2017年5月31日水曜日

「君の名は。」17回目

3月から「君の名は。」ばかり見に行っていて、他の映画がおろそかになっているが、5月中旬のあと、しばらく見に行っていなかった。
が、池袋シネマ・ロサがまだ上映していて、今週は夕方4時台なので、行ってみた。
平日の夕方4時台にしては入っている。
若者からシニアまでいろいろな客層。
この前行ったときと同じ最前列の席にしたのだけど、2列目の斜め後ろにシニアっぽい人がいた。
前に行ったときも斜め後ろに同じような年恰好の人がいたのだけど。
けっこうシニアのリピーターがいそうな感じは以前からしていた。
さて、この映画、実は非常に細かく緻密に論理的に構成されていて、いろいろなモチーフを指摘しても、結局、それは新海誠の意図を説明することにしかならないと気づいた。
新海が意識的には考えていなかったが、無意識的に実現した芸術的な要素を批評家が見つけるというのが非常にむずかしい映画なのだ。
観客は感性で理解し、感動するが、映画自体は新海の緻密な論理で出来上がっている。だから、何を指摘してもそれは新海の意図でしかない。
ある意味、批評の無力を感じさせる映画だ。
で、作者のつまらない意図なんかどうでもいい、と、気鋭の研究者が書いた論考が書き手の願望でしかないトンデモだったりしたわけだけど(これについての批判記事に最近、突然、80近いアクセスが)、この映画は本当に新海が隅々まで支配している映画だなあと痛感した。
批評家だの研究者だのが勝手に自分の願望全開したって、エビデンスが何もない。エビデンスで批評すれば、新海の意図を代弁するだけ。
でも、この映画のすごいところは、そういう緻密な論理ではなく、感性で観客を感動させたこと。
いろいろと深い作品だとあらためて思う。

さて、せっかく池袋に行くんだから、昔よく服を買った東口の地下街のショッピングセンターに行きたい、と思ったら、場所がわからなくなっていた。
食品売り場の北側にあることがわかり、行ってみたけれど、昔とはだいぶ違っていた。
池袋はとにかく人がトロイのでせっかちな私はイライラするばかり。
自動改札をスイカだかパスモだかで出る客もトロイんでもう、イライラ。
うーん、昔は池袋、好きだった時期もあったんだけどな。
キンカ堂と、サンシャインのあたりが好きだっただけなんだろう。

2017年5月29日月曜日

ポピー

しばらく行っていなかった近所の公園へ行くと、ポピーが花盛り。






今月は携帯(ガラケー)とタブレットの2年縛りが終わる月で、両方コース変更すれば月に4千円くらい節約になるかな、と思っていたのだが、調べてみると、安いコースに替えても2千円くらいしか安くならず、その分使いづらくなりそうなので変更しないことにした。
ショップも徒歩圏内にないというか、隣の駅の近くで、自宅から歩くと20分前後かかる場所。
うーん、都心にいたときはショップが至るところにあったのにな。

2017年5月24日水曜日

「メッセージ」(ネタバレあり)

テッド・チャンの原作短編を長編映画にするならきっと大幅な改変や付け足しがあるだろうと思っていたが、意外に原作どおりの感触。
宇宙人を中心とするメインの部分はやはり大幅に変えられていて、原作だとルッキング・グラス(スルー・ザ・ルッキング・グラス=鏡の国のアリスを連想)を通して宇宙人とコミュニケーションをはかるのだけど、結局、意思疎通できないまま宇宙人はいなくなってしまう、というところを、宇宙人と人間がだんだんコミュニケートできるようになるが、ある言葉のせいで世界各国が宇宙人を攻撃しようとする、という内容に変わっている。
意外に原作どおりと思ったのは、主人公の言語学者ルイーズが宇宙人と言葉のやりとりをしているうちに自分の未来を見るようになるところ。
ここが原作の重要なせりふがしっかり入っていて、なかなかに感動的。
大幅に変えた宇宙人のところは既視感があるし、宇宙人に攻撃的になる人間とか国とかの描写がちょっと乱暴というか、描写不足なので唐突な感もある。ただ、そこで未来が見えるルイーズの存在をうまく組み合わせたところはうまい。

ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画は最初に見た「灼熱の魂」が非常によかったのだが、その一方で、話の展開にある種のあざとさを感じ、それが原因で手放しの絶賛はできなかった。
そのあと、「プリズナーズ」を見たら、こちらはあざとさ全開で、やっぱりこの人はあざとさの人なのか、とがっかりしたのが正直なところ。昨年の「ボーダーライン」は「プリズナーズ」よりはだいぶよかったが、それでもこの人のあざとい感じがどうしても気になった。
しかし、今回はそのあざとさをまったく感じなかったのである。
たぶん、脚本のせいなのだろう。
「灼熱の魂」は舞台劇の映画化だから、展開のあざとさは原作のものなのだ。
そして、その後の2作も、あざとさは脚本由来にちがいない。特に「プリズナーズ」はまったくそうだと言える。
これまでに見た3本の映画はどれもストーリー自体にあざとさが入り込んでしまうものだったが、あざとさはヴィルヌーヴ本来のものではなかったのだろう。
そういうところが気にならなかったので(「灼熱の魂」は最後のところがちょっと気になっただけなので、全体としてはあまり気にならなかったが)、今回はヴィルヌーヴの映像感覚や演出を素直に見ることができた。横の線を強調した冒頭とラストの部屋の描写とかすごい。
その冒頭とラストに流れる音楽が「シャッター・アイランド」でも使われた既成曲で、夫と妻と娘にやがて起こる悲劇という共通点があるので、どうしても「シャッター・アイランド」を連想してしまう。

タイムパラドックスと男女のラブストーリーという点では、「君の名は。」を少し連想するところがある。
男女のラブストーリーをもっと前面に出す方法もあっただろうし、その方が受けたかもしれないが、この映画ではラブストーリーはひたすら抑制され、表に出さないようにされていて、最後になってルイーズの未来に向かうラブストーリーであることがわかるようになっている。
未来を見たルイーズは愛も、愛の結晶も永遠にではないことを知っているが、それでもその愛を生きることにする。
一方、宇宙人を攻撃することに決めた中国の将軍をルイーズが説得するシーンはある種のタイムパラドックスで、観客は流れで納得させられてしまうが(この辺もうまい)、この説得シーンも三葉の町長説得をなんとなく連想させるものだ。もちろん、偶然だろうけど。
ヴィルヌーヴの次作「ブレードランナー」続編の予告編をやっていたが、この人は脚本しだいなところがあるかもしれない。「ブレードランナー」はデイヴィッド・ピープルズの脚本が優れていたが、リドリー・スコットは脚本の気に入らないところをディレクターズカットでカットしたりしている。私はやはりピープルズの脚本の方がよいと思っているのだが、今度はどんな脚本で、ヴィルヌーヴはどう料理するのだろうか。

2017年5月19日金曜日

「家族はつらいよ2」映画評

20日発売のキネマ旬報6月上旬号に「家族はつらいよ2」の映画評を書きました。
https://www.amazon.co.jp/dp/B06XSZGZ3D?tag=kinejundb-22&camp=243&creative=1615&linkCode=as1&creativeASIN=B06XSZGZ3D&adid=140M2S1NYTV4JB2ET476
スバル座に「君の名は。」を見に行ったあと、試写に行った、と以前書きましたが、それがこの映画。
久々に楽しんで書けました。
私としては、喜劇の映画評らしい映画評にしたい、というのが第一目標でしたが、とりあえず、それは達成できたかと。
シリアスなテーマを内包しているからといって、シリアスな映画のような評にはしたくなかったのです。
実際、この映画が含んでいるシリアスなテーマは、山田洋次が本気で映画化したらこんなレベルで終わってないはずで、喜劇として楽しむのが一番の目的、そこに少し社会問題の隠し味を、という感じだと思うのです。
もう1つ、今回はあまり言及できなかったことがあって、それは山田洋次のフェミニズム。
前作といい、今作といい、女性から見て感じる男性のいやなところが容赦なく出てるように思うのです。
主人公・周造と笠智衆の対比なんかもそこから来ている。
今回は長男もいやなところ出ちゃいましたね。
ただ、このシリーズが救われるのは、必ずいさめる人がいることです。
試写室でもらうプレスシートを見たとき、主役の8人の家族関係を描いた図に、妻と書くべきなのに嫁と書いているところがいくつかあって、非常に強い違和感を感じたのですが、映画が始まってみると、周造が次男の妻に向かって「嫁は黙っていろ」と言ってしまうシーンで、次男が「嫁とはなんだ」と怒るのですね。
ああ、よかった、やっぱり山田監督はわかってる、プレス作った人がわかってないんだ、と思い、ほっとしました。
ここでも次男が父親をいさめるのですが、そのあと、周造が反省して次男の妻に謝るシーンがあるのもよかったです。

2017年5月18日木曜日

CDとかDVDとか

DVDを買うと、買っただけで安心してしまい、見ない、という癖がある。
もともと買うDVDは映画館や試写で見ている作品が多いので、すぐに見なくても、というのがあるのだけど、見ていないものでもけっこう積んでおく状態のものがある。
昨年買った古いハリウッド映画が10本入っているセット。盤面に傷があるというのでかなり安かったが、傷があっても普通に再生できる。
で、積んでおく状態だったそのセットの中の2本を見た。
「山河遥かなり」と「黒蘭の女」。
どっちもよかった。
「山河遥かなり」は「アーティスト」の監督の「あの日の声を探して」の原作になった作品で、第二次大戦直後のドイツで米軍技師がアウシュヴィッツにいた少年を保護し、一方、その少年の母が息子を探すというドラマ。
終戦直後のドイツでロケされていて、空爆で破壊された街がセットではなく本物として登場する。
戦争が子供たちの心にどんな影響を及ぼしたかが繊細に描かれている。
ラスト、すれ違いになってしまうかと思ったら、という描写は「君の名は。」のラストの数段上を行く絶妙の展開。泣いてしまいました。
「黒蘭の女」はウィリアム・ワイラー監督、ベティ・デイヴィス主演(アカデミー賞主演女優賞受賞)。
「風と共に去りぬ」を思わせる物語だが、1933年の舞台劇の映画化とのこと。
舞台は南部ニューオーリンズ。南北戦争直前。デイヴィス演じる良家の令嬢ジュリーは勝気で自分勝手で婚約者(ヘンリー・フォンダ)に対してもひどい態度をとり、それでも彼は自分を愛していると傲慢に思っていたが、彼は別の女性と結婚してしまう。ジュリーはスカーレット・オハラそっくりで、婚約者はアシュレー、その妻はメラニー。で、ジュリーは元婚約者に復讐するためにレット・バトラーふうの男をたきつけるが失敗、バトラーふうの男は死んでしまう。
そのジュリーが最後に突然改心して、婚約者と妻のために自己犠牲的な行動に出るのが、批評家には不自然と評判が悪いらしい。でも、デイヴィスの演技を見たら、彼女が改心して自己犠牲的な行動に出たのだ、と納得してしまう。
とにかくデイヴィスの演技がすごい。彼女はスカーレット・オハラの候補者の1人だったが、「風と共に去りぬ」のプロデューサー、セルズニックは既存のスターではない新しい女優を求めていたので、デイヴィスを採用する気はなかったらしく、それでかわりにこの映画が作られたようなのだが、これを見ると、ベティ・デイヴィスのスカーレットが見たかったと思ってしまう。
ヴィヴィアン・リーのスカーレットはどこか繊細ではかないというか弱いところがあったが、デイヴィスのスカーレットならはかなさや弱さのない、わがままだが芯の強い女性になったような気がする。
もちろん、ヴィヴィアン・リーで異存はないというか、中学生のときに初めて見てから映画館で何度も見た好きな映画で、配役にはまったく文句はないのだけど、リーのスカーレットはやっぱりどこか男に媚びるところがあって、デイヴィスだとそうではない女性になったと思うので。キャサリン・ヘプバーンも候補にあげられていたけど、キャサリンだと強すぎるけれど、デイヴィスだとそこまで強くなく、悪女の魅力もあり、といった別のスカーレットが誕生した気がする。
ちなみに、ヴィヴィアン・リーがスカーレットになったいきさつは、同じワイラー監督の「嵐が丘」に主演したローレンス・オリヴィエを、当時恋人だったリーが追いかけてハリウッドへ行き、というのは有名な逸話。「嵐が丘」はこのセットにも入っていて、昔映画館で見たとき、あまり面白くないな、と思ったが、今見てもやっぱり面白くない。
ベティ・デイヴィスは中学生の頃から好きな女優で、ワイラーも好きな監督だったが、この2人のコンビ作を実は1つも見ていなかった。今回、やっと「黒蘭の女」を見たので、他もぜひ見たい。
「黒蘭の女」は原題は「ジェゼベル」で、これは旧約聖書に登場する悪女の名前。ジュリーがジェゼベルだというわけ。ジェゼベルはアイザック・アシモフの「鋼鉄都市」で謎解きのヒントとなる名前として使われている(「鋼鉄都市」を読んだのは小学生のときでした。なつかしや)。

で、昨日、久々にブックオクに行ったら、「君の名は。」のサントラがあった。
新品だと定価3000円近いけど、中古で盤面に傷があるので1750円。傷は視聴に影響ないとわかっていたので、買った。
開けてみたら、かなり聴きこんだようで、細かい傷がけっこうあったが、視聴に影響はなし。歌詞のブックレットもしわしわだった。なんで売ったのかな。別のを買ったのだろうか。
サントラは去年「ルドルフとイッパイアッテナ」を買ったけれど、「ルドルフ」がいかにも映画音楽らしい曲が並んでいるのに対し、「君の名は。」は不協和音があったり、不安をかきたてるような音が入っていたり、突然曲がとまったりと、CDとしての聞きやすさよりも劇音楽としての効果を感じさせるものだった。

2017年5月15日月曜日

「作者よりエライ批評家の俺様」という批評

ひどいものを読んでしまった。
「君の名は。」については、公開当初、文化人などがまったくわかっていない批判を書いていて、それに反発したのがそもそも、この映画について考え続けるようになった1つの要因だったのだが、ここに来て、映画を称賛する批評であるにもかかわらず、ひどくトンデモなものを見てしまったのだ。
それはこれである。
http://ecrito.fever.jp/20170123213636
ネット上の記事は簡単に書き直せるので、これから書く指摘が将来、直される可能性があるが、以下に書くことは今現在ネットに上がっている記事に対するものだということをお断りしておく。
著者は伊藤弘了、京都大学の院生で映画学を研究しているらしい。映画評論大賞というものを受賞している。
この批評の困るところは、細部を見るとよいこと、正しいことがたくさん書いてあるにもかかわらず、全体の論旨がデタラメなのだ。
まず、この批評の間違っているところをあげていこう。

「映画「君の名は。」(2016年)が分裂して隕石と化した彗星核の主観ショット(見た目のショット)で幕を開けている点を見逃してはならない。」
映画はまず、空から星が降ってくるシーンから始まり、沈む夕日をバックに隕石と化した彗星の一部が落ちてくるシーンへと続く。このシーンは隕石の主観ショットとは言えない。なぜなら、隕石が描かれている以上、その隕石を見ている目があるはずで、その目は誰の目かというと、小説論でいうところの「全能の語り手」なのだ。
隕石の主観ショットであるなら、隕石から見た風景がなければならないが、それはない。
これを隕石の主観ショットととらえるとしたら、視点に関する理解がないとしか言いようがない。
しかも隕石は終始横から見られているのだ。
横から見ているのは誰だ、といえば、全能の語り手、あるいは神である。

このあと、著者は「恋する彗星」というタイトルにふさわしく、彗星が片割れに恋しているという主張をするのだが、その論拠がきわめて薄弱である。
上にあげた、隕石の主観ショットというとらえかたがそもそもおかしいのだから、そのあともおかしくなるのだが、とにかく彗星がかつて落とした片割れに恋して1200年かけてまた戻ってくる、というのもおかしな話で、というのも、彗星自体は1200年ごとに片割れを同じ場所に落とし続けているのだから、片割れに恋して戻ってくるというのが非常におかしい。論理破綻である。
また、著者はここで、「彗星核の氷の中には「石」ならぬ鉄塊が隠れていた」と書いているが、この鉄塊という言葉は映画ではかなり大きな文字で出てくる。実は私は隕石が実は鉄塊であったということがずっと引っかかっていたが、最近、この彗星は「人工天体」であるということが画面に目立たない形で出ているシーンがあると聞いて、納得がいった。つまり、この彗星は宇宙人が作った人工物で、だから隕石が鉄の塊なのだ。
もうここで「恋する彗星」は完全に論理破綻してしまっていることがわかる。というか、著者がそう思いたいだけなのだ。
著者は、天災は食い止められない、人間は逃げるしかない、というごくごく当たり前のことを書いているが、そこに恋する彗星をこじつけるのだから困る。

このあとの線についての分析などはよいというか、こういうふうにあるモチーフに合致したシーンを次々とあげるというのは、DVDなどのディスクが手元にないと普通できない。映画が文学のように分析されるようになったのは、DVDが本のかわりになり、文学者が本のテキストを分析するように映画の映像を止めたり戻したり進めたりしながら分析できるようになったからだ。映画館では何度見ても、なかなかこういうことはできない。なぜなら、映画館で見る映画は向こうのペースで見せられるので、止めたり戻したりができないからだ。
「君の名は。」は英語字幕のついた映像が全編、ネットで視聴できた。おそらく東宝が配ったサンプルDVDがネットに流されたのだろう(違法映像である)。著者はこの違法画像をDVDのかわりにしたか、どこかからサンプルDVDを手に入れたかのどちらかである可能性がある(映画館で何度も見てメモをとったかもしれないので、断定はできないが)。
実際、この批評のような分析は、DVDなどが発売されれば多数書かれるだろう。今はそれができる環境にいない人が多いのだ。

とりあえず、線についてなどの映像分析自体はよいとして、これが全然恋する彗星のテーマにつながっていない。ただ、線についてなどの映像のモチーフを全部調べました、というレベル。全体的な解釈になるとぐだぐだになってくる。
たとえば、ここであげられているバッタのシーン。三葉が転んだときにバッタが草から飛ぶが、バッタが飛んだのが命拾いの象徴とか、いいかげんすぎる。

また、三葉には入れ替わり能力があり、瀧には画力がある、というのもおかしい。
三葉に入れ替わり能力があるから瀧と入れ替わったのではないだろう。
三葉が画力のある瀧を選んだとか、これまたぐだぐだというか、入れ替わりは人間が意図してやっているのではなく、何か人知を超えたもの(神とか運命とか)が行っていると考える方が正しいのではないか。この著者は彗星が恋するとか、三葉が瀧を選んだとか、人間に寄りすぎというか、ファンタジーやSFへの造詣に欠けているのではないか。

また、瀧が龍にさんずいを足した名前、というところも、龍に三を足したと書いているが、これはすでに多くが指摘しているとおり、龍と水を組み合わせたものである。

そして最後の注の部分で、著者は、
「サビの「君の前前前世から僕は/君を探しはじめたよ」の部分は、最初の「君」と二回目の「君」が別の対象を指していると考えることができる。」
と書いている。つまり、最初の「君」が三葉や瀧を含む人間、次の「君」が彗星の片割れだというのだが、1つの文章の中で出てくる2つの「君」が別ものって、言語の常識としてありえない。これも恋する彗星にしたい著者の願望でしかない。

こんな具合に著者の願望で出来上がっている批評なわけで、線のモチーフをいろいろ見つけたあたりは評価できるが、そこからの解釈におかしなところがあり、そして全体的な論旨が結局、著者の願望でしかないので、結果的にトンデモな論文になってしまっている。
遺跡調査はしっかりしました、が、調査の結果をもとに自分の願望でトンデモな論文になりました、という感じなのだ。

この批評を読むと、著者が「君の名は。」が好きであり、新海誠の過去作も好きだろうことがわかる。しかし、全体として感じるのは、作品に対するリスペクトの欠如だ。
著者が引用している加藤幹郎が若い頃、映画評論で賞を取ったとき、「映画を凌辱したい」と受賞の言葉に書いたが、好きな映画を自分の思い通りにしてしまいたいという欲望がこの批評から感じられる。相手をリスペクトせず、無理やり自分のものにしようとしているのだ。
この批評は最初からイヤな感じのする文章だったが、それは冒頭にあるこの文章に現れている。

「人はなぜ映画を見るのか。そこに映し出されている自分の片割れと出会うためである。」
まあ、これはケチはつけたくない文章である。こういう側面もある。が、この批評全体を読んだあとにこの文を読むと、ああ、やっぱりこの人の欲望全開なんだな、ということがわかるのだ。
「(彼らの思惑などはどうでもよいことだ)。作り手が自らの創作物の解釈を誤ることはそれほど珍しくもないのだし(このことは一般常識として広く共有されるべきだと思う)、そもそも人は作者のつまらない意図を斟酌するために映画を見るのでは断じてない。」
これも特に間違ったことは言っていないが、ここでなぜ、わざわざ「作者のつまらない意図」などと書くのか。なぜ、「作者の意図」ではだめなのか。
この「つまらない」を入れたところに著者の本音がある。
批評家は論理的に作品を見るが、クリエイターは必ずしも論理的に作品を作っているわけではない。むしろ、無意識にあるモチーフを作るといったところにクリエイターの芸術的な才能がある。だから批評家の方が作者より作品をよく知っている、ということはしごく当然に起こり得ることなのだ。
しかし、それは批評家の方が作者よりエライのではない。作者が作品を作ってくれたから批評家は作者より多くのことを発見するのである。
そういう観点に立てば、「作者のつまらない意図」などという言葉は出てこないだろう。上の引用全体に漂う作者軽視はいったい何なのか。作者よりエライ批評家の俺様、なのだろうか。
そもそも映画は多くの人の協力で作られるものだから、文学のように1人の作者に絞ることはできない。「君の名は。」にしても、ここに出てくる様々な要素やモチーフは新海誠1人の発案ではないだろう。最終的に新海の作品として世に出ても、その背後には多くの人の力がある。
「作者のつまらない意図」という言葉には、新海をはじめとする多くのスタッフ、キャストに対する侮蔑さえ感じる。
結局、この文章は、一見まともそうに見えても、恋する彗星にしたいという自分の願望のためのものでしかない。別に作者の意図など持ち出さなくても、恋する彗星という全体の解釈が変だというのはこの文章自体からわかるのだ。いろいろと書いてはいるが、結局、恋する彗星という論を成立させるための論証がきちんとされていないのだから。

新海誠は確かに作品について説明したがる傾向があり、もう少し黙っていた方がいいと私も思うところがある。たとえば、瀧が就職活動をしているシークエンスで司と奥寺先輩の両方が結婚指輪をしているのがわかる場面がある。新海はこれを、2人が結婚したと説明しているが、このシークエンスだけでは2人が結婚したという確たる証拠はない。瀧と3人で糸守へ行き、そこで2人が親密になった可能性はあるが、2人がそれぞれ別の人と結婚したとしてもおかしくない。特に、司と会っているときに奥寺先輩からメールがあり、瀧1人で奥寺に会いに行くのだから、司と奥寺が夫婦であればもう少し何か入れないといけないと思う。一方、テッシーとサヤカが結婚するというのはブライダルフェアとか式のこととか、2人で不動産屋の前にいるシーンとか、いくらでも証拠がある。

上にあげた例のように、論証というのは映像や音声から立証できるものをそろえてするものであって、テッシーとサヤカの結婚は論証できるが、司と奥寺は論証できない。
それと同じで、この著者の批評では、線のモチーフなどを見つけるところまではよいが、恋する彗星の論拠があまりにも薄弱というか、間違ってさえいる。
しかもそれが、好きな映画を無理やり自分のものにしたいという願望から生まれているのだ。

2017年5月13日土曜日

「君の名は。」@池袋シネマ・ロサ

金曜日に蒲田宝塚へ「君の名は。」を見に行き、蒲田の雰囲気はとてもよかったのだけど、映画が薄暗くて、あの薄暗い印象がこれから頭に残り続けるのか、と思ったら、こりゃどうしても明るい画面で見ておきたい、と、土曜は池袋のシネマ・ロサへ。
池袋は昔はしょっちゅう行きましたが、キンカ堂がつぶれて以来、ほとんど行かなくなり、もう何年ぶりだろうという感じです。
もともと渋谷、新宿、池袋は苦手で、あの混雑が耐え切れず、ただ、池袋は地下鉄で東池袋、サンシャインのすぐそばで降りていたので、池袋駅の混雑を比較的逃れることができていました。
しかし今はJR利用者となったので、それもかなわず。
ああ、久しぶりの池袋駅。もう、人が多いだけでなく、なんか、すごいスローなのだよ、人が。なんでこんなにスローに動くの? とイライラ。外に出るまで短い距離なのにすごく時間かかる。渋谷や新宿の方がまだマシだな、ああ、これが池袋クオリティ、と、久々の池袋感いっぱいになりました。
シネマ・ロサという映画館は名前はずっと前から知っていたけれど、行くのは初めて。商店街のアーケードの中に入口のある蒲田宝塚に対し、こっちは池袋の場末の地区(駅のすぐそばだけど)にある感じ。まだ再開発されていない、昔の雑多な店がいっぱいある地区。要するにゴミゴミゴチャゴチャしている。
シネマ・ロサは指定席ですが、当日窓口で指定席を買うシステムなので、数人しか並んでなくてもけっこう時間がかかります。後の大学生2人のうち1人が、今日で4回目と言っていた(私は16回目、と心の中でつぶやく)。
こんなに気軽にリピーターできるのはシニア料金1100円だからですが、なんと、この映画館はシニア1000円だった!
前の人が気になるといやなので最前列をゲット。が、最前列は座席の番号が椅子の背中にしか書いていない。2列目に入って番号確かめて前に戻って座る。入ったときは後ろの方に人がちょぼちょぼいる感じでしたが、そのうち最前列に私以外の人も座るようになったので、あれ、と思い、映画が終わって振り返ったら、すごい人だった。もしかして100人くらい入ってる? 土曜の夜の早い時間帯とはいえ、まだまだ続映できる入りです。
シネマ・ロサは映像はシネコンと同じくきれいで明るく、そして、音がこれまでで一番よかった気がします。美術の授業のシーンで、助成金がどうとか言うセリフが背後に聞こえるシーン、これまではこのセリフがどうしても完璧には聞き取れなかったのですが、今回ははっきりすべての音が聞き取れました。
蒲田宝塚の薄暗い映像のあとのせいか、映像はものすごく明るくくっきりとして見えました。シネコンで何度も見たあと、スバル座で見たら、やっぱりシネコンより少し暗く感じたのだけど、シネマ・ロサはシネコンと同じく場内が明るい状態で予告編をやるので明るいのでしょう。一方、スバル座は予告の時は暗くするので、シネコンほど映像が明るくないのだと思う(蒲田宝塚は暗すぎる)。
スバル座も蒲田宝塚もシネマ・ロサも作りは昔ふうで、幕がありますが、幕の開閉があったのはスバル座だけ。上映開始のチャイムなどがあったのもスバル座だけでした。スバル座だけが昔の劇場の伝統を残しているのかな。
シネマ・ロサは椅子もシネコンと同じタイプで、疲れません。
というわけで、これで16回見たことになり、そして、これが16回目の記事。
15回までについては1つ前の記事をご参照ください。
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/05/blog-post_13.html

「君の名は。」@蒲田宝塚

「君の名は。」と「この世界の片隅に」を終日上映中の蒲田宝塚とテアトル蒲田。同じピルに入った2つの古い映画館です。
蒲田は本籍地ですが、最後に戸籍抄本をとったのはいつだっけ、というくらい昔なので、久々に蒲田へ行きました。
蒲田は「シン・ゴジラ」第二形態、通称・蒲田くんが上陸したところであり、JR蒲田駅の発車サイン音は「キ~ネ~マ~の天地~」の「蒲田行進曲」。
いや、初めて聞きましたよ、このサイン音。
駅を出ても全然発展してる感じはなく、庶民的な商店街が続く普通の町。
公式サイトにはアーケードの中を通っていくと書いてありましたが、地図を見ると途中で外に出るみたいに見えたので、外の通りを歩いていったけれど、なかなか見つからない。おかしいな、と思い、アーケードの中に入って薬屋さんに聞いたら、「すぐ目の前ですよ」と親切に教えてくれました。
1階がドラッグストアで、その横にエレベーターがあるのだった。
通りに面した大きなビルとばかり思っていたのだった。
4階に上がると左が蒲田宝塚「君の名は。」上映。右がテアトル蒲田「この世界の片隅に」上映。
チケットは昔ながらのやつだったのでなつかしかった。スバル座はこういうのじゃなかったので。
平日は1日4回上映で、入替なしなので2回続けて見ましたが、画面が暗くて風景のキラキラ感とかがなかったり、暗いシーンが見づらかったり。あと、椅子が古いタイプで、けっこう疲れる。
うーん、やっぱりもっと環境のいいところで見たいな、と思うのですが、もうあまりやっているところがなく、19日には関東はすべて終了の情報も(?)。
先日、DVDとブルーレイの発売が発表され、予約が開始されてニュースにもなりましたが、勢いでDVD予約してしまったよ。ブルーレイはプレーヤー持ってないのだけど、特典映像のディスクのついたのはブルーレイしかないので、こっちも悩む。「ルドルフとイッパイアッテナ」は結局、DVD買ってないのですがね。

内容については、以前から気づいてはいたのだけど、瀧と三葉が本人のときは組紐を身に着けているけれど、入れ替わったときはどちらも身に着けていないのだね。
三葉は瀧が入ったときはポニーテールにして黒いゴムで縛っている。
たぶん、組紐は2人が入れ替わったときはどこか別次元に存在しているのではないだろうか。

というわけで、過去記事リスト。
記事(1)から(12)のリスト&三葉の父親について(これが記事(13)になります)。
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/05/blog-post_6.html
記事(14)救出のバトンとモンタージュ:「君の名は。」のクライマックスについて
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/05/blog-post_7.html
で、この記事が(15)になるのか。よく書くわ、自分。

2017年5月10日水曜日

「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」(ネタバレあり)

マイケル・キートンがマクドナルドの自称・創業者(ファウンダー)、レイ・クロックを演じる「ファウンダー ハンバーバー帝国のヒミツ」を見た。
キートンといえば、「バードマン」、「スポットライト」と2作連続主演作がアカデミー賞作品賞を受賞。なのでかどうか知らないが、クロックが映画館で見るのは1954年の作品賞受賞作「波止場」。
しがないセールスマン、クロックが、カリフォルニア州のあるハンバーガー店がミルクシェイクを作るマルチミキサーを8台も注文したので、いったいどういう店だろうと思い、はるばる中西部から見に行くと、店には大行列。しかし、注文してすぐにハンバーガーが出てくるので列はどんどんはける。店の前にはベンチが少しあるだけで、そこで座って食べていると、店のオーナーが来て、ミキサーのセールスマンだとわかると店内を見学させてくれる。
店のオーナーはマクドナルド兄弟。店の名前はマクドナルド。徹底した効率のよさで次々と注文をさばく。商品はハンバーガーとポテトとドリンクのみ。ハンバーガーもポテトもうまい。
これは全国的なチェーン展開すべき、と提案するクロック。手を広げるとクオリティが保てない、と反対する兄弟。しかし、クロックに押され、フランチャイズを彼に任せることになる。
という実話の映画化で、前都知事のような顔のキートンが最初は試行錯誤しながら、やがてフランチャイズを成功させ、しかし、初心を貫きたいマクドナルド兄弟と対立し、というドラマが展開する。
この手の「実話にもとづく」という映画は、最後に、「実話にもとづいているが人物やエピソードは創作された部分もあります」という但し書きがついていることが多い。が、この映画、そういう但し書きがなかったのですね。つまり、かなり事実に近い?
ただ、創作はしてないけど削ったところは当然あるので、足し算ではなく引き算の創作という可能性もある。
それはともかく。
マクドナルド兄弟の作っているハンバーガーのおいしそうなこと。
バンズはふっくらとして、肉は分厚い。鉄板で焼いているところかおいしそう。
今のマックの薄っぺらな肉とうまみのないバンズ、あれはなんなのだ。
まあ、100円だから文句は言えないけど、日本にマックが来たときからマックのバーガーはあんな感じだった。日本に最初にマックが来たとき、銀座の三越の一角だったけれど、窓口で買うだけで、あとは立ち食いだった。でも、バーガーはたしか50円で、ドリンクも安くて、よく食べた気がする。
マクドナルドがあれほど大きな世界企業になったのはやはりクロックの力が大きいのだろうというのはよくわかる。いろいろ考えてやっているし、成功のためなら人も蹴落とすみたいなところもある。ただ、映画では抵当に入れた家を銀行にとられそうになるほどの苦境から、間を飛ばしていきなり成功者になっていたりと、ちょっと飛ばしすぎなところもある。離婚と再婚のあたりもそのあたりの事情とか全然描かれない。
一方、マクドナルド兄弟は職人タイプで、事業を大きくすることを望まず、今のままでいたいというか、今のままでないとクオリティが落ちると考えている。だからクロックの提案をことごとく蹴る。その中にはミルクシェイクの素みたいな粉末を水に溶かしてかきまわすとシェイクになる、というのがあって、これだと大幅に経費節減、ということで兄弟に内緒で強引に導入してしまうのだが、マックのシェイクがあんなのでできてるんじゃ、もう飲みたくない、と思ったら、さすがにあれはアイスクリームに戻したと最後に字幕で出ていた。
シェイカーのセールスがきっかけで始めたのに、そのシェイクを否定するようなことをする、というのがなんとも。
結局、マクドナルド兄弟はマクドナルドの商標権をクロックに売らざるを得なくなり、兄弟は自分の名前を店の名前にできなくなり(本名を使えないあの日本の女優のようだ)、その店のそばにマックができて、兄弟は店を閉じることになってしまう。
なにがなんでもマクドナルドの名前は売らない、と主張することもできたと思うのだが、兄弟もクロックとの対立に疲れたのだろう。
商標権を売ったあと、トイレで出会ったクロックに、マクドナルド弟が言う、「最初に店に来たとき、店の中を見せて、ノウハウも教えたのに、なぜ勝手に自分で商売を始めなかったのか」
するとクロックは言う、「マクドナルドという名前が成功の秘訣だと思った。クロックなんて名前の店で食事したいと思うやつはいない」
マクドナルドというのはスコットランド系やアイルランド系の名前で、ロシア東欧が起源らしいクロックよりはるかにアメリカで受ける名前なのは間違いない。うーん、でも、マクドナルドに似た名前ならいくらでもあるので、それを使えばよかったのでは?
マクドナルド兄弟があれほど自分たちのやり方にこだわらず、妥協していたら、もっと違う展開になったのかもしれない。クロックは、最初の段階では、やはり兄弟が必要だったのではないか。
成功者が初期の仲間を切り捨てる、みたいな、よくあるパターンのような感じもする(スティーヴ・ジョブズもそうだったな)。
クロックは特に、兄弟の考えたアーチのある店のデザインが気に入っていた。クロックとマクドナルド兄弟の関係は映画に描かれたよりはもっと複雑なのだろう。
最後にご本人の声や顔が出てくるけれど、どこかドナルド・トランプっぽいな。ああ、トランプもドナルドか。

2017年5月7日日曜日

救出のバトンとモンタージュ:「君の名は。」のクライマックスについて

「君の名は。」のクライマックスについて、私は大きな間違いを2つ犯していた。
1つは前日の記事、「三葉の父親について」で書いた。
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/05/blog-post_6.html
三葉が父親を説得できるはずがない、と思った、というのが最初の大きな間違い。
次の大きな間違いは、上の記事リストの(3)で書いた、父親が説得された背景として亡き母・二葉の存在が大きい、ということ。
こちらは(3)の記事にあるとおり、新海誠ではない別のライターが書いた外伝でも書かれていることなので、おそらく信じている人が多いと思う。私もこの外伝を読む前から、亡き母・二葉が大きな役割を果たしていただろうと思い、それを感じさせるシーンを数秒でいいから入れてくれたら、と思った。
しかし、これも間違いだったのだ。
この外伝は新海誠の意図に従って書かれたものではないらしい。ある程度のヒントはもらっているだろうが、この外伝の父親のエピソードは二葉がすべて仕組んだみたいになっていて、ここまで行くとちょっとやりすぎだなあ、と、読んだときにも思った。
確かに映画では代々、宮水家の女性が若い頃に入れ替わりを経験するとなっていて、それはすべてこの彗星災害を回避するためだったのではないかと、三葉に入った瀧が言う。
しかし、三葉が最終的に父親を説得できたのは、二葉の仕組んだことではないということが、何度も見るうちにわかってきた。
そのきっかけとなったのが、次の3つの文章である。

(1)アメリカの批評家、Rebecca Pahleの映画評(英語)
http://www.pajiba.com/film_reviews/your-name-review-one-of-the-most-beautiful-animated-films-ever-came-out-on-friday.php
4月に「君の名は。」が北米で公開され、あちらの批評家の絶賛を集めているが、中でもこの批評は大絶賛。そして、最後の部分で、この映画には「2001年宇宙の旅」のスターゲイト・シークエンスに相当するシーンがある、と指摘している。

(2)Japan Timesの記事(英語)
http://www.japantimes.co.jp/culture/2017/04/20/films/japan-take-pride-name/#.WQ3usHmJGAI
Japan Timesは「君の名は。」に関する記事を何度も掲載していて、その中には新海誠の興味深いインタビューもあるが、この記事は映画の成功を讃える内容。その中で特に注目したのは、この映画の中心にはa youthful optimism(若者の楽観主義)がある、という指摘。

(3)個人のブログなので、アドレスがわからなくなってしまったのだが、「この世界の片隅に」の原作と映画を比較した記事。映画ではカットされた遊郭の女性のあるエピソードの重要性について語っている。

以下、クライマックスについてネタバレどころか相当に細かく書いていますので、ご注意ください。

まず、(1)のスターゲイト・シークエンスに相当するシーンというのは、「君の名は。」で三葉を探しに飛騨までやってきた瀧が、3年前の彗星災害で三葉が亡くなっていることを知り、もう一度、彼女と入れ替われたらという望みを抱いて神社のご神体に行き、そこで三葉の半分である口噛み酒を飲むシーンだ。
飲んだ瀧は足を滑らせて倒れ、そこから幻想シーンが始まる。このシーンは他のシーンとは別の人(美術家でアニメ作家でもあるらしい)が担当したとのことで、絵柄が他のシーンとは違っている。また、彗星のかけらが日本列島の沈む水の中に落ちていくといった幻想シーンが非常に美しい。
水の中に落ちたかけらはやがて受精卵となり、三葉が生まれる。そこから三葉と家族の過去の物語が始まり、父親の妻と子への深い愛情、妹・四葉の誕生、母の病死、絶望した父が家を出ていくといったシーンが続く。そして、瀧と奥寺先輩のデートの日に東京へ行こうとする三葉。
受精卵や水に沈む日本列島といった幻想的な描写はスターゲイト・シークエンスに似たシーンがある。また、「2001年宇宙の旅」では主人公の目がアップで映され、彼が見ていることが強調されるが、「君の名は。」の幻想シーンでもこの光景を見ている瀧の顔が何度か映し出される。
口噛み酒を飲んだ瀧がスターゲイトを通って3年前の三葉の体に入っていくことを表現したシーンだが、それだけでなく、三葉の過去を見せることで、父親の娘への愛や家族の関係、そして三葉が瀧に会いに行ったことを瀧が知るきっかけとなる。
三葉の中に入った瀧は、テッシーとサヤカに彗星災害の話をし、変電所を爆破して町民を避難させる計画を立てる。そして、娘の三葉なら父である町長を説得できると確信するのだが、それはあの幻想シーンで父親の三葉への愛を知ったからだろう。
しかし、父親のところへ行った三葉(瀧)は説得に失敗しただけでなく、本物の三葉でないことを町長に悟られてしまう。
「本当の三葉じゃないとだめなのか」そう思った瀧は、瀧の体の中にいる三葉を探しにご神体へ行く。
幻想シーンのあと、瀧が三葉になって目覚めたあたりから、三葉と出会う「かたわれどき」までは本当にすばらしい。この間に瀧は3年前、三葉が東京に来て、電車の中で出会ったことを思い出す。
「かたわれどき」が終わり、瀧は現在に取り残され、三葉は3年前の糸守でテッシーとサヤカとともに町民を救うために奮闘するが、うまくいかない。この三葉とテッシーが神社で町民を避難させようとしてうまくいかないあたりがちょっとイマイチな描写なのだが、三葉が「あの人(瀧)の名前が思い出せない」と言い、テッシーが「そんなこと言ってる場合か、町長を説得しに行け」と言うあたりからまたすばらしい展開になっていく。
その中心にあるのは上の(2)のJapan Timesの記事に書かれた「若者の楽観主義」なのだ。

現在に取り残された瀧は言う。
「おまえが世界のどこにいても、必ずもう一度会いに行く」
父親を説得しようと走る三葉は途中で転んでしまう。そのとき、手のひらに名前を書かれたと思って見ると、「すきだ」と書いてある。
一瞬、「名前を書いてくれないなんて」と悲観的になった三葉だが、すぐに思い直して立ち上がる。
「すきだ」は瀧の「おまえが世界のどこにいても、必ずもう一度会いに行く」に呼応する。
そして、瀧の「必ず会える」という楽観は、三葉の「必ず救出できる」という楽観へと変わる。
楽観主義とは、前向きな姿勢、ポジティヴ・シンキングのことなのだ。
父親を説得できるとは思えない、などというネガティヴ・シンキングをしていた自分が恥ずかしい。
この若者のポジティヴな思考が父である町長を説得したのだろう。幻想シーンで妻を失った父親は「救えなかった」と嘆くが、今度は父親が町民を救う番なのだ。救出のバトンは瀧から三葉へ、三葉から町長へとつながったのである。
このシークエンスにはみごとなモンタージュがある。彗星が割れたあと、テッシーが父親を説得しようとする短いカット、サヤカが大人たちを説得しようとする短いカットが挿入され、東京や他の場所で割れた彗星の美しい天体ショーをのんきに見たり報道したりする様子が描かれ、そして父のところに駆けつける三葉のシーンへとつながる。
瀧が入った三葉が彗星が割れて隕石が落ちると言った主要な相手は4人。祖母とテッシーとサヤカと父親で、祖母とテッシーは信じたが、サヤカは半信半疑、父親はまったく信じなかった。祖母が町長の部屋にいたのは説得に来ていたのだろう。テッシーとサヤカは彗星が割れるのを見て、大人たちを必死で説得する。残る町長も、空を見れば三葉の言葉を信じるだろう。
つまり、亡き母の力といったオカルト的なことではなく、現実的な布石がきちんと置かれているのである。

(3)の「この世界の片隅に」のブログ記事にすばらしい指摘があった。
主人公すずが遊郭で出会い、仲よくなる女性リンが、実はすずの夫の恋人だったことがわかるエピソードを、映画はカットしている。この部分は非常に重要なので、片淵監督はもちろん入れたかったのだが、予算や上映時間の関係でやむなく削らざるを得なかったのだという。
ブログでは、すずが終戦の日に日本がアジアの国々で何をしていたのかを知ることと、夫とリンの関係を知ることが対になっていると指摘していた。
すずは戦争中、日本が他国を侵略し、植民地にしていることを知らなかった。そして、夫が結婚前にリンとつきあっていたことも知らなかった。原作では終戦の日にすずが唐突に日本がしてきたことについて語るが(映画でも語るのだけど原作よりわかりづらくなっている)、夫とリンの関係を知ることと対になることでこのシーンが補強されている、とブログ主は書いていた。知らなかったことを知るということが、戦争という大きなレベルと、個人という小さなレベルの両方で表現され、作品を深いものにしている。
これは本当にすばらしい指摘で、映画の方もぜひともこのエピソードを入れた完全版を作ってほしいと思う(現在の映画では、エンドクレジットにこのエピソードのカットが入っていて、原作を読んだ人にはわかるようになっている)。
そして、このブログを読んで気づいたのは、「君の名は。」もまた同じ構造を持っていること。
すでに上に書いたように、「必ず会える」という楽観論が「必ず救える」という楽観論と対になっているが、これもまた、町の人々を救うという壮大なドラマと、瀧と三葉の個人的なドラマを重ねることで作品に深みを与えている。

最後に、三葉と四葉の姉妹は「アナと雪の女王」のエルサとアナの姉妹に似てるな、と思った。
責任ある立場に置かれ、その状況がいやで逃げ出したい姉と、地に足のついた妹。
おそらく姉妹のアーキタイプなのだろう。

2017年5月6日土曜日

「君の名は。」記事リスト&三葉の父親について

このブログの「君の名は。」主要記事リストです。(本人備忘録用)

(1)「アンナとアントワーヌ」&「君の名は。」(2016年9月4日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2016/09/blog-post_4.html
(2)「君の名は。」追記(2016年9月4日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2016/09/blog-post_78.html
(3)みたび「君の名は。」(2016年10月13日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2016/10/blog-post_13.html
(4)「君の名は。」の教訓(&「マンチェスター・バイ・ザ・シー」)(2017年3月12日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/03/blog-post_12.html
(5)ついにリピーターに(「君の名は。)(2017年3月15日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/03/blog-post_75.html
(6)「君の名は。」展(2017年3月17日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/03/blog-post_17.html
(7)「ムーンライト」+1(2017年3月31日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/03/blog-post_70.html
(8)ついに「君の名は。」が終わってしまう。(2017年4月12日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/04/blog-post_12.html
(9)8日で4回「君の名は。」(2017年4月16日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/04/84.html
(10)「君の名は。」某シネコン最終日(2017年4月29日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/04/blog-post_29.html
(11)「君の名は。」@有楽町スバル座(2017年5月3日)
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/05/blog-post.html
(12)昔やったことを久々にやる(と疲れる)82017年5月5日
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/05/blog-post_5.html

(3)がわりとよく読まれているみたいなのですが、リピーターになったのは(5)から。
(1)は見た直後の感想で、三葉が父親を説得できたとは思えない、という不満を述べていて、今となっては恥ずかしい限りですが、残しているのは、最初の感想にも一抹の真理があったと認識しているからです。ただ、それはもっぱら私の個人的な思い入れだったのですが。

2度目を見たとき、「父親を説得できたとは思えない」という感想は完全に間違っていたとわかりましたが、なぜ私がそう感じたのかというと、単に細かいところを見落としたというだけではないと思ったので、今回はこのことについて書きます。
2度目に見たあと、リピーターになり、今現在13回見ているのですが、2度目以降、ずっとひっかかるシーンがありました。それは、組紐を作るシーンで、祖母の一葉が三葉の父のことを「あのバカ息子」と言うところです。
最初に見たときはひっかかりは感じませんでした。なぜなら、この時点では、父親が婿養子だということは隠されているからです。
しかし、二度目以降では婿養子だということがわかっているので、違和感を感じたのです。
普通、姑が婿養子のことを「あのバカ息子」とは言わないでしょう。本当の息子でないと出てこない言葉だと思います。「あのバカ婿」となら言うかもしれませんが。
また、父親は家を出た後も宮水の姓を名乗っています。だから、この時点では初見では父親が婿養子だとはわからない。
父親は宮水としきという名前だということは選挙演説のシーンでわかります。
彼が婿養子だとわかるのは、神社のご神体で瀧が口噛み酒を飲み、三葉誕生とその後に関する幻想を見るシーンです。ここで母の名前が二葉であること、父親が婿養子であることがわかります。この幻想シーンの父親はとてもやさしく、妻と子に対する愛にあふれ、映画の最初に町長として登場する家父長的なガンコ親父とは別人のようです。
今では後半の部分がわかっているので、家父長的な父親がほんとうは愛情あふれるやさしい男性だったことがわかるのですが、初見のときはこの家父長的なガンコ親父とそれに反発する三葉の対立に目が行ってしまい、私は家父長的父親と娘の対決を期待してしまいました。なぜなら、家父長的な父を乗り越えるのは子供、特に息子の成長に必要なドラマとして、多くの映画や小説に描かれてきたからです。娘にとってもこうした父を乗り越えることは重要なのですが、父と娘のこうした対立はフィクションには少なく、「君の名は。」はそれを描いてくれる映画だと、初見の私は期待しました。そして、三葉が父を乗り越えるのは、父を説得したときだ、と。
おそらく、新海監督の頭にも、娘が父を乗り越えるモチーフはあっただろうと思います。ただ、それはこの映画にとっては重要なモチーフではなかった。むしろ、家父長的な父は宮水としきの本来の姿ではなかった、と、幻想シーンは告げています。
宮水家は女しか生まれない女系家族のようで、おそらく、代々、婿養子をもらっていたのでしょう。そういう家の人を現実に知っているのですが、こうした家では家長は女性、家母長なのです。そして婿養子となった男性は、おとなしく控えめな人が多いようです。
宮水家では一葉が家母長で、としきはその下に控える立場だったでしょう。が、妻が病で亡くなり、「救えなかった」と嘆くとしきは、おとなしい婿養子から家父長的な強い男性になりたいと思い、家を出て、町長になった、と考えられます。

以上が、これまで、書く、書く、と言ってまだ書いてないことの前段。
そろそろ書くかな。

2017年5月5日金曜日

昔やったことを久々にやる(と疲れる)

10代の頃にやったことを今またやることになるとは。
火曜日に続いて、木曜日もスバル座へ「君の名は。」を見に行ったのですが、今度は2回見てこようと思い、パンを持参。
スバル座は今日5日までなのですが、最終日は混むだろうし、スバル座は金曜日は初回は割引料金らしい(大人・大学生1400円)。
1日はファーストデー、3日はレディスデーで、かなり混んだようですが、2日は平日なのであまり混まず。が、4日の木曜はサービスデーではないけれど祝日なので、わりと混んでいました。というか、1日4回あるうちの2回目から行ったのだけど、この2回目が一番混むみたいで、着いたらチケット売り場に列ができてるのでびっくり。子供連れのファミリーも多かったし、前半、笑い声もよく聞こえたので、初めて見た人も多かったのかもしれない。
で、行列に並んでチケットを買い、中に入ったら最前列は人がけっこう座っていたので人が少ない2列目で見ました。最前列だとステレオの音声が左右に分裂していたけれど、2列目はそういうことはなく、画面も最前列よりはかなり見やすい。
で、この2回目の上映と3回目の上映を見る予定で、3回目の上映では3列目に移ったら、さらに見やすかった。そして、このあと帰る予定だったのですが、別に明日休みだし、と思ったら、そのまま座って夜の回も見てしまったのです。
映画館で同じ映画を続けて3回見たなんて、片手の指で数えるくらいしかなく、すべて10代の頃。
おまけにこの映画は細かいところまで凝視してしまう作品なので、3回目はかなり疲れました。
でも、最後の回が終わると案内放送があって(蛍の光が流れる映画館もあったけど、ここは流れなかった)、こういう映画館久しぶりだなあ、となつかしさいっぱい。
そして、そして、久しぶりに映画のパンフレットを買ってしまいました。
うーん、最後にパンフレット買ったのいつだろう。
20代のはじめくらいまではパンフは必ず買っていました。
当時は入場料が学生400円くらいで、パンフは100円から150円。
しかし、その後、入場料もパンフの値段も上がり、また、部屋にパンフがどんどんたまっていくのも困りものだったので、20代前半くらいから本当にほしいと思うものしか買わなくなりました。
30すぎたらめったに買わなくなったと思います。最後に買ったのがいつか思い出せない。
たまったパンフは10年前の引越のときに多くは捨ててしまいました。それでも段ボール箱1個分くらいはまだ押入れにあります。
「君の名は。」のパンフレットは8月の公開時のものと、12月に出た第2弾があって、両方買いました。今はパンフは1冊720円もするのか。見本を見て、けっこう充実していると思ったので買いましたが、若い頃と同じような場所で、同じようなやり方で売られていて、これまたなつかしさがこみあげてきます。
スバル座は昔はチケット売り場が1階だったけれど、今は踊り場みたいなところにあります。
ポスターに、「いよいよ5日まで」という紙が貼ってあるのも昔の映画館。
しかし、昔の映画「君の名は」は舞台が有楽町(数寄屋橋)だったはずで、新しい「君の名は。」を有楽町スバル座で見るのは感無量な感じもありますが、6日からはこの周辺では上映館がなくなってしまうのもなんとかならんのかなあと思います。渋谷、新宿、池袋は続映のようです。あとは、「シン・ゴジラ」の聖地・蒲田が続映。

2017年5月3日水曜日

「君の名は。」@有楽町スバル座

どうもしばらく前から「君の名は。」以外の映画をあまり見ていない状態になっています。
終わる、終わる、というのでどうしてもこればかり見に行ってしまうのですが、実際、上映館はかなり少なくなっています。
で、5日まで上映の有楽町スバル座へ。
1日はファーストデーで混むと思い、3連休前の2日の昼間に。
ここは入れ替え制じゃないので、2回続けて見たかったですが、そのあと仕事で見る試写があったので移動。(この試写で見た映画の方は活字化されたときに紹介します。)
新宿ミラノが閉館してから映画館はシネコンばかりになっていたので、久々の昔ながらの映画館。
わあ、幕が開閉する、とか、上映開始のチャイムが鳴る、とか、案内放送がある、とか、もうこの時点でうきうきします。
まあ、シネコンだと、貝社員とか歌うオバケとかラッコ人とか東宝シンデレラとか毎回見せられて正直うんざり。この前シネコン行ったときはこれらが終わった頃を見計らって入りましたが、それでもポップコーンの歌とか見せられる。
が、スバル座では、休憩時間には「君の名は。」の歌がかかっていて、予告編は渋めの落ち着いた作品ばかり。あの映画泥棒はさすがに見ないわけにはいきませんが、なんかすごく落ち着いた雰囲気でした。CDを流していると思われる「君の名は。」の歌は映画で聴くより音質がいい。
そしていよいよ本編。
前回のシネコンでは前を何度も通られたので、ここでは最前列に座り、かぶりつきで見ました。
シネコンは前の方に出入り口があるので、前を通られなくても人の出入りが目に入って気が散るのですが、昔ながらの映画館は後ろが出入り口なので、最前列だと他の人がまったく気にならない。
帰りも他のお客さんの帰る姿を見ながら通路を後ろまで歩いていくので、余韻が楽しめます。
しかし、ほんとにシニアのお客さんが多い。
というわけで、今回は本当に集中して見ることができました。
また、スクリーンの違いなのか、映像がシネコンのときよりやわらかい感じ。陰影もこちらの方が感じました。かぶりつきで見上げる感じだったせいか、これまでとは違う印象のシーンがあったり、スピーカーが近いせいかこれまで聞こえなかったものが聞こえたり。
ただ、最前列だと無理な姿勢になるので、ちょっと疲れます。最前列で2回続けてはきついかな。
しかし、見れば見るほどまた見たくなるので、今回(10回目)で終了とはならないかもしれない。でも、上映館がだいぶ減るので、遠征が必要になりそうです。

で、書く、書く、と予告していたことはまた今度。