2017年7月27日木曜日

「君の名は。」の奥寺と司は結婚したのか?

答えはイエス。
理由は、エピローグのシーンで2人とも結婚指輪をしているから。
ただし、誰と結婚したのかは不明。
ここで問題になるのが、奥寺と司が結婚したのか、あるいは、それぞれ別の人と結婚したのか。

まずその前に、新海監督はパンフレット第2弾で、ファンから「奥寺と司は結婚したのですか」と聞かれ、2人は婚約しているという裏設定がある、と答えている。
どうも新海監督は勘違いしているのではないかと思うのだが、2人が指にはめているのは結婚指輪で、婚約指輪ではない。
婚約指輪というのは、男が女に贈るダイヤの指輪のこと。昔、映画館では、「婚約指輪は給料の3か月分」という宝石屋のCMが必ずかかっていた。
さっき調べてみたら、婚約指輪の相場は20万から40万円とのこと。私が大学生くらいの頃は初任給10万円くらいだったから、値段は上がってないのだね。
こんな値段のダイヤの指輪をはめて外出とかしないよね、普通。
だから2人は完全に結婚している、入籍してるのである。

では誰と?

先日発売のコレクターズ・エディションにはアフレコ用の台本がついていて、それによると、就活中の瀧が司や高木と喫茶店にいるシーンで、司が見ているスマホの相手が奥寺であり、(二人はつきあっている)とかっこつきで書かれている。
しかし、映画では司のスマホの相手が奥寺だという描写はまったくない。
だから裏設定なわけで、新海監督はこのことを表に出すつもりがまったくなかったのだ。
もしもこの場面が映画にあれば、観客は奥寺と司がカップルになっていて、瀧もそのことは前から知っていて、今は奥寺には友人としての気持ちしかないので、2人が結婚しても平気だし、奥寺とちょっと散歩するくらいなら別にやましいところもないのだとわかる。
逆に、実際の映画のように、この場面がなければ、奥寺と司はそれぞれ別の人と結婚したのであり、瀧と奥寺が会うのも奥寺がたまたま近くに来たからで十分なのだ。
もしも「君の名は。」があれほどのヒットにならなければ、パンフレット第2弾は発売されず、裏設定を新海が語ることもなく、そして台本も公にされなかっただろう。
内部の人間だけが知る裏設定が表に出てしまい、ファンが動揺したり、いろいろ想像したりしてしまう、という結果になったのだ(ごく一部の熱心なファンだけだが)。
なお、台本には司の指に指輪があるということは書いていない。
奥寺の指輪はかなり強調されているが、ここでも台本は「婚約指輪」になっていて、新海監督、かなり勘違いしてますね。

結論を言えば、裏設定はあくまで裏設定なのであって、表に引っ張り出すべきではないだろう。
むしろ、ここで重要なのは、卒業、就職、結婚が子供時代からの卒業、大人時代の始まりとして描かれていることだ(非常に古典的な考え方だけど)。
大学卒業を控え、司と高木は就職内定をもらい、司は結婚もし、奥寺も結婚している。その上、三葉の友人、テッシーとさやかも結婚の準備をしている。瀧だけが子供時代を卒業できない、それを描いているのだ。

奥寺と司が仲良くなるのは瀧と飛騨へ行ったときで、ここの奥寺と司のシーンが瀧と奥寺のデートシーンと対比されている。
三葉が設定した奥寺とのデートで、瀧は緊張してしまい、ろくに会話もできない。別れ際に奥寺から、今は別の人が好きでしょう、と言われ、そこで初めて三葉を異性として意識するようになる。
この時点で瀧の心は三葉に移り、奥寺に対する恋愛感情(恋というよりはあこがれに近い)はなくなり、だから飛騨で奥寺と司が仲良くしていても「邪魔だなあ」と思うだけなのだ。
ここで仲良くなった奥寺と司がその後交際を始め、結婚した、という可能性はある。これが裏設定。
瀧と奥寺のデートと司と奥寺の飛騨シーンを対比させたのは、思春期の恋愛と大人の恋愛を対比させるために違いない。思春期の恋愛は誤解のようなもので、だから瀧はデートがうまくいかない。瀧にとって奥寺は女神のような存在で、彼女を崇めている。しかし、司と奥寺は互いを対等の人間として見て、自然につきあっている。飛騨の段階ではまだ恋ではないが、大人の恋愛はこのようにして始まる、と新海誠は考えているのだろう。
だから、司と奥寺が結婚することは意味があったのだが、これを入れてしまうと話が重くなる。町長が三葉に説得されたことがはっきりわかるシーンを入れると重くなるのと同じように。

結末について、新海監督は、瀧と三葉が出会ったところで2人の思春期は終わり、ここからは大人の男女として出会う、その先のことは見る人の想像に任せる、というようなことをパンフで語っていた。上に書いた、奥寺を媒介とする思春期の恋愛と大人の恋愛の対比がまさにこれなのだ。
そう考えると、奥寺と司の結婚という裏設定は重要に見えるが、同じことを重ねて描写するのはしつこいとも言える。だから裏設定にして、それぞれ別の人と結婚したように見える方が映画全体としては重くならずにすむ。テーマの押しつけがましさもなくなる。

こうしてみると、「君の名は。」の成功は、押しつけがましくなるものをすべて抑制したところにあるのだろう。東日本大震災から発想したということも、新海監督はかなりあとまで隠していた。この抑制が、映画を批判的に見る人には軽いと感じさせていたが(私も最初はそういう面があった)、実際はこの抑制に奥深さがあったので、それが観客の心に押しつけがましくない形で浸透し、多くの人を感動させたのだろう。