2014年10月9日木曜日

猿の惑星:新世紀(ネタバレあり)

水曜日はレディースデーで「猿の惑星:新世紀」。
これ、見ようかどうか迷っていたのだけど、上映館が今年で閉館の新宿ミラノだと知り、はせ参じた。が、いつも通り中はガラガラで、お客さんが「なにこの映画館、こんなにガラガラで」と驚いていた。
思えば30年以上前、ここで映画の日に「戦場のメリークリスマス」を見ようと出かけたが、目当ての回はすでに満員で、次の回の列ができていた。そこで3時間くらい並んで次の回を見た。並んでいた人が、「大島渚監督、ヒットしてよかったねえ」と言っていて、うんうん、とうなずいたのを覚えている。
閉館間近ということで、ロビーには過去に上映された作品のポスターが並んでいたが、戦メリはなかった。
新宿プラザとコマ劇場があったところはすでに新しいビルが建っていて、ミラノ前の公園も何か作るようで壁で囲まれていた。戦メリのために並んだあたりも今は空き地ではない。
スクリーンの前に幕があるというのが今では珍しいというか、過去の遺物なんだろうな。


さて、「猿の惑星:新世紀」。ノベライズの原稿を読ませてもらっていたのでストーリーは全部わかっていたが、映像はなかなかすばらしく、話もテンポがよかった。シーザーのドアップで始まり、ドアップで終わるので、ノベライズの最後のエピローグは省かれている。
一応面白かったので、文句はないのだけど、この映画、日本以外では大ヒットで、前作「創世記」を超えるヒットになっている、というのがどうにも信じられない。
というか、「創世記」はウィルスを使った治療薬が恐ろしい伝染病になってしまうという設定が斬新で時代に合っていて、また、猿のシーザーを囲む人間たちのドラマも面白かったが、これの続編がウィルスの話の続きを一気に飛ばして猿と人間の戦いの話に、というのが猿の惑星ファンでない普通の観客にはちょっとね、という感じがするのだ。
「新世紀」の方は人間の多くがウィルスで滅びた世界が舞台で、そこで森に暮らす猿とサンフランシスコに暮らす生き残った人間たちが出会い、一部の猿と人間の憎悪や恐怖から戦争になってしまうという話で、「創世記」が現代を舞台にした人間中心のSFだったの対し、「新世紀」はディザースター後の未来が舞台のディザースターSF&戦争ものみたいな感じになっている。そのディザースター後の世界や戦争の映像がみごとで、アクションもキレがある。しかし、こういうタイプの映画、最近のハリウッドに多いタイプの映画は、暗い未来とキレキレのアクションで、グローバルな人気を得ているわりには日本で受けないという典型。これをもって日本は遅れているとか、世界から孤立しているとか言う人がいるのだけど、どうなのだろうか。単に世界がコレに洗脳されてるだけなんじゃないか、日本だけ、この種のものを刷り込まれなかっただけでは?という気もする。
それはともかく。話のテンポはいいんだが、その分、ノベライズにあった、猿と人間が協力する中で友情が生まれるとか、シーザーと人間の主人公マルコムが互いに名前を名乗り合うシーンとかが省略されているのが惜しい。こういう部分があった方が、平和共存を望みながら戦争になってしまう悲劇が生きるのだが。
ゲーリー・オールドマン扮するドレイファスはノベライズどおりの人だった。オールドマンだから狂気の人物に変わっているのでは、というのは杞憂であった。しかし、クライマックスのドレイファスの行動には本当は狂気が必要なのだけど。それがないので唐突な感じがする(ノベライズでもそう感じた)。
ドレイファスはノベライズの原稿では軍人出身と書いてあったので、解説にも軍人上がりの政治家と書いたら、編集者からドレイファスは元警察本部長だと言われ、解説でもそのようになった。しかし、映画を見たら、確かにドレイファスは軍人出身だった。軍人から警察本部長になり、政治家になった可能性もあるが、映画ではドレイファスがタブレットの画像を見るシーンで軍隊の写真が出てくる。
「新世紀」の前日譚にあたるノベライズ「ファイヤーストーム」(映画化はされず)ではドレイファスは警察本部長なのだそうだ。「ファイヤーストーム」と「新世紀」はノベライズの作家が別の人なので、ドレイファスの経歴にずれが生じたのかもしれない。また、私が読んだ翻訳原稿は初期のもののようだったので、その後変更された部分もあるかもしれないと思う。


さて、以下が結末の部分についてで、ネタバレがあるところです。

シーザーとマルコム、そしてそれ以外にも平和共存を望んだ猿や人間がいたにもかかわらず、人間に虐待されたために人間を激しく憎む猿のコバが、人間がシーザーを殺したと見せかけて猿を扇動し、ついに猿と人間の戦いが始まってしまう。一方、マルコムに救われたシーザーは、自分を撃ったコバと対決、コバが高層ビルから落ちそうになったとき、コバはシーザーに言う、「猿は猿を殺さない」。これは最初の「猿の惑星」5部作の有名なせりふなのだが、これを聞いたシーザーは激しく怒り、「おまえは猿ではない」と言って、コバを突き落としてしまう。
ノベライズ読んだときは、コバが自然に落ちてしまう方がいいのではないかな、シーザーがコバを殺すのはどうかな、と思ったのだが、映画を見たら、これでいいという気がした。
コバはたぶん、シーザーに助けられたくなくてああ言ったのだ。コバはすでに仲間の猿を残酷に殺し、傷つけている。「猿は猿を殺さない」などと言えた義理ではない。コバはシーザーを怒らせ、一線を超えさせたのだ。シーザーの「おまえは猿ではない」という言葉には、猿が進化して人間のようにモラルを失ってしまったという思いがあるだろう。
このあと、シーザーはマルコムにこう言う、「戦争を始めたのは猿の方だ」
このせりふはノベライズにはない。
確かに戦争の一番の原因はコバだ。シーザーはそれをもって、戦争を始めたのは猿の方だと言ったのだが、現実には戦争は1人の憎悪や策略で始まるのではない。映画でも最初に猿に発砲するのは人間だし、人間側にも猿への憎悪や恐怖があって、それが平和共存をむずかしくしている。だから、ノベライズでは猿と人間両方に責任がある。人間との平和共存を望んだシーザーだが、いざ戦争となれば仲間を守るために戦うしかなくない。映画にはないノベライズのエピローグでは、シーザーのそうした思いが描かれている。
しかし、映画では、原因は猿だとシーザーは認めた。ネットでも指摘があったが、映画のコバはキリストを裏切ったユダなのだろう。ノベライズではそういう感じはなかったが。
ノベライズと映画の違いは、初期段階の脚本と出来上がった映画の違いである。双方に責任があるとするノベライズの方が現実的だが、シーザーが猿の責任を認めるという結末もそれなりに意味がある。それは、コバというユダを生み出してしまった猿たちこそ、私たち人間である、ということになるからだ。このあたり、どちらがよいかという判断はむずかしい。