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2024年7月17日水曜日

あなたは埼玉を欲しがっているのです。

 諭吉カードをおろしにいったら、栄一カードが出てきました。

ご縁があるようにと、5円玉を置きました。


ホログラムがきれい。上は諭吉。


「翔んで埼玉 琵琶湖より愛をこめて」の終わり近く、新1万円札がずらっと並んで、「あなたは埼玉を欲しがっているのです」のナレーション。

すぐには目にしないと思っていたら、こんなに早く。

昨夜はこの「埼玉 琵琶湖」の特典映像DVDを見ましたが、撮影現場が和気あいあい。百美役の二階堂ふみはたった3日間の撮影だったそうで、売れっ子女優なのでスケジュールの都合がつかず、出番少なくなったのだな、と思いました。

さて、最近読んだ本と、借りてきた本。


右は「フェラーリ」原作。市立図書館から文庫借りておもにそっちを読みましたが、県立図書館から借りた単行本の方が写真が多数。

そして左は今日、やっと借りられた「関心領域」の原作。

「関心領域」もすでに4分の1くらい読みましたが、どちらも映画の原作というよりは、インスパイアされた、参考にした、という感じ。「フェラーリ」は映画になったのは原作本のほんの数ページだし、「関心領域」も映画とはだいぶ違う話です。

2024年2月9日金曜日

「瞳をとじて」&「カラーパープル」

 3時間近い「瞳をとじて」と2時間半近い「カラーパープル」を流山おおたかの森でハシゴ。

2本の映画の間は15分しかないので、まず、「瞳をとじて」を見る前に、ローソンストア100で買った200円弁当でお昼。ごはんとウィンナ5本その下にスパゲッティが少し入っています。


「瞳をとじて」については、ネタバレありで書くので、最後に。


「瞳をとじて」が終わってから「カラーパープル」が始まるまでのわずかな時間に、前日に買って持ってきていた菓子パンをロビーで食べます。

「カラーパープル」はプレミアでの上映。このシネコンのプレミアはとても好きで、映像もいいし、音響もいい。ただ、見たい映画をここでなかなかやってくれない。久々のプレミアでした。



中に入るとソファのあるロビーがあり、シャンデリアがついていますが、ここでくつろいでいる人を見たことはありません。くつろぐほどの時間がないのだけど。スクリーンのある部屋もなかなか豪華で、椅子もゆったりで、とても好きなスクリーンです。


「カラーパープル」は舞台のミュージカルの映画化ですが、スピルバーグの映画化とわりと同じストーリー展開なので、やっぱりスピルバーグの方が演出うまかったなあ、と思ってしまいます。クレジットではアリス・ウォーカーの小説のミュージカル化となっていて、スピルバーグとウォーカーの両方がプロデューサーに加わっています。

というところで、先に見た「瞳をとじて」について。

ヴィクトル・エリセの久々の監督作で、3時間近くあり、話の方は淡々として、あまり盛り上がりがないにもかかわらず、飽きずに見てしまいました。

冒頭、1947年が舞台のシーン。病で余命いくばくもない老人がある男に、中国にいる娘を探してほしいと頼みます。が、実はこれは映画の1シーンで、男を演じた主演俳優が撮影途中で失踪。これが1990年のことで、おそらく死んだのだろうと周囲は思っている。

それから22年後の2012年、主演俳優の失踪で撮影中止となったその映画の監督がこの未解決事件を扱ったテレビ番組に出演することになり、監督と俳優の関係が明らかになり、そして、監督が俳優の娘に会ったり、自身の人生を振り返ったりする、という物語。

俳優と監督は若い頃、海軍で知り合い、以後、親友となり、同じ女性を愛したこともあった。撮影中止となった映画は監督の2作目だったが、このあと監督は映画を作ることをやめ、小説を書いたり翻訳をしたりしている。

で、その監督が俳優の娘に会ったり、未完の映画のフィルムを保管していた男と会ったり、偶然見つけた献辞入りの自著がきっかけで昔の恋人に会ったり、自宅の近所に住む若い夫婦との交流があったり、といった具合で映画は進んでいく。

このあたり、とても淡々としていて、ドラマチックなところもなく、何か筋書きが見えてくるわけでもなく、いったいこの話、どこへ行くのだろうという感じなのだけど、なぜか、飽きずに見てしまう。

そして結末近くになって(以下ネタバレ)テレビ放送がきっかけで、高齢者施設にいる記憶喪失の男が失踪した俳優だとわかる。しかし、俳優は監督と会っても何も思い出さない。娘が会いに来るが、やはりだめ。そこで監督は閉館したばかりの映画館を借りて、俳優が主演した未完の映画のラストを見せる。老人が中国から来た娘と会うシーンで、娘は父親を覚えていないが、しかし、というラスト。

映画中映画のラストはかなりメロドラマチックで、あまり洗練されたものとは思えないが、本編の方はこのあと、俳優が瞳をとじるという簡潔なシーンで終わる。

俳優の娘を演じているのは「ミツバチのささやき」のアナ・トレントで、役名もアナ。その彼女が高齢者施設で老いた父と対面するシーン、そして最後の映画館での上映が「ミツバチのささやき」を想起させる。

私が「ミツバチのささやき」という映画を知ったのは、1983年、「フランケンシュタイン」の解説を書くために下調べをしていたときだ。「フランケンシュタイン」の映画化についての英語の論文にこの映画の紹介があった。スペイン映画で、英語タイトルは「ミツバチの巣」とかいうものだったと思う。

この映画は日本未公開で、当時はまだインターネットもなかったからそれ以上調べることもできず、なので、解説には書かなかった。しかし、解説を書いた本が出て数年後に、「ミツバチのささやき」というタイトルで映画が公開された。この映画が日本でたいそう人気のある映画になったのは周知のとおり。

ヴィクトル・エリセにとって、「瞳をとじて」は「ミツバチのささやき」への回帰があったのだろう。映画監督をやめてしまった映画の中の監督が、22年前の未完の映画に回帰するように。

そして、「瞳をとじて」は2023年の作品だけれど、私が「フランケンシュタイン」の解説を書いていたのがちょうど40年前の1983年。そして、この映画が日本公開されたのが、「フランケンシュタイン」出版(1984年2月)からちょうど40年後の2024年2月であることに、深い感慨を覚えずにはいられない。

追記 エリセにとっては、「瞳をとじて」(2023)は、「ミツバチのささやき」(1973)から50年後の作品となる。

追記2 奇しくも「瞳をとじて」が公開された2月9日、創元推理文庫「フランケンシュタイン」30刷りが決まったようです。40周年で30刷り、よいね。

2024年1月26日金曜日

「哀れなるものたち」

 去年の秋に原作を読んでからずっと楽しみにしていたヨルゴス・ランティモスによる映画化「哀れなるものたち」。

先週金曜の先行は、午後7時以降からの上映ばかりで、終わるのが10時くらいになってしまうからパス。そして今日の初日、どこで見るか迷ったんだけど、前作「女王陛下のお気に入り」の音響がすごくよかったので、音響のいいMOVIXで。



まあ、音はよかったんですけど、前作のような、耳をそばだててしまうような音響効果ではなかった。

内容も、原作の方がよかった。原作もそんなに絶賛するほどではないというか、著者が編集した実話本という体裁で、ゴドウィンという科学者の助手の語りの中にゴドウィンが作り上げた女性ベラと駆け落ちする男の語りがあり、また助手の語りになって、最後にベラの語りが来て、それまでの話が全部否定される、しかし、編集者の著者はベラの語りを否定、みたいな構成が面白いと言えば面白いんだけど、注をいっぱいつけて実話ふうに見せているところがうざいと言えばうざいので、この仕掛けを喜ぶ人は絶賛するだろうけど、私はちょっとね、という感じだった。

内容的には、男性登場人物が女性差別意識満載で、それを平気で語ってるのに対し、ベラはそういう男たちへの不快感をあらわにしていて、そのあたり、男たちの女性差別を逆説的に突きつける隠れたフェミニズムみたいなところは興味深かった。

ただ、これを映画にする場合、小説ならではの語りの仕掛けは映画では無理なので、その辺どうするのかな、と思っていたら、映画はまさしくその語りの仕掛けはいっさい無視で、普通に話が進む。映像は冒頭カラー、そのあとしばらくモノクロ、そしてカラーとなる。そしてベラが駆け落ちした男と旅するヨーロッパ各地が幻想的な風景で描かれる。

原作と違うのは、ベラが帰国したあと、夫だと名乗る人物が現れたあとで、ここはもう、完全にランティモスの世界で、原作の世界ではない。

そのほか、原作にはないグロとエロの描写がすごくて、それを演じるエマ・ストーンがすごい。二度目のアカデミー賞は確実かな。対抗のリリー・グラッドストーンは「女王陛下のお気に入り」のオリヴィア・コールマンが受賞したときの対抗、グレン・クローズと似たような抑えた演技で、ランティモスのヒロインのスーパーエキセントリックの前では不利だ。もっとも、エマは一度取ってるし、リリーは先住民だから受賞させたい、みたいな力が働くかもしれないけれど。

映画も作品賞取るかもしれないくらいの絶賛なのだけど、私は原作の逆説的なフェミニズムが消えていること、幻想的な映像がそんなにすごくないこと、ストーリー自体は原作とあまり変わりなくて、最後の変えた部分もそんなに面白くないこと、などから、あまり高く評価はできない。ランティモスの悪趣味なところが好きな人にはよいでしょう。

2024年1月20日土曜日

梅が咲いている。

 先日、近所の公園へ行ったら、白鳥が2羽来ていました。親と子どもの2羽。そこをアオサギが飛んでいく。


白鳥が来たのはこの日だけのようで、その後は見かけず。

そして、梅がもう咲いています。暖冬なので今年は早い。




「Perfect Days」で主人公が読んでいたフォークナーの「野生の棕櫚」。3つの翻訳を借りました。左が1970年代の翻訳を映画に合わせて中公文庫が復刊したもの。真ん中が1960年代のフォークナー全集のもの。そして右が映画の中で役所広司が読んでいた新潮文庫と同じ大久保康雄の翻訳が入った河出書房の文学全集。


河出書房のは1950年代のもので、タイトルは「野生の情熱」になっています。カードは図書館でもらったもの。


並行して語られる2つの物語は、この全集では「野生の棕櫚」と「おやじ」となっています。そして、奥付を見ると、定価が2つある。そういう時代だったのか。


大久保康雄の訳は、「おやじ」というか「オールド・マン」の主人公の年齢が誤訳で、25歳が35歳になっていますが、訳文は中公文庫の訳よりはるかによい。描写や作者の言いたいことがダイレクトに伝わります。えんえんと続く長い文章も、中公文庫は「~した、~した、」という感じで、。を、にしただけなのに対し、大久保訳は「~して、~して」という感じで1つの文にしようとしている。原文と比べたわけではないけど、大久保訳の方がよい気がする。

なお、フォークナー全集の方はきちんと読まなかったので、またの機会に。

2023年12月25日月曜日

フォークナーとかプーシキンとか

 今年もあとわずか。いろいろあったけれど、バルザックの「幻滅」、メルヴィルの「白鯨」、そしてプーシキンを読んだのは、私にとっては画期的なことだった。

バルザックは大学時代にフランス語で中編を読んだだけ。メルヴィルは同じころ、中編「バートルビー」を翻訳で読んだだけ。プーシキンは読もうとすら思わなかった。

それが、フランス映画「幻滅」を見てバルザックの長大な原作を読み、「ザ・ホエール」を見て「白鯨」を読み、そして今、プーシキンを読もうとしている。

正直、バルザックの長編、メルヴィルの「白鯨」、プーシキンは一生読まないだろうと思っていた。それが今年見た映画がきっかけで読み、年末になってあることからプーシキンに興味を持って図書館に行き、プーシキン全集を借りてきた。

借りてきたのは有名な「エヴゲニー・オネーギン」が入った巻。それ以外に「モーツアルトとサリエリ」という短い劇が入った巻があり、2巻借りるのは重いので、こちらは図書館で読んだが、とても面白かった。「アマデウス」よりいいんじゃないの?と思い、その場で2回読んでしまったほど。

というわけで、プーシキン全集の1冊と、ついでに借りた「森下洋子自伝」。森下洋子のバレエは「くるみ割り人形」と「眠れる森の美女」を見てるけど、80年代末で、もうだいぶ前だなあ。カードは図書館で配っていたもの。


このほか、遠方の図書館にある「プーシキンとロシア・オペラ」という本を予約して、それを取りに行ったついでに、たまたま目にしたマツモトキヨシ伝と、「野性の棕櫚」の入ったフォークナー全集を借りる。


マツモトキヨシ伝は松戸の話なので、郷土資料となり、千葉県立図書館では2冊が貸出不可、1冊が貸出可で、これを棚に見つけて借りた。マツキヨ創業者、元松戸市長の松本清の作ったすぐやる課はすごく有名で、リアルタイムで知っていた。

で、松戸市立図書館にはあるのかな、と思って調べたら、こちらは2冊あって2冊とも貸出不可。出た当初は借りる人多かっただろうけど、その後は借りる人がいなくてこれだけになってしまったのかな。貸出不可しかないのはきびしい。

そしてさらに調べたら、「マツモトキヨシ80年史」という本が市立図書館にあり、貸出可能だったので予約中です。

これはマツモトキヨシホールディングスが出した非売品なので、松戸市に寄贈したものでしょう。とはいえ、通販で売っているところがある。写真は通販サイトのものです。



「プーシキンとロシア・オペラ」は、これまでプーシキンに興味がなく、ロシア・オペラも興味なかったのだけど、プーシキン全集を見ていたら「金鶏」があり、リムスキー・コルサコフのオペラ「金鶏」はボリショイ劇場の日本公演を見たことがあったので、興味を持った。

ボリショイの「金鶏」を見たのは1989年。このときの演目は「ボリス・ゴドノフ」「金鶏」「エヴゲニー・オネーギン」の3作で(いずれもプーシキン原作)、有名で人気のある「ゴドノフ」と「オネーギン」にはさまれた地味な「金鶏」だけをなぜ見に行ったのか、さだかではない。「金鶏」はソ連時代にはあまり上演されず、ペレストロイカになって再評価された、というので見に行ったのかもしれない。

「金鶏」は3公演のうち、2回がベテランのソプラノ、1回が若手のほぼ無名のソプラノで、人と違ったことをする私はあえてこの無名のソプラノの回のチケットを買った(よい席がとれました)。

そして見に行って驚いた。この若手のソプラノ、歌もうまいし美人でスタイルもよく、へそ出しルックの衣装で歌い踊る。うおお、堅物ソ連のオペラとは思えん、これがペレストロイカか、とびっくりし、オペラもファンタジーで楽しく、とーっても満足。その後、この回を見逃したオペラファンのおじさんたちが悔しがったというおまけもついたのだった。

プーシキンといえばこの思い出しかなかったのだけど、これからいろいろ読みます。

そして、フォークナーの「野性の棕櫚」。この全集では「野性」ですが、ほかでは「野生」となってます。

「PERFECT DAYS」の中で役所広司が読んでいる3冊の本の1冊で、映画では大久保康雄訳の新潮文庫でしたが、すでに絶版。それどころか図書館にもほとんどない。私がカード持ってる図書館はどこもなかった。

戦後の時代、数多くの英米文学を翻訳した大久保康雄、実際は大久保工場と呼ばれる翻訳家集団で、大久保本人の訳だけでなく、大久保のもとに集まった優れた翻訳家たちが大久保の名前で訳していたようなのですが、その多くは新潮文庫に入っていたのです。ところが新潮文庫が新訳を次々と出し、大久保訳は絶版になり、図書館も新訳を入れるから大久保訳は一部を除いてどんどん廃棄になっているような気がします。

古い名訳は今の人には読めない、というのは事実なのですが、それでも歴史の遺産であるこうした名訳が国会図書館のようなところでしか読めなくなるのは悲しい。

実は映画に合わせるように、中公文庫が11月に加島祥造の古い訳を復刊して、そちらはあちこちの図書館に入ってますが、貸出中が多い。まあみんなこれ読むよね。

加島はフォークナーをほかにも訳していて、私が若い頃に読んだ3大代表作「響きと怒り」「八月の光」「アブサロム、アブサロム」のどれかが彼の訳だったはず。

とにかく新潮文庫の大久保訳はほとんどないわ、中公のは貸出中だわ、で、借りてきたのがフォークナー全集の「野性の棕櫚」。こちらはアメリカ文学者の訳ですが、やっぱり大久保訳が見たい、という思いもあり、いろいろ調べたところ、河出書房の古い全集に入っているのを発見。これが県立図書館の遠方の館にあるので予約。中公文庫も一応、予約待ちにしてますが、これで3つの翻訳を比べられるなあ、って、いったい何をしてるんだ、自分。

昔はフォークナーの翻訳って、普通に本屋さんにいっぱいあって、人気作家だったのに、いつのまにか翻訳が手に入らなくなってるな、ということはだいぶ前から感じていました。でも代表作は新訳で出たりしてるので、人気がないわけではないのかな、と思っていたけれど、今回、「野生の棕櫚」の件で、やっぱりフォークナーは最近人気ないんだ、人気あったのは大橋健三郎が東大教授だったから?などと考えてしまったのです。

あの頃はアメリカ文学研究といったら、フォークナーだったんですよ。

映画に出てきたパトリシア・ハイスミスの「11の物語」も貸出中で、こちらも予約待ちです。

2023年10月17日火曜日

これから読む本

 土曜日に渋谷に「ヨーロッパ新世紀」を見に行った帰り、なつかしの文京区の真砂中央図書館に行って辺見庸の「月」を借りた。

その前に地元で借りていた、リチャード三世は悪人ではなかったという推理小説「時の娘」は昨日読み終わった。


「月」は映画はちょっと気になってはいるものの、出来がイマイチらしいので二の足を踏んでいる。かわりに原作を読もうと思った。

前日にカーリルで調べたら、映画公開ということでけっこう借りられていたが、文庫本は出たばかりで図書館にはあまり入っていない。単行本は、その真砂中央図書館に在庫があった。

おお、まだ借りられてない、と思い、すぐに予約。真砂中央図書館は文京区に住んでいるときはよく利用したけれど、引越してからは行っておらず、その間に改修工事をしたので、それを見るのも目的で出かけた。

うーん、改修前の方が広々としていたような。明るくなったけれど、前の方が昔の図書館の匂いがしてよかったなあ。

で、すぐに借りられたのだけど、その後、予約が4件も入っていた。

映画が公開されると原作本が図書館で貸出中ばかりになる、というのは、スコセッシの新作「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」の原作も同じです。

こちらも「花殺し月の殺人」というタイトルで単行本が出て、最近、映画と同じタイトルの文庫本が出た。文庫は出たばかりなので、入っている図書館は非常に少ない。単行本は、まだ公開前なので、貸出中ばかりというほどではないけれど、徐々に予約殺到の気配。



そこで日曜の夜にカーリルで検索すると、県立図書館に単行本が在庫あり。ここは穴場なんです。

で、予約して、近くの図書館に届くのを待っています。

ほかにも予約中の本があるので、さっさと読まないと大変だ。順番待ちの人もいることだし。

2023年10月5日木曜日

「ロスト・キング 500年越しの運命」

 リチャード三世の遺骨を発見した女性の実話の映画化「ロスト・キング 500年越しの運命」。

この映画、ロッテントマトの評価があまり高くないので、見ようかどうか迷ったが、題材的に気になるし、スティーヴン・フリアーズの映画はそこそこ楽しめるので見に行った。


評価が低いのは実際にあったことを相当に変えてしまっているからのようだ。「福田村事件」もそうだけど、実話の映画化でも人物やエピソードをフィクション化するのは普通にあることで、それが作品として良い結果になっていればいいのだが、果たして。

と思いつつ見たが、やはりこれは出来が悪い。

フリアーズにしてはぎくしゃくしていてあまり面白くないし感動もしない。

発掘の経緯とか、特定の人を悪者にして話を進める単純さとか、どこが焦点なのかわからない脚本のまずさとか。女性主人公の描写も男性目線の女性差別を感じる。脇役が魅力的でないのもマイナス。

最初は主人公をバカにしていた大学教授が途中から彼女の手柄を横取りするようになるのだけれど、ここが、主人公の手柄を横取りするのが問題なのか、リチャード三世の名誉回復という主人公の目的が無視されることが問題なのかはっきりしないような描写になっている。この2つを重ねているつもりだとしてもあまりにも稚拙な描写。

リチャード三世は悪人ではなかった、テューダー朝によって悪人にされていたのだ、という、歴史的にも事実らしいことから来る主人公のリチャードへの同情、そこから来る愛が彼女の原動力になっている、というところがうまく描かれていない。

彼女が出会う考古学関係者にリチャードという名前の人がいて、というのもあまり生かされていない設定。

最後にリチャード三世が英国王室によって正式に王と認められた、という解説で、なんとか、リチャードの名誉回復というテーマで幕を閉じた、という感じであった。

リチャード三世は悪人ではなかった、というのは、ジョセフィン・テイの推理小説「時の娘」が有名で、前から読もう読もうと思って読まずにいたので、図書館から借りて読もうとしたら、カード持ってるところ全部貸出中。映画の影響大。

500年越しの運命という副題、なんだかピンと来ない。王様と私、の方があってる。

2023年9月24日日曜日

「世にも怪奇な物語」

 10代の頃、テレビで見て、ロジェ・ヴァディムの第1話とルイ・マルの第2話は面白くないけど、フェリーニの第3話がひたすら怖かった記憶のオムニバス映画「世にも怪奇な物語」。映画館で見られるチャンスがあったので、見てきた。


ホラー秘宝祭り10周年だったんですね。上のカードは県立図書館でもらった千葉県150周年記念のカード。

エドガー・アラン・ポーの短編を3人の監督が自由に脚色しているのだが、フェリーニの第3話は最初から映像が怖いというか不気味。それに比べるとヴァディム、マルは全然ホラーじゃない。やっぱりフェリーニは怪奇と幻想が得意なんだな、他の2人も個性は感じるものの、どちらもコスチュームもののドラマ。

ヴァディムの第1話はジェーンとピーターのフォンダ姉弟共演で、当時ジェーンはヴァディムの妻だったのだけど、セクシーな衣装をとっかえひっかえ着て出てきて、この頃のジェーンはセクシーさ満開であったのだ。ヴァディムと別れたあとはセクシーを封印し、ベトナム反戦運動と演技派女優の道を歩むことになる。

ルイ・マルの第2話は原作が有名な「ウィリアム・ウィルソン」で、アラン・ドロンとブリジット・バルドー共演。第1話も第2話も主人公が極悪非道なやつ。邪悪なジェーン・フォンダに対して極悪なアラン・ドロンもまたよいという点では見どころがあったし、冒頭の描写はルイ・マルらしさを感じた。

しかし、フェリーニの第3話を見ると、ヴァディムもマルも前座に見えてしまう。それくらいフェリーニのは力が入っていて、音楽もニーノ・ロータ。テレンス・スタンプの狂気の演技も見ものだが、ヴァディムとマルがスター中心の作品だったのに対し、こっちは完全にフェリーニの映像世界。

もう最初から人物の表情とか怖いのである。後半、赤いフェラーリに乗って突っ走るところも怖い。そしてラスト。

主人公はシェイクスピア役者で、「マクベス」のせりふを暗唱するが、そこで、イタリア人がシェイクスピアを「ダンテの次に偉大」と言う。イタリア人にとってはダンテが最高の詩人なのだな、と思ったが、「神曲」でダンテが女性によって天国へ導かれるのに対し、この話では主人公が女性によって地獄へ導かれる。この女性、記憶では幼い少女だと思っていたけれど、ある程度の年齢の少女、若い女性という感じだった。

2023年8月26日土曜日

「白鯨」を阿部知二訳で読み直す。

 講談社文庫の新訳で「白鯨」を読んだら全然面白くなかったのだけど、原文の冒頭部分を見たら文章が詩になっていて、あれ、と思い、阿部知二訳だと面白いという話を聞いて、原文で読むのも大変だからとりあえず阿部知二訳を読むことにしました。

阿部訳は岩波文庫のほか、複数の全集に入っていて、全集は近くの図書館にあるのですが、文字が細かいし本は重いし。一方、岩波文庫は新訳が出たので、地元の市立図書館では旧訳は処分してしまったらしい。

そんなこんなでどうしようかと思っていたところ、たまたま読みたい絶版本があって、探したら、近隣のカードのある図書館では葛飾区立図書館にしかないことがわかり、そこには岩波文庫の阿部訳があるので、一緒に借りることにしました。ネットで予約し、翌日には資料の準備ができたのですが、なんと、上巻だけ貸出中だった!

とりあえず中下を借り、上巻の部分は全集で読むことも考えましたが、県立図書館の遠くの館に岩波の旧訳がある。そこで上巻を予約。県立は本の移動が週に2回しかないので、すぐに来ないことが多いのですが、たまたま予約した日の翌日が移動日だったので、すぐ借りられました。

そして、読み始めてびっくり! 新訳と同じ小説とは思えない。一字一句じっくり読んでしまうような名文。登場人物の一人一人がくっきりときわだっていて、物語の全貌がようやく見えたかのようです。

イシュメールの盟友クイークエグって高貴な野蛮人(ノーブル・サヴェッジ)だったのか!

インディアンやアフリカの黒人も高貴な野蛮人として描かれている。新訳ではまったくそうは見えなかったのに。

たまにちらっと出てくるエイハブも、新訳では感じられなかったものすごい存在感。

新訳やネットの解説ではクイークエグを高貴な野蛮人として解説してるのは見なかったな。探せばあるのかもしれないけど。

たぶん、野蛮人が今は差別語だからということもあるのだろうけど、そもそも「高貴な野蛮人」という概念が白人中心主義の差別的概念ではあるので、野蛮人を野生人と置き換えても本質は変わらない。でも、過去にはそういう伝統があったのに、それをなかったことのようにしてしまうのはどうなのだろう。差別的概念だということも含めて解説すべきなのではないだろうか。

まあとにかく、阿部訳は今だったら問題になる差別表現が満載なので、これはもう古典の名作として扱うしかないのは理解できます。新訳もほかのは読んでいないので、新訳でもよい訳があるのかもしれない。

新訳で読んだとき、「白鯨」に似た小説はスターンの「トリストラム・シャンディ」かな、と思ったのですが、阿部氏の解説に、メルヴィルがこの小説を愛読していたらしいことが書かれていて、我が意を得たりでした。が、私は「トリストラム・シャンディ」をとても面白く読んだのだけど、訳が朱牟田夏雄だったのだね。もしも新訳が出たら、面白く読めないかもしれない。

私が10代20代の頃はこの手の昔の名訳者の翻訳が普通に出回っていて、それを読んで外国文学を好きになったので、今の新訳では好きにならなかったのではないか、そんなことも考えてしまいました。昔の名訳者がいなかったら、英米文学の道に進むこともなかったかもしれない。

さて、県立図書館から借りた上巻(左)と、葛飾区図書館から借りた中下巻。


実は上巻は1964年、中巻は1986年の版です。上巻の方にはしおりがわりになる紐がついている。今は新潮文庫しかついていません。上の方にちらっと見えるのは、本を押さえるために置いた下巻。


上巻の鯨学の手前まで読みましたが、じっくり読んでいるので時間がかかりそう。でも、楽しい読書です。

2023年8月1日火曜日

「白鯨」(追記あり、訂正あり)

8月26日追記と訂正

「白鯨」を岩波文庫の旧訳で読んでいます。

講談社文庫の新訳と比べて、全然違う。以下に書いたこと、私が間違ってました。すみません。

詳しくは以下の記事を。

さーべる倶楽部: 「白鯨」を阿部知二訳で読み直す。 (sabreclub4.blogspot.com)

新訳の方も、私の読み方が悪かったせいもあると思うので、新訳が100%悪いとは思いませんが(英文解釈的には新訳の方が正確だろうと思います)、以前から感じていた今の翻訳の欠点をあらためて思いました。時代が違うからしかたない面もあるし、また、他にも新訳があるので、面白く読める新訳もあるかもしれません。

というわけで、間違っていたところ、削除は卑怯だから線を引きます。

       * * * * *

 一生読まないと思っていたメルヴィルの「白鯨」を、このところ読んでいました。(追記 読んだのは講談社文庫の新訳。)

捕鯨の蘊蓄が長くて、と聞いていたけれど、いくら長いといっても半分はエイハブの話だろうと思っていたら、エイハブの話はほとんど最後の方だけだった。 (追記 前の方から一応登場していたけど、旧訳のような存在感が新訳にはなかった。)

1章ごとにトルストイのお説教が出てくる「戦争と平和」の方がはるかにマシ。だって半分は物語なんだから。

つか、19世紀アメリカ文学の研究者はこれを英語で読むのか、と思ったら気が遠くなった。「ユリシーズ」の方がはるかにマシ、と思う私はやっぱりイギリス文学だからか。

でも、ところどころ光るシーンや描写があって、やはりロマン派だなあ、と思ったりもして、読んで損はなかった。

「ユリシーズ」だとガイドブックが複数あって、それを頼りに読めるのだけど、「白鯨」もあるのだろうか。ただ、「白鯨」の場合は捕鯨の蘊蓄が難解というわけではないのだよね。

ところで、私と「白鯨」の出会いは、中学生のときに日曜洋画劇場で見たジョン・ヒューストン監督の「白鯨」。グレゴリー・ペック演じるエイハブが登場するまでに20分か30分かかっていたと思う。ラスト、白鯨に縛り付けられたエイハブが手を振るシーンは、原作の別の人物のエピソードだったのだね。原作のエイハブはあっけなく海に引きずり込まれてしまう。

イシュメールがリチャード・ベースハートだったのは覚えていたが、脚本がレイ・ブラッドベリだったとは!

DVDの画像はアマゾンから。


この映画、ジョン・ヒューストンが得意とする何かにとりつかれた男を描く映画、と、テレビで見たときには言われていた。

追記
その後、ネットで冒頭部分を英語の原文で見たら、なんと、英文が詩になっていて、魅力的。
これは、やはり、21世紀の新訳で読んだのがまずかったのかもしれない。
一番古い阿部知二訳が趣のある訳らしい。
阿部訳はもう図書館で借りるしかないけど、図書館にはまだ十分あるので(古い岩波文庫、河出書房の文学全集、筑摩書房の文学全集など)、そっちをのぞいてみてもいいかもしれない。
あるいは、プロジェクト・グーテンベルクで英語で読むか、ですね。
古典は新訳は、読みやすいけど、こういう落とし穴があるのよね。

2023年7月26日水曜日

ある英文学者の訃報

 東京都立大学、東京女子大学の教授だった小池滋が亡くなっていたことを、母校からのメールで知る。4月13日に亡くなり、新聞には訃報も出たようだが、英文学者の訃報は、世間的によっぽど有名な人をのぞき、ネットを見ていたのでは目にとまらない。

91歳とのことなので、教授を定年退職して21年はたっていただろう。

ディケンズを中心とするイギリス小説の大家だっただけでなく、翻訳も上手で、鉄道やミステリーの熱心な愛好家でもあったので、アマゾンで検索するとたくさん本が出てくるけれど、もうほとんど絶版のよう。

英文学者として優れていただけでなく、文章が魅力的だったのだが、さっきアマゾンで検索したら、昔読んだ英国鉄道に関する本に星1つつけた人が、「読みにくい」とコメントしているので、時代の差を感じた。

今すぐ読める本では、この「リトル・ドリット」の翻訳がキンドルになっていた。「大いなる遺産」と並んで私が最も好きなディケンズ作品であり、小池滋の訳もとても好きだった。


Amazon.co.jp: リトル・ドリット(上) eBook : チャールズ・ディケンズ, 小池滋: 本

私がイギリス小説を研究するようになったきっかけはキューブリックの映画「バリー・リンドン」を見たことだけれど、英文学者をめざしたのは小池滋の影響が大きい。「バリー・リンドン」はディケンズと同時代のサッカレー原作なので、当然、小池滋の本に行きつく。その語り口に魅了され、氏が当時、日本のイギリス小説研究ではトップの研究者であることを知り、氏が教授をつとめていた東京都立大の大学院への進学を決意。私が通っていた大学は大学院がなく、文学部さえなく、そこで細々とイギリス小説研究なんぞやっていた上、受験に必須の第2外国語をとっていなかったから、あわてて4年になってフランス語を猛勉強。

と、そのままなら都立大大学院へ行っていたところなのだが、非常勤講師で来ていたある先生から、「東大を受けないと最初が都立大になる。模擬試験だと思って東大を受けた方がいい」と言われ、じゃあ受けるか、と思って受けたら受かってしまった。

都立大ももちろん受けて、面接で小池滋に初めて会う。サッカレーの卒論を出していたので、「サッカレーをやっている人だね」と言われた。

都立大は筆記試験の翌日にもう面接をしてしまうのだけれど、東大は筆記と面接の間に1週間ほどあり、筆記で落ちると思っていた東大に受かって面接まで行ってしまった。都立大の面接のときはあせっていて、あまりうまい面接にならなかったが、その経験があったので東大の面接は落ち着いて受けられた。発表は都立大が先で、合格して安心したものの、東大の面接まで行ったのだから、落ちても来年また受けたいような気分でいたところ、東大も合格してしまい、小池滋の弟子になるという夢はそこで終わってしまった。

大学院は先生につくので、大学院の名前よりも先生で選ぶ、ということがよく言われ、特に理系はそうらしいのだが、英文学の場合は先生よりも大学院、特に関東では就職は東大院以外はむずかしいと言われていた。

実際は東大院では女性の就職は本人のコネ任せで、女性に関しては就職がいいわけではなかったのだけど。

小池滋にはその後も論文を送り、学会で会って話をしたこともある。氏は私の論文を非常に高く評価してくれていたが、師弟関係もないので、それが就職に結びつくことはなかった。むしろ、私をあまり評価していなかった指導教官が、自分より上の小池滋が私を高く評価したというので、指導教官との関係が悪くなった気がする。もちろん、就職とそのことは別で、東大院の先生には女性の院生を就職させる力がなかったのだが。

小池滋は東大出身で、東大への就任を打診されたが、断ったと言われていた。当時、東大の教員になると学会の仕事が大変で研究がしづらくなると言われていて、トップの研究者は東大に来ない、東大に来るのは2番手の人、と言われていた。大橋健三郎、小津次郎といった大御所はいたが、その下となると、やはり、なところがあったのは事実。今となっては、そんなこと知っている人は皆無に等しいだろうけど。

そんなこんなで、院を出てからは英文学の世界そのものから遠ざかり、そうしたこともすっかり忘れていたのだった。

2023年5月9日火曜日

GWの読書

 GW前半にようやくバルザックの「幻滅」を読み終え、次に読んだのがこれ。


「地上より永遠に」の原作。1987年に翻訳が出ていたとは知らなかった。同じ原作者の「シン・レッド・ライン」は映画公開に合わせて翻訳が出たのは知っていたが。

最初は翻訳があるとは知らず、原書で読もうかと思ったけれど、ペーパーバックで1000ページ近くあったので、これはちと無理と思い、図書館検索にかけてみたら、この翻訳があちこちの図書館にあった。

しかし、私が図書カード持ってる図書館にはない。

比較的近くの自治体のいくつかにあるのだが、どこも図書カードが作れない。今住んでいる市と隣接した自治体でないとだめなのだ。

で、在庫のある首都圏の図書館でカードを作れそうなのは2つの自治体。1つは住所に関係なくカードが作れるが、ほとんど行かない場所。もう1つは非常勤講師してる大学のある市なので、在勤でカードを作れるし、週に一度は行く。

というわけで、カードを作り、GW前に借りてきたのだった。

最初から文庫本で出る貴重な翻訳とかいっぱいあるのだけど、文庫本は図書館は処分してしまうことが多い。なんとかならないものだろうか。

というわけで、全集2巻で合計900ページの「幻滅」に続き、文庫本4冊で合計1600ページの「地上より永遠に」というハードな読書であった。

どちらも読みごたえ抜群で、これぞ小説という、映画とかでは絶対無理な濃密な描写を堪能した。

「地上より永遠に」は真珠湾攻撃直前のハワイが舞台で、当時の兵士の会話がたくさん出てくるが、当時を反映して差別用語や差別的な物言いが多い。主要人物も差別や偏見を持っている。しかし、作者ジェイムズ・ジョーンズはこうした差別を悪いものとしてしっかりとらえた上で、差別や偏見を持つ人々の心理や背景を描いている。人種差別、女性差別、同性愛差別が出てくるが、同性愛についても、ゲイの人々は最初からゲイであるとか、力のあるものが年下の男に同性愛を強いる性的虐待を同性愛と思って憎むとか、今の目で見てもまったく古びていない。

登場人物も映画よりもずっと詳しく描かれていて、悪役の上官も実はその上の上官から圧力をかけられていじめをしているとか、仲間を虐待して殺した営倉係を殺しても解決にはならないといったことが詳しく書かれている。後半に登場する哲学者のような人物も興味深い(映画には登場しない)。

家が貧しくて大学へ行けなかったジョーンズだが、文学などの知識は豊富で、それが主人公プルーイットにも反映している。学歴がないが教養のある兵士たちが何人もいる。

というわけで、映画が原作と比べられて低く見られるのはやむを得ないが、それでも、あの長大な原作をよくまとめたと感心する。原作のエッセンスは失われていない。アカデミー賞作品賞、脚色賞などの受賞は大いに納得できる。

2023年4月5日水曜日

イギリスで「紳士になる」ということ:「生きる LIVING」

 キネマ旬報の最新号を見たが、いろいろ疑問に思うことがあった。

スピルバーグの「フェイブルマンズ」をやたら高く評価している文章は、ラストのジョン・フォードのエピソードの意味を理解してないように感じるし、この映画は父と母を悪く描きたくないというスピルバーグの気持ちからか、人間描写などがこれまでの彼の傑作群に比べて浅い。映画としても前年の「ウエスト・サイド・ストーリー」より劣る。スピルバーグが監督賞候補になったこと自体が疑問だし、これで取ってほしくなかったから「エブエブ」でよかった。

「生きる LIVING」についても、イギリスで「紳士になる」ということの意味が理解されていない気がする。

確かにこれは、私のように19世紀のイギリス文学文化をやってないとわからないのだろうし、かつてのキネ旬ではそういう解説が私に求められていたが、今は全然需要がない。私よりも詳しい人が他の媒体で書いているだろうから、それでいいのかもしれないが。

イギリスというか、イングランドで「紳士になる」ということがどういう意味かは、チャールズ・ディケンズの「大いなる遺産」を読むとよくわかる。イギリスには貴族、紳士、労働者という3つの階級があり、「大いなる遺産」は労働者階級の青年が紳士階級をめざす話。

「生きる LIVING」の主人公ウィリアムズは、母がスコットランド出身ということはわかるが、父のことは出てこない。おそらくイングランドの労働者階級だったのだろう。19世紀末の生まれと思われるウィリアムズは、たぶん、父は工員などのブルーカラーで、紳士になりたいと思ったということは、ホワイトカラーになりたいと思ったということだ。

彼の勤める役所では、一番偉い人は貴族で、同僚は男性は紳士階級のようである。レストランの副店長になるといって転職したが、ウェイトレスをしている若い女性は労働者階級のようだ。

ウィリアムズが紳士になりたいと思って紳士になったことについて、ノブレス・オブリージュを持ち出している人がいるのだが、ノブレス・オブリージュは貴族の理想であって、紳士階級にはあてはまらない。ただ、上の階級である紳士になれたウィリアムズは、ブルーカラーにはできないことをやって世の中の役に立とうという志はあっただろう。しかし、早くに妻を失い、役所の中で埋もれていくうちに志を失い、死人のようになってしまったのだろう。

ウィリアムズの歌うスコットランド民謡には妻への思いがこめられている、というのはまったく同感だ。母の故郷であるスコットランドの歌だが、この歌は母と妻の両方への思いがこめられた歌だろう。彼にとって、愛する女性は母と妻の2人だけだったに違いない。

ウィリアムズが山高帽を盗まれてソフト帽をかぶるのは非常に重要なエピソードだ。

山高帽はイギリス発祥の帽子で、英語ではボーラーハットという。ウィキペディアによれば、1850年に貴族のために作られた帽子だが、上流階級(貴族)がかぶるシルクハットと労働者階級がかぶるソフト帽の中間、つまり、紳士階級のかぶる帽子になったのである。

だから、通勤する役人たちが山高帽をかぶっているのは、彼らが紳士階級であることを表している。


ウィリアム自身、山高帽にステッキというイギリス紳士の典型的な姿。


それがボーンマスで出会った作家のすすめで労働者階級のかぶるソフト帽をかぶる。


子どもの遊び場を作ってほしいと陳情に来た女性たちは、映画ではレイディーズ(レイディは本来は貴族の女性)と呼ばれるが、彼女たちはアパートに住む労働者階級だ。

ブルーカラーからホワイトカラーになり、紳士になったウィリアムズだが、労働者階級のソフト帽をかぶり、労働者階級の若い女性と話をすることで、かつて自分が所属していた階級の人たちのために立ち上がる決心をする。

そうだ、これこそが、黒澤の「生きる」と違うところであり、日系人という、イングランドの紳士階級に所属しなかったイシグロ(今はナイトの称号を持つ貴族だが)だから描けたことなのだ。

前の記事でこの映画を低く評価したけれど、この一点で、イシグロのアカデミー賞ノミネートは納得できた。

追記 かつて自分が所属していた階級の人たちのために立ち上がるって、「七人の侍」の三船敏郎だ!

2023年3月10日金曜日

忘れる

 年を取ったせいか、最近、雑誌に書いた映画評のタイトルを見ても、何を書いたかまったく思い出せないことがよくあります。

書いた文章の数が多いということもありますが、こんなに覚えていないものなのか、というくらい忘れている。

若い頃はそんなにしょっちゅうは書かせてもらえなかったので、その頃のなら覚えているかというと、実はそうではなかった。

先日、SF界の評論家・翻訳家として有名な方がツイッターで、私が1980年代に書いたシルヴァーバーグ論(文庫の解説)に言及しているのを発見したのですが(ツイート自体は昨年のもの)、その解説の内容をまったく思い出せないことに気づき愕然としました。

かなり力の入った論考で、これを書くために国会図書館にまで行って、絶版になっていたシルヴァーバーグの翻訳書を読んだりもしていたのです。

思えば「フランケンシュタイン」解説に次ぐ代表作だったかもしれないもの。

なぜ忘れたのか。それは、この論考について思い出すことがなかったから、だと思います(忘れている他の映画評なども思い出す機会がなかったので、忘れたのでしょう)。

そしてその理由は、文庫が出たとき、SF界の反応が皆無に等しかったからだと思います。

ああ、私が書いたのはSFファンにとっては当たり前のことで、価値がなかったのだ。

そう思ったために、その後、シルヴァーバーグについて研究することもなく、SF界からも離れてしまいました。

そして今、遅ればせながらSF界の方の反応を目にして、過去に書いたものを少し整理した方がいいと思い始めています。

私は自分の書いたものが残るということにあまり興味がないので、書いたら書きっぱなし、評論集を出そうなどとも考えていません。若い頃、映画評論集を出したくて、2つの出版社に持ち込んで、断られたり、自費出版で大金が必要だったりしたので、売れない本を出してもむだだからやめようと思ったのです。

「フランケンシュタイン」創元推理文庫はもう5年以上、増刷されていないので、これが絶版になったら、これを含めた評論集が出せるのですが、うーん、私が生きているうちには絶版にはならないかな。

昨日は谷中へ。お寺の桜。



帰りに上野駅構内の書店をのぞく。


「シャンシャン自身」品切れで寂しくなっていたパンダコーナーがにぎやかになっていた。

追記

2023年2月28日火曜日

「逆転のトライアングル」(ネタバレ大有り)と「ユリシーズ」(おまけ的に)

 前作「ザ・スクエア」に続いてカンヌ映画祭パルムドール2作品連続受賞の「逆転のトライアングル」。


前作「ザ・スクエア」もそんなにいいとは思わなかったし、今作もパルムドールのわりにはトマトなどの評価も絶賛というほどではない。でも、気になるから一応、見に行った。

以下、完璧ネタバレです。

3部構成で、第1部はモデルの男女がディナーの勘定をどちらが払うかでけんかする話。男は落ち目で、女の方が稼いでいて、その女もいずれはトロフィー・ワイフになってモデルをやめるつもり。つきあっている男は利用されているだけ。

第2部はこのカップルを含むセレブたちの乗り込んだ豪華客船が舞台。武器商人なのに無邪気な夫婦、資本主義社会の共産主義者を自認する船長、共産主義社会の資本主義者を自認するロシア人、セレブな乗客につきしがたう上層のクルーと、トイレ係などの下層のクルーなどなどが登場し、嵐で船が揺れてみんな吐いてしまい、トイレもあふれだし、そして武器商人の会社が作った手りゅう弾を投げ込まれて、という話。ここは船長とロシア人の会話、そして手りゅう弾が投げ込まれたときの武器商人の妻の反応が見もの。

第3部は船が沈み、無人島(?)に流れ着いた数人のサバイバルで、ここで邦題の「逆転のトライアングル」が起こる。サバイバル能力に優れたトイレ係がセレブを支配。そして三角関係も。

原題の「悲しみのトライアングル」は眉間のしわのことらしい。

第1部でもセレブのはずの男女がみみっちいことでけんかをしていて、いつ下層に転落するかわからない男女ではないかと思うが、第2部ではセレブとして安定している中高年の客たちが登場し、彼らと上層クルー、下層クルーの対比が描かれる。トイレの氾濫(=反乱)は第3部の布石だ。

第3部ではまたモデルの男女が主役になり、彼らとトイレ係の攻防になる。えらそうなモデル女よりトイレ係の方がよくなるモデル男。そして、このモデル女が最後までえらそうで、しかも本人はそれがえらそうだとはわかってないということがわかって、そして、というところで映画は終わる。

正直、第1部と第3部はわかりやすいけど、それほど感心はしなかった。間の第2部は長い脱線に見えるけれど、おそらくここが高い評価を受けているのだと思う。

ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」の原書が出てくるけれど、「ユリシーズ」も3部構成で、第1部と第3部が短く、第2部が長い。この映画もそれにならっているのは明らかだ。

2023年2月6日月曜日

半額フルーツを食べたらえらいことに

 先日、半額恵方巻を売っていた店で買った半額フルーツ。


ここは卵10個特売189円だったところですが、昨日行ったら同じ卵が269円になっていた。

秋頃まで98円だった別のスーパーは今は198円。他のスーパーも228円以上です。

鳥インフルが収まれば安くなるのだろうか。

さて、半額フルーツ。下に安いオレンジ色のメロンみたいなのがいっぱい入っていて、定価398円(税抜き)の半額。賞味期限は翌日11時。が、もともと安いのであまりおいしくはなかったけれど、フルーツなんてめったに買わない、食べないので、久々のイチゴ、キウイ、リンゴ、と喜んでいたら、食べて1時間後に全部戻してしまった。

商品に問題があったのではなく、私の胃の具合のせいだと思いますが、もともと胃が弱るとフルーツがだめ、ていうのは以前にもありました。やっぱりフルーツを買うのはやめよう。

県立図書館に予約していた「男同士の絆」が1か月かかってようやく借りられました。


まだ5分の2くらいまでしか読んでませんが、最初の方は脱構築の用語を使った抽象的な文章ばかりで、読みながら寝落ちしそうに。

具体的な作品に入るとさすがにわかりやすくなりますが、最初のシェイクスピアのソネットは一部を読んだことがあるだけ。次の「田舎女房」と「センチメンタル・ジャーニー」はまったく読んだことがない。スターンは「トリストラム・シャンディ」は読んだけど「センチメンタル~」は読んでない。

「男同士の絆」はホモソーシャルを英文学で分析した書なのですが、この「田舎女房」と「センチメンタル・ジャーニー」の部分を読むと、ホモソーシャルというのは要するに、男が男にマウントをとることでそこに女性が利用される、ということらしい。

え? ホモソーシャルって男が男にマウントをとることだったの? なんか世間とイメージ違うじゃん。

続くゴシック小説概観みたいな章に入ると、そこでは17世紀からホモセクシュアルとホモフォビアが顕在化してきて、それがホモソーシャルに関係してくる、と書いてあって、ようやく世間の考えるホモソーシャルになるのか、と期待したのが現在のところです。

著者セジウィックはゴシック小説が専門みたいなので、文章も歯切れがよく、わかりやすい。ここからが本領なのでしょう。

それにしても最初の方で脱構築がやたら出てきて、ああ、80年代はそういう時代だったなあ、と思ったのですが、私はロラン・バルトの構造主義が好きで、そのあとの脱構築はどうしても好きになれなかったのです。私が英文学者への道をあきらめたのは、80年代後半になって、もう公募にも応募できなくなり(当時は33歳までの年齢制限があった)、コネもなく、指導教官にも嫌われていたことから、完全に道を断ったのですが、この脱構築に行かなければならないのだったら、続けるのは無理だったろうな、などと、今にして考えてしまいます。

2023年1月31日火曜日

「バリー・リンドン」4Kブルーレイ

 国立映画アーカイブで見た「バリー・リンドン」は退色がかなり気になったので、クライテリオン・シリーズの4Kブルーレイをアマゾンで購入。が、コンビニ受取にしていたのですぐに受取に行かず、1週間近くたって受取。その上、手に入れてもすぐに開けず、1週間以上たった今日、やっと開けて見てみました。


3時間もあるので全部見るわけにもいかず、チャプタースキップしながら拾い見しましたが、期待に違わず映像がきれい。特にフィルム上映で退色が気になった赤と青が4Kで鮮やかによみがえり、イギリス軍の赤い軍服をはじめ、至るところで美しい赤がよみがえっています。

青についていえば、バリーとノーラがトランプをしているシーン、背景のブルーが昔の記憶どおりだった。そして、クライマックスの決闘シーン。ここは青の色調で撮られていて、バリーの青い服と、壁の細長い窓からもれる青い光が記憶どおりによみがえっています。

ああ、やっと。

もちろん、フィルムのよさはあるのでしょうが、色があまりに記憶と違いすぎた。

国立映画アーカイブの上映では2か所、音楽がゆがんでいる箇所がありましたが、もちろん、ブルーレイではありません。映画館で見たときも記憶にないので、あれはあのフィルムだけの問題なのでしょう。

ディスクは本編と特典映像の2枚組、そして、50ページほどの立派な小冊子もついています。高かったけど、その価値はあった。

今、「テス」の4Kが映画館で上映されていますが、ほとんどの映画館が2Kの上映で、関東だと4Kは横須賀と、埼玉県の川越の近くでしかやらない。それならブルーレイで見た方が、と思ってしまうのですが、日本で出ているブルーレイのほかに、「バリー・リンドン」と同じクライテリオンから出てるのがあって、こっちの方が充実してそう。でもまあ、「テス」はブルーレイ持っていたいほどの映画ではないので。

追記

「バリー・リンドン」は昔見たときにほとんど全部わかってしまって、あとから見て新しい発見はあまりない、と以前、書きましたが、今回、国立映画アーカイブとブルーレイで新たにわかったことが2つ。

1つは、ライアン・オニールとレオン・ヴィタリが左利きだということ。これはもともと俳優がそうなのか、役がそういう設定なのかはわかりません。オニールは他の映画見ればわかると思うけど。決闘シーン、右利きだと映像が左右反転のような感じになると思うので、これはもしかして重要かも。

もう1つは、ピエール・フルニエのヴィヴァルディの演奏が使われていたということ。昔、映画館で見た頃はクラシックのアーティストに疎くて、フルニエの名は知りませんでした。

2023年1月21日土曜日

「ノースマン」&「エンドロールのつづき」

 金曜日は「ノースマン 導かれし復讐者」と「エンドロールのつづき」をハシゴ。どちらもイマイチだったので疲れた。

「ノースマン」は流山おおたかの森で。



シェイクスピアの「ハムレット」の元ネタの話を、北欧神話や「コナン・ザ・グレード」で味付けした映画で、「ライトハウス」の監督の新作、ということで、一応チェックしておかねばと思い、見に行った。

シェイクスピアの劇はほとんど元ネタがあるが、「ハムレット」の元ネタの内容は知らないので、どの程度元ネタに忠実なのかはわからない。バリバリの北欧神話になっていて、ワルキューレまで出てくる。「エクスカリバー」みたいなシーンもある(ジョン・ブアマンは「エクスカリバー」でワーグナーの音楽をふんだんに使い、北欧神話の「ニーベルングの指環」の音楽をテーマ曲にした)。

映像は「ライトハウス」と同じようになかなかに渋く、グロも多い。野蛮な時代の野蛮な人々の蛮行が描かれる。

王が弟に殺され、王妃が弟の妻にされ、息子の王子が復讐するというところは「ハムレット」と同じだが、他の人物は全然違うし、ストーリーもシェイクスピアとは全然違う。

冒頭、王妃が王に寝室へ行こうと誘いをかけるのを王が断ってしまうシーンがあって、この夫婦、仮面夫婦かな、と思ったら、後半、(以下ネタバレ)王妃はもともとは奴隷で、レイプされて息子を生み、それで王妃になったので、夫の弟の方が好きで、夫を殺すよう頼んだのだ、とわかる。まあ「ハムレット」でも王妃は夫の弟の方が好きだったことはありうるなと思うが。とはいっても、このあたり、人間描写はかなり雑。

女王の出現を暗示するあたりは「グリーン・ナイト」と共通する。

「エンドロールのつづき」は柏の葉で。



これ、英語タイトルは「ラスト・フィルム・ショー」で、こっちの方が断然いいタイトルだ。

話の展開がちょっと雑というか、スムーズでないのが難点だが、インドの片田舎に住む少年が映画に魅せられ、身近にあるもので光や映像のことを知り、やがて倉庫にあったフィルムを盗んで、身近なもので映写機を作って上映する。映画館の映写技師に母親の作るお弁当を持っていって、かわりに映写室から映画を見せてもらったり、映写について教えてもらったりする。切れたフィルムをつなぐこと、映写機にフィルムをかけること。フィルムであるということがとても重要で、フィルムでなければ成立しない物語。

(以下ネタバレ)やがて映画はフィルムからデジタルになり、映写技師は仕事を失い、映写機は鉄くずにされて溶鉱炉で溶かされ、スプーンになる。フィルムも溶かされてプラスチックの腕輪になる。映画を学ぶために故郷を離れることになった少年が列車に乗ると、女性たちが色とりどりのプラスチックの腕輪をしている。そこに映画人の面影を見る少年。

「ニューシネマ・パラダイス」のたくさんのキスシーンをつなげることも、フィルムだからできたこと。フィルムだから、アナログだからできること、わかること、学べることを、この映画は伝えている。そこが気に入った。だからタイトルは「ラスト・フィルム・ショー」の方がいい。

2023年1月14日土曜日

「バリー・リンドン」@国立映画アーカイブ

 久々、京橋。


「バリー・リンドン」を国立映画アーカイブでやると知ったときは下半身を痛めて歩くのも困難な時期だったので、都心まで行って3時間以上座るのは無理、と思ったが、料金安いので一応予約しといた。そして、今週火曜日くらいから急激に治ってきて、歩くのは困難ではなくなったので、出かけた。



京橋の写真はデジカメで撮影。国立映画アーカイブではデジカメ持ってるとわかると盗撮が疑われるのではないかと思い、デジカメはバッグにしまってガラケーで撮影。外観はさすがに暗くてもう撮れない。恐怖映画のポスター展やってるのは知ってたけど、この日はたまたま13日の金曜日。ジェイソンはいるのか? のぞいてみる時間はありませんでしたが。

「バリー・リンドン」のポスター。これはデジカメできれいに撮りたかった。


お客さんは私のようなリアタイシニアは少ない。どういう人が見に来ているのだろう。完売なのに空席があり、それも特等席だったりするので、前売りで気になる映画はすぐに予約して、行けたら行く、みたいな人がそこそこいるのだろうか。確かに入場料安いし、場所も便利なので、通い出すと癖になるのかもしれない。私はちょっと、今はコロナだし、自宅から近いとは言えないので、また行くかどうかはわからないが。場内、けっこう咳してる人いましたよ。私はこの映画は初公開時に10回近く映画館で見てるが、初公開時はまったくヒットしてなくて、場内はいつも静まり返っていたから、こんなに咳が聞こえる状態での「バリー・リンドン」っていうのもなんだか奇妙だった。

あと、昔笑いが起こったところで笑いが起こらず、ここで笑うのか?というところで大きな笑いが起こるのも奇妙だった。

今回は35ミリのフィルム上映というのも目玉のようで、今は映画館で上映される映画はほとんどデジタルだから、フィルムで見られるのはこれが最後かも、という気持ちはあった。ただ、フィルムだと4K修復版とかに比べて画質の劣化は避けられない。前半は明るい光や鮮やかな色彩のシーンが多いので、昔に比べて美しくなくなったという思いで見ていた。ソフトフォーカスの美しさが感じられなくなっている。

後半は渋い色や黒っぽい色彩のシーンが多いので、こちらはあまり画質の劣化を気にしないで見られた。フィルムだと暗いシーンの表現力がデジタルに比べてダントツにいいらしい。デジタルよりアナログの方が情報量が多いので、という話はよく聞く。その一方で、アナログはどうしてもノイズが多くなる。CD聞きなれているとアナログレコードのパチパチがいやだとか。デジカメだけでなくフィルムカメラも使っている写真マニアの撮ったフィルム写真を見ると、味わいがあるが、デジカメのくっきり感に慣れているとくすんで見える。「バリー・リンドン」はデジタルを映画館で見ていないので、比較できないが。

初公開時に映画館で10回近く見たあとはレーザーディスクで見ていた。トリミングされていたが、画質はよかったと思う。そのあと、DVDを見たら、画質がものすごく悪くなっていたので、これはあまり見ていない。アマゾンで検索したらクライテリオンというところから4Kが出てるので、早速注文。

「バリー・リンドン」は年をとって見方が変わったとか、新しいことがわかったとかいうことがほとんどない映画なので、若い頃の記憶の映像が悪くなってしまったものは見たくないという気持ちが強く、映画館で上映されても見に行こうとは思わなかったし、ソフトもレーザーディスクのあとはDVDを数回見た程度。だから今回は久しぶりだったのだけど、アカデミー・フィルム・アーカイヴのフィルムならそんなにひどい状態ではあるまいと思い、スクリーンで見るのはこれが最後かも、と思って行った。実際、画質は思ったほど悪くなかった。ただ、どの場面を見ても昔の記憶がよみがえるので、比べてしまう。シーンも、次はどのシーンでせりふは、というのまで思い出せてしまうので、やっぱり新しい発見とかはない。それでも至福の3時間であることに変わりはない。字幕は昔と同じ高瀬訳で、こっちもよく覚えているのだった。

前半の最後近く、レディ・リンドンが外に出るシーンと、後半の冒頭で、シューベルトの音楽が一瞬、ゆがんでいた。インターミッションの文字が出ると次々と席を立って、たぶんトイレなんだろうけど、シューベルトの即興曲が流れているのになあ。

出演者のハーディ・クリューガーとレオン・ヴィタリが昨年、亡くなっていたのだね。ヴィタリは「キューブリックに魅せられた男」のとき、子どもたちは出てくるのに奥さんが出てこないので、ああいうことにとりつかれてるから奥さんには逃げられて、今は独身なのかな、と思ったら、3番目の奥さんに看取られたようだ(結婚したのはキューブリックの死後)。あのドキュメンタリーのとき、すでに病気で、もう先が長くないのでドキュメンタリーを急いで作ったようなことが言われていたので、驚きではなかったけれど。

そして、ハーディ・クリューガーといえば、「シベールの日曜日」。

2023年1月8日日曜日

借りている本、借りようとしている本

 「ケイコ 目を澄ませて」の三宅唱監督特集の「ユリイカ」2022年12月号を借りて読んでいる。


去年、映画を見た直後に書いた記事で、女性観が古い!と書いたけれど、木下千花氏がこの監督の世界はホモソだと書いていて、過去作を見ていない私には参考になった。が、木下氏は「ケイコ」についてはあたりさわりのないことしか書いていない。

この木下氏の論考の中で紹介されていたこの本、「男同士の絆」に興味を持ち、市内の図書館にはないので県立図書館で予約。出版されてからかなりたっているのに予約2番目なのに驚き、カードを持っている文京区立図書館で検索したら、こっちは予約が17人。


なんで?と思って検索したら、今月初めにテレビの「100分で名著」で紹介されたらしい。

とりあえず県立図書館の順番待ち(前にも書いたけど、県立図書館だと予約1位でも本が来るのは1か月後、気長に待とう)なのだけど、1985年の出版ということで、今の目で見ると古いのでは、という気がしないでもない。内容紹介を見ると、ホモソについてのフェミニズム的考え方を決定づけた本のようだが、女性たちがあこがれたBL的ホモソの魅力はここからは完全にはずれるわけで、そういうあたりはどうなんだろうと思う。

1980年代といえば、去年、スタンリー・カヴェルの「幸福の追求」を読んだけど、これも80年代なんで、女性観や結婚観の古さを感じた。

県立図書館ではとある映画論の本も予約しているのだけど、こちらの本は11月頃からずっと貸出中。どうなってんの?と思っていたら、他の図書館から借り出ししようとしているらしい。借りた人と連絡がつかないのだろうか。

そして、今、県立図書館から借りている本。アニー・エルノーの「凍りついた女」。エルノーが高く評価された「場所」、「ある女」、「シンプルな情熱」より前の作品で、文体がかなり違う。内容は自分のことを赤裸々に書いているのは同じだけど。エルノーは下層の両親のもとに生まれたが、その方が中流の家に生まれた女性よりも男女平等の考えで育っている、というのが興味深い。その彼女が中流の家の男と結婚して、1人で家事と育児をしなければならなくなる。彼女にとっては中流の方が男女差別があって、女性が生きづらいみたいだ。


エルノーの本は4冊とも県立図書館で借りたのだが、「シンプルな情熱」以外はあまり借りられた感じがなく、本がきれいだ。90年代に出た初版なのだけど、古い本とは思えないくらいきれい。

そして、文京区立図書館では1か月前に予約した「モドリッチ自伝」がやっと借りられるようだ。1か月前に予約したときは貸出中で予約はなく、私が予約1位になったのだけど、そのあとすぐに6人くらい予約が入った。なのに本はいっこうに来ない、という具合で、ここも予約してから借りられるのにけっこう時間がかかる図書館なのだろう。

注 画像はすべてアマゾンからお借りしました。