2019年1月14日月曜日

元祖「スタア誕生」(1937年)

だいぶ前に買ったのに見ていなかった1937年の元祖「スタア誕生」のDVDをようやく見た。
4本の「スタア(スター)誕生」の中では唯一、歌のないストレートなドラマで、これが実に見応えのあるドラマ。やはりこの作品が一番優れているのではないかと思った(バーブラ・ストライサンド版だけ見ていないけど)。
最初と最後に脚本が映るという、ほんの少しメタ映画ふうでもあるのだが、ノーマン・メインを演じるフレドリック・マーチがすばらしい。おそらく最高のノーマン・メイン。
1954年版のジェームズ・メイソンもすばらしかったのだが、あの映画ではメイソンとジュディ・ガーランドが年が離れすぎていて、親子のようだった。しかし、37年版のマーチとジャネット・ゲイナーはそれほど年は離れていない。「アリー/スター誕生」のブラッドリー・クーパーとレディー・ガガくらいか。
だから、54年版ではメイソンが落ち目のスターなのはもう世代交代でしかたないだろという感じもするし、54年版ではメイソンがガーランドを発見して育てるみたいだったけれど、37年版はマーチとゲイナーが偶然出会い、偶然の連続でゲイナーが映画会社と契約、その後も偶然にマーチ主演の映画のヒロインに抜擢、という感じで、マーチがゲイナーを育てるみたいなところはまったくなし。
「アリー」の場合はガガがすでに出来上がった歌手で、ただチャンスを与えられていなかったのがクーパーからチャンスを与えられるのだが、37年版だとほんとに偶然で、男が女を見出して世に出してやるみたいな感じがまったくない。マーチとゲイナーの出会いは伝統的なボーイ・ミーツ・ガールで、あとは本当に偶然にことが運んでいく。
ゲイナー扮するエスターは雪深いノースダコタの田舎からハリウッドに出てくるが、エキストラの登録さえ希望者多数で受け付けていないというきびしい現実にさらされ、たまたまアルバイトでパーティのウェイトレスをしたときにノーマン(マーチ)と知り合い、彼が女優の卵にスクリーンテストを受けさせるようプロデューサーに頼む癖があるのでテストを受けることができ、そして映画会社と契約。その後は会社の中で女優としての訓練を受ける。つまり、俳優が映画会社に所属していた時代のスターシステムなのだ。その間、ノーマンは彼女のことは忘れている。が、その後偶然再会し、自分の相手役にエスターがいいと思いつく。
一方、ノーマンはこのときすでに落ち目のスターで、酒におぼれて警察沙汰になったりと周囲に迷惑をかけてばかりいる。ノーマンとエスターの映画が公開されるとエスターは有名になり、ノーマンはもう必要とされなくなってしまう。
この映画では落ち目の人間に対する世間の冷たさのようなものがとことん描かれている。スターになるエスターはもてはやされ、落ち目のノーマンはとことん冷たい仕打ちを受ける。酒のせいで周囲に迷惑をかけていたからというのもあるが、落ち目の人間を切り捨てる世間の冷酷さを見ていると、これはアメリカン・ドリームのダークサイドではないかとさえ思う。
「アリー」ではクーパー演じるジャクソンの悲劇は彼自身の責任だということが強調されている。37年版のノーマンが受けるひどい仕打ちをジャクソンはほとんど受けていない。酒やドラッグに溺れる人を擁護しない姿勢があるのだが、37年版の落ち目の人間に対する社会の冷たさのようなテーマが完全な自己責任になってしまっているのを少し残念に思う。
37年版はハリウッドのきびしい現実やマスコミの意地悪さなどを描いていて、スターをめざすことには代償が伴うことが強調されている。が、代償が伴っても挑戦する価値がある、という結論になっていて、最終的にはアメリカン・ドリームの追求は肯定される。
37年版も54年版も最後は「私はノーマン・メイン夫人です」でスパッと終わるが、「アリー」はそのあとに歌があるのだけれど、序盤で歌われる「シャロウ」やクーパーの歌ほど印象に残らないのが弱点だった。やっぱりあいさつでスパッと終わった方がよかったのではないだろうかという気がする。