2015年1月31日土曜日

続いろいろ

金曜日、雪はたいして降らず、午後には雨も上がりましたが、木曜に買ったブーツをはいて外に出て、積もった雪に足を踏み入れた瞬間、右のつま先が冷たくなり、湿り気を感じました。
なんと、右の靴の先端が壊れていたのだ!
とりあえず、某大学の期末試験を終えて、そのあと、ついでの用もあったので、靴屋に行き、事情を言って靴を返し、返金してもらいました。
雪だというので買ったのに、これじゃあね。
店員さんは返金または交換と言っていたので、めんどくさいから返金をお願いし、現金払いだったので、レシートを渡したらすぐに返金してくれました。クレカだとこの辺、面倒になるので、現金にしておいてよかった。
なんというか、こういう欠陥商品を出荷してしまうメーカーの責任だと思うのだけど、そういうメーカーの靴ははきたくないなあと思ったのです。店員はいちいち靴を1つ1つチェックして店頭に並べたりはしないわけで。実際、よく見ないとわからない、でも致命的な欠陥でした。てか、こういう欠陥のある靴って初めて見たわ。名前覚えておくぞ。
というわけで、雪対策は量販店で普通の長靴を買う方がよいような気がした。

さて、火曜日は北野武の新作「龍三と七人の子分たち」を見ました。タイトルが「オーシャンと十一人の仲間」みたいだし(追記 あ、これは「白雪姫と七人の小人たち」のもじりですね。こりゃすごい皮肉、俺たちに明日なんかいらない、とか、映画のタイトルぱくってる感じですが、中身は引退したヤクザの親分とその仲間たち(全員70歳前後のジジイ)が、かつてシマにしていた地域を牛耳る暴走族上がりのあくどい詐欺師集団と戦うというもの。
なんか、久しぶりに涙が出るほど笑ったというか、私は最初から最後まで笑いどおしでしたが、なぜかまわりからはあまり笑い声が出ない。私も声をたてずに笑ってたので、ほかの人もそうだったのかもしれないけど、映画が終わったあと、宣伝の人に声かけられた人があまり笑えなかったみたいな雰囲気だったので、悶絶するほど笑ってたのは私だけなのか?と思ったのでした。
まあ、確かにテレビっぽいギャグというか、風刺が優れているわけでもないし、ブラックなところはビートたけしの笑いなのかなあと思うし、次が予想できてしまうギャグもいくつかありましたが、でも大いに笑いました。
だからといって、好きな映画とは言いにくいというか、話が都合よすぎたり、非現実すぎたりするところもあるし、前に書いたように社会風刺があるわけでもないし、主人公の元ヤクザの面々も悪いやつらをやっつけるというわけではなく、ストーリーもギャグもアブサードといえばアブサードなわけですが(アブサードって、説明するのむずかしい)。
アブサードなコメディ、というと、私には一番しっくりします。が、アブサードの説明がむずかしい(重ねて言う)。
それと、この映画、ジジイのいやなところを容赦なく描いていて、その辺も好感度が高くなりにくいところですね。他の監督だったら、もう少しジジイを魅力的にして、好感度を上げようとすると思うのですが、さすが北野武、最初から最後まで、ジジイのいやなところ、威張るとか怒鳴るとかおならをするとか、そういうところを徹底的に描いています。

この映画を見る前の週、コーヒーショップでくつろいでいたら、隣の席の中年オヤジと若い女性の会話が耳に入って、やーねー、こういうオヤジ、若い人に嫌われるのはこういうオヤジやジジイだわ、と思ったのを思い出してしまいましたが、そのオヤジ、40代くらいかな、若い女性相手に、例のISISの人質事件について、人質になったやつらは自己責任だから助ける必要ないとみんな思っているのに誰も言わない、と言ったり(誰も言わないって、ネットじゃ盛んに言われてたけど、あと、みんなが思ってるというのは間違い)、女性の働く権利とか言ってるから会社はバアサンばかりになってるとか言ってました。相手の女性は仕事の話で来ていたようで、適当に相槌打ってましたが(賛同しているとは思えなかった)、その男は、若い女性もいずれバアサンになるとか、自分もジジイになるとか、若い人はジジイがいるから自分たちに仕事がないと思っているとか、全然考えていないみたいでしたね。若い人は仕事がないのは中高年の男性たちのせいだと思っていて、バアサンのせいだとは思ってないと思いますよ(ネットで見る限り)。でもって、このオヤジ、最後には、自分は若い連中からも上の人からもだめなやつだと思われてる、とかいう本音を言ってました(要するに自分がだめなんじゃん)。
このオヤジの会社、いったいどこやねん、と思いましたが、人質は自己責任だ、助ける必要ない、などと、仮に思っていても誰も言わない会社だったら、それはいい会社かもしれない。

2015年1月30日金曜日

いろいろ

明日というか、金曜は雪だというので、木曜の夜に防水仕様の冬ものブーツを買った。
50%引きとか大バーゲンだったのだが、店頭にあるのはなぜかLサイズが多い。いつも靴屋へ行くと店頭にあるのはMサイズ(23センチか23・5センチ)ばかりで、わざわざLサイズを出してもらうのも面倒だから、だんだん普通の靴屋には行かなくなり、全サイズの箱が積んである量販店で買うようになってしまっていた。
が、この半額セールは店頭にあるのはLサイズが多いので、こっちとしてはより取り見取り。1万円くらいのブーツを半額で買えた。ついでに無印良品で3000円くらいの帽子を1000円で買う(これも見切り品だなあ)。
雪降るのかどうかわからんのですが、金曜は荒川の北へ行かねばならず、荒川の北は都内より寒い。交通機関に影響あると、期末試験延期になってしまうので、それもまた心配。

去年の春頃からスタップ細胞問題で理研と小保方晴子を批判するブログやツイッターをよく見ていたのだが、ISISの人質問題が生じてから、それらを見なくなった。
関心が移ったからではない。ていうか、スタップ問題やってたブロガーが今はこの問題をやっていたりするんだけど。
研究不正はいけない、と、正義を振りかざしていた彼らが、今回の事件について何を言ってるかというと、危険地域に行った人が悪い、日本はテロに屈するべきでないから身代金を払うな、政権を批判するな、と。そこまで言わない人も、事件が起こった直後に、身代金払わなくて人質が死ぬのがもうデフォルトみたいな書き方をしていた。
こういう人たちが小保方を攻撃していたから、小保方に同情する人がいたんだな、と、今はじめてわかった。
小保方を批判攻撃していたブログで、よく読んでいたものに、明らかに右派の人のブログと左翼の人のブログがあったが、左翼の人は政権を批判しながら人質になった人たちをスパイ呼ばわりしていて、こちらも右派の「人質死ぬのがデフォルト」という考えを共有しているように見えた。
なんにしても、見るのをやめたブログ、冷静に思い返してみると、やっぱり問題の多いブログだったと思う。小保方を批判しているのか擁護しているのかよくわからない自称研究者のブログも見なくなった。もともとネトウヨは避けていたのだけど、ネトウヨじゃなくても問題あるブログは多いね。

2015年1月24日土曜日

またまたフランケンシュタイン

「フランケンシュタイン」については何度も書いているんですが(つか、解説書いた創元の翻訳書の宣伝が多い)、NHKが2月に教育テレビの「100分で名著」という番組で「フランケンシュタイン」をやるんですね。新潮文庫が12月末に翻訳を出したのはこれがねらいだったのか。
実は光文社文庫の方もNHKのラジオドラマ化で翻訳が使われたらしい。大手はみんな国営放送利用か。
しかし、この「100分で名著」の視聴者は原作を読むのだろうか、という疑問があります。そして、こういう入門書で入る人は読むとしても新潮文庫や光文社文庫の方を読むでしょう。創元はこの2つのせいでしばらく前から売れなくなってますが、創元を買うのはやっぱりマニアかな、と。

で、今日は別にこの話がメインではなくて、「フランケンシュタイン」にはイスラム教徒への差別がある、ということを、やはり書いておかないといけないかな、と思い、書いておくことにします。
「フランケンシュタイン」というと賞賛の嵐で、こういうところは触れられない。というより、私自身、これまで大学の授業で取り上げたとき、ここは隠していたのです。
当時はイスラム教徒やユダヤ人への差別はヨーロッパには普通にあり、シェイクスピアも「ヴェニスの商人」を書いているし、差別はいけないとか、そういう感覚が低かった時代でもありました。
「フランケンシュタイン」もイスラム教徒のある人物が悪い人として描かれているので、イスラム全体への差別とまでは言えないかもしれませんが、その人物の娘はキリスト教徒で、こちらはいい人になっていて、やっぱり差別だよな、と思わざるを得ないのです。
革命思想家を父に、フェミニズム運動家を母に持つメアリ・シェリーにもこういう面があったのかと、その辺、伝記的に見たらもっと詳しいことがわかるかもしれないので、これからの課題とします。

追記 具体的に言うと、イスラム教徒のある人物が差別と偏見から投獄され、その娘でキリスト教徒の女性を愛する男性とその一家が彼を助けようとしたが、そのせいで一家は亡命者にならざるを得なくなり、しかも、助けたイスラム教徒の男性には裏切られる、という内容です。一応、イスラム教徒への差別と偏見がある、という前提には触れています。もしかしたら、当時は差別と偏見に言及してもイスラム教徒を善にまで描けない、という風潮があったのかもしれません。

2015年1月22日木曜日

博士と彼女のセオリー(ネタバレあり)

試写報告第4弾は、ホーキング博士夫妻の実話の映画化「博士と彼女のセオリー」。アカデミー賞にもノミネートされており、ゴールデン・グローブ賞ではホーキング役のエディ・レドメインが主演男優賞受賞。
ホーキングはケンブリッジ大学の学生だったときに同じ学生のジェーンと知り合うが、突如、難病を発病。余命2年と診断される。しかし、ジェーンの愛は強く、周囲の不安を押し切って2人は結婚。子供も生まれ、ホーキングは博士号を取り、車椅子生活を余儀なくされるが、物理学者として研究を続ける。スタップ細胞で日本では「ネーチャン」と揶揄されたあの「ネイチャー」の表紙を飾り、余命2年どころか70代の現在も健在とか。
映画はホーキングが時間の研究をしていたことから、余命2年という時間が実際には長い時間になったことをからめて、時間をキーワードにしている。が、物理学の話は少ない。
映画の前半は正直いって、凡庸なメロドラマのように感じられたが、ホーキングが不自由な体で物理学の研究を続けて成功し、私生活では3人の子供に恵まれるが、妻のジェーンはホーキングの世話で疲れ果ててしまう、というあたりから月並みな話ではなくなり、面白くなる。
(このあたりからネタバレ注意)
子供が2人生まれたあと、夫と子供の世話で疲れ果てたジェーンは、母から教会の聖歌隊に入って気晴らしをすることを勧められる。そこで出会ったのが、聖歌隊の指揮者のジョナサン。彼はホーキング一家の友人となり、ボランティアのヘルパーのようなことをして一家を支える。ジョナサンは妻を白血病で失い、子供もいないことから、ホーキング一家の家族の一員のようになったのだが、ジェーンが3人目の子供を産んだとき、父親がジョナサンではないかと疑われる。実際、ジェーンとジョナサンの間には淡い恋心もあり、結局、ジョナサンが身を引くことになる。
一方、ホーキングは肺炎で呼吸困難になり、人工呼吸器をつけるが、声が出なくなる。ジェーンは文字盤を使って夫とコミュニケーションをとろうとするが、うまくいかない。そこで専門家の介護士の女性に来てもらうのだが、この女性エレインの方がホーキングと心を通わせるようになり、ジェーンは疎外されてしまう。
ホーキングを演じるレドメインの演技もすごいのだが、ジェーンを演じるフェリシティ・ジョーンズの、特に後半の演技が見ものだ。ジェーンは敬虔なキリスト教徒で、無神論者のホーキングとは最初からそのことでちょっと対立するのだけれど、敬虔なキリスト教徒なだけあって、ジェーンはちょっとまじめすぎるというか堅物タイプの女性のような気がする。ホーキングの世話で疲れてしまうのも、おそらくまじめすぎるからだろう。そんな彼女が聖歌隊で出会ったジョナサンとの間に淡い恋心が生まれるが、まじめな彼女は夫を裏切るようなことはしない。ホーキングとジェーンとジョナサンの関係は映画ではあまり深く追求されていないが、不思議なトライアングルだ。ホーキングもジョナサンを受け入れている。
そのジョナサンが去り、ホーキングが声を失ったあとに現れるエレインは、ジェーンとは正反対の女性だ。部屋に女性のヌードで有名な「ペントハウス」があるのを見て、男性なら見たいのは当然よね、と言ってホーキングの前にページを広げる。ジェーンのようなまじめな堅物ではなく、ユーモアもあるエレインの前で、ホーキングはジェーンの前では見せたことのないお茶目な様子を見せる。
実際、ホーキングがお茶目になるのはエレインが現れてからなのだ。ジェーンの前では見せたことのない彼がいる。そして、しだいにジェーンもそれに気づき、2人の関係が、いや時間が、終わりに近づいたことを知る。「2年と言われたのに、ずいぶん長い時間がたった」というようなセリフを2人がかわすが、ここがこの映画の肝だろう。
ジェーンはジョナサンと再会し、ジェーンとホーキングは別々の道を歩むが、クライマックスはまだ離婚していない2人が再会してエリザベス女王に会い、その後3人の子供たちとすごす光り輝くシーンだ。
脇役では、ホーキングの指導教授役のデイヴィッド・シューリスがいい味を出している。
監督はアカデミー賞受賞のドキュメンタリー「マン・オン・ワイヤー」の、というよりは、私にとっては大好きな「シャドー・ダンサー」のジェームズ・マーシュ。演出は「シャドー・ダンサー」の方がキレがあってよかったけどね。

フェイス・オブ・ラブ

今年の試写3本目はアネット・ベニング、エド・ハリス、ロビン・ウィリアムズ主演「フェイス・オブ・ラブ」。ウィリアムズは昨年8月に亡くなったが、アメリカではその前に公開されている。
内容はフランソワ・オゾンの名作「まぼろし」によく似ていて、リメイクではないにしてもヒントになったのでは、と思ったが、監督の母親の体験にヒントを得たものらしい。
ベニングとハリスは結婚30年の熟年夫婦。一人娘はとうに巣立っているが、いまだにラブラブな夫婦。が、メキシコの海辺に滞在していたときに夫が海で亡くなる(うーん、やっぱ「まぼろし」じゃないの?)。
それから5年後、夫を忘れられず、自分に恋心を抱く隣人(ウィリアムズ)とは恋人未満の友人のまま。ところがある日、夫に瓜二つの男(ハリス二役)と出会う。男は10年前に妻に逃げられ、以来画家としての活動をやめてしまい、今は大学で絵画の講師をしている。絵を教えてほしいといって近づいた彼女は、彼を夫の代わりとして愛する。男の方は彼女のそんな事情は知らず、でも、彼女が好きになって、創作意欲をかきたてられ、再び筆をとる。
という具合に、どこまでも夫のまぼろしを求め、夫の死を受け入れなかった「まぼろし」のヒロインとは違って、ベニングの演じる女性は夫の死は理解しているけれど、夫の代わりを瓜二つの男性に求めてしまう。しかし、彼が死んだ夫に瓜二つだから愛している、と彼に知れたら、彼は気持ち悪がって逃げてしまうだろうから、彼女は娘にも隣人にも会わせたくない。とはいっても、娘は家に帰ってくるし、隣人とも顔を合わせるしで、いずれはバレてしまうのだが、この辺がちょっとヒロイン自分勝手すぎて共感できない。
で、結局、バレてしまう過程で、ヒロインが「まぼろし」のように半狂乱になって、少し頭がおかしくなるのだけど、そこはやはり「まぼろし」と違って、また現実に戻ってくる。この辺がまあ、「まぼろし」に比べると平凡だなあと思うのだが、最後にある事実がわかり、ちょっとそこはうるっと来ます。というか、最後に出てくる「フェイス・オブ・ラブ」という絵がものすごくいいのだ。この映画の内容そのものを表す絵になっている。
エド・ハリスはジャクソン・ポロックを演じたことがあるので、画家には似合っている。ウィリアムズが「エドはいい役を手に入れたね」と言ったというが、熟年男女の恋を演じられるというのは年をとった俳優にとってはうらやましいことだろう。女優は年をとると母親役ばかりになるが、男優もまたいい役が減る。脇役が多くなっていた晩年のウィリアムズにはそんな悩みもあったに違いない。
そのウィリアムズは、撮影現場では例によってみんなを笑わせていたようだ。映画では地味に脇を固める役柄で、この役がウィリアムズだからよい、とは思うけれど、やはり役不足な感もある(役不足とは、その人の力量に比べてたいしたことのない役、という意味)。

2015年1月18日日曜日

初試写

今年の初試写は「バードマン」、次が「ビッグ・アイズ」。どちらもゴールデン・グローブ賞をとっている。

まずティム・バートンの「ビッグ・アイズ」から行くと、これはあの佐村河内氏と新垣氏の話みたいだね。主人公は目の大きな子供の絵を描く女性画家。夫がバーの廊下に絵を飾ってもらうが全然売れない。が、夫がバーの主人とけんか、それが新聞に載り、そこに写った絵を見た人が次々と絵を買っていくようになる。で、作者は、というと、なんと、夫が作者のふりして客に絵を売り込んでいるのだ。内気な妻は本当のことが言えず、夫の売り方がうまいので、夫の嘘につきあうようになる。
絵が高くなると庶民は絵が買えず、ポスターを持っていくのを見て、夫は印刷して安く売ることを思いつき、夫婦はプール付きの豪邸に住むほど裕福になるが、やがて妻は夫と決別、真の作者は自分だとして夫との間に裁判が起こる。これ実話。
正直、ティム・バートンの映画は、ある時期からとりあえず面白く見られるだけの映画になっていて、昔のようなすごさがなくなっているが、これもそうで、時々ちょっと眠くなる。妻役のエイミー・アダムズが2年連続ゴールデン・グローブ賞受賞したが、むしろ夫役のクリストフ・ヴァルツの演技のおかげで飽きずに見られる。ヴァルツは50代でハリウッド進出、その後わずかな期間で2つもアカデミー賞を受賞してしまったが、たしかに今のハリウッドにはいないタイプの役者だ。芸域が広くて、何をやってもうまいと感心する。この映画の偽画家の夫も、佐村河内みたいなカリスマっぽさがないし、佐村河内みたいに人の同情を買うような嘘を積み重ねたわけでもないし、第一、このおっさんがああいう子供の絵の作者ってキモイ、という感じさえするのだが、この人の詐欺師っぷりの演技が面白くて飽きないのだ。
佐村河内氏がいなかったら新垣氏の曲は売れなかっただろう。一方、こちらの女性画家マーガレット・キーンの絵はきっかけがあれば売れただろうが、夫のプロデューサーとしての才がなかったら、あれほど売れたかどうか。「よい作品だから多くの人に愛された」という冒頭のウォーホルの言葉が、佐村河内&新垣の曲の場合は、佐村河内の正体がばれたら曲自体の価値も変わった、よい作品だから多くの人に愛されたのではなかった、みたいになったのと比べると、この映画は現実の佐村河内事件よりも単純で牧歌的な話だなあと思う。

そのティム・バートンの「ビートルジュース」、「バットマン」、「バットマン・リターンズ」で有名なマイケル・キートンが、キートン自身のような俳優を演じる「バードマン」。監督は「バベル」のアレハンドロ・G・イニャリトゥ。主人公リーガンは「バードマン」というヒーローものでブレイクしたが、3作で役を降り、以後20年間、文字通り鳴かず飛ばずになってしまう。そこでブロードウェイの舞台劇を脚本・演出・主演してカムバックを果たそうとするが、という話。
イニャリトゥはここではバートンの映画のようなファンタジー的要素を取り入れているが、バートンと違ってこちらはまだ丸くなっておらず、奇想天外で面白い。共演者が事故で降板、かわりに舞台の名優マイクが参加することになるが、この名優を演じるエドワード・ノートンがまたいい。昔の映画スターだが今も顔と名前を知られているリーガンと、舞台では素晴らしい名優で、批評家にも観客にも高い評価を受けているが、世間の一般人には知られていないマイク。彼らをとりまく女性たちの描写は今一つ不十分な印象があるが、太ってしまって頭も禿げている昔の映画スターがのっぴきならぬ理由でタイムズスクエアをパンツ一枚で横切らなければならなくなるシーンとか、目を離せないシーンがてんこ盛り。こういう映画だと絶対に眠くなりません。ゴールデン・グローブ賞は脚本賞と主演男優賞(キートン)を受賞。

2015年1月14日水曜日

ハシェックの永久欠番セレモニー

日本時間の今日午前にバッファローで行われたドミニク・ハシェックの永久欠番セレモニーの動画です。リック・ジャネレットの紹介で氷上に登場し、スピーチをしたあと、ダニー・ゲアとルネ・ロベールに付き添われて39番のバナーが上がるのを見ています。登場する子供たちは、ハシェックが2001年から行っているバッファローの恵まれない子供たちのホッケーを支援する活動、ハシェックス・ヒーローズの子供たち。最初にハート・トロフィーやヴェジナ・トロフィーが出てきますが、わざわざ持ってきたのですね。
http://video.sabres.nhl.com/videocenter/console?id=725162&lang=en
こちらは記事(英語)。
http://sabres.nhl.com/club/news.htm?id=748499
それからバッファロー・ニュースに載った記事(英語)。
http://www.buffalonews.com/city-region/hasek-still-a-dom-inant-figure-20150113
これによると、例の1999年のスタンレーカップ・ファイナル、もしもセイバーズが第6戦に勝っていれば、セイバーズが優勝しただろう、と、例の優勝を決めた疑惑のゴールのブレット・ハルが言っていたのだとか。というのも、ハルはけがで第7戦は出場不能だったらしい。もしそうなれば、デレク・プラントの棚ぼたカップ獲得もなかったのだ。そして、ハシェックはカップほしさにデトロイトに行くこともなかったのだろう。
この記事では現役時代のハシェックの起こしたトラブルや、デトロイト移籍のときにファンの心をフローズンさせてしまったいきさつについても書いている。こういうことが書けるのはバッファロー・ニュースだからだが、こうしたさまざまなことがあって、でも歳月が流れ、ハシェックはよい年の取り方をしているということが書かれている。ファンの心を凍らせたことのひとつに、ハシェックが、ホッケーの殿堂入りはデトロイト・レッドウィングスのジャージで入りたいと言ったことがあるが、これはテレビレポーターの挑発に載せられての発言だったらしい(殿堂入りはあくまで個人のものでチームは無関係)。
もうひとつ、バッファロー・ニュースから。
http://www.buffalonews.com/sports/sabres-nhl/dominik-hasek-notebook-post-olympic-welcome-his-finest-memory-20150113
こちらはハシェックにとっての一番の思い出は、長野五輪で金メダルをとったあと、バッファローに帰ってきたら、まるでそこが母国のチェコであるかのように、大勢の人がチェコの国旗を振って迎えてくれたことだった、ということ。そして、翌日の試合では、観客がチェコの国歌を歌ってくれたのだという。また、記事の後半では、ハシェックガ39番をつけたいきさつが書かれている。ハシェックはチェコでは16歳のときから9番をつけていたが、これはコーチが決めた番号。NHLの最初のチーム、シカゴでもチームが番号を決めた(34番と31番)。ところがセイバーズに来たとき、初めて何番をつけたいかと聞かれ、セイバーズは自分を本気で使うつもりなのだな、と思ったのだそうだ。そして、最初はチェコ時代の9番にしようと思ったが、9番はチェコに残して新しい番号にしようと決め、39番をえらんだのだという。9番はチェコ時代のチームですでに永久欠番になっているとのこと。

というわけで、セイバーズの39番の永久欠番はずっと前から決まっていたのですが、いろいろと紆余曲折があり、ハシェック自身が引退すると言っては戻ってきたりしたこともあって、欠番セレモニーまでにはずいぶんと時間がかかってしまいましたが、その間にフローズンしていたファンの心の氷も溶け、昨年はNHLの殿堂入りも果たし、「アナ雪」の結末のようにハッピーエンドになりました、って感じかな?
このセレモニーのためにセイバーズの元チームメイトなどがバッファローに来ているはずなのだけど、ハシェックの元チームメイト、デレクも来たのかな? 大学の試合がなければ行くよね、と思って大学の試合の日程を見たら、試合はありませんでした。デレクも今、バッファローにいるのかもしれない(と思ったけど、違うような気がしました→追記)。

追記 ハシェックの永久欠番セレモニーについて、ファンの掲示板では、あまりに地味だ、地味すぎる、という声があがっています。私も以前、ラフォンテーヌのセレモニーを見て、あのときはいろいろ趣向があったので、今度のはほんとに地味。家族も元チームメイトも出てこない。ハシェックのジャージもない。ハシェックのスピーチとバナーの掲揚だけのあっけないものでした。
ハシェックが派手なセレモニーをいやがったのだろう、とファンは予想しているし、そうでなければ納得できないと書いています。
元チームメイトではジトニクが来ていたようですが、彼がセレモニーに顔を出すこともなし。ただ、ロブ・レイやブラッド・メイなどと一緒にハシェックと並んで写っている写真が掲示板にアップされているくらいです。
このことについて、あるファンのコメント(この人はデレク・プラントのファンで、以前、私にメールくれたことがあります)。
「セレモニーについてあとから思ったこと。この種のセレモニーの大部分に比べて軽いと思わざるを得ない。特にドム(ハシェックの愛称)のセレモニーだと思うと! でも、ペグラ(オーナー)のもとの新しいセイバーズは、こういう祝い事をやりすぎている。私もハシェックがこういう(地味な)セレモニーを望んだのだと信じる。彼は自分のショーをやって満足したように見える。そうでなければレイやメイやZ(ジトニク)、ララ(ラフォンテーヌ)、それにプラント、ホルジンガー、ペカなどなどの元チームメイトを抜きにしてやる理由はない。いくらでも名前を連ねることはできる。それに家族などなど。
とてもつつましいセレモニーで、これはドムのパーソナリティだ。ひとつ気に入ったのは、彼がスピーチを読むのを聞くことだった。それが彼のすべてを表している。余計な飾りがない。彼は観客から期待どおりの喝采を受けた。
もしも彼の口から最後に出た言葉が「ノーゴール」で、そのあと彼がマイクを置いて立ち去ったなら、それは伝説になっただろうに。」

試合はセイバーズがレッドウィングスに敗れてセイバーズ8連敗だそうですが、3ピリにハシェックがレッドウィングス側の放送に出演したそうです。

2015年1月10日土曜日

39が永久欠番に

来週火曜日13日(日本時間では翌日14日)、セイバーズの試合でドミニク・ハシェックの39番が永久欠番になるセレモニーが行われるそうです。
入場者には39の小型バナーをプレゼント。それ以外にもハシェックのさまざまなグッズが売られるそうです。
セイバーズ・サイトのニュース。
http://sabres.nhl.com/club/news.htm?id=747678
セイバーズ・サイトのトップにはそのバナーの写真が。
http://sabres.nhl.com/?navid=nav-teamnav-buf
これはトップページなので、13日がすぎると変わってしまうかも。
当日の試合の相手はハシェックが2度優勝を経験したレッドウィングス。まあ、当然でしょう。
肝心のセイバーズはなんかやっぱり負け続けていますが、ほかにも負け続けているチームがあるので、ドラフト全体1位がねらえる位置にいるのはむずかしくなっています(あらあら)。

2015年1月1日木曜日

謹賀新年

あけましておめでとうございます。
今年もよろしく。

と、ごあいさつしたものの、年末にひいた風邪がいっこうによくならず、特に咳がひどくて、肺から絞り出すような苦しい咳。なぜか鼻炎の薬が効く。やはり鼻水の影響でしょう。
そんなわけで、恒例の夢の島プールで初泳ぎもできず。
夢の島のプールは年末年始もやっているのですが、他の公営プールが休みなので、団体のコース貸切が多く、一般コースはかえって大混雑。でも、さすがに元旦と2日はすいているのです。
去年は葛西臨海公園へ行って海の写真やディズニーランドの遠景などを撮って、それから夢の島のプールで泳いだのに。
というわけで部屋でおとなしくしているだけの正月です。