2016年6月14日火曜日

拒絶の手紙

拒絶の手紙ということで思い出すのは、スヌーピーの作者チャールズ・シュルツがディズニー・スタジオからもらったという断りの手紙。
ただ、これもフィクションかな、と思うのは、伝記的なサイトには書いてないし、証拠もなさそうだからだ。
シュルツは何をやってもだめで、でも、絵だけは得意だった。なので、ディズニー・スタジオで雇ってもらおうと絵を送ったら、「あなたの絵は当スタジオの水準に達していません」として断られてしまった、というエピソード。
何をやってもだめな少年だったシュルツが自分をモデルに漫画を描いて成功した、というテンプレな伝記が作られていたのである(前の記事のバレエダンサーと似てるね)。
でも実際はシュルツは勉強はできて、飛び級で上の学年に上がっていたので、そこで年上のクラスメイトたちに囲まれて苦労したということのようだった。
また、漫画家としてもなかなか成功せず、苦労したのは事実。
でも、有名になってからはウォルト・ディスニーに対等の立場で会っている。

有名人には事実とは異なるテンプレな伝記があるというのはよくあることで、それが売る戦略になっていることも多い。チャーリー・ブラウンが飛び級するほどの優等生だったら受けない。

話変わって。
私が断りの手紙やメールを一番多く受け取っているのは、大学の教員公募と産業翻訳の会社からだ。
大学の教員公募は昔は必ず不採用の手紙が来たが(内容はもちろん、テンプレ。いわゆるお祈り)、最近は就活で言うところのサイレントお祈り(不採用の通知をまったく出さない)が増えている。来てもテンプレだからどうでもいいんだけど、それでもサイレントお祈りの大学は問題がありそうだと思って覚えておいている。
産業翻訳の会社の方は、圧倒的にサイレントお祈りが多い。来る場合はやはりテンプレが多いのだが(お祈りつき)、1社だけ、トライアルについてていねいに意見を書いてくれたところがあった。そこには感謝している。
産業翻訳会社でトライアルを受けさせてもらったのは2008年くらいからだが、最初は一応、トライアルを送ってきた。そこで訳して出してもほとんどサイレントお祈り。3社ほど採用されたが、仕事はほとんどなかった。やがてトライアルを送ってほしいとメールしても返事が来なくなった。この間2年くらいだと思うが、産業翻訳も翻訳家の供給過剰になっていたようだ。私の場合、専門分野を持たないこと、非常勤講師をしているので授業中は携帯にも出られないことなど、この業界では不利なことがいくつもあった。実際、理系のポスドクをしている人のブログに、翻訳会社と契約しているが、実験中に電話があるので仕事が受けられないと書いてあった。
翻訳会社に応募しなくなって5年くらいはたつので、今の状況はわからない。翻訳の世界というのは産業であれ出版であれ、変動が激しいというのが私の印象で、5年前と今では大きく違っていてもおかしくない。5年前に仕事をゲットして翻訳家になれた人の話はあくまで5年前の話なので、すでに翻訳家としての地位を確立している人の話はこれからの人には参考にならない場合が多いと、自分の経験で思う。年配者が今の大学生のきびしい現状(高い学費、利子つきの奨学金、ブラックバイト)をまったく知らずに、自分たちはこうして大学を出たのだからと言ったりしているが、過去と今はまったく違うこということが意外に人間にはわからないものなのだ。

お祈り(不採用通知)から話が脱線してしまったけれど、私にとって忘れられないのは映画評論家として有名なH氏からの断りのハガキである(誰だかすぐにわかっちゃうけど一応、匿名で)。
H氏はもともと仏文学者として高名な方であるが、80年代半ば頃には映画評論家として名を上げていた。そのH氏が新しい映画雑誌を創刊するという広告を見て、まだ創刊前であったが、「私にも執筆させてほしい」という手紙を書き、キネマ旬報に掲載された映画評のコピーを同封した。しかし、返事は、「キネマ旬報に書いたような文章は私たちの雑誌には向きません」という内容だった。
「私たちの雑誌」という表現にカチンと来て、すぐにハガキは捨ててしまった。この人には「私たち」と「彼ら」という2種類の人間がいるのだと思ったのだ。そして、私は「彼ら」の方だと。
私自身、H氏の名前は知っていたが、H氏のことをよく知らなかったので、確かに「彼ら」の方なのである。それはすぐにわかった。また、H氏がキネマ旬報を批判していることもわかった。それで納得したので、その雑誌が創刊されてからは遠くから見ている程度だったが、創刊第2号である女性の投稿による映画論が掲載された。そのとき、H氏が、「**さんのような繊細な女性の登場を期待する」みたいなことをあとがきで書いたので、またまたカチンと来た。なぜなら、その女性は私とは正反対のタイプの女性であり、なおかつ、そういう繊細な女性の登場を、という言い方が、英文学などのアカデミズムで男性たちが受け入れたい女性のテンプレだったからだ。
やがて90年代になると、H氏の影響を受けた若手の映画評論家が主流になった。90年代にかろうじて映画評論家を続けられたのは、H氏の影響を受けた書き手ばかりの現状に不満な編集者たちが私を採用してくれたからである。
時代は変わり、キネマ旬報にもH氏の影響を受けた評論家たちの名前が目次に並び、H氏自身も対談という形で登場した。H氏がキネ旬の批判をしていた時代は遠い過去になっていて、もう誰も覚えていないのかもしれない。そして、私が受け取ったハガキも、捨ててしまったので、この話自体がフィクションだろう、と言われても反論できないのだ。