかないとか書いている。

アホか、こいつ。

誰も安倍や前原に人間として変わってほしいなんて思ってないよ。
やめてほしいからやめろと言ってるんだけど。
おなじ「かわる」でも「交替」のかわるだよね。
安倍やめてほかの人が首相になってほしい。
前原やめろというのは民進党の代表やめろってことでしょ。民進党どうなるかわからんが。

まあ、前半に登場した出版社社長とは器が違いすぎるってことでしょうね。
でも、こういうブログを絶賛しちゃう人がいるわけで、ファンもいるわけで、こういう文章が受けるんだなあ、と思って絶望的に(なっちゃいかん)。
文章自体もなんか感じ悪い文章、嫌いなタイプの文章です。

チェンジとか書いてるけど、実際は、世の中変える気のない人の文章だってことだよね。
世の中変えようとする人をディスり、どうせ変わらない人に自分を変えればいいとだけ言っている文章。
もう、アホか、こいつ。

2017年10月15日日曜日

硝子体出血その後

9月末に右目がおかしくなり、眼底出血、詳しくは硝子体出血と診断されましたが、それから約半月、眼科で再度診察してもらい、完治したとのことでした。
その前に内科で検査を、と言われて内科へ行ったら、血圧と血液検査だけでなくレントゲンやら心電図やらまでやらされましたが、血液検査の肝臓関連の数値が少し上なだけでほぼ正常とのこと。肝臓はお酒を飲むからなのだよね。もっと悪い数字が出ると覚悟していたけど、注意してください、で終わりだった。
眼科の再診では両目の眼底検査をして、どちらも出血はなし、とのことでほっとしました。
右目はまだ出血の名残りの黒い物が浮いている感じですが、だんだん薄く少なくなっているよう。

長年健康診断を受けておらず、病院も歯医者以外行かない状態でしたが、とりあえず健康のようです。
去年の9月から緩やかなダイエットをしていて、半年で5キロ減り、以後は現状維持で、体脂肪率も6ポイントくらい下がってますが、去年の8月に検査したらもしかして今より悪い数字が出ていたのだろうか?

しかし、今日は久々食べ過ぎ。
朝起きておなかがすいてたまらず、緑のたぬきを食べてしまい、昼は納豆たまごかけご飯、夜は松屋の豚となすの辛みそ炒め定食(ご飯小盛り)。3食がっつりは多い。いつもは2食がっつり、1食軽く、ですが、まあ、今日だけならいいか(とかいって、夜食にスーパーで半額のカキフライを買ってきてしまった。ブランチに納豆たまごかけご飯、夕方に定食、そして夜食に少量の惣菜(カキフライとか)がいつものコースなのだが)。
このところカキが食べたくてたまらないのは、やはり肝臓のせいでしょうか。オルチニン入り減塩味噌汁も飲んでます。野菜が少ないので、1日分の野菜ジュースを毎日飲んでいます。

2017年10月14日土曜日

船堀映画祭の前売券

11月11日と12日に行われる船堀映画祭で「ルドルフとイッパイアッテナ」と「君の名は。」を上映するとわかって、はるばる江戸川区船堀まで前売券を買いに出かけた。
当日700円が500円だけど、買いに行く交通費が高い。でも、チケットに入場整理番号がついているので、早く買った方がお得というか、当日では売り切れの可能性も。
ほかにも昔の「君の名は」総集編や「マディソン郡の橋」、「アルプスの若大将」など、いろいろな映画を上映。日本映画が多い。弁士つき無声映画も。
公式サイトはこちら。
http://t-yomiuri.co.jp/funabori_f_f/
会場となるタワーホール船堀のサイト。
http://www.towerhall.jp/

で、チケットを買ったあと、このタワーホール船堀の展望台に登りました(入場無料)。
あいにくの天気で残念でしたが。

荒川と中川(江戸川競艇場があるから江戸川と間違えてしまった)。

ズームでディズニーランド。

さらにズーム。

東京タワー。これもかなりズーム。

スカイツリーは至近距離。実はうっすらとカメラが写り込んでいて、他のスカイツリーの写真は指まで写り込んでいました(がっかり)。展望台の室内が明るいので、ガラスに写り込んでしまう。文京シビックセンターの展望台だと室内が暗くなっているのでそれがないのですが、ここは展望台が非常に狭くてそういう工夫がないというか、やっぱり文京区って金持ちの区なんだなあと。
でも、この展望台はエレベーターの入口と中に案内をする女性がいて、そこは入場料をとる展望台なみです。
ここから文京シビックセンターが見えると書いてありましたが、わかりませんでした。

カラオケまねきねこの屋上。

船堀駅に向かう都営新宿線の電車。地下鉄だけどここは地上に出ている。

前売券とチラシ。

前日行った国立新美術館は案内所の女性やサロン・ド・テのウェイトレスがつんとすました感じであまりいい印象でなかったのですが、このタワーホール船堀のチケット売り場のおばさんはとても親切で感じがよかったです。やっぱりいいな、下町。
「ルドルフとイッパイアッテナ」は江戸川区出身の原作者が舞台挨拶予定。映画の舞台も江戸川区。

13日の金曜日は

六本木に試写に行ったらなんと、映写機壊れたので試写中止。
試写中に隣のビルの工事が電気系統ぶっちぎってしまい、試写途中で中止という経験はあったが、こんなの初めて。
しかも、しかも、この日は午後の試写のあと、日本橋へ移動して「猿の惑星 聖戦記」を見る予定だったのだ。どうやって時間をつぶせばいいのだ。
と思ったとき、そうだ、近くに国立新美術館がある。新海誠展の前売りを買って、なにか面白そうな展覧会があったら見よう、ということで、国立新美術館へ。
が、入口のチケット売り場は閉まっていて、中に入ってもどこでチケット売ってるのかわからない。あちこちで聞いてやっとたどり着いて買えた。ついでにチラシももらう。
うーん、なんて不親切な美術館。館内案内図も見当たらないし、やっぱり美術館は上野が一番。
展覧会は地味なものしかやってなくて、これならあの「君の名は。」に出てきたサロン・ド・テがすいているだろうと思い、行ってみた。3時のおやつの時間のせいか、思ったより人は入っていたが、並ばずに入れた。映画に登場した席のわりと近く。サンドイッチセットは売り切れだったので、アールグレイを注文。
うーむ、税抜650円もして、この紅茶、ちょっとひどすぎ。アールグレイの香りも味もしない。
でも、中止の試写のプレスシートを読んだりして、しばらく時をすごす。
サロン・ド・テは4時をすぎるとすごくすいてくる。館内を少し見ようと思い、店を出てみると、3階へ行くエスカレーターを発見。前に来たときは3階は行かなかったので、行ってみた。
3階にあったのは、美術書の図書室。洋書と和書がある。展覧会のカタログも置いてあり、数年前に行った東京都美術館のターナー展のカタログを見つけ、テーブルについてじっくり見た。なつかしかったけれど、絵の多くがあまり記憶にないというか、実物と印象が違うのだろうか。美術展でカタログを買おうと思っても躊躇するのは、実物を見た直後だと違って見えるからなのだ。
その後、地下鉄で神田へ行き、夕食をとったあと、徒歩でTOHOシネマズ日本橋へ。
ここの「猿の惑星 聖戦記」はTCXという大きくて映像がきれいなスクリーン。試写とハシゴでなかったら近場のシネコンへ行ったところだけれど、TCXで見られるなら日本橋まで来たかいがあるというもの。
で、中に入ったら、なんと有名な絵画の「猿の惑星」パロディが。
携帯で写真撮ってきました(暗い上に携帯なので、あまり写りはよくないけれど)。






ついでに、見られなかった試写のチラシ(光が写り込んでしまった)と、新海誠展のチラシと前売り券、サロン・ド・テのレシート。国立新美術館のチケット入れがなかなかよい。これもらえただけでもここで買ってよかった。

さて、「猿の惑星 聖戦記」だが、映像的には3部作の中では一番いい。スペクタクルシーンや、猿の顔がアップになったときに細い毛の1本1本の精密な描写とか。が、ストーリー的には3部作の中では一番スカというか、中身が薄い。
前半は、この映画、どこへ行くの?という感じだったけれど、後半になったらただの「地獄の黙示録」の焼き直しになってしまった(アポカリプス・ナウをもじったエイプカリプス・ナウという落書きが出てくるのがご愛嬌)。
シーザーが前作の悪役コバのようになってしまう、というのも、コバの二番煎じっていうか、コバの方がよかったよなあ、悪役だし。シーザーがコバみたいになっても全然葛藤もなくてつまらんし、前2作のシーザーの魅力がかなり減ってしまった。
話もご都合主義だし、こんなに猿や女の子が勝手なことしてるのに人間は全然気がつかないし。
ウディ・ハレルソンのカーツ大佐もどきもマーロン・ブランドの足元にも及ばん。
もともと、少数の猿と少数の人間がアメリカのごくごく一部で戦ってるだけみたいなシリーズなんで、そして猿の惑星になるって言われてもねえ、な感じなんだけど、あの結末だと猿の惑星にはなりそうにない。
「創世記」、「新世紀」と、面白かっただけに、3部作のトリがこれではあまりに残念な感じなのです。ノヴァって女の子もイマイチ生かされてない。モーリスとノヴァのふれあいがほんわかしてるところはよいのですが。
でも、映像的にはかなり見応えあって、TCXで見てよかった、と思えるものだった。

追記
国立新美術館のサロン・ド・テ。私が座ったのはこのあたりのようです。

2017年10月11日水曜日

「ゲット・アウト」(ネタバレ???)

日本では無名の俳優ばかりが登場する低予算映画でありながら、アメリカでは高い評価を受け、ヒットもした「ゲット・アウト」。
映画は夜の高級住宅地を歩く黒人青年が何者かに拉致されるシーンから始まる。
そして、主人公の黒人写真家クリスが登場。彼は白人の恋人ローズの実家を訪れることになる。
ニューヨーク郊外の自然豊かな場所に住むローズの両親と弟、そして、ローズの祖父をしのぶ集まりにやってきた白人たち(と1人の日本人)。自分たちは黒人を差別していないということを強調するが、なにかがおかしい。奇妙な表情の黒人の召使2人と、集まりにやってきたやはり奇妙な黒人青年。操られたロボットのような黒人たちだが、クリスが青年にカメラを向け、フラッシュを焚くと、青年は突然人が変わったようになる。
集まった白人たちを前に、ローズの父親はクリスの大きな写真を見せながら、何か競りのようなことをしている。クリスとローズはその場にはいない。
その夜、クリスがスマホで警察関係の友人に青年の写真を送ると、驚くべきことがわかる。恐怖を感じたクリスはローズとともに逃げようとするが。。。

というのが前半で、このあと、真相が次々とわかってくる。
わかってしまえば、なんだ、昔からSFではよくある話だな、と思うのだが、この映画が評価されているのは人種問題のテーマだろう。
人種問題を扱っている、というのはプレスにも書かれているし、クリスとローズが鹿をはねてしまったときにやってきた地元の警官の態度、そして、黒人のクリスを迎える白人家族のどこかおかしな雰囲気から、人種問題が重要なテーマなのだろうということは想像できる。
だが、この映画、普通に考えられる人種差別がテーマではないのだ。
そこを詳しく書いてしまうと完全にネタバレになるので、非常に困るのだが、本当の意味でのネタバレは回避しながら、この映画の描く人種問題が何かについて少し触れておきたい(でも、ネタバレ度が高い話なので、注意してください)。





ローズの実家にやってきたクリスに、ローズの父は陸上選手だった祖父の話をする。
祖父はベルリン五輪の国内予選でジェシー・オーウェンズに敗れたのだが、父は黒人のオーウェンズが人種差別主義者のヒトラーの鼻をあかしたことをうれしく思うと語る。
ローズは両親は人種差別主義者ではなく、オバマの支持者であると言い、両親も黒人に好意的なことを言う。弟だけがちょっと違うのだが、祖父を忍ぶ集まりに参加した白人たちも黒人に好意的だ。だが、その好意的なところが変なのである。
彼らは黒人が白人より優れていると言い、これからは黒人の時代だとさえ言うが、こういうふうにある特定の人種や人々を持ち上げるのもまた差別なのだ。
下に見るのと上に見るのの違いはあるが、相手を対等と思っていないという点では同じなのである。
相手を対等と思っていたら、黒人へのお世辞のようなことを言うはずがないのだ。
この映画の人種問題は黒人を下に見て差別することではなく、上に見ることにある。
上に見ているので差別という言葉では表現しにくいのだが、それは下に見ることの裏返しである。たとえば、障碍者を天使のような人のように描くのもそうだ。
後半のSFでは昔からある設定が単なる焼き直しにならないのは、ここに黒人を見上げる白人たちの視点があるからだ。
そして、黒人を見上げながら、実際は、黒人をロボットのようにしている。
見上げることと見下すことを重ね合わせることで、差別の本質を明らかにしているのだ。
差別とは、相手を対等の存在として見ないことであり、相手を個人として見ないことである。
黒人は身体能力が高いとか、黒人は精力絶倫とかいった、日本にもある偏見で黒人一般を見て、個人を見ようとしないことである。
白人の中に1人だけ日本人がいて、彼が名誉白人みたいに白人の一部になっているのも考えさせられる(意図的?)。
あとはまあ、あのラストのあと、事件の真相はきちんと調べられるのかな、屋敷に火がついたみたいだし、というのが気になるところだけれど、その辺はすぱっと切って終わりにしている。

2017年10月7日土曜日

ふたねこ2

以前書いた「ふたねこ」の記事に誤りがあり、訂正しました。

今日、2つ目のふたねこをもらいに秋葉原のベローチェへ。
箱を見ると、中には6つか7つしかなく、どれも袋の上の色が同じ。透明の袋を見ても中身が同じに見える。
「1種類しか入ってない」と文句を言うと、店員さんが、「同じ色の袋に入っているけれど、微妙に違うんです」
そう言われてみると、微妙に違うのがあり、それをゲット。
前にゲットしたのより目が少し開いていて、「ゆとり」のようです。
しかし、店員さん、私の苦情に即座に反応したところを見ると、同じようなことを言うお客さんが多いのだな。
で、帰宅して前にゲットしたのを見たら、「いかり」ではなく「くつろき」でした。
なんか、「おどろき」以外はみんな同じに見える。
そして、「おどろき」はまだ目撃したことなし。
うーん、今回のキャンペーン、もらうときのがっかり感とか、なんか楽しくない。
ふちねこのときは当たり外れがあってももっと楽しかった。
ふたねこ自体も使い捨てっぽいグッズなのですね。
なんだかがっかり感が大きいので、もう集めるのやめようかな、とさえ思ってしまう。「おどろき」には遭遇できそうにないし、「いかり」は耳の形がほかと違うのだけど、これは遭遇できるのかな?

このところがっかり感のあることが続いているのですが、昨日は2千円で買った財布が実はカードケースだとわかり、がっかり。お金を入れるとチャックがしまらないので、カードケースとして使うしかないんだけど、こんなにカード持ち歩かないしなあ。2千円は大きい。
そして今日は、ふたねこはまあよいとして、そのあと、乗換駅の近くのY堂でコメを買ったら、売り場の値段の1割増しくらいの値段を払わされ、変だなあと思って売り場を見てみたらやはり値段が違う。そこでレジに並びなおして返金となったのだけど、私の経験では、こういうふうに売り場の価格と違う価格がレジに打ち込まれている店はこういうことが日常茶飯事で、気がつかずに高い値段を払っているお客さんが多いのです。
Y堂は他の店ではこういうことは一度もなかったのですが。
なんでわざわざ乗換駅の近くでコメを買ったかというと、近所のスーパーがコメが品薄だったからで、でも帰りにそこへ寄ってみたら今日は品薄ではなかったので、さらにがっかり感が。

久々にヨドバシアキバのDVD売場へ行ったら、絶版状態になっていたDVDがたくさん復活していて、これはうれしかった。中古で買った「キャメロット」、2500円くらい出した「ライアンの娘」(これは新品)がどちらもヨドバシアキバでは2枚で2040円。「ライアンの娘」は2枚組です(私が買ったのと同じ)。「草原の輝き」も復活していてうれしい。
で、手に入らない状態だった「カラミティ・ジェーン」があったので、それと、「アニーよ、銃をとれ」の2枚を買いました。

2017年10月6日金曜日

「エルネスト」(ネタバレあり)

チェ・ゲバラとともにボリビアで戦い、命を落とした日系ボリビア人フレディ・前村・ウルタードの短い生涯を描く阪本順治監督の日本キューバ合作映画。
フレディもゲバラも1967年に相次いでボリビア軍に処刑されているので、没後50周年となるのが今年2017年。
こういう映画は批判しにくいのだけど、うーん、なにかだらだらとした展開で、メリハリもなく、監督はいったいどっちのエルネストを描きたいのかと思った。
エルネストはゲバラの名前であり、フレディはゲバラからエルネストという偽名を授かる。が、このシーン、別にゲバラが自分の名をフレディにあげたのではなく、いろいろある名前の中からエルネストを割り振った感じにも見える。フレディはゲバラ同様、医学の道をめざしているので、自分の名をあげたのかもしれないが、そのようには描かれていない。
フレディがボリビアからキューバに留学する前、1959年のゲバラの広島訪問から映画は始まる。当時はまだキューバ革命が起こったばかりで、日本ではこの革命がどういうものかもよくわからず、ゲバラもまったく無名で、取材に来たのは中国新聞の記者ただ一人。ゲバラは、過ちは繰り返しません、という碑銘になぜ主語がないのか、とか、これだけのことをされてなぜ日本人はアメリカに怒らないのか、などと質問する。
その後、キューバにソ連のミサイルが配備されてキューバ危機が起こり、ゲバラが広島を思い出すシーンも出てくる。
ちなみに、映画を見た10月6日、ノーベル平和賞がNGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」に贈られた。今年の核兵器禁止条約成立に貢献した団体で、この条約の会議に日本が出席しなかった(条約を批准しなかった)こと、独自に参加した日本共産党が大きな役割を果たしたことがニュースになった。日本政府はこのノーベル平和賞受賞もガン無視の模様。広島を訪れたいというゲバラに対し、日本は訪問を認めようとしなかった、という背景がさりげなく映画に描かれているが、現実に比べて映画の表現は弱すぎないか?
余談だが、「エルネスト」を見たのは昨年、「この世界の片隅に」を見たのと同じスクリーンの同じ席だった。意識して予約したわけではないが、広島つながりで無意識のうちにその席を選んだのだろう。
この実話にもとづくゲバラの広島訪問はそれでも映画の中では光っている。が、主役であるもう1人のエルネスト、フレディの話になると、オダギリ・ジョーの好演をもってしても、話が全然面白くならないのだ。
フレディはボリビアでは裕福な家の子供だったようだが、貧しい親子のために食べ物や薬を持っていったり、キューバの大学生になってからは、妊娠して捨てられた女性とその子供のために尽くす。その一方でゲバラやカストロの影響を受ける。やがて医学を捨ててゲバラと共に戦いに出るのだが、この辺のドラマがどうもメリハリがなく、退屈で、飽きてしまう。途中で帰ってしまった老夫婦がいたが、ゲバラの時代に生きていたような年齢の人が退屈して帰ってしまうような映画を作ってはいけないのではないか。
フレディがボリビアの戦いに出かけ、そこで死ぬ、というのが予定調和的に描かれるだけで、そこに至る葛藤が何も描かれていない。
監督は本当はゲバラを描きたかったのではないか、とさえ思ってしまう。
あるいは、ゲバラやフレディに対して遠慮があるので、彼らを映画の人物として追究することができないでいるのか?
現代の老いた学友たちがフレディを語る結末のシーンはハリウッド映画で見たことのあるようなもので、せっかくご本人たちに来てもらったのに、胸に迫るものがない。
そして気になったのが、フレディがボリビア軍に処刑されるシーン(以下ネタバレ注意!)。





フレディが本名を名乗ると、ボリビア軍のある兵士がフレディに対して怒りをぶつける。彼はかつて、少年時代のフレディが食べ物や薬を持って行ってやった家の少年だったのだ。
裕福な家のフレディは善意から貧しい親子を助けようとしていたのだが、助けられたはずのその兵士は、金持ちが自分たちを憐れみに来ていた、としか思っていなかった。
そうなってしまった背景が、まったく描かれていない。
想像するに、おそらく、クーデターを起こした政府に批判的なのは裕福なインテリが多く、貧しい庶民は独裁政権側についたとか、そういう背景があるのではないか。
フレディをはじめとするボリビアからの留学生は裕福なインテリの人が多かったのではないか。その背後に、多くの貧しい人々がいた、ということを、フレディの最初のエピソードと最後のエピソードでわずかに描きながら、それ以上追究しないところに、この映画のもの足りなさ、他人事感があるように思えてならない。キューバとの合作ということで、いろいろ遠慮しなければならないところがあったのかもしれないが(?)。

追記
「エルネスト」を、ゲバラと共に戦った日系人がいた、ということを強調するのは、日本生まれのカズオ・イシグロがノーベル賞を受賞した、ということを強調してまるで日本のことみたいに言うのと同じで、それは最近はやりの日本スゲエでしかないのだが、「エルネスト」も宣伝はその種の日本スゲエになっているけれど、映画自体はそうではない。日系人であることを強調していない。そこはいいところかもしれない。ただ、ゲバラと広島、ゲバラと日本から、日系人フレディにつなげようとしてつながらないみたいな中途半端な感じはある。

2017年10月4日水曜日

秋の色彩

硝子体出血は、出血が止まったかな、と思ったら、昨日はかさぶたが剥がれるようなピリッという痛みを感じ、また血が出てきた。
晴れたので外出したら、明るいほど黒い点や線がよく見えるのでまた落ち込む。時間がかかるのはしかたないね。

近所の公園は秋模様。

間近で見てから高いところに上がったのだけれど、最初はこれ、ヒトデかと思った。モミジらしい。

これはイチョウ。一瞬、ここは文京区かと思った。

コスモス。

名前忘れた。

ハゲイトウ。

名前忘れた。

エサを探すダイサギ。

アオサギ。

赤トンボ(これは別の日の都内)。

ネットに、猫好きが悶死、と書かれていたスナネコの子猫。かわいい。北アフリカに生息しているが、絶滅危惧種とのこと。

硝子体出血なので、映画は控えめにしよう。写真も右目でファインダーをのぞいて撮るので、やはり疲れる。授業もテキストを読むタイプだと2コマ目の後半がつらい。少しやり方変えるかな。

2017年10月2日月曜日

裏ライトスタッフ「ドリーム」

硝子体出血になった金曜日は、実はシネコンに「ドリーム」を見に行っていた。
行く前からなんだか右端の方に「メッセージ」の象形文字みたいなのが揺れてるな、と思ったけれど、飛蚊症かな、と軽く考えていた。
が、映画が終わってショッピングセンターの本屋に行き、本を見てびっくり。白い紙の上に一面に細かい黒い砂粒のようなものが。
その後、「メッセージ」の象形文字みたいなものがいくつも目の前をゆらゆらするようになった。
「ドリーム」見てる場合じゃなかったんだあ、と思いつつ、先に見ちゃってよかったかなあとも思う。
眼科へ行った翌日は最悪の状態で、もう今後はきれいな目で映画を見られないのだ、と思うと絶望感さえ感じた。
今日は砂粒がだいぶ少なくなってきたように感じるけれど、象形文字と、あとから出てきたやや大きめの黒い点が邪魔。完全にきれいになるのは無理かもしれない。
土曜日は右端を墨がつーっと流れるように見えることが何度かあったけれど、今は血は止まっているようだ。

というわけで「ドリーム」。原題は「隠された数字」と「隠された人物」を引っ掛けたHidden Figuresだが、これではヒットしないと、最初は「ドリーム 私たちのアポロ計画」という邦題にし、実際はマーキュリー計画なので嘘だ、と批判されて「ドリーム」だけになったが、「ドリーム」だけだとイマイチ、パッとしない。
マーキュリー計画といえば、「ライトスタッフ」が有名だけど、あちらでは白人男性の宇宙飛行士とその妻たちが中心だったが、実はこの計画の背後に多数の黒人女性数学者が計算係として活躍していた、という史実をもとにしたのが「ドリーム」。いわば裏「ライトスタッフ」で、7人の宇宙飛行士も登場。「ライトスタッフ」ではこの7人に入らなかったパイロット、イエーガーがもう1人の主役で、最初と最後をイエーガーが締める感じになっていて、彼の物語が裏ライトスタッフという感じでもあった。
やっぱり表の人より裏の人の方がドラマになるのですなあ。
「ドリーム」は手堅い演出で面白く、当時の人種差別がよくわかる。当時のNASAは南部のヴァージニア州にあったため、南部の人種差別がそのまま表れていて、トイレも何もかも白人用と非白人ように分かれている。そのため、黒人の計算係として初めて白人しかいない建物に入った主人公キャサリンは、建物に非白人用トイレがないので800メートル離れた黒人計算係のいる建物まで用を足しに行かねばならない。上司の白人女性にトイレのことをきいても「非白人用は知らない」と冷たい返事。それでも用を足しながらも計算をするなど本当にがんばっているのに、白人男性上司から何度も席をはずすことを叱責され、ついにキレる。
計算係の仲間の黒人女性の中には技術者になるようにと言われる女性もいるが、NASAで技術者になるには指定の学校で勉強せねばならず、指定の学校はすべて白人専用。彼女は裁判で争って白人用の学校に行くことができるようになる。
また、黒人計算係をまとめる役の女性も黒人だという理由でリーダーの地位を与えられない。やがてIBMのコンピューターが導入され、計算係が不要になる時代を予感した彼女は仲間にプログラミングを教え、そうした努力の結果、リーダーの地位を得る。
白人男性上司の前でキレたキャサリンはといえば、トイレの件を初めて知った上司は以後、トイレの白人用と非白人用を撤廃する。また、キャサリンの優れた数学力が必要とわかり、白人男性以外は入れなかった会議にも参加させる。
こんな具合に、がまんにがまんを重ねて努力した黒人女性たちがやがてその努力と才能が白人社会に認められていく、という映画なのだけれど、この映画に特徴的なのは、白人たちは意識的な差別主義者ではなく、差別に無知無関心な白人だということだ。
黒人だから、女性だから、差別されてもそれが普通と、無意識のうちに思い込んでいる。また、トイレの問題のように、仕事に支障をきたすような差別にも気づかず、改善しようとしない。キャサリンが入れるトイレが建物にないことの大変さに気づかない女性上司がその典型。男性上司も、彼女がキレるまで何も気づかないのだ。
同じ時代、キング牧師などはデモなどで積極的に差別に反対していたのだが、それに比べるとこの女性たちはおとなしいというか、我慢強く自分たちを認めてもらえるよう努力しているが、もう少し戦わないといけないんじゃないの?という気もする。国の施設なのに南部にあるからと南部の差別そのままな当時のNASAもひどいと思うが。
というわけで、黒人中心のドラマなのだけど、やっぱりどこか白人社会に認めてもらう黒人女性の話、に見えるのがイマイチ大絶賛できないところ。夫を失い、3人の娘を育てるキャサリンの新しいロマンスもほほえましく、気持ちのいいドラマではあるのだけど。
「ライトスタッフ」でエド・ハリスが演じ、この映画でも重要な役回りで登場するジョン・グレンは、最後にご本人の写真が出てくると、エド・ハリスに似てるなあと思う。「ドリーム」での彼の役の俳優は似てないし、あまり個性が強くないのが残念。