2017年5月18日木曜日

CDとかDVDとか

DVDを買うと、買っただけで安心してしまい、見ない、という癖がある。
もともと買うDVDは映画館や試写で見ている作品が多いので、すぐに見なくても、というのがあるのだけど、見ていないものでもけっこう積んでおく状態のものがある。
昨年買った古いハリウッド映画が10本入っているセット。盤面に傷があるというのでかなり安かったが、傷があっても普通に再生できる。
で、積んでおく状態だったそのセットの中の2本を見た。
「山河遥かなり」と「黒蘭の女」。
どっちもよかった。
「山河遥かなり」は「アーティスト」の監督の「あの日の声を探して」の原作になった作品で、第二次大戦直後のドイツで米軍技師がアウシュヴィッツにいた少年を保護し、一方、その少年の母が息子を探すというドラマ。
終戦直後のドイツでロケされていて、空爆で破壊された街がセットではなく本物として登場する。
戦争が子供たちの心にどんな影響を及ぼしたかが繊細に描かれている。
ラスト、すれ違いになってしまうかと思ったら、という描写は「君の名は。」のラストの数段上を行く絶妙の展開。泣いてしまいました。
「黒蘭の女」はウィリアム・ワイラー監督、ベティ・デイヴィス主演(アカデミー賞主演女優賞受賞)。
「風と共に去りぬ」を思わせる物語だが、1933年の舞台劇の映画化とのこと。
舞台は南部ニューオーリンズ。南北戦争直前。デイヴィス演じる良家の令嬢ジュリーは勝気で自分勝手で婚約者(ヘンリー・フォンダ)に対してもひどい態度をとり、それでも彼は自分を愛していると傲慢に思っていたが、彼は別の女性と結婚してしまう。ジュリーはスカーレット・オハラそっくりで、婚約者はアシュレー、その妻はメラニー。で、ジュリーは元婚約者に復讐するためにレット・バトラーふうの男をたきつけるが失敗、バトラーふうの男は死んでしまう。
そのジュリーが最後に突然改心して、婚約者と妻のために自己犠牲的な行動に出るのが、批評家には不自然と評判が悪いらしい。でも、デイヴィスの演技を見たら、彼女が改心して自己犠牲的な行動に出たのだ、と納得してしまう。
とにかくデイヴィスの演技がすごい。彼女はスカーレット・オハラの候補者の1人だったが、「風と共に去りぬ」のプロデューサー、セルズニックは既存のスターではない新しい女優を求めていたので、デイヴィスを採用する気はなかったらしく、それでかわりにこの映画が作られたようなのだが、これを見ると、ベティ・デイヴィスのスカーレットが見たかったと思ってしまう。
ヴィヴィアン・リーのスカーレットはどこか繊細ではかないというか弱いところがあったが、デイヴィスのスカーレットならはかなさや弱さのない、わがままだが芯の強い女性になったような気がする。
もちろん、ヴィヴィアン・リーで異存はないというか、中学生のときに初めて見てから映画館で何度も見た好きな映画で、配役にはまったく文句はないのだけど、リーのスカーレットはやっぱりどこか男に媚びるところがあって、デイヴィスだとそうではない女性になったと思うので。キャサリン・ヘプバーンも候補にあげられていたけど、キャサリンだと強すぎるけれど、デイヴィスだとそこまで強くなく、悪女の魅力もあり、といった別のスカーレットが誕生した気がする。
ちなみに、ヴィヴィアン・リーがスカーレットになったいきさつは、同じワイラー監督の「嵐が丘」に主演したローレンス・オリヴィエを、当時恋人だったリーが追いかけてハリウッドへ行き、というのは有名な逸話。「嵐が丘」はこのセットにも入っていて、昔映画館で見たとき、あまり面白くないな、と思ったが、今見てもやっぱり面白くない。
ベティ・デイヴィスは中学生の頃から好きな女優で、ワイラーも好きな監督だったが、この2人のコンビ作を実は1つも見ていなかった。今回、やっと「黒蘭の女」を見たので、他もぜひ見たい。
「黒蘭の女」は原題は「ジェゼベル」で、これは旧約聖書に登場する悪女の名前。ジュリーがジェゼベルだというわけ。ジェゼベルはアイザック・アシモフの「鋼鉄都市」で謎解きのヒントとなる名前として使われている(「鋼鉄都市」を読んだのは小学生のときでした。なつかしや)。

で、昨日、久々にブックオクに行ったら、「君の名は。」のサントラがあった。
新品だと定価3000円近いけど、中古で盤面に傷があるので1750円。傷は視聴に影響ないとわかっていたので、買った。
開けてみたら、かなり聴きこんだようで、細かい傷がけっこうあったが、視聴に影響はなし。歌詞のブックレットもしわしわだった。なんで売ったのかな。別のを買ったのだろうか。
サントラは去年「ルドルフとイッパイアッテナ」を買ったけれど、「ルドルフ」がいかにも映画音楽らしい曲が並んでいるのに対し、「君の名は。」は不協和音があったり、不安をかきたてるような音が入っていたり、突然曲がとまったりと、CDとしての聞きやすさよりも劇音楽としての効果を感じさせるものだった。