2017年3月12日日曜日

「君の名は。」の「教訓」(&「マンチェスター・バイ・ザ・シー」)

東日本大震災から6年がたった3月11日、TBSで「3・11 7年目の真実」という番組が放送された。
うちはテレビないし、放送も昼間だったのでどれだけの人が見たかわからないが、この中で新海誠監督が「君の名は。」の原点が東日本大震災だったことを語っており、ファンが新海監督の部分をYouTubeにアップしてくれたので見ることができた(削除される可能性があるのでリンクは貼りませんが、テレビ局がサイトにアップするか、文字起こしを載せてほしい)。
新海監督は東日本大震災から4カ月後に宮城県名取市で舞台あいさつをし、そのとき、被災地を訪ねた。津波によりすべてが破壊された海辺で、鳥居が立つ小山を見て、その絵を描いた。美しく澄んだ青い空、小山の上に立ち上る大きな雲、そしてその下に広がる被災の現場。まさに「君の名は。」の飛騨の町の原風景だった。
新海監督は「君の名は。」には東日本大震災への思いがあることは多少は語っていたし、指摘する人々も多かったが、「シン・ゴジラ」と違って、それが大きく取り上げられることはなかったし、私もあの震災に結び付けすぎるのはよくないような気がしていた。実際、「君の名は。」はもっと普遍的な内容であると思っていた。
しかし、実際は、東日本大震災の被災地を見て、自分がもしも宮城県に住んでいたら津波にあったかもしれないと思い、そこから入れ替わりの物語を描こうと思ったのだという。
また、新海監督は、物語には必ず教訓がある、ということを強調していた。
「君の名は。」の教訓。
そういうものがあるとは思っていなかったので、驚いた。
そしてすぐに思い当たったことがあった。
東京の高校生、瀧は3年前に飛騨で起こった彗星の落下による惨事を覚えていなかった。三葉のことを調べに飛騨へ行き、そこで初めて知るというか、思い出すのだ。
憶えていないのは瀧だけではない。一緒に飛騨へ行く友人たちも忘れている。
「君の名は。」を見たとき、たった3年前のことを瀧たちが忘れているのを不思議に思ったが、そのあとすぐに、飛騨の田舎で起こった惨事のことを遠い東京の人たちはすぐに忘れてしまうのだ、ということに気づいた。
彗星による惨事を思い出した瀧は3年前に戻って三葉とともに住民を避難させようとし、成功する。
そして現在に戻ると、東京のビルの電光掲示板に彗星落下から何年というようなニュースが出る。
「君の名は。」の教訓。それは忘れないこと。思い出すこと。
でも、人は忘れてしまう。
「忘却とは忘れ去ることなり」って、昔の「君の名は」のキャッチフレーズ。
いやもう、ほんとに腑に落ちました。新海監督、すばらしいです。
日本アカデミー賞脚本賞は当然です(「シン・ゴジラ」もすばらしかったけど)。

「君の名は。」はまだ1度しか見ていないのに、このブログで書くのは4回目。一番最初は三葉が父を説得するシーンがない、いい映画で感動したけど大人の鑑賞には堪えない、などと書いたけれど、そのあとどんどん自分の中で評価が高まって、欠点がさほど重大な欠点ではないこと、欠点に見えたが実は理由があったことに気づいた。
私は「この世界の片隅に」よりも「君の名は。」の方を高く評価しているのだが、「君の名は。」の欠点がそれほど重大でないと思えるのに対し、「片隅」の欠点は私にはかなり重大な欠点に思えるのだ。また、日本の映画業界がまるで横並びのように「片隅」ばかりに賞を与えているのもなんだか解せない。「君の名は。」の大ヒットへの反動から「片隅」を持ち上げているようにさえ思う。「片隅」ももちろんいい映画であることは確かだし、技術的な安定感はこちらの方が上だと思うが、戦争の悲惨さにオブラートをかけているようなところが気になるのだ。
まあ、「片隅」もこんなに横並びで賞を取っていなければ、こういう不満にこだわることもなかっただろうと思うのだけど。

新海監督の言葉、もしも自分が宮城県に住んでいたら、もしも自分があなた(被災者)だったら、という言葉で、最近見た「マンチェスター・バイ・ザ・シー」のことを書きたくなった。
ネタバレ禁止なのでむずかしいのだが、主人公は故郷を離れてボストンで便利屋をやっている男で、兄が死んだあと、遺言で甥の後見人に指名される。
主人公は甥とは父と息子のように仲がよいのだが、後見人になって故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに住むのはどうしてもいやなのである。なぜなら、彼が故郷を捨てたのは、自分の過失である悲劇を起こしてしまったからだ。
その悲劇から立ち直れない彼は、つまらないことで人を殴ってしまうといった精神的に不安定な状態。
一方、甥は故郷を離れたくない。再婚している母は精神的に不安定で、息子を受け入れる状態にない。
主人公が犯した過失は、実は誰でも犯す可能性のあることで、だから彼は罪に問われていない。ほんの些細な過失から大きな不幸が起こる、ということは誰にでも起こりうることだ。
それが自分に起こっていないとしたら、それは自分が運がいいだけのことなのである。
まさに新海監督の言う、「もしも自分があなただったら」なのだ。
だから、監督・脚本のケネス・ロナーガンは安易な結末をつけない。乗り越えられないものは乗り越えられないのだ。ただ、乗り越えることができなくても、それでも人生は続く。
ロナーガンはアカデミー賞脚本賞受賞。
新海監督もロナーガン監督も、オリジナルのストーリーが評価されたのだけど、この二人、意外と近いところにいるな、と思った(映画は全然違うタイプだけどね)。