2019年6月9日日曜日

「一橋大学の教員を辞めた理由」という記事

「私が一橋大学の教員を辞めた理由」という記事が現代ビジネスというサイトに出た。
読みながら、筆者で現在は専修大学教授というK氏について既視感があったので、プロフィールを見たら、3年前に「君の名は。」についてトンデモなひどい記事を書いていた人だった。
当時、「君の名は。」についてはひどい評論が次々と出ていて、書き手が映画や文学文化の専門家や評論家であることにたいそう驚き、憤りを感じていたが、その中でもK氏の文章はひどかった。しかもK氏は一橋大学の准教授で、専門は英文学。英文学者で一橋大学の准教授になれるような人ならさぞかし優れた文学者だろうと思っていたのに、なんだこれは、と怒り心頭だった。
いったいどういう業績の人なのかと思い、業績リストを見たが、英文学者としてはあまり活躍しているようには見えなかった。一橋大から東大大学院の英文学を専攻するコースに進み、その後、一橋大に就職したようで、母校だからコネで採用されたのかと思っていた。
英文学の論文は読めないのでわからないが、「君の名は。」の評論を見た感じでは、文学の論文も期待できそうになかった。
それどころか、K氏は英文学の論文よりもサブカルに関する文章をたくさん書いていて、それでファンもいるようで、要するに、大学教員しながらサブカルで文章書きちらして稼いでいる人、という印象だった。
大学教員しながらサブカルの文章を書き散らしている、アカデミズムの香りもない書き手、というのはごまんといるが、この人もその1人なのだろう、でも、そういう人がなぜ一橋大准教授なのか、という疑問が残ったが、その後、いろいろあって忘れていた。
こういう大学教員しながらサブカルの文章を書き散らす、というのは私大に多いので(「君の名は。」のばかげたシンポジウムをやった文学研究者たちがいたが、名前は忘れたが都内の私大だった)、専修大教授の方が思う存分サブカルに生きられるだろう。
(サブカルでもアカデミズムとして研究している人もたくさんいるが、K氏は私にはそういうタイプには見えなかった。)
で、3年後に突然、「私が一橋大学の教員を辞めた理由」という文章を読んで、一橋大の専任教員になるような英文学者なら相当優秀な人だろう、と思っていた私が間違っていたのだとわかった。
かつては一橋大学には中世ヨーロッパ史で有名な阿部謹也氏がいて、若い頃にはむさぼるように氏の本を読んだので、一橋大の人文系の研究者はみな阿部氏のような優れた人ばかりなのだろうと思っていた。実際、私が若い頃に一橋大の教授だった人から聞いた話でも、一橋大の人文系の授業は充実していたとのことだった。
しかし、K氏の「一橋大学の教員を辞めた理由」を読むと、K氏が専任教員となった10年前はもはやそういう時代ではなかったようだ。K氏の文章にあるとおり、それまであった教養部がなくなり、教養科目の教員がそれぞれの学部に配置されるようになった、というのは、90年代に非常勤講師をしていた某国立大で実際に教えられた。K氏の文章によれば、これによって、教養科目の教員がどんどん捨て駒にされていったということのようだ。
K氏は赴任してあまり時間がたっていないときに、所属する学部で座長が、新しい英語教育の教員を雇いたいので、定年が一番近い人が辞めたら、みたいな話をして、それで、英語教員は辞めてほしいといった圧力を感じるようになった、と書いているが、クビにしないで定年まで待ってくれるならまだよいので、そこから辞めてほしいの圧力を感じるようになった具体的な話がいっさい書かれていないからどうもよくわからない。K氏は一橋大で博士論文を提出して博士号を取っているし、留学もさせてもらっているようだが、サブカルの文章を書き散らすようになったら辞めろという圧力が強くなったのかと思ってしまう。
文科省のせいでペーパーワークが多くなり、研究をする時間がなくなり、論文が書けない、という話はいろいろな人が書いているが、ほかの人はともかく、K氏はサブカルの文章をあちこちに書いていたのである。その中には「君の名は。」に関するしょうもない評論があった(そのせいで、私にこんな文章を書かれているわけだが)。
K氏が「辞めた理由」で書いている大学事情はおおむね正しいが、それはこれまでにいろいろな人が何度も書いていることとほぼ同じ。もちろん、何度も書かれてよいことではあるけれど、自分の体験から、と言いながら、具体的なことは最初の座長が定年近い教員に年齢を聞いたということ以外まったくないのだ。
そして、この人のアカデミズムの器が知れると思うのは、大学の人文系科目の軽視の結果、起こることとしてあげているのが、まともな翻訳ができなくなる、ということなのだ。
人文系科目の軽視の結果が翻訳がだめになるって、もっともっと深刻なことがあるだろうに。
「君の名は。」の評論を読んで、なんでこんな人が一橋大学の准教授で英文学者なんだ、と3年前に思ったが、一橋大学が教養科目の教員を捨て駒だと思っているからこういう人を採用したのだろうと今は思うようになった。