2016年6月22日水曜日

「ティエリー・トグルドーの憂鬱」(ネタバレ大あり)

久々に試写に行ってきた。
そして、久々に力説したくなった。
映画がよかったのもあるが、それ以上に、プレスに掲載されている湯浅誠の映画評がかなり間違っていたからだ。
湯浅誠といえば反貧困ネットワークという社会活動で有名な人だが、映画に関してはちょっと読みが浅い。これほどきちんと理詰めで作られた映画は珍しいほどなのに、その理詰めできちんと理解するということができていないとしか思えない。
というわけで、ネタバレ大ありで反論します。

ティエリー・トグルドーは51歳のフランス人。長年工場で技師として働いてきたが、会社は人件費の安い海外での生産を決め、工場を閉鎖、従業員を解雇する。
それから1年半、ティエリーは職安に通い、クレーン技師の資格を取り、就活に励むが、現場経験がないと雇ってもらえない。無駄な研修をなぜ受けさせた、と職安に文句を言うも、職安はのらりくらり。
ティエリーは妻と障害のある息子と3人暮らし。失業中とはいえ、ダンスを習う余裕もあるし、マンションやトレーラーハウスも持っている。マンションを売って賃貸に住んだ方が貯金ができて安心と薦められるが、この年で借家暮らしはいやだと言う。かわりにトレーラーハウスを売ろうとするが、相手はティエリーの足元を見て値下げを要求するので、断ってしまう。
やがて彼は模擬面接のビデオを見て面接の練習をする就活セミナーに入る。そこであいそが悪いとかいろいろ言われる。日本の大学生の就活みたいだ。
そして一転、画面は大きなスーパーで警備員として働くティエリーのシーンに変わる。
そのスーパーは人員過剰なのか、経営者は不正をした従業員をすぐに解雇してしまう。客のクーポンを捨てずにネコババしたとか、ポイントカードを持っていない客のポイントを自分のものにしたとか、不正ではあるが、普通だったら即クビではなく警告や懲戒だろうと思うところが、即クビ。経営者は不正をなくすためではなく、従業員を減らすためにやっているのだ。
やがて、長年、スーパーのために働き、客にも同僚にも人気があった女性がクビになり、店で自殺するという事件が起こる。そしてまた、些細な不正でクビになる従業員を見たティエリーはある決断をする。

湯浅誠は、善でも悪でもない「ふつうの人」は、システムのバグになるか、そのバグを発見し駆除する側になるか、どちらかしかないと言う。別の言い方をすると、体制側について生き残るか、そこからはみ出して生きていけなくなるか、ということだ。この見方は正しい。
ティエリーはスーパーの警備員になることで体制側の人間、バグを発見し駆除する側の人間になる。しかし、お金に困って万引きする老人、長年スーパーのために尽くしたのに小さな不正で突然クビになる従業員などを見ているうちに、彼はこれ以上バグを駆除する側にいることに耐えられなくなり、警備員をやめてしまう。そのあと、彼がどうするかについて、湯浅誠はこう書いている。

「そしてラスト、ついにシステムに耐えられなくなったティエリーは、自らバグとなる。そこに、絶望の淵に踏みとどまる人間の尊厳を見ることは可能だろう。しかし、「その後」はどうなるのだろう。
 私が想像するのは、その後、再び映画の冒頭に戻って、ハローワーク職員と対話するティエリーの姿だ。ティエリーは再び、システムの一部になろうと努力するだろう。またループが始まるのだ。なぜなら、それ以外に生きていく方法、家族を養っていく方法はないのだから。システムに忠実であることによって初めて、彼は家族とのつましい幸せのひと時を手に入れることができる。そこに曖昧さや妥協はなく、したがって救いはない(後略)。
 「では、ふつうの人を幸福にしないそのシステムを変えればいい」と言う人がいる。しかし、ブリゼ監督は、ティエリーがそのような「闘争」から脱落するシーンを織り込むことで、その出口も周到にふさぐ。ティエリーは、システムを変える闘争に立ち上がるようなヒーローではない(後略)。」
(引用終わり)

湯浅氏はティエリーを演じたヴァンサン・ランドンを知らないのだろう。彼はヒーローなのだ。
「すべて彼女のために」では無実の妻を刑務所から脱獄させる男。
「君を想って海をゆく」では難民を救おうとする男。
参考「ヴァンサン・ランドンは超法規的な男が似合う」
http://sabreclub4.blogspot.jp/2010/11/blog-post_09.html

この映画のランドンは確かにダメな中年男を演じている。プライドばかり高くて現実的でない。マンションやトレーラーハウスを売りたがらないところにはこれまでの生活をそのまま維持したいという保守性が見える。彼は未来を切り開くということをしない。
前半で、ティエリーとともに工場をクビになった元従業員たちが、会社を訴える話し合いをしているが、ティエリーはもう疲れたと言って、彼らとは縁を切ってしまう。湯浅氏はこのシーンを見て、ティエリーは完全に闘うのをやめたと思っているが、警備員として社会を見た彼が変化し、昔の仲間たちと一緒に闘おう、困っている人たちのためにも、と思うことがありうるとは想像もしなかったようだ。
しかし、決然と席を立ち、スーパーを出ていくティエリーには決意のようなものがうかがえた。
湯浅氏とは違って、私は、その後、ティエリーはまた職安に行って同じことを繰り返すとは思わない。彼はまず、昔の仲間のところへ行くだろう。
この映画はループしない。必ず、次は未来へ進んでいく。
そうでなければ、この映画はただ、現実を示して絶望するだけの映画になってしまう。
この映画の結末を見て、最初に連想したのは、タルデンヌ兄弟監督の「サンドラの週末」だ。あの映画のラスト、サンドラは、あなたをクビにしないかわりに別の人をクビにすると言われ、決然と会社を出ていく。サンドラも最初はダメダメだったけど、最後には変化した。ディエリーもスーパーでの経験で必ず変化している。工場しか知らなかった彼が別の世界で経験したことは、彼を進歩させているはずだ。

この映画が理詰めでできていると感じたのは、ティエリーがスーパーの警備員になる前に就活セミナーを受けていて、そのあと、突然警備員のティエリーが現れたからだ。技術者として再就職することをあきらめ、別の職種に就くために、彼は就活セミナーを受けたのである。実に理路整然とした展開だ。
また、クビになった元従業員が店で自殺すると(明らかに抗議の自殺)、本社から来た男が従業員に、きみたちのせいではないと言う(店長は罪悪感を感じているようだった)。これはつまり、システムの中の人間と外の人間を切り離そうとする洗脳だ。人間を私たちと彼らに分け、私たちは違う、私たちは大丈夫と思わせるのだ。しかし、またしても小さい不正を犯した従業員が見つかったとき、ティエリーは、私たちと彼らという分け方の欺瞞に気づいたに違いない。
前半、ティエリーは昔の仲間の闘いから離脱するが、このような経験を経たのち、彼は昔の仲間の言うことが正しいと思うようになったのではないか。
ステファヌ・ブリゼ監督はこの映画について、次のように言っている。
「なぜなら私はみんなをどこへ連れて行こうとしているか判っていたからだ。(中略)行き先も回り道も全て書かれた地図を私は持っていた。」
まさに回り道である。後半はティエリーの回り道、実に有意義な回り道だったのだ。自分さえよければ、家族さえよければいいと思う「ふつうの人」から、「ヒーロー」に変化するための回り道である。
そして、今、日本でも多くの「ふつうの人」が声を上げ始めている。立ち上がるには力がなさすぎる人もいるが、この映画のティエリーはマンションもトレーラーハウスも持つ、ある程度余裕のある人だ。こういう、ある程度の力と余裕のある「ふつうの人」は立ち上がることができるのだ。

プレスシートの表紙は右側に横向きのティエリーの姿、左側に「まだ、勝負は終わっていない」という惹句がある。この惹句を考えた人は、たぶん、私と同意見だろう。

以下余談。
この映画は、万引きした人がお金を払えば許されるとか、スーパーの従業員がボーナスももらえる正社員らしいとか、日本とはだいぶ状況が違うところもある。正直、見ていて、日本の労働環境の方がこの映画よりずっとひどいと思わざるを得なかった。フランスでは100万人が見たという大ヒットだそうで、試写室も大盛況だったが、日本との違いが共感や理解の妨げにならなければいいと思う。

苦い追記

結局、湯浅誠の映画評は映画についてではなく、自分について語っているだけなのではないのか。
湯浅氏は派遣切りの問題で活動して有名になり、その後、法政大学教授になった。しかし、大学教授になるということは、非常勤講師を派遣会社に所属させ、3年で派遣切りをするという大学の方針に従うことに、今、なろうとしている。
湯浅氏の大学もそういう方向へ行く可能性がある。
派遣切りの問題で有名になって大学教授になり、今度は自分が派遣切りをするという立場になる可能性があるのだ。
それを湯浅氏は、バグからシステムの側になった(失業者から警備員になった)ティエリーに重ねているのだ。そして、システムの側になったティエリーが最後にそれに耐えられずやめていくのを、そうしてもまた最初に戻って失業者からやり直すしかないと決めつける。
前半でクビ切りした会社と闘おうとする仲間たちと縁を切ったので、そちらは周到にふさがれていると書く。
しかし、この点について、湯浅氏の解釈が間違っていることは上に述べた。
そちらを周到にふさいだのは湯浅氏なのだ。監督ではない(監督に失礼だろ)。
10年くらい前からキネマ旬報が有名人主義になり、映画評の中身より執筆者の知名度や肩書を重視するようになったのを苦々しく感じていた。今の時代はコンテンツではなくコンテクストと言われるが、まさに執筆者の知名度や肩書がコンテクストで、中身はどうでもよくなったのだ。もちろん、よい内容の文を書く有名人も多数いるが、採用する側が肩書重視、名前重視なのは否めない。
そして、この映画のプレスシートのように、執筆者の名前や肩書で選ばれた人が間違ったことを書く。それも、プレスシートの一番目立つところに。これを読んだ読者にどれだけの誤解を与え、そのことが映画のみならず多方面で悪影響を及ぼすかもしれないのに。