2015年3月12日木曜日

「屍者の帝国」とりあえずの感想

故・伊藤計劃が残したプロローグをもとに、円城塔が長編小説として完成させた「屍者の帝国」ですが、読み終えたので、とりあえずの感想のようなものを書いておきます。
この小説、大変な人気で、大好きな人も多いようなので、私の感想なんてどうでもいいだろうと思うのですが、一応、気がついたところくらいは書いておこうかな、というくらいの感想です。
まず、私は伊藤計劃の本は1冊も読んでいません。円城塔は芥川賞受賞の「道化師の蝶」ほか1篇が収録された本を読んでいます。
円城塔の小説は、ひとことでいうと、山の頂上に立つまでは何も見えないけれど、頂上に立つととたんにすべてが見えてくる、という感じです。
登山にもいろいろあって、山に登りながらまわりの風景を楽しみ、そして頂上からの景色を堪能する、というタイプと、登るときはまわりが見えない、登るのはある種の苦行みたいなところがあるのですが、ひとたび頂上に上がると、突然まわりが開け、これまでたどってきた道がすべて見えて、ああそうだったのか、と納得、というタイプ。円城塔の小説は明らかに後者で、途中はよくわからないけれど、最後まで読むと突然すべてが見えてくる、というタイプです。
最後に突然視界が開け、すべてが腑に落ちるから、途中は我慢してでも読む価値がある、という感じ。
「屍者の帝国」はしかし、長編であるせいか、最後にすべてが見えて腑に落ちる、とは行きませんでした。純文学の中編のような美しい秩序は感じられませんでした。でも、内容的にはゾンビものだし、「リーグ・オブ・レジェンド」のような19世紀パスティーシュなのだから、美しい秩序は最初からねらっていない、むしろ混沌をねらっていると言えるかもしれません。
それでも、最後の章には、突然視界が開け、心に響く何かがありました。
この最後の章は伊藤計劃の残した文章をもとに作られたのだということが文庫のあとがきを読むとわかります。が、それを知らなくても、円城塔の言いたいことは十分伝わります。
最後の章の語りは、あたかも「ユリシーズ」の最初の3章、若き芸術家スティーヴン・ディーダラスの難解な意識の流れの章から、ごく普通の中年男であるレオポルド・ブルームのわかりやすい意識の流れの章に変わったときのような、突然空が晴れたような雰囲気があります。
山の頂上に着いたら突然空が晴れた、そんな感じです。
いわゆるアウェイクニングとか、覚醒とか、エピファニーとかいったものを感じさせてくれる章です。
最後にカタルシスを味あわせてくれる円城塔の面目躍如というところでしょうか。
基本的にはゾンビもので、19世紀の文学作品のキャラや歴史上の人物が次々と出てくる話なので、「高慢と偏見とゾンビ」なんて小説もあったから(未読)、「カラマーゾフの兄弟とゾンビ」とか、「風と共に去りぬとゾンビ」とか、「シャーロック・ホームズとゾンビ」とかであってもおかしくないわけで、さすがに「吸血鬼ドラキュラとゾンビ」や「フランケンシュタインとゾンビ」は手垢がついてる感はありますが、そういう文学作品とゾンビの路線もあるな、と思います。カラマーゾフはもっと出してくれてもよかったと思うし、レット・バトラーはやはり映画のクラーク・ゲーブルのイメージが強すぎるので浮いてしまう。ほかにいいキャラはなかったのかな。
バトラーが、「結婚生活がうまく行かなかった、子供が死んだので妻と別れ、エジソンの研究所でハダリーと知り合った」というようなことを言うシーンがありますが、バトラーを出せば当然スカーレット・オハラが追いかけてくるであろうと思ってしまうわけです。
「屍者の帝国」はある種、ホモソーシャルな世界で、スカーレットのような生身の女性は主要人物にはいません。ただ1人の女性キャラ、ハダリーは(以下ネタバレ)「未来のイヴ」に登場する女性の人造人間で、生身の女性ではない。彼女は最後にアイリーン・アドラーと名前を変えるのだけど、彼女が「ボヘミアの醜聞」でホームズをやりこめるアドラーだということはすぐにわかってしまうのですね。そして、このアイリーン・アドラーもまた、ホームズとワトソンのホモソーシャルな世界が許容するタイプの女性です。
そんなわけで、若き日のワトソンがカラマーゾフに会ったり、レット・バトラーに会ったり、アフガニスタンや日本やアメリカへ行って、ついにラヴクラフトでおなじみのプロヴィデンスでフランケンシュタインの怪物に会うという、文学歴史てんこもりの小説なのですが、この小説の世界はフランケンシュタインの技術を応用して死者をよみがえらせ、労働力として使っている世界なのだけど、どうもこのゾンビ=屍者が労働力になっているというのがあまりピンと来ない。むしろ、過去の文学や歴史の人物が大勢出てくる、そのこと自体が実は屍者=過去の人物だからすでに死んでいるけれど、この物語のためによみがえらせた人々であると、だからこの小説自体が屍者の帝国であると、そういう見方の方がすっきりします。
また、人間は死ぬと体重が21グラム減る、それが魂ではないか、とか、バベルの塔のせいで言葉が多様化したとか、アダムとイヴに始まる聖書の話が出てきて、それが人間の造ったアダムであるフラケンシュタインの怪物と重なっていくとか、あるいは、人間の意識や魂とはいったい何かといったテーマが出てきます。
「21グラム」と「バベル」は、先だって「バードマン」でアカデミー賞を取ったイリャニトゥ監督の映画のタイトルで、この監督の映画には「ビューティフル」というのもあるのですが、ビューティフルも小説に中に出てきて、あれ、と思ったような気がしたのですが(ちょっと記憶不確か)、イニャリトゥの映画を意識してますかね?
人間の意識とか魂とかは、やはり、聖書にある「はじめに言葉ありき」、まさに言霊としての言葉が意識や魂の根源であると思われますが、言葉だけだと純文学のメタフィクションになってしまうので、この小説ではSFらしく、菌株というのを持ち出してきています。
でも、やっぱり、本当は言葉、言霊なのですね。なぜなら、ワトソンの語りを自動筆記するフライデー(「ロビンソン・クルーソー」か)が、(以下ネタバレ)最後に言葉を獲得することで意識を持つからです。そこが最初に紹介した最後の章。突然、空が晴れる章です。同時に、ワトソン博士はいない、という言葉に伊藤計劃はいないという思いが重なって、うるっと来てしまうのですが、このラスト、私は「アイ、ロボット」のラストシーンを思い出しました。あの映画はアシモフの「アイ、ロボット」と「鋼鉄都市」、そしてロボット三原則を取り入れた映画でした。外へと足を踏み出すフライデーと、映画のラストが重なって、意識を持った人造人間が新しい世界を作り出すというモチーフを感じました。