2014年11月27日木曜日

高倉健の映画・思い出の9本

訃報から少し時間がたってしまいましたが、高倉健の映画について、個人的な思い出を書いておきたいと思います。
とりあえず、年代順に。


「ザ・ヤクザ」
最初に見た高倉健の映画は「新幹線大爆破」だと思っていたのですが、公開日を見るとこちらが先ですね。もともと若い頃は日本映画はあまり見ていなくて、特にやくざ映画を上映する東映の映画館は入りにくかったので、高倉健の東映時代のやくざ映画はまったく見ていないのですが、この映画はシドニー・ポラック監督のアメリカ映画なので見ました。が、ほとんど覚えてない(汗)。高倉健はこれ以前にも「燃える戦場」でハリウッド進出しています。


「新幹線大爆破」
ウィキペディアでは完成が遅れて試写会もできなかったと書いてありますが、私は試写会で見ました。公開直前であったと思いますが。そして、映画はとにかく面白かった! これに尽きます。知り合いの映画ファンは、高倉健の部分が退屈、とか言っていて、実際、欧米では彼のエピソードをだいぶカットして公開し、大ヒットしたそうですが、私はあの部分がなければただのパニックものと思いましたね。日本ではヒットしなかったとはいえ、観客には支持されたと思います。


「君よ憤怒の河を渉れ」
「新幹線大爆破」で、高倉健、いいじゃん、と遅ればせながら思った私は、監督も「新幹線~」と同じ佐藤純弥監督なので見ました。これまた面白い! 原田芳雄もかっこよかったねえ。


「野性の証明」
この頃の私はかっこいい健さんを求めていたので、やはりこの映画の健さんが大好きでありました。薬師丸ひろ子もよかった。監督、またしても佐藤純弥。この路線が好きだったのだな。


「幸福の黄色いハンカチ」
「遥かなる山の呼び声」
山田洋次監督の2本。山田監督の映画は寅さんも他の映画もよく見ていましたが、なぜかこの2本はリアルタイムで見ていなくて、しばらくたってから見ました。見ればやっぱりどちらも傑作で、特に「遥かなる山の呼び声」の方が静かな傑作という感じがしますが、「幸福の黄色いハンカチ」で、アクションスターとは違う魅力をいろいろな層に知らしめた感はありますね。


「駅STATION」
黒澤明は「乱」の主役に高倉健を想定していて、本人も出たかったけれど、この映画のために断念したそうですが、この「駅STATION」もまぎれもない傑作です。


「ブラック・レイン」
「駅~」までは一介の映画ファンだった時代。その後、評論や翻訳の仕事をするようになり、この「ブラック・レイン」は配給会社で資料翻訳をしました。そのおかげで披露試写会に行かせてもらえ、後ろの席になんとジョイナー夫妻が、というハプニングが。松田優作が来ないのはなぜかな、と思っていたら、その後、訃報が。テレビで「俳優の松田優作さんが」とアナウンサーが言った瞬間、亡くなったのだ、とわかりました。


「ホタル」
キネ旬で映画評を書かせてもらった映画。泣ける映画です。


以上、思い出の作品、好きな作品でした。気になりながらも見逃している作品もあるので、これからいろいろ見たいです。

2014年11月23日日曜日

セイバーズ3連勝

NHLのバッファロー・セイバーズはリーフスに勝ったあと、シャークスとキャピタルズにも勝って今季初の3連勝。今季に入って3つしか勝てなかったのに、ここに来て3連勝で6勝となり、まだ最下位ではあるものの、ぶっちぎりどころか2チームに並ばれている模様。来年のドラフト全体1位危うし?
しかし、リーフスに勝ったのはまあ、リーフスだしね、という感じだけど、シャークスやキャピタルズ相手の試合の勝ち方はかなりよかったっぽい。特にキャピタルズ戦は守護神エンロスがすばらしかったそうな。
そして、セイバーズ公式サイトには殿堂に向けてのハシェックのインタビューが出ています(まだ見てない)。


さて、毎年デレク・プラントにクリスマスカードを送っている私ですが、そろそろ送るのやめようかな、と思っていたら、セイバーズのサイトで日本での経験について語っていたので、今年も出すことにして、土曜日は丸善丸の内本店へ。ここはクリスマスカードが豊富。そして、カレンダーフェアもやっていたので、まずそっちからのぞいてみようと会場に入ったら、猫の卓上カレンダーが。
これです。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-2015%E5%B9%B4%E5%8D%93%E4%B8%8A%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC-WORLD-CAT-%EF%BD%9E%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E3%81%AD%E3%81%93%E7%B4%80%E8%A1%8C%EF%BD%9E-ACL-572-%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3/dp/B00EN6U84A
欧州ねこ紀行。上のサイトの2番目の画像をクリックするとわかりますが、表が猫の写真の中にカレンダー、裏がカレンダーがメインで下に猫の写真。
このデザインもいいのですが、丸善の見本の展示の仕方がニクイのですよ。
というのも、12月の猫の写真が一番かわいくて、それを展示してあったのです。
しかも、見本の後ろに在庫があるのだが、なんと、1個しかなかった。
買わないわけにはいきません。
しかし、ネットだと定価より安いところもあるようですね。
クリスマスカードは毎年迷うのですが、今回も迷いに迷ってけっこう長居してしまいました。
毎年、日本から変なカードが来るなあ、と思っているだろうな、デレク。
そして、東京駅の地下街の和幸でカキフライとロースカツ定食。年に一度だけのぜいたく。ふだんは安いかつやですが、最近はカツは胸焼けするのでかつやもあまり行きません。しかし、比べては悪いが、やっぱり和幸はかつやよりずっとおいしい。まあ、値段が全然違うので。
余談ですが、今日、上野の回転寿司屋に入ったら、寿司を握る人たちが今日食べたカツ丼がうまかった、という話をさかんにしていて、どこのカツ丼かと思ったら、吉池らしい。新しくなった吉池、前にレストランをのぞいてみたらかなり高そうで、とても無理、と思いましたが、やはり高いのでおいしいのか。吉池は昔の食料品売り場や靴屋の雰囲気が好きだったけど、新しいビルになってユニクロが中心になってしまいました。

2014年11月16日日曜日

デレク・プラント、クレインズ時代を語る

セイバーズは相変わらずのぶっちぎり、ではないものの、最下位まっしぐらでほとんど勝てないので、もう全然チェックしなくなったNHL。そしてアジアリーグもちらちら結果は見ているものの、今週末の横浜も行かず、最後に試合見たのいつだっけ状態。
が、今日はセイバーズ、リーフス相手に大勝してるじゃん、と思って、久々にセイバーズの公式サイトをのぞいてみたら、なんと、11月13日にデレクが取り上げられているじゃありませんか。
http://sabres.nhl.com/club/news.htm?id=738996&navid=DL|BUF|home
そのほか、ハシェックについての記事や、喉頭癌で休んでいた名物アナ、リック・ジャネレットの復帰のニュースがあります。今日のリーフス戦の1ピリだけ実況したらしい。このパソコン、フラッシュを新しくしてないので、ネットラジオも聞けない状態ですが、セイバーズがあの状態なので、ついつい後回しになっています(RJの声、聞きたい。ハイライト動画で聞けるかな?)。


さて、そのデレクの記事なのですが、簡単な紹介のあと、デレクに電話インタビューした内容が書かれています。
大学時代はゴール、アシスト、ポイントの3冠を達成、ホビー・ベイカー賞の候補にもなった、というのは知ってましたが、受賞者はポール・カリヤに、っていうのは初めて知りました。
そして、セイバーズ・ファンにとっては忘れられない1997年プレーオフのファーストラウンド第7戦のデレクのOTゴールの話題と、そして99年のファイナル(ダラス・スターズ対バッファロー・セイバーズ)で、ダラスにトレードされたデレクがトレード後初めてバッファローに戻り、ファイナルには出場しなかったものの、バッファローでダラスが優勝を決め、カップを持ち上げた話。「優勝はうれしかったけれど、相手がセイバーズだったので悲しかった」と語っています。
そしてそのあと、NHLを離れ、欧州に渡り、そしてアジアリーグの日本製紙クレインズでプレーした2年間について。デレクが日本時代について多くを語ることはあまりなかった上、大学のコーチになった今、振り返って、ということなので、興味深いです。
というわけで、一部抄訳。


プラントと家族はユニークな機会をほんとうに楽しむことができた。
「すばらしかった。僕と家族は日本の北部に住んだのだけれど、そこはミネソタ州北部やカナダにそっくりで、雪が多く、ホッケーがメインスポーツだった。
 サポートがたくさんあった。人々はサービス重視で、いつもわざわざ手を貸してくれたり親切にしてくれた。妻と、そして当時そこですごした2人の子供(日本を離れてから3人目が誕生)にとって、すばらしい体験だった」
チームは外国人枠が1人だったが、クレインズには10年くらい日本でプレーしているカナダ出身の日本国籍の選手が数人いた。彼らは彼が日本の文化になじんだり日本語を学ぶのを助けてくれた。
では、彼の日本語は?
「僕の日本語は悲惨だよ」と彼は笑って言った。「ドイツ語は少しはわかる。ドイツにしばらくの間いたから。でも、日本語はついていけなかった。僕にとって、日本語は学ぶのがとてもむずかしい言葉だよ」
こうした異なる文化と人々との出会いや経験のすべてが、彼の現在のコーチの仕事に役立っている。
「何かをする方法は1つじゃない、ということに目を開かせてくれた。方法はいくつもあって、みんなが受け入れるなら、どの方法も成功する可能性がある」


このあとは母校の大学のコーチとして2011年に優勝したこと、そして、今年、チェコで行われたU18の大会のアメリカ・ナショナルチームのヘッドコーチになったことが続きます。
そして、大学のヘッドコーチやさらに上のレベルのコーチになりたいという夢はあるけれど、今の仕事にも満足している、とのこと。また、スカウトとしてバッファローに何度か足を運んでいるようです。

2014年11月11日火曜日

シビックランド日成が廃業していた…

春日の周辺で買い物をしようと、後楽園駅から白山通りを歩いていたら、銭湯とサウナがあるシビックランド日成の灯りが消えて真っ暗なのを見て、どうしたことかとそばに寄れば、なんと、10月20日で廃業していた!
このリンク先に、廃業のお知らせの写真があります。
http://blog.livedoor.jp/wadainowadaiko/archives/1011846352.html
最初の木造の銭湯からは60年以上、ビルになってからは50年だそうです。上の記事には東大の近くと書いてありますが、それほど近くではないです(住所は本郷だけど、東京ドームの近く)。昔は東大正門のすぐそばに銭湯があったものだけどね。
お知らせでは、ビルの老朽化、燃料費高騰、利用者の減少といった理由があげられてますが、円安による燃料費高騰が銭湯を廃業に追いやっている、というのは、昨年、長年通った銭湯が廃業したときにも言われていました。
シビックランド日成は安い銭湯のコースと、サウナなどがあるVIPコースがあって、銭湯の方は東京都浴場組合に所属する銭湯だったのですが、数年前に脱会して、スーパー銭湯になってました。料金は浴場組合の銭湯より安くなっていたと思います。
私はこの銭湯の方に何度か入ったことがあって、結構好きでしたが、わりといつも混んでいたので、利用者減少というのが信じられないです。でも、前は定休日がなかったのに、最近の情報だと火曜日定休だったらしい。やはり以前よりお客さんが減っていたのでしょう。私も浴場組合抜けたあとはほとんど行ってない気がします。VIPコースに入りたかったなあ。
このシビックランド日成の周辺はほかにも銭湯がいくつかあるので、このあたりなら風呂なしの安いアパートに住めるなあ、と思っていたのですが、近くの他の銭湯もこれからどんどん廃業になってしまうのか?
それにしても、まさかの廃業です。ここはやめないと思っていたのに。
10月は感謝料金で銭湯は200円、VIPコースは600円だったそうで、かなりの混雑だったようです。お知らせには「一旦廃業」と書いてありますが、おそらくビルを建て直すのだと思いますが、そのとき復活するのかどうか。ここで銭湯やるよりマンションにしてしまった方が儲かるのは確かだけど。

2014年11月6日木曜日

昨夜は十三夜

昨夜は171年ぶりの1年に2度目の十三夜、とのことでしたが(もちろん、旧暦の話)、あいにくの曇り空。が、夜中の12時をすぎた頃にベランダに出てみると、雲が薄くなったところに満月が。その前を薄い雲がとおりすぎていくので、暗くなったり明るくなったり。しばらく見ていたら、やがて雲が厚くなってきました。


このマンションでは、皆既月食、金環日食も見たのだけれど、去年あたりから周囲が新築ラッシュで、見晴らしがどんどん悪くなっている。今は隣に3階建てのマンションを建設中で、うちの3階より向こうの3階の方が高いので(昔のマンションなので天井が低い)、ベランダからのある方向への眺めが完全に壁で覆われてしまいました。
うちのマンションは3階の一部にロフトがついていて、このロフトが4階に相当するのですが、私の部屋のロフトから外を見ても、向こうの3階がこちらの3階より上になっているのがわかる。でも、4階なのでかろうじて向こうの建物越しにこれまで見えていた風景の上の方が見えます。
マンションの反対側は2軒先が新築予定。そのほか、わずか50メートル以内に3ヵ所新築予定、または新築中。ここだけではなく、周辺の地域も次々と更地になり、新築、という具合。非常に落ち着かない状態です。このあたりは相続税が高いので、土地の所有者が死ぬと相続人は税金を払えず、土地を売って引越、そこに建った新しい家やマンションによそから人が来る、という感じです。今、更地新築ラッシュなのは、土地を所有していた高齢者が次々と亡くなっている、ということでもあるのです。


話変わって、前にも書いたノーベル賞受賞の中村修二氏ですが、けんか別れした元の勤務先、日亜に関係改善を求めて断られた、というニュースが。
中村氏は、一度あいさつに行って、将来は一緒に研究したい、と言ったようですが、日亜は、ノーベル賞受賞のときに弊社に感謝してくれただけで十分、貴重な時間をあいさつなどに無駄に使わないでください、と返したとか。
なんかこれでまた日亜が悪者にされるのかなあ、と思ったのですが、ツイッターでの面白い反応を紹介。(ある人のツイッターにあった、数人の人の意見を時系列で紹介)


一方的に殴っておいて、「もうオフサイド、仲良くしよう」と言われてもねえ。まずはごめんからが日本人のルール。


重要なメッセージを”本心から伝えたい”と思えば、一回ネガティブな反応があったくらいで引き下がってはダメなのは、世の常じゃねーの?


関係を改善したいと表明してメッセージを直接相手に伝えた時点で、一つの目的は達してるんでしょうね。これ以降周りが何と言っても、「こちらから関係改善の提案はした」と言えるし。


大きな名誉を手に入れると、その現状にあわせて、過去を変えたくなる、繕いたくなる、といった程度の気持ちでは? 個人史修正主義?


Wikiを綺麗にしたい? またはこれ?(別人のツイート:日亜と仲直りして研究費出して欲しかったんじゃないかと思ったり。)


おそらく前者だと睨んでます。私の周りを見ていると、それが人間の本質みたいに見えます。中にはほんの些細な「成功」なのに、それに合わせて過去を虚飾する人がいますから、ノーベル/文化の2つとなれば。


成功を手に入れると過去を変えたくなる、というのが非常に興味深いですね。上のツイートの3番目の人は、研究職への就職が決まったあと、けんか別れしたラボの教授にあいさつに行ったら、「関わるな」と関係改善を拒否された話を書いていて、自分自身がやはりそうだった、関係改善を表明したことで目的は達成されてすっきりした、というようなことを書いています。

2014年11月1日土曜日

表紙でふりかえるキネマ旬報

2つ下のエントリーで紹介した本ですが、なんと、いただいてしまいました(ありがとうございます)。
「表紙でふりかえるキネマ旬報」。
ビジュアル的にすばらしい、なつかしい、貴重な本です。
前に書いたとおり、「アレンジメント」のフェイ・ダナウェイが表紙の号がありました。1970年3月上旬号。その前のバーブラ・ストライサンドの表紙も見覚えがあります。
それ以前の表紙はまったく見覚えなし。そして、それ以後の表紙は見覚えのあるものがいくつもあり、このあたりからキネ旬を見るようになったのだな、と思いました。
しかし、1960年代までは表紙が欧米の女優で、これじゃ「スクリーン」と変わらない。が、70年代からは映画のシーンが表紙になるのですね。ここから「スクリーン」などのファン雑誌との差別化が始まったのか。当時は私はまだキネ旬はとっつきにくく、もっぱら「スクリーン」中心でしたが、初めて自腹で買ったキネ旬は、ビリー・ワイルダーの「シャーロック・ホームズの冒険」の主演女優ジュヌヴィエーヴ・パージュが表紙の71年2月下旬号。ワイルダーの「シャーロック・ホームズの冒険」は、セルジオ・レオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」が現れるまで、私のオールタイム・ベストワン作品でした。
その「ワンス・アポン~」の特集号、84年9月下旬号では、分析採録をやってます。80年代には分析採録をやった号がいくつかあり、表紙を見るとなつかしいのですが、この「ワンス・アポン~」は私はオリジナル版の試写を見て、オリジナル版の採録をしたのですが、結局、数十分カットされた版が公開されることになり、編集部で私の原稿をいじったので、誤植は多いわ、つながりが変だわで、なんだかなあ。でも、あの時点でオリジナル版をフィルムで2回も見れた幸運には感謝。
特集で採録と映画評の両方をやらせてもらったのが「インドへの道」、85年7月下旬号。原作者の研究者だということを前もって編集部に連絡していたので、やらせてもらえたのですが、編集部でもこれはおそらくデイヴィッド・リーンの遺作になるだろうと思って力が入っていたというか、特に、表紙にリーンのよい写真を使えることになった、と編集者が喜んでいたのを覚えています。
あとは思い出の号というと、「ジャッカルの日」の73年8月下旬号かな。この頃から定期購読をしばらくしていました。「ジャッカルの日」の試写会に応募したら当選して(当時はキネ旬の試写会当選率はものすごく高かった)、試写に行ったら、白井編集長が舞台挨拶していました。そのときの下ネタジョークを今でも覚えているぞ。
ビジュアル中心の本ですが、元編集者2人の表紙に関する裏話も面白いです。