2015年5月20日水曜日

美しき冒険旅行

十代の頃に公開されて、ずっと気になっていた「美しき冒険旅行」をDVDで見た。
公開当時はあまり話題にならなかったが、ジェニー・アガターが全裸で泳ぐシーンとか、アボリジニの少年と一緒に全裸で立っているシーンとか、けっこう記憶にあった。内容も、「スクリーン」で読んだ記事のせいか(当時は私は映画雑誌は「スクリーン」)、ああ、そうだったよなあ、という感じで、初めてなのに妙に既視感があった。
が、その一方で、オーストラリアの生き物たちをアップでとらえるシーンや、自然と文明を絵的に比較するショットとか、予想と違ってかなり尖がった映画なのが驚きでもあった。
2年くらい前だったか、私が映画の授業をしている某大学への通学路で、学生がこの映画の話をしていて、授業で映画を2回に分けて見たのだけど、なんだかよくわからない、と言っていたが、確かにこの大学の学生の多くにはかなりむずかしい作品だと思う。私の映画の授業ではこういうのは使わない。
監督のニコラス・ローグは、実は好きな方とはいえない人で、面白いし、映像もいいけれど、なんか好きとは言えないタイプだった。たぶん、彼は写真家のようなタイプで、写真で何かを語るように、映像の断片で何かを語っているからだろう。ストーリーテラーじゃないわけだ。
もちろん、その映像の数々はすばらしい。これはあの大学の学生の多くにはわかるまい、と思いつつ、その映像には魅力を感じる自分がいる。
でも、同時に、気球を飛ばしている白人たちとか、何の関係があるの?と思うところもある。
アボリジニの子供たちを教育してるみたいな白人もだ。
主人公のイギリス人の姉妹と、大人になるための通過儀礼として放浪をしているアボリジニの少年の物語に、ああいった白人のエピソードが入るのが、あまり意味がないようにも見えてしまう。
しかし、アボリジニの少年が白人の少女に恋をし、求婚のダンスを踊りながら、しかし、受け入れられずに死んでしまうエピソードは痛切に心に迫る。少女は決して自然に同化せず、文明社会をなつかしんでいて、少年の思いは一方通行に終わる。
このエピソードは、初公開時に「スクリーン」で読んでいたのだろう。初めて見たにもかかわらず、すでに見たかのように理解できた。
その少女が大人になり、あの「美しき冒険旅行」をなつかしむラスト。
批判的なことを言えば、白人の勝手でできている映画だ。
アボリジニの少年だって、求婚しても受け入れられないことはあるわけで、そのたびに死んでたらやってけないはず。だから、結局は白人の自然願望を描いた映画にすぎないともいえる。
それでも、野生の少年の愛に報いない文明の少女という悲劇を、やっぱり感動して見てしまう私は、やっぱり文明サイドの人間なんだなと思う。

ジェニー・アガターは、「若草の祈り」を初公開時に見ていて、これはかなり好きな映画だった。「若草の祈り」と「美しき冒険旅行」だけかと思っていたが、けっこういろいろな映画に出ていると知って驚いた。「エクウス」にも出てたのか。あれは初公開時に見てるけど。
なお、この映画のアガターは16歳なので、ローグは全裸のシーンを撮ってもよいと思ったというが、当時は「ロミオとジュリエット」で15歳のオリヴィア・ハッセイと16歳のレナード・ホワイティングがベッドシーン(ヌードについて一部訂正 ホワイティングが後ろだけですがヌードに。16歳というのが当時の目安だったのがうかがえます)、そして、14歳の少年少女が結婚するという「フレンズ」という映画もあった時代なので、10代の少年少女の性は今よりもおおらかに描かれていたのだった。

追記
その大学のシラバスを調べてみたら、異文化の衝突というテーマで「野蛮対文明、ビデオ鑑賞」という授業があった。これかどうかわからないけど、もしそうなら、アボリジニの方を「野蛮」て言うのか。むむむ。「文明」の反対は「未開」だよね、普通、とかひとしきりツッコミが頭をよぎるのだった。
ところで、「美しき冒険旅行」で一番はっとしたシーンは、文明人が作った石の道路に少女が足を踏み入れると、それまで聞こえなかった靴音が響くところだった。まさに文明の靴音。